「人間関係が息苦しく感じる」
「その場の雰囲気にのまれて言いたいことが言えない」
「話しすぎて、気が付いたら相手の機嫌を損ねている」
このように人付き合いで悩む人は多いのではないでしょうか。ですが、このような悩みは「空気を読む」ということが苦手だったり、深読みしすぎてしまうことが原因の一つだといえます。
では、その「空気」とは一体何でしょう。
マッキー
答えを出すのが難しそうな疑問ですが、裏を返してみれば、「空気」の正体さえわかれば、人付き合いの悩みに根本から対処ができるようになれると言えます。
実は、この「空気」の正体を突き止めた本があります。
それが山本七平という人が書いた『「空気」の研究』です。「空気」が読めないと悩んでいる人も、「空気」を読みすぎて疲れてしまった人も、『「空気」の研究』を読み解いていくことで、僕たちを悩ませる「空気」の正体を一緒に突き止めていきましょう。本記事では、この山本七平の名著『空気の研究』をわかりやすく要約しました。また、これから本著を読む方にあらすじ通じて、「空気とはなにか」を解説しています。
対談人:大山俊輔
目次
山本七平とはどんな人!?
さて『「空気」の研究』を読み解いていく前に、作者の山本七平について簡単に紹介します。
一九二一年、東京に生まれた山本は青山学院卒業後、陸軍に入隊します。第二次世界大戦の真っただ中、山本は砲兵将校として教育をうけたあと、フィリピン戦に参加し、そこで終戦を迎えます。終戦直後は一時期、捕虜になってしまったりと過酷な日々を送っていたようです。
そして軍隊から帰ってきたあと、しばらくはサラリーマンをしていました。その後独立し「山本書店」を創立しています。多くの人は、作家というのは、どこか浮世離れした人を想像すると思いますが、山本は違います。彼はサラリーマンであり、経営者であったのです。
マッキー
誤解を恐れずにいえば、サラリーマン生活を送った山本は「現実」を熟知しているといえます。そんな山本によって書かれた本書は、きっと日々「空気」に悩んでいる人たちに役立つアドバイスをくれるはずです。
『空気の研究』のあらすじ
山本は「空気」について次のように述べています。
「「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かもしれない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから」(『「空気」の研究』p.19)
山本に軍歴があることを踏まえれば「空気」の支配というのが軍隊のなかにもあったといえるでしょう。更に山本は、この「空気」の支配は戦後になっても「相変わらず猛威を振るっているように思われる」と言います。
対談人:大山俊輔
そんな山本は「空気」のことを端的に「臨在感的把握」と言い換えています。
「典型的な臨在感的把握だ、それが空気だな」(同書、p.36)
なにやら難しい言葉が出てきました。この「臨在感的把握」とは何でしょうか。
人々を支配する「空気」の仕組み
山本は「臨在感的把握」について次のように述べます。
「臨在的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化」(同書、p.143)
そして「感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態」に人々がなることによって「空気」の支配が起きると主張します。ただし、感情移入する対象は人物とは限りません。モノや言葉に対しても起きると山本は主張します。
このことについて、僕自身、苦い経験があります。
新入社員のころ、営業部に配属された僕は、とあるミーティングに参加しました。
部門長や同期の新入社員までが参加していたミーティングの議題は「どうすれば残業が減るか」というものでした。その議題に対して意見を求められた僕は「残業を減らすのであれば、個々人の業務が減るように、会社が引き受ける仕事を減らせばいいのではないでしょうか」と答えてしまったのです。
僕がそのように答えた瞬間、上司からは冷たい目で見られ、管理職の人は苦笑いを浮かべました。ミーティングルームに流れた冷え切ったの空気を、僕はいまだによく覚えています。
ふりかえって考えてみれば、そこに出席した僕以外の人は「売上を落とさない」という暗黙のルールを共有した状態で「どうすれば残業が減るか」というアイディアを考えていたのだと思います。
会社として売上を落とさないようにするというのは当たり前のことですから「会社が引き受ける仕事を減らす」ことは出来ません。会社の暗黙のルールを僕は無視してしまったのです。
このことを山本の分析に沿って考え直してみれば、僕に足りなかったのは、自社への感情移入だったのだと思います。しかし、感情移入が足りていなかった僕は「早く帰りたいなら、仕事を減らせばいいじゃない」という考えを、ほとんどそのまま口に出してしまったのです。
「空気」への抵抗としての「水」
先程述べた僕の経験は、一般的に「水を差す」行為だったといえるでしょう。
この「水を差す」ということについて、山本は「空気」の支配に抵抗するための手段と言っています。この「水」について、山本は自身の経験を踏まえて次のように述べています。
「私の青年時代には、出版屋の編集員は、寄るとさわると、独立して自分が出版したい本の話をしていた。みな本職だから話はどんどん具体化していき、出来た本が目の前にみえてくる」(同書、p.91)
サラリーマンを経験したからこその話でしょう。山本は「私は何度か、否、何十回かそれを体験した。すべてはバラ色にみえてくる」と言います。
「そしてついに、「やろう」となったところでだれかがいう「先立つものがネエなあ」--一瞬でその場の「空気」は崩壊する」(同書、p.92)
山本は「これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。そしてこの言葉の内容は、いまおかれている自己の「情況」を語ったのにすぎないのである」(同書、p.92)と述べます。「空気」というものが「過度な感情移入」であるとすれば「水」というのは各人が置かれている「情況」ということになります。
対談人:大山俊輔
今振りかえれば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気づくであろう。従って「英雄」は必ずしも「平和主義者」だったわけではなく、“〝主義”〟はこの行為とは無関係であって不思議でない。「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29にとどかない」という「事実」を口にしただけである。
「水を差す」というのは、言い換えれば、各人が置かれている「情況」を改めて語るということです。
「空気」と「水を差す」ことの危ない関係
「空気」の正体と、抵抗手段としての「水」の話が『「空気」の研究』という本の全てではありません。実は、山本は「水」というものがもつ危うさについても語っているのです。
何が「空気」をつくるのか?
