ショーペンハウアーといえば、ドイツを代表する哲学者です。
一度はその著書に手を出してみたいと思ったことがあるかたも多いのではないでしょうか。
でも、
- ニーチェやカントほど有名じゃない
- 悲観主義っぽくて読むのがしんどそう
- どうせ、難しい割に自分の生活に別に役に立たないでしょ
そんな思い込みがあって、手を出してない人が多いのではと思います。
これは、とんだ誤解です!
ショーペンハウアー哲学のエッセンスを理解することで、より充実し、活力的な生き方をするためのヒントが多々あります。
そして、思いっきり現世利益のことも考えてる方にこそ価値のある書籍です。
ブログ管理人:大山俊輔
本記事は、ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの代表的著作ともいえる『幸福について』(独:”Aphorismen zur Lebensweisheit” / 英:”The Wisdom of Life”)について解説しています。
難解で手を出しにくいと言われるショーペンハウアーの著書の中では、本著は、比較的、読みやすい本です。
まだ読んだことのない方がいつか本書に手を出せるよう、概要を理解できるよう、そのエッセンスと本著内の名言を分かりやすく要約しました。
目次
最初に – 著者アルトゥール・ショーペンハウアーについて
ショーペンハウアーと飼い犬のアートマン(サンスクリット語で「真我」という意味)
ショーペンハウアーは、1788年にドイツで生まれ、1860年に没した哲学者です。
一般的には、存在論的ペシミストとして知られています。
彼の哲学は、人生が苦しみと不満で満ちていることを強調し、世間一般の人が考える人生の幸福について全く異なる視点を持っていました。ドイツの哲学者でありながら、ヴェーダはじめインド哲学、仏教などの素養もあったショーペンハウアーは世界観は独特で、フリードリヒ・ニーチェ、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなどの哲学者から、リヒャルト・ワーグナーなどの音楽家、そして、アインシュタイン、シュレディンガーなどの科学者などに大きな影響を与えました。
彼の主たる思索の対処は、「意志と表象」に関するもので、今回の『幸福について』は晩年に書かれた『余録と補遺』から抜粋されたものです。もともと、『余録と補遺』自体が、彼の代表的著作『意志と表象としての世界』の補足として書かれているものです。
その補足の中から更に抜粋されたものが本『幸福について』です。訳者によっては、『孤独と人生』というタイトルで出版されています。
ブログ管理人:大山俊輔
ショーペンハウアーの略歴
以前紹介した「ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)ってどんな人?その生涯、名言、代表書籍をわかりやすく解説!」の記事で、ショーペンハウアーの生い立ちから晩年まで詳しく解説しています。
下記はショーペンハウアーの略歴です。
1793年(5歳)一家でハンブルクへ移住。
1797年(9歳)フランス語習得のため、ルアーブルの貿易商の家に2年間預けられる。
1799年(11歳)ハンブルクへ戻り、商人育成のための私塾に進学。翌年家族と3カ月のプラハ旅行へ。
1803年(15歳)父親の仕事を兼ねて家族と約1年間、ヨーロッパ周遊旅行へ。
1806年(18歳)父親の死と仕事に対する精神的苦痛からイタリアへ渡る。
1807年(19歳)学問の道に進むことを決意。ギムナジウムを転々とする。
1809年(21歳)ゲッティンゲン大学に入学。プラトンやカント、インド哲学について学ぶ。
1811年(23歳)ベルリン大学へ転学。本格的に哲学の研究を始める。
1813年(25歳)博士学位論文をイェーナ大学に提出。ゲーテに才能を評価される。
1815年(27歳)ゲーテの依頼で色彩論『視覚と色彩について』を執筆。翌年刊行。
1818年(30歳)『意志と表象としての世界』を執筆後イタリア旅行へ。
1820年(32歳)ベルリン大学で教職に就くも、当時圧倒的人気だったヘーゲルの講義に負け辞職。
1822年(34歳)スイスを経て再びイタリア旅行へ。
1823年(35歳)帰国後、ミュンヘンへ赴き病に罹り、右耳の聴力を失う。翌年治療のため各地を転々とする。
1825年(37歳)再びベルリン大学で講義を行うも人気は出ない。『意志と表象としての世界』は徐々に評価を集める。
1831年(43歳)ベルリンから地方に移住。
1833年(45歳)フランクフルトに定住し隠遁生活へ。
1841年(53歳)『倫理学の二つの根本問題』を刊行。
1843年(55歳)『意志と表象としての世界』の続編が完成。
1845年(57歳)『余禄と補遺』の執筆開始。
1850年(62歳)『余禄と補遺』の完成。翌年刊行。
1858年(70歳)ベルリン王立アカデミーから会員の推薦をされるも拒否。
1860年(72歳)肺炎により死去。
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『幸福についてー生きる知恵・箴言集』について
本著『幸福についてー生きる知恵・箴言集』はショーペンハウアー(1788ー1860)の晩年の著書である『余録と補遺』から切り抜かれた書です。いわゆる箴言集(しんげんしゅう)であり、彼の思考観察の結果を簡潔な形で、皮肉に、しんらつに、諧謔的に述べたないようになっています。箴言は、警句あるいは金言,格言などと訳されます。
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ショーペンハウアーは古代ギリシャ哲学や 近世西洋哲学ばかりではなく、インド哲学や仏教にも精通していました。インド哲学、仏教の世界観と親和性の高かった量子論などの科学者の多くが、ショーペンハウアーから間接的に影響をうけているのもそのためでしょう。
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私自身も量子論に興味を持ったきっかけは自分自身におきた古典力学の通用しない摩訶不思議体験と、意志と表象としての世界を読んでうっすらとその世界観を感じ取っていたことでした。ショーペンハウアーの著書をきっかけに量子論に興味を持つと見え方も変わってくることでしょう。
「量子論~量子力学の歴史:ニュートン・アインシュタイン~現在まで理系以外の方でもわかるようにこの記事1本でわかりやすく解説!」の記事は、なるべく文系の方に量子論の歴史を理解できるようまとめています。
