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薩英戦争について | きっかけ、勝敗、海外の反応などわかりやすく徹底解説!

こんにちは。執筆家のクボッピーこと久保田です!記事をお読みいただきありがとうございます。

私は学生時代から受験科目として日本史を勉強する上で、その魅力に憑りつかれた、いわゆる【日本史オタク】です。受験が過去の話になった今でも、日本史の書籍などを読み、塾講師としても、受験生などに日本史の講義を行っています。

クボッピー

 学生時代から受験科目として日本史を勉強する上で、その魅力に憑りつかれた、いわゆる【日本史オタク】です。受験が過去の話になった今でも、日本史の書籍などを読み、塾講師としても、受験生などに日本史の講義を行っています。

この記事では、そんな私が、日本の転換期に起こった事件「薩英戦争」について徹底解説していきます。

「薩英戦争ってなんだったっけ?」と感じている学生の方や、「日本人としての教養をつけたい!」という大人の方にまで満足していただけるよう、「薩英戦争」の概観とその中で起こった外国との絡み、イギリスを含め海外の反応まで網羅した上で、この戦争を契機に日本がいかにして変化していったか、ということまで幅広く扱っていきます。

サイト管理人:大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営。母方は薩摩藩士の家系で、知覧の武家屋敷生まれ。今も心はずっと鹿児島とともにあります。

薩英戦争の動機と、その後の動向が理解出来れば、日本が「尊王攘夷」から一気に開国へと転じていく流れが一掴めると言っても過言ではありません。

是非楽しみながらお読みください!

薩英戦争はどこで起こった戦いだった?

まずは「薩英戦争」がどのような場所で起こったか、という地理関係についてのお話をしていきます。

「薩英戦争」の「薩」とは薩摩藩の「薩」です。薩摩といえば鹿児島県の大きな地域ですね。当時の日本は各地に藩という、今でいう県庁所在地のような大きな括りがありました。また「英」はすなわちイギリスのことを指します。つまり「薩英戦争」とは薩摩藩とイギリスによる交戦なのですね。

サイト管理人:大山俊輔

当時のイギリスはビクトリア時代の最盛期。今のアメリカのような存在です。もし、鹿児島県とアメリカが戦争したといったらビックリしますよね。でも、当時の感覚ではそれくらいの国力差がありました。

詳しい戦闘のいきさつや外観については、次の章などで事細かに解説をしていき、ここでは場所にフィーチャーした解説をします。

ここまでの話を聴くと、「薩摩藩とイギリスの交戦なのだから、そのどちらかが交戦地になったのでは?」と考える方も多いのではと感じます。

そうです、そんなあなたはとても察しが良いですね。薩英戦争の交戦地は薩摩藩(鹿児島県)のエリアになっています。

しかし薩英戦争に至るまでにも、実はその契機となる、薩摩藩とイギリスの場外乱闘のようなものがありました。そちらについては「戦いの原因」を書く次の項で紹介するので、そちらをご覧ください。

薩英戦争が起こったきっかけは?その原因を解説

次にお話をするのは、「薩英戦争」のきっかけについてです。この流れを踏まえることで、以後の日本の動向についてグッと理解が深まりますよ。

このいきさつについて注目すべきは「薩摩藩」の動きです。

当時の薩摩藩は日本においても有数の地位を築いており、幕府に対してもかなり接近をすることが出来ていました。なぜかと言うと、江戸幕府の当時の状態について知っておくことが重要です。江戸幕府は、開国を独断で専行した井伊直弼らが暗殺された「桜田門外の変」などで権力の強いトップランカーが次々と失脚していました。

それだけの権力者を失い、江戸幕府はその権威や政治力は地に落ちていたのです。

そこで幕府が白羽の矢を立てたのが、薩摩藩です。強力な薩摩藩の力を借りて、幕政改革を行い、その権威と政治力を向上していくことを図ったのです。

島津久光という絶大なトップを擁する薩摩藩は、幕政改革に携わるためその要人たちが中心となり、しばしば江戸の幕府をはるばる訪れるようになりました。

生麦事件の発生

生麦事件の発生

そんな中で1862年の1月に薩英戦争のきっかけとなる出来事が起こります。

いつものように薩摩藩は江戸幕府を訪れ、改革を行ったその帰り道に横浜あたりを通行していました。そんな中、数人のイギリス人が、薩摩藩の大名行列を横切って横断します。

これを無礼だと感じた薩摩藩士は、そのイギリス人たちをまとめて殺傷してしまったのです。

この事件のことを「生麦事件」と呼びます。これによりイギリス人は薩摩藩に反感的な気持ちを持ち、両者の確執が深まることとなるのです。

薩英戦争の戦いの概観を解説!展開や結果、その勝敗は?