「この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基である」(同書、p.172)
山本の考えでは「水」というものが「空気」を発生させる原因となるようです。
ここで、中学校や高校のクラスを想像してみてください。とても怖い先生が担任だったとしましょう。生徒たちは全員、先生のことを怖がっています。あるとき、皆が抱えていた不満をクラスのA君が、先生にぶつけます。先生が態度を改めると同時に、A君自身がクラスのヒーローになることでしょう。ところがクラスメイトのほとんどがA君に同調するあまり、今度はA君に対し、言いたいことが言えなくなってしまうような状況が作られてしまいました。
A君のやったことは「先生に逆らえない」という状況に「水を差した」といえる行動でした。ところが今度はA君自身が教室の「空気」を支配してしまいます。山本が指摘したいのは、このように「水」が「空気」へとなってしまうことでした。
「ついに「水」を差す本人がその主導権を握り、その組織と行動を通常性を原則とする形に改めざるを得なくなった」(同書、p.170)
『「空気」の研究』の警告
これらのことをまとめた次の文章は、現代においても通じるものがあります。
「現代でも抵抗がないわけではない。だが「水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局、同根の別作用による空気の転移があっても抵抗ではない。従って別「空気」への転移への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で現れ、それが逆に空気支配の正当化を生むという悪循環を招来した。したがって今では空気への抵抗そのものが罪悪視されるに至っている」(同書、p.222)
山本は「空気」に抵抗するために「水を差す」という手段を挙げていますが、彼が本当に警戒したいことは、この「水を差す」ということが、ベつの「空気」の支配を生んでしまうということなのです。
空気の研究から見出す今後の日本の道しるべ
『「空気」の研究』の不思議なところ
『「空気」の研究』に込めた思いを、山本は「あとがき」に書いています。
「本書によって人々が自己を拘束している「空気」を把握し得、それによってその拘束から脱却し得たならば、この奇妙な研究の目的への第一歩が踏み出されたわけである。どうか本書が、そのために役立ってほしいと思う」(同書、p.229)
冒頭でも少し触れたとおり「空気」に対する悩みは、人によって異なります。
ある人は「「空気」が読めない」ことで悩んでしまったり、別の人は「「空気」を読みすぎる」ということで思い悩んでいるかと思います。
『「空気」の研究』には、残念ながら、それらの悩みを解決するための具体的な方法は書かれていません。
書かれていないということは、「空気を読む」という必要性が、どこにいようと多かれ少なかれ発生するということの裏返しです。「水を差して」も、それがまた別の「空気」を生むのであれば、この循環から完全に逃れるということは原理的に不可能な話です。サラリーマンや経営者として働いていた経験のある山本のことですから、生きていくうえで「空気」から完全に逃れることは無理だと、わかっていたのかもしれません。
しかし「空気」という「拘束から脱却」するための本にも関わらず、そのことが不可能であることを暗に示している本書は、実に不思議な本ということになります。
ですが、この不思議な点こそが「空気」に悩まされている人に別の道しるべを与えているのだと思うのです。
「空気」で疲れた人のための道しるべ
山本はどうして「空気」の正体をつかもうとしたのでしょう。
それは僕たち一人ひとりが「空気」とうまく付き合うためではないでしょうか。『「空気」の研究』という本の不思議さは、この「うまく付き合う」という道しるべを示すためのものだと思います。
「空気」が読めない、ということで悩んでいるのであれば、着目すべきは、その悩みがどのような人間関係のなかで発生しているのかという点です。「空気」の正体がつかめたのであれば、あなたを悩ませている人々が、何に感情移入しているのかという点を考えることが、「空気」を読むため第一歩になります。
一方で、「空気」を読みすぎて疲れてしまうのであれば、別の「空気」、自分に合った「空気」を探してみるのも一つの手ではないでしょうか。「空気」から逃れることが難しいのであればこそ、考えるべき方向性がみえてきます。
日本社会への示唆
日本は、江戸〜明治、敗戦〜復興とこの空気が変わる節目で大きな変化を起こしてきました。しかし、この空気を制御するすべを持たないがため、良い変化になることもあれば破滅的な変化になることもあり、その変化は漸次的というよりジグザク的になります。
対談人:大山俊輔
これが一つの力である限り、それは必ずしもマイナスにのみ作用するとは限らず、その力はプラスにもマイナスにも作用しているはずである。そしてプラスに作用した場合は、奇跡のように見えるであろう。明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に“〝奇跡の復興”〟をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊滅さす力をもつ「何かの力」のはずである。その力がある方向に向くときに得た成果は、その力が別の方向に向いたときには一挙に自壊となって不思議ではない──その力をコントロールする方法を持たない限りは。
まとめ
「空気」を読むための技術、もしくは「空気」を読まなくても生きていくためのテクニックを身に着けるということは、確かに、正しいことかもしれません。
ですが、ここでは、少しだけ視点をかえて『「空気」の研究』をとおして「空気」そのものについて考えてみました。このことが、みなさんの役に立てたのなら、それはまさしく山本が願った「空気」という「拘束から脱却」のための最初の一歩にほかなりません。
マッキー&大山俊輔