『幸福について』の構成とあらすじ
ショーペンハウアーが書いた『人生の智恵』を『幸福について』という題名で翻訳したのがこの本です。
前述のように、金森 誠也氏訳のものは『孤独と人生』として同じ内容の書籍があります。
『幸福について』とそれ以外の書籍について
本書は晩年に書かれた『余録と補遺』から抜粋されたものです。
もともと、『余録と補遺』自体が彼の代表的著作『意志と表象としての世界』の補足として書かれているものです。その補足の中から更に抜粋されたものが本書『幸福について』です。
『意志と表象としての世界』が1818年、ショーペンハウアーが若干30歳の時に書き上げた大著ですが(あの本を30歳の青年が書き上げること自体化け物です・・)、難解な本であったため、販売が芳しくありませんでした。
『意志と表象としての世界』を補足する目的で書かれたのが『余録と補遺』。
1850年、ショーペンハウアー62歳の時に出版されました。
その『余録と補遺』そこから切り出されたのが、『幸福について』『読書について』『自殺について』といったアフォリズム(金言)集です。
ショーペンハウアーに馴染むならば、
Step1:『幸福について』『読書について』『自殺について』といったアフォリズム集に馴染む
↓↓
Step2:『意志と表象としての世界』に挑戦
という風に、まずは、切り出しの書籍で世界観に馴染んでから、最後に彼の主著『意志と表象としての世界』に挑戦されるとスムーズです。
ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)の思想、生涯、名言、代表書籍をわかりやすく簡単に解説!(この人はガチの天才)本著の展開
ショーペンハウアーは古代ギリシャ哲学、ドイツのカント哲学のみならず、インド哲学や仏教にも精通し、豊富な知識でこの本を書きました。
したがって、書籍内で引用される人物も実に多様、多岐にわたり、その原典を遡ることによって著者の思想の全貌を理解することができます。
ブログ管理人:大山俊輔
また、一般的に、彼の思想は悲観主義と言われています。
おそらく多くの方がショーペンハウアーを避けてしまうのはこのレッテルがためでしょう。
しかし、これは表面的なものの捉え方です。
彼の主張が理解できると、決して、悲観しているわけではなくむしろ、動的であり、人生を如何に知的に満ちたものにするのかのヒントを得ることができるのです。
ショーペンハウアーは、そもそも、私達人間が幸福を求めて生きているということ自体、妄想に過ぎないと論じています。
このことは、『意志と表象としての世界』などを読めばより理解できますが、この世界というのは私達の意識や思考といったものの表象である(=投影である)以上、問題の本質は自己の内面との対峙である。外部に幸せを求めること自体が誤り、というか、トラップ(罠)であるということです。
であるにも関わらず、この世の一般的に言われる幸せの多くは外的なものをどれだけ所有するか、他人との比較で優位に立とうとするかに終止します。
なぜなら、私達の体は五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)を通じて見聞できること、そして、それに伴う思考、感情などが全てだと錯覚するようになっていて(仏教で言う「無明」)、その臨場感が圧倒的なため、振り回されてしまうようにできているからです。
特に、人間が不幸であると錯覚するのは自分と他人を分離し、そこから他人と自分を比較して欠点をあげつらうことにあると考えています。
深層心理学で言うところの投影現象です。
こうした苦悩から自己を解放するには、自分の内面との対話に時間を使うべきだと言っています。
ただ、そこからいきなり宗教的世界観に入ろうとすると、多くの方には難しいです。
そのため、具体的な生活テクニックを述べたのが本著だということです。
自分の知識、地位、財産、名誉や他人からの評価を気にすることなく、自分の性格、人格、品位の向上に努めるべきである。
これが、ショーペンハウアーの本著における主張です。
第2章 「その人は何者であるか」について
第3章 「その人は何を持っているか」について
第4章 「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について
第5章 訓話と金言
A. 一般的なもの
B. 自分自身の態度について
C. 他人に対する態度について
D. 世相や運命に対する態度について
第6章 年齢による違いについて
『幸福について』の各章の要約
第1章 根本規定
若き日のショーペンハウアー
己の内部に富を蔵する限り、われわれは運命からあまりに多くのものを期待しない。
第1章では、ショーペンハウアーが人間の三つの根本規定を説明しています。
ここで、ショーペンハウアーは、以下の章で述べる議論をわかりやすくするため、ショーペンハウアー流の「幸福とは?」という問題について定義しています。
彼は、人間の幸福は外部の要因よりも内部の要因、つまり自己の精神的な享楽の能力と内面の貧困によって大きく影響を受けると主張しています。
それらは下記の3つです。
② その人が何を持っているか
③ その人がどう思われているか
彼は、これらの規定の中で最も重要なのは①の「その人が何者であるか」であると断じています。
「その人が何者であるか」というのは、主に、個々の人間の内面的な性質や能力を指します。
彼は、人間の内面的な性質が幸福に最も大きな影響を与え、それは教育や環境によっては変えられないと考えています。
次に、②の「その人が何を持っているか」は物質的な所有物や社会的地位を指します。
財産、健康、 友人、恋人、交友層、結婚相手、子供、馬や犬などのペット・・・・
おそらく、現代人の多くがイメージする幸福もここにあるでしょう。
しかし、ショーペンハウアーはこれらの要素が最低限の幸福に必要な要素であるとはいいつつも、それらが永続的な幸福をもたらすことはないと主張しています。
彼は、このような言葉を引用しています。
愚者の平板な意識のなかに現れるきらびやかさや楽しみは、不便な牢獄のなかでのドンキホーテを書いたときのセルバンテスの意識より貧弱である。
最後に、③の、「その人がどう思われているか」は他人からどう見られているか、つまり名誉や評判を指します。
本質的に、②と③は自己同一化する対象を、モノなど目に見えやすいものにするか、他人の世界にあると錯覚している自分像にするかの違いで同じ問題です。
ショーペンハウアーは、②同様に③も幸福には影響を与えないと考えています。
今のSNSなどで承認欲求を煽るような世界は幸福という視点からするとむしろ、その人を不幸にしてしまうとショーペンハウアーなら言うかもしれませんね。
ショーペンハウアーはまた、こうも言っています。
人がおのれ自身であるもの、すなわちその人が孤独になってもつきしがたい、何人もその人に与えたり、あるいはその人から奪ったりすることができないものは、その人にとって、自分の持ち物や、その人が他人の目にいかに映るかといったことよりも、明らかに本質的なことだからである。精神力豊かな人が、まったく孤独な立場にいても、己の精神や空想力を相手どってけっこう楽しむことができる一方、愚鈍な人は、たとい、やれ社交だ観劇だリクリエーションだとつぎからつぎへと変化を求めても、おのれをするどくさいなむ退屈を追放するわけにはゆかない。
第2章 「その人は何者であるか」について
晩年のショーペンハウアー
つねに問題になるのは、人が何であるか、それとともに、人がおのれに何をそなえているかといういことである。
第2章では、ショーペンハウアーが人間の内面、特に朗らかさ、苦痛と退屈、俗物(フィリステル/Philister)、そして最も幸福な内的生活について語っています。
彼は、真の幸福は外部の要因よりも自己の内面にあると主張しています。
本著におけるショーペンハウアーの主張と結論、そして、その理論的背景を理解するうえでは最も重要な章だと思います。
英語で自分を楽します=”to enjoy one’s self”と言います。
この感覚こそがあるべき「楽しい」だとショーペンハウアーは言っています。
第1章で彼は、「① その人が何者であるか」こそが本質であると断じました。
「① その人が何者であるか」はすなわち、「自己」という内面に向かう探求です。
一方、「② その人が何を持っているか」「③ その人がどう思われているか」といったものは、完全に否定する必要はありませんが、常に、他人との比較や他者評価という自分がコントロールできない外的なものを指標としています。そのため、良い、悪いの判断は常に他者との相対比較に陥るため非常に危ういものであるのです。
だからこそ、彼は、主観的な宝とはすなわち気高い性格、回転のきく頭脳、しあわせな性質、きわめて健康な肉体、一般的にいって健康な肉体に宿る健全な精神(ジュヴェナリウス)であると言っています。まずは、他者評価のための、外的な財貨や名誉よりも、おのれの主観的宝の保持、伸長によりいっそう気をつけるべきであるということです。
ブログ管理人:大山俊輔
更に、第2章において、人間の幸福の二つの敵は「苦しみ」と「退屈」であると断言しています。
内面が整っていない人は、その片方から遠ざかると、もう一つに近づくことで精神の安定をはかります。他人を必要とする幸福指標を持っていると確かに、他人評価がないと自己を楽しませることが出来ないため、それがなくなったり減ると退屈になります。また、逆に、退屈から遠ざかろうとすれば自分の中に自分自身を楽しませるものがない人は、孤独だと錯覚します。
つまり、常に外部からの刺激が必要な状態の人は、「苦しみ」と「退屈」のゆらぎの中で生きているということです。
こうした苦しみから逃れる最大の方法は「①その人が何者であるか」を充実させていくことです。言い方を変えると、内面の富、精神的な富を充実させていくということです。
なぜなら、人は精神のすぐれた富を身につければつけるほど、退屈する余地が少なくなってくるからです。さらに言えば、精神がいつまでも活発であれば、退屈、苦しみのもととなる外界の多様な現象は単につねに更新するたわむれでしかなくなります。このように、卓越した精神の持ち主は、一時の弛緩した瞬間を除き、まったく退屈の範囲外に自らを置くことが可能なのです。
結果として、こうした内面の自己を開拓する人は孤独になる傾向があると指摘しています。
ただ、「孤独になる」という状態と「孤独だとさみしく感じる」という精神は似てるようで全く異なるもの。孤独な状態になることを心配する必要はありません。
ショーペンハウアーは下記のように言っているのです。
偉大なる精神の持ち主になると、孤独を選ぶようになる。なぜなら、人はおのれに蔵するところが大きければそれだけますます外から求めるものが少なくなり、また、それだけ外部の事物は彼を左右しにくくなるからだ。そのために卓越した精神は非社交的となる。
なかでも、知的な趣味を持つこと。
そして、この知的な生活こそをその人本来の人生の目的にすべきと言っています。
人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈
多くの人は、外的な刺激を求めながら「苦しみ」と「退屈」のゆらぎの中で生きています。
そのため、常に日々の喜びを感じるためには外的要因、外的刺激 ー 所有物、位階、女、子ども、友人、社交 ー といったものを必要とします。そのため、こうした外的な要因がなくなったり、減じるとその人の幸福度も一気に失われてしまうのです。
一方、内的な自己開発をしている人たちは外に頼ることがありません。
常に自分の中で思索を深めていくことで、自分を成長させていくことこそが人生の目的になっているので、あたかも、日々作り上げられていく芸術作品に打ち込む芸術家が如く、外的要因に振り回されて不安や退屈になる暇もなくなるからです。つまり、苦しみ、退屈から逃れる一番の方法は内面の富、精神の富を積み上げていくこと、つまり、たゆまない自己探求を深めていくこと。
これこそが真の幸福です。
そして、この種の人にとっては、おのれ自身およびおのれの思想になにものにも妨げられず集中することが必要不可欠の要求となります。
そしてこうした人々にあっては、孤独は歓迎すべきであり、閑暇は最高の宝である、と断じているのです。
現代人は子供の頃から常に他者との比較の中で生きています。
学校の成績、進学、スポーツ、そして、社会人になってからも所属する会社、家庭、交友層、そして、家など・・・。
もう、国から企業、そして、個々人までみんなこのエゴを煽り煽られてる状態です。
しかし、こうした外部の対象、もしくは、他人軸の評価を必要とすることを自分の幸せの源と錯覚している限り人は常に不幸になってしまうということです。
多くの人にとって、この主張は目からウロコかもしれませんが、ここまででも十分に読む価値があると思います。
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それでも、「やっぱり他人と一緒、同じじゃないとさみしい」と思うことがあるかもしれません。
エーリッヒ・フロムなどは、ここで耐えられなくなった人たちが揺り戻しで起こした現象がナチズムだと看過しています。
そうならないために、フロムは下記のように著書『自由からの逃走』でまとめています。
・ 人間は自由でありながら孤独ではなく
・ 批判的でありながら懐疑に満たされず
・ 独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できる
まさに、スピリチュアル系の方がよく使う「ワンネス」の概念に近いですが本来意識ベースで見ればそうなのです。
もともと根っこで繋がっているのに、あえて我々はそれぞれ個々人として分離し様々な体験をしています。違いの原因は、個々人の体験の差でありそれはすべてが貴重で尊重し合うべきものなのに、それが不安になってしまうのは、人間の知覚が限られていて、こうしたつながりを感じることができないからです。
「エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』をわかりやすく要約・解説 – 書籍内の名言などもあわせてご紹介します」では、詳しくフロムの視点で解説しています。
エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』をわかりやすく要約・解説 – 書籍内の名言などもあわせてご紹介します第3章 「その人は何を持っているか」について
ショーペンハウアーとアートマン(犬)
第3章では、ショーペンハウアーが物質的な所有物や社会的地位などの外部の要因について語っています。
彼は、これらの要素が幸福に寄与することを否定しているわけではありません。
ですが、外部要因に依存する所有物などを基準とした幸福には永続性がないことを主張しています。
特に彼は、物質的な所有物や社会的地位は一時的な満足感を提供するかもしれないが、それらは最終的には空虚感をもたらすと考えています。
彼は財産、名声、権力などの外部の要因について詳しく語っています。
本章でショーペンハウアーは、真の幸福は内面的な充足感から生じ、それは物質的な所有物や社会的地位によっては得られないと主張しています。
第4章 「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について
ショーペンハウアーのサイン
われわれの不安、困惑、呵責(かしゃく)、怒り、おそれ、それに緊張のすべては、おそらく殆どの場合、他人がどう思うかということに関係しており、その点、例の憐れむべき罪人たちと同じように馬鹿げている。
この章では、ショーペンハウアーが人間が他者に与える印象について語っています。
彼は名誉欲、虚栄心、誇り、そして3つの名誉について詳しく説明しています。
1. 充足感の幻想:充足感の瞬間はすぐに消え、真の幸福とは異なる
彼は、人間が経験する「充足感」は幻想であり、真の幸福とは異なるものであると主張します。
充足感は一時的なものであり、すぐに消えてしまうものです。
真の幸福は、内面の平穏と安定、そして自分自身の存在への満足感から生まれます。
2. 欲望の罠:欲望を追い求めることは、真の幸福を遠ざける
ショーペンハウアーは、人間は常に何かしらの欲望を抱えている存在であり、その欲望を満たすために努力し続けていると指摘します。しかし、欲望を満たしても、真の幸福は得られません。むしろ、欲望を追い求めることは、苦しみを増幅させるだけです。
しかしながら、
- 大多数の人びとは、彼らについての他人の意見をことさらに重んじる傾向があること。
- おのれの本質以上に、他人の頭のなかにあるおのれの姿のほうが心にかかってくる。
- 結果的に他人の中にあるであると錯覚する自分像を良くすることばかりに気を取られてしまう
こうしたことばかりに気を取られて、却って不幸になるとしています。
3. 充足感への道:欲望を捨て、今この瞬間に集中する
ショーペンハウアーによれば、真の幸福を手に入れるためには、欲望を捨て、今この瞬間に集中する必要があります。
過去や未来にとらわれず、目の前のことに集中することで、内面の平穏と安定を得ることができます。
ブログ管理人:大山俊輔
4. 芸術と瞑想:充足感への重要な手段
ショーペンハウアーは、芸術と瞑想が、充足感を得るための重要な手段であると述べています。
芸術は、人間の精神を日常の苦しみから解放し、真の美しさに触れさせてくれます。瞑想は、心を落ち着かせ、内面の平穏と安定を得るのに役立ちます。
5. 充足感の追求:人生の目的ではない
ショーペンハウアーは、充足感の追求が人生の目的であるとは考えていません。人生の目的は、真の自己を理解し、自分自身の本質と一体となることです。今風の言い方でうと、「自我=マインド」を己と錯覚している自分に気づき、真の自分、すなわち「真我」と繋がることが大事であるということです。
充足感は、旅の過程で自然と得られるものであり、目的とするべきものではありません。
一方、現実の問題として、ほとんどの人たちが感じ、恐れる苦労や心配事のだいたい半分は、他人の意見に対する配慮から生じた幻覚であると断じています。
彼は、真の幸福とは何か、そして真の幸福をどのように手に入れることができるのかについて論じています。
彼は、欲望を捨て、今この瞬間に集中すること、そして芸術や瞑想を通して内面の平穏と安定を得ることが、真の幸福への道であると説いています。
そして、私達がこれらの愚劣(ラットレース)から脱却することに成功すれば、その結果、心の落ち着きと明朗は信じられないほど大きいものとなり、立ち振舞は従来よりもずっと確実さを増し、その人の行動はいっそうとらわれない、より自然のものとなる、としています。
第5章 訓話と金言
人間を社交的にさせるのは、彼らが孤独と、孤独のなかにあるおのれを耐えることができないからである。彼らを社交に、さらに外国の人びとのなかに、あるいは、旅行に駆り立てているのは、彼らのうちにみなぎる空虚と、現状にあきあきした気分である。なぜ、彼らがひどく退屈なのかということばかりでなく、なぜ、彼らが極めて社交的であり、できるだけ群れをなして行動しようとしているかの説明がつく。
これに対し、精神の豊かな人は、独りで協奏曲を奏で、あるいはピアノをひく音楽の巨匠と比較することができる。こうした巨匠が一人だけで小オーケストラとなっているのと同じように、精神の豊かな人は、一人だけで小世界を形成している。さらに俗人が大勢でよってたかって行うことを精神の豊かな人は独りで意識の統一のもとに表現する。
人は他人と交わることによって、質的に失うものを量的にいわばおぎなわねばならぬという法則を読み取ることができよう。
この章はまさにショーペンハウアーの名言集。
本章では、ショーペンハウアーが人生の教訓と格言について語っています。
彼の哲学の中心的なテーマである悲観主義と人間の欲望についての洞察が含まれています。
彼は、幸福の条件を以下の3つに絞り込んでいます。
- 健康:健全な肉体と精神は、幸福の基盤である。
- 十分な財産:必要最低限の生活を維持できるだけの財産は必要不可欠である。
- 意志の満足:自分の意志で行動し、目標を達成することが、真の満足をもたらす。
これらの条件を満たすことは容易ではないが、不可能ではない。
では、ここからショーペンハウアーの毒舌たっぷりの名言を見ていくことにしましょう。
健康
健康を維持するためには、規則正しい生活習慣と適度な運動が必要である。
また、暴飲暴食や喫煙、過度な飲酒は避けなければならない。
ブログ管理人:大山俊輔
十分な財産
われわれがすこやかに生きていくためにもっとも本質的なことは、健康であることであり、これについてわれわれの生活を支える手段、つまり恐れずに使える収入があることである。たとえ多くの人がそれらのものに絶大な価値を置くとしても、名誉、栄光、位階、名声などは、けっしてこれらの本質的財貨と競争することはできないし、代用するわけにもいかない。むしろ名誉、栄光など一連のものは、場合によっては、本来の本質的財貨にとって望ましくないこともある。
十分な財産とは、必要最低限の生活を維持できるだけの財産を指す。
贅沢な暮らしをする必要はないが、貧困に苦しむことも避けなければならない。
すぐにショーペンハウアーを否定する人は「金儲けを否定する悲観主義」といいますが、決してそのようなことはありません。
本当に自己を内面から成長させていく時に、手段としてお金が必要であれば、必要な分稼げばよいのです。というか、自然とお金は今必要な額が必ずついてくるのです。
問題は、他人軸の中で自己をよりよく見せるためにお金を目的として追いかけるのは本末転倒だよということです。
小銭を稼いで、車や札束をSNSで見せびらかすのは、結局、他人軸で生きていて他人からの評価のためにお金を得ているということになります。一方で、自分が魂の底から信じていることをやってきて、自然とついてくるお金はあくまでも自己表現、価値提供の交換の結果でしかなくそもそも他人に誇示するインセンティブもわかないわけです。
なぜなら、自己表現、価値提供のプロセスそのものにより、自分がその時点で満たされているからです。
意志の満足
意志の満足とは、自分の意志で行動し、目標を達成することである。
他人からの評価や世間の基準に惑わされることなく、自分が本当にやりたいことを追求することが重要である。
ショーペンハウアーは、真の幸福は内面にあると説く。
外的な条件に左右されることなく、自分自身の中に満足を見出すことができれば、真の幸福を手に入れることができる。
第5章A節「一般的なもの」とは
ショーペンハウアーの著書「幸福について」の第5章A節は、「一般的なもの」をテーマとしています。
この「一般的なもの」とは、物や地位、名誉など、 私たちが外部世界に求める幸福の源泉となるようなものです。
「一般的なもの」の3つの側面
ショーペンハウアーは、この「一般的なもの」に3つの側面があるとし、それが幸福の実現を妨げる大きな要因になると説きました。
A 一般的なもの
01: 私はあらゆる知恵の最高 原則は、アリストテレス が「ニコマコス倫理学」 でさりげなく 表明した文言「 賢者は快楽を求めず、 苦痛な気を求める」 だと考える。
ヴォルテールの「幸福は幻にすぎず苦痛こそ現実だ」 が真実である。
02: ある人の状態を 幸福の度合いで測ろうとする時は、何を楽しんでいるかではなく、 何を悲しんでいるかを問うべきだ。
03: 総じて自分の一生に対して何が起こっても大丈夫なように、事細かな準備をするのは最も頻繁に見られる最大の愚行である。
B 自分自身に対する態度について
04: 建物工事の補助作業をする労働者が、全体の設計には関与せず、 あるいは関与していたとしても、常にそれを念頭においているわけではないように、人間は生涯の1日1日を、一刻一刻を紡ぎだしていても、人生行路全体とその特質を完全に把握し、常に念頭に置いているわけではない。
05: 私たちは現在に注目したり未来に注目したりするが処世哲学の重要なポイントは このいずれか一方は他方を損なったりしないように正しくバランスを取ることにある。
06: 「何事も限定すると幸福になれる」私たちの司会や行動範囲や交際範囲が狭ければ 狭いほど幸福になれるし 広ければ広いほど苦悩や不安に陥ることが多くなる。
07: 私たちの幸不幸という点で最終的に大切なのは意識はいかなる 気持ちで満たされているのか、意識はいかなる問題にかかずりあっているのか、ということである。
08: 申し分なく思慮深い生活を送り自己の経験から そこに含まれる教訓の全てを引き出すためには、しばしば回想し自己の体験、 行動・経験 ならびにその際に感じたことを総括的に再検討し、自己の以前の判断を現在の判断と比較し、 人や努力と成果ならびに そこから得た満足とを比較しなければならない。
09: 自分に満足し 自分自身が全てであり、「わがものはすべてわが身に備えている」ということができるなら、 それは確かに幸福にもっとも役立つ特性だと言えよう。「幸福は自己に満足する人のものである」というアリストテレスの名言は何度繰り返しても良いだろう。セネカは「精神的な活動に欠けた閑暇は死であり、生きながら墓に埋められていることである」と言っている。
10:妬みは人間に自然な情だ。にもかかわらず 妬みは悪習であり、 同時に不幸である。
妬みを幸福の敵とみなし、 この悪魔の息の根を止める努力をすべきであろう。セネカは「 比較したりしないで自分が有するものを喜びましょう。 他人のほうが自分よりも幸福だと言って苦しむ人は決して幸福にはなれません。 自分の前に大勢いるのを目にしたら、自分の後ろに大勢いることを考えなさい 」と述べている。
11: 計画は実行に移す前にゆっくりと何度も熟考 しなさい。
あらゆる点を徹底的に考え尽くした 後でも、究明 もしくは予見し得ない状況、 全体の計算を狂わせるような状況が依然として残っているかもしれないので、人間の認識の不十分という点で いくらか 譲歩なさい。
12: すでに不幸な事件が 起きてしまった場合、したがって今更どうにもならない場合、 こんなにならなくても済んだかもしれない、 ましてや、どうすれば 未然に防げたのだろうか、 などと 考えないようにした方がいい。 そんなことをすれば、かえって耐えがたいまでに苦痛が増大し 、自分で自分を苦しめることになるからだ。
13: 幸・不幸に関しては。 あらゆる点で想像力の手綱を握っておかなければならない。したがって何よりもまず 空中楼閣を築かないようになさい。 何しろ 空中楼閣は建てたらすぐに、ため息をつきながら 取り壊す羽目になるので犠牲が大きすぎる。
14: 自分が持っていないものを見ると「どうすれば あれが私のものだったらどんなだろう?」 というような考えが頭をもたげてきて、ないものねだりをしてしまう。 そうではなく自分が持っているものに対して「 これが私のものでなかったらどんなだろう?」としばしば 自問してみよう。
つまり財産や健康、 友人や恋人、妻や子、馬や犬、 何であれ 自分が持っているものを仮に失った場合を思い浮かべ、 時折 そうした角度で自分を眺めるように努めよう 。大抵 失って初めてそのものの価値がわかるからである。
15:私たちに関する問題や出来事は全く バラバラに、無秩序に、 おそらく 恐ろしく ちぐはぐで相互の関係もなく 、要するに 私たちの問題であるという以外何の共通性もなく現れ 錯綜しているのだから、 それらに思考・ 配慮 を適用させようとすれば思考 ・配慮も支離滅に熱烈なものにならざるをえない。
したがって一つのことを企てたら、他の一切を度外視し、 払いのけねばならない。 そうすれば余事に頓着せず、事をひとつずつ その場その場で処理し、享受し、耐えることができる。
16:あらゆる 望ましいもののうち、個々人が手にできるものは この上なく希少な一部だが、多くの災厄は誰の身にも降りかかることを常に肝に命じて、願い事にはゴールを設定し 、欲望を慎み 、怒りを抑えること。
すなわち 一言で言うと 「節制と忍耐」が原則である。
17:「生命は動きに在る」 という アリストテレスの言葉は明らかに その通りである。
したがって、 肉体的な生命は不断の運動をその本質とし、 不断の運動によってのみ存続するのと同じように 、内面的・ 精神的な生命もたえず活動を求めている。
18:「 想像力が描き出したイメージ」 ではなく 明確に考え抜かれた概念を努力目標にすべきだ 。だが 大抵 この逆が行われている 。
つまり詳細に検討を進めていくと、 最終決定に決着をつけるのには大抵 概念や判断ではなく、 想像力が描き出したイメージであり、 二者択一 に立たされるとイメージが代表し。 代弁するのはわかる。
19: いかなる 場合であれ 眼前の直感的なものから受ける印象に振り回されるなどという原則に包摂 される。
こうした印象は単なる思索や既知の事柄とは比べものにならないほど強烈だ。 素材・ 内容は たいそう 貧弱なことが多いため、 強烈な印象を受けるのは 素材 ・内容のせいではない。 体感すなわち 直感性と直接性のせいである。
20: 「健康」は、 私たちの幸福にとって 第一の最も重要なものであり 大きな価値を持っている。
健康維持についていくつかの一般的なことを挙げておこう。 健康な時は 全身 及び身体の各部を大いに働かせて 負荷をかけ、いかなる不 都合な影響にも抵抗できる習慣をつけて鍛えなさい。けれども 全身 または局部に病的な状態が現れたら、直ちに反対の方法をとって病んだ身体や 局部を何としても大事にしていたわるのがよい。
C 他人に対する態度について
21:「 慎重」と「寛容」 持ち合わせていると、 世の中を渡るのに役立つ。慎重であれば損害・損失を免れ、 寛容であれば 諍いやもめ ごとを免れる。
22: 人間相互の精神と心情の同質性・異質性が会話にたちどころに現れるのは 驚くべきことだ 。どんな些細なことにもそれが感じられる。珍しいことや 当たり障りのないことが話題でも、本質的に異質な者同士だと、こちらの片言隻句が多かれ少なかれ 相手に不満で 立腹 することも少なくない。
これに対して同質の者同士では何事もすぐに 、いわば 調和を感じ 同質性が大きければほどなく完全な 和声 、いや、斉唱へと 融け合う。
23: 何人たりとも 自分自身を上回る 見方はできない。私がここで言おうとしているのは 人はみな他人を見ても自分自身が実際にそうであるような人間以上の人間は見えてこないということである。なぜなら自分自身の知力を標準に他人を把握し理解するしかないからだ。 知力は最劣等の部類に属する 者はいかなる 知的天分であれ、 どんなに偉大な天才であれ どこ 吹く 風である。知的天分の持ち主を見ても、その個性の最も 劣勢な 部分 すなわち 全部の弱点、 気質や性格の欠点しか認識しないだろう。
24:私が100人に1人の選ばれた人として尊敬するのは、何か持たないとき、すなわちこれと言ってすることもなく ぽつねんと座っている時にステッキやナイフやフォーク 、その他 何であれ その時ちょうど手にしているもので拍子を取るようにトントン、 カタカタ音を立てない人である。彼はおそらく 思索を巡らせている。
25: ラ・ロシュフーコーは、ある人をたいそう 尊敬すると同時に、激しく恋するのは難しいと述べているが、 その通りである。
26:たいていの人間は極めて主観的で、根本において自分自身にしか興味がない。その 結果どんな話を聞いても、すぐさま 自分のことを考え、 また たまたま 何か自分の個人的なことと少しでも関係のあることを聞くと、それにすっかり注意を奪われ、 そのため 話の客観的 テーマを理解する力はもはや残っていない。
27: 間違ったことが 民衆の間や 上流社会 でも語られ、 書物に書かれて堂々と 取り上げられ、 せめて 論駁ぐらいは と思っても、それもない場合に 絶望的になって「 この件はこれで決着ということになってしまうのか」などと 考えるのは良くない。
そうではなく 問題は後から徐々にゆっくり検討され。解明され 、塾考され、実行され、 討論されて、結局は正しい判断が下されるのだから。問題の難しさ に匹敵するだけの時間がたてば、かつて 明晰な頭脳の持ち主が直ちに見て取ったことを、ついにはほとんど 皆が理解するように心得て、自らを慰めれば良い。
28: 人間は甘やかすと つけ上がるという点で子供のようなものだ 。だから相手の言いなりになって、甘い顔をしすぎてはいけない。たいてい 借金を断っても、友を失うことはないが、金を貸すと、とかく友を失いやすい。
29: 高潔で優れた才能を持つ人は、特に若い頃は人を見る目がなく、処世術に著しく欠けることは知らぬ間に 表に出てしまうために、騙されやすく、 また 惑わされることも多い。 これに対して、 乏しい才能と獣的本能で生きる人は、ずっと早く 巧みに世間に順応できる。
30:人間の性格に放置・ 放任しておいて良い生活というものはない。 どんな性格も概念や基準による避難が必要である。 さて、 この指南を徹底して、生まれつきの音声ではなく、 理性的な熟慮から現れ出た 正真正銘の後天的・ 人為的な性格を作ろうとしても、「本性は熊手で降り払っても、やっぱり 戻ってくる」というホラティウスの言葉の正しさが、じきに立証されるだろう 。
31:人は自分の体重を体の重みを背負っているが他人の体を動かそうとする時は時とは違って それを感じない これと同様に 自分自身の欠点や悪徳には気づかず 他人の欠点や悪徳 ばかり目が行く
32:高潔な人は若い頃 本質的かつ 決定的な人間関係や、そこから生じる 人間同士の絆は観念的なつながり、 すなわち 思考や考え方や趣味や 知力などの類似に基づくっている。だが後になると、 それは実際的なつながり、 すなわち、 何らかの物質的な利害に支えられた、 つながりであることに気づく。
33: 銀の代わりに紙幣が出回るように、世間では真の尊敬と真の友情の代わりに、 尊敬と友情の外面的誇示や、できる限り 自然に見えるように模した身振りが広まっている。 その一方で実際に真の尊敬と真の友情に値する人物は、はたたして存在するのだろうかという問題は放置される。
いずれにせよ 私は、そうした百の誇示 や身振り よりも、正直な犬が尻尾を振ることに多くの意義を認めたい。
34:才気と分別を見せるのが、人づき合いで人気を得る 術策だと思い込んでいるものがいるとしたら、その人は何とひょっとこ であることか。 むしろ才気と分別は 圧倒的 多数の人間の憎しみと恨みを掻き立てる。
35: 私たちは他人を信頼するとき、 怠惰や身勝手 さや 虚栄心が大きく関与していることはことが非常に多い。 自分で調べ、 注意深く見守り 、実行するよりも、他人に任せたいときは怠惰が関与し、 自分の心にかかる事柄を 黙っていられず、つい他人に打ち明けるときは身勝手さが関与し、自慢する時は 虚栄心が関与している。にもかかわらず、 信頼されたことを相手が光栄に思うことを要求する
36:「礼」 は中国の極めて重要な徳であり、拙著『 倫理学』にひとつの根拠を上げておいた。 もうひとつの根拠は次の通りである。礼とは道徳的にも 知的にも見るにしのびない 互いの性質を互いに見なかったことにし、 それ以上は はめ込まないという暗黙の協定である。
37:自分の病状について他人を手本にしてはならない。境遇や環境や諸般の事情は決して同じではなく、性格の相違が行動にも様々な色調をもたらすからである。
38:他人の意見には反駁しないほうがよい。相手が信じて信じ込んでいる 不合理 をいちいち説得して 思いとどまらせようとしたら、 メトセラのような高齢になってもけりがつかないことを考慮したほうがよい。
また会話の際によかれと思ってしたことでも、 相手を矯正する 論評 は控えたほうがよい。相手の心を傷つけるのはたやすいが、翻意 させるのは、不可能とまではいかなくても難しいからである。
39:自分の判断を人に信用して欲しければ 、冷静に激情を交えずになさい。あらゆる 激しさは意志の産物であり、認識は本来 冷静な ものなので、相手がこちらの判断を認識ではなく、意志に基づくものと考えるからである。
40:どんなにもっともな理由があっても自画自賛の誘惑に乗ってはいけない。というのも 虚栄心は実にありふれたものだが、 功績は実に稀なので間接的であっても自画自賛しているように見えると、 たちまち 誰もが虚栄心から あのように語っているといるのだ、バカバカしさを見抜くだけの分別もない 虚栄心のなせる業だと断言するであろうから。
41:相手は嘘をついているのではないかという疑念が生じたら、信じているふりをすればいい。 すると 相手は厚かましくなり、 さらに輪 をかけた 嘘をつき 、化けの皮をはがれるだろう。
42:個人的な事情は全て 秘密とみなすべきである。 親しい 知人に対しても 相手が自分で見て取れる以上のことは何も知られないようにしておかねばならない。
43:だまし取られたお金 ほど 有益に使ったお金はない。 それと引き換えに取りもなおさず 知恵を手に入れたことになるからである。
44: 誰に対してもなるべく 悪意をいただかないようになさい。けれども 人の性格は変わらないものだということを常に確信し、 各人の行動に十分に注意を払って記憶にとどめ 少なくとも私たちに関するかぎり、 それによってその人の価値を見定めすると、 それに応じてその人に対する私たちの態度や態度 行動を調整すればよい。
45: 怒りや憎しみを言葉や表情に見せるのは、無益で、危険で、愚かで、滑稽で、下品だ。怒りや憎しみは 決して行動 以外のもので示してはいけない。
46:世慣れた人々は「 メリハリをつけずに話す」という古来の原則を重んじるが、その狙いは何を話したのか 探り当てるのを他人の餞別に任せることにある。
D 世相 や運命に対する態度について
47: 人間の生活はいかなる形をとっても、常に同じ要素でできている。 だから あばら家でも 宮廷でも、修道院でも軍隊でも。どこで生活を送ろうと本質的に同じである。
48: 世界を支配する力は3つある それは 賢さと強さと運であると 古人は言っている。一番ものを言うのは最後にあげた運ではないかと私は思う 。
49:時の作用と物事の変わりやすさを絶えず 念頭に置き、何事も 現在起こっていることを見たら、 ただちに その反対のことを想像すればよい。すなわち 幸福であれば 不幸を、 友情には敵意を、 晴天には荒天を、愛には憎しみを、信頼して打ち明ける場合には裏切られて後悔する場面を、またその反対であれば 逆の場面も、ありありと 思い浮かべるとよい 。
50:日常生活において 度々 顕著に現れる凡人と利口者との特徴的な差異 は、起こり得る 危険を熟考する際に、凡人はすでに「起きた」類のことばかりを常に尋ね 考慮するの に対し、利口者はこれから起きるかもしれないことを熟慮し、 その際に スペインのことわざにある通り 「この1年の間に起きていないことがあれば それは数分以内が起きる」ということを考慮に入れる点だ。
51: どんな出来事にも いきなり大喜びしたり、 わめき悲しんだりしない方がいい。一面では、 何事も変化の可能性があり、今この瞬間にも変わるが かもしれないからであり、他面では自分にとって何が有利か、 何が不利かの判断に欺かれることがあるからだ。
52:一般に世間が運命というものは、たいてい 自分の愚行に過ぎない。 だから賢慮 すなわち「 知恵を働かせる」ことを勧めるホメロスということはない。
53:さて、 知恵に次いで 勇気が、幸福にとって 極めて大切な 特性である。ただし 知恵も勇気も自然に生じるわけではなく、 知恵は母から、勇気は父から、受け継がれる。
第6章 年齢による違いについて
子どものころわれわれはまことに熱心に事物の直感的理解にもっぱら取り組んでいるが、一方で教育がわれわれに概念(観念)を植え付けようと懸命になる。しかし、概念などもともと本質的なものをあたえることはない。むしろこうした本質的なものは、つまりわれわれのすべての認識の基盤ならびにその真の内容は、直感的な把握の中に存在する。これはわれわれ自身によって得られるものであって、何らかの方法でわれわれにもたらされるものではない。
この章では、ショーペンハウアーが年齢と人生経験が人間の幸福感にどのように影響を与えるかについて語っています。彼は年齢が人間の価値観と幸福の追求にどのように影響を与えるかについて詳しく説明しています。
彼は、年齢による幸福の捉え方の違いについて論じています。
若い人
若い人は、未来への希望に満ち溢れ、無限の可能性を秘めていると感じています。
そのため、幸福を「何かを成し遂げること」や「目標を達成すること」と捉えがちです。
しかし、実際には、多くの困難や挫折を経験することになり、期待通りにいかないことも多いものです。
さらに、子供の頃はまだ分離意識がなく、観念の植え付けも少ないため物事を観念を通じて見ることが少ない時期であるとしています。
逆に言えば、大人になればなるほどこの観念というフィルターを通じて世界を観察しているため、本質を見落としてしまうのです。ショーペンハウアーは「われわれの生涯の1/4(子供の頃)が幸福なのはまさにこのことが理由だ」と述べています。
中年
中年になると、若い頃の夢や理想が現実と乖離し、失望を感じる人も少なくありません。
また、体力や健康の衰えを感じ始め、将来への不安を抱えるようになります。
そのため、幸福を「安定した生活を送ること」や「心身の健康を維持すること」と捉えがちです。
老年
老年になると、人生の終わりが近づき、これまでの人生を振り返るようになります。そして、自分が本当に大切なものを手に入れることができたかどうかを問いかけます。もし、後悔や未練が多い場合は、幸福を感じることは難しいでしょう。しかし、充実した人生を送ってきたと感じる場合は、たとえ肉体的には弱っていても、精神的には満たされた状態となることができます。
真の幸福とは何か
ショーペンハウアーによれば、真の幸福とは、外的な条件によって左右されるものではありません。
それは、自分の内面にある「意志」をコントロールすることによって得られるものです。
意志とは、欲望や衝動に振り回されることなく、理性に基づいて行動することです。
意志をコントロールすることで、人は真の自由を手に入れることができ、真の幸福を味わうことができるのです。
幸福は、年齢によって捉え方が異なります。しかし、真の幸福は、外的な条件によって左右されるものではなく、自分の内面にある「意志」をコントロールすることによって得られるものです。
『幸福について』のエッセンス
ショーペンハウアーの「幸福について」は、人生における真の幸福とは何かを探求する哲学的考察書です。
本書では、意志、欲望、時間といった概念を用いて、人間の苦悩の根源を分析し、真の幸福に到達するための指針を提示しています。
意志と欲望の支配
彼は、人間の根本的な衝動を意志と捉えます。意志は、絶えず何かを求め、充足しようとする盲目的な力であり、これが欲望を生み出すと論じます。欲望は、物質的な富、名誉、権力など、様々な形で現れますが、どれも一時的な満足しか与えず、真の幸福には繋がらないと指摘します。
時間と苦悩の関係
彼は、時間が人間の苦悩を深める要因であると主張します。過去への後悔や未来への不安は、常に現在を覆い、心を落ち着かせないからです。真の幸福は、こうした時間的な制約から解放された状態にあると説きます。
真の幸福への道
彼は、真の幸福に到達するためには、以下の3つの段階が必要であると述べています。
- 欲望からの解放: 物質的な欲望や承認欲求を手放し、真の充足感をもたらすものを見つけること。
- 現在への集中: 過去への執着や未来への不安から解放され、今この瞬間に意識を集中すること。
- 芸術体験: 芸術作品を通して、時間や自我の束縛から解放された無私の境地を味わうこと。
ショーペンハウアーは、厭世哲学と呼ばれる思想家としても知られています。厭世哲学とは、人生の本質は苦しみであり、幸福はありえないとする思想です。しかし、「幸福について」において彼は、真の幸福は存在すると主張しています。
その他情報
本書は、1851年にドイツ語で出版され、その後多くの言語に翻訳されています。日本語訳には、光文社古典新訳文庫版の他に岩波文庫版や角川文庫版などがあります。Kindleのマンガ版全1巻や全10巻もあります。
ショーペンハワーは裕福な商人の長男として生まれましたが、家庭は家族の愛情に満ちた幸福な家庭ではなかったようです。
父は遺産の一部を管理させていた銀行が倒産し、事故か自殺で死亡したといわれています。母は宮廷作家として大成功し、ショーペンハワーとは別居し親子絶縁しました。
妹は当時ヨーロッパで大流行したコレラで亡くなりました。
このような家庭環境が彼の思想にも影響しました。
孤独で、ニヒルで、悲観主義的な厭世哲学者になった。一般的な幸福論では大きな比重を占めるべき、恋愛・結婚・家族団らんの幸福が欠けている。彼は恋愛はし結婚の計画もしたこともあったようですが、実現しませんでした。裁判沙汰になり結婚はせず、一生独身でした。しかし、そのような彼の生きざまに共鳴する人もいて、ニーチェ、ベルグソン、ディルタイ、ジンメル、トーマス・マン、ワーグナーなどに影響がありました。
日本でも森鴎外をはじめ、堀辰雄、萩原朔太郎、筒井康隆など多くの作家に影響を及ぼしました。
あとがき
いかがでしたでしょうか?
ショーペンハウアーといえば暗いイメージが合ったかもしれませんがとんでもない。
ですが、どうですか?私なんか、彼のお陰で世界の捉え方も大きく変わりましたし、何より、自分の内面との付き合いが増えたことを通じて今も日々色々ありますが(これはみんな同じです)幸せですし、日々の小さな成長、発見が楽しくてたまりません。別に他人にそのことも言いません(笑)。
まずは、彼の代表的著書『意志と表象としての世界』のタイトルが意味するように、世界は私達の意志の表象であることに気づく必要があるのです。
一度、ショーペンハウアーを深いレベルで理解すると、むしろ、自らの生き方に対してより真摯に前向きに捉えることが可能になることでしょう。生の哲学の始祖と言われる所以もここにあります。
最後までお読みいただきありがとうございました!
大山俊輔