次に紹介するのは、「薩英戦争」の戦いの概観についてです。展開や結果、その勝敗について紹介してきます。

まず「薩英戦争」の契機となったのは先ほどお話した「生麦事件」です。これにより両社の確執が深まり、イギリスは薩摩藩に怨念を抱くようになったのです。

その怒りが爆発したのが、1863年の7月。イギリス人は「生麦事件」の報復として、薩摩藩に侵攻してきます。この進行を「薩英戦争」と呼ぶのです。

薩摩藩の位置は、先ほども述べたように今で言う鹿児島県です。これはイメージとしてもしっかり持っておきましょう。

展開としては終始、最新のアームストロング砲を誇るイギリス艦隊の射程と薩摩藩の砲台からの射程には飛距離に差があったことから、イギリスが優位に戦闘を展開します。当時、世界最強国であった大英帝国の艦隊です。砲弾は鹿児島市を焼き払いますが、薩摩藩士も善戦します。

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教科書では、あたかもイギリスの圧勝的な書かれ方をしますが、実は、薩摩藩の放った砲弾が旗艦を直撃。ユーライアラスの艦長や副長は戦死。そして、死傷者数ではイギリス側は死者13名、負傷50名に対して、薩摩側は死者1名。軍事力の差から考えると大善戦です。

薩摩は大きな犠牲を払ってイギリスを追い返しましたが、この経験が、日本の今後の動向や攘夷運動に対して大きな影響をもたらすことになるのです。

薩英戦争後の日本への影響は?攘夷運動はどう変わった?

次に紹介するのは、「薩英戦争」後の日本の動向や変化についてです。

この戦争を契機に薩摩藩は、当時江戸幕府が推進していた「攘夷運動」の不可能をまざまざと体感することになったのです。

攘夷運動とは、鎖国にも通ずるところがあるのですが、外国勢力を排除していこうという動きのことです。当時の江戸幕府は、外国に対して攻撃的で排他的な姿勢を取り続けていたのです。実際に「異国船打ち払い令」などで、日本に接近をしてきた外国船に対して砲撃をしていたことからも、当時の日本(江戸幕府)の強硬的な姿勢を感じることができます。

そんな中で起こったのが再三述べている「薩英戦争」です。薩摩藩は外国勢力であるイギリスと実際に交戦し、その強力さや国力などをまざまざと見せつけられたのです。そして「外国勢力と真っ向から対立をするよりは、彼らの科学技術力をいち早く吸収し追いつくことが大事だ」という論調になっていったのです。

薩摩藩は攘夷に不可能を感じ、反対していくことになります。

そして攘夷を掲げる江戸幕府の討伐を目指していくのです。

そこで利害が一致したのが、長州藩です。当時の薩摩藩は長州藩とそこまで仲が良くなかったのですが、「攘夷反対」「倒幕」という利害が一致し、坂本龍馬・中岡慎太郎らなどの仲立ちで「薩長同盟」を結ぶことになります。「薩長同盟」は快進撃を続け、その結成後のわずか1年後に実質的に江戸幕府の倒幕に成功します。

結果的に「薩英戦争」が江戸幕府終焉のターニングポイントとなったと言っても過言ではありません。

薩英戦争後の海外の反応は?世界情勢は変化した?

最後に紹介するのは、「薩英戦争」後の諸外国の反応や世界情勢の変化についてです。

前項でも述べたように、「薩英戦争」は日本に諸外国の脅威を知らしめ、攘夷から開国へと国論を転じていくう非常に大きな転換点でありました。それでは諸外国に対してはなにか変化はあったのでしょうか。

パーマストンに一矢報いた薩摩藩

パーマストンパーマストン

端的に述べると、イギリスは世界的に動向が注視され、睨みをきかされるようになりました。

当時のイギリスの首相はパーマストン。いち早く産業革命を経験した大英帝国の国力がピークに達した時期に政治家をしていた人で、外務大臣、そして、首相として活躍しました。その国力を盾に、アヘン戦争、アロー戦争、クリミア戦争、セポイの乱の鎮圧、そして、南北戦争への間接的な介入など世界各地で積極的な外構を展開していました。

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パーマストンの演説に「ローマ市民演説」という有名な一節があります。

「古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信してよい」

逆に言えば、1人でもイギリス人が海外で侮蔑を受ければ、軍事介入しても良いという口実にもなり、イギリスの圧倒的国力がその担保でした。こうしたイギリスの強硬外交には、批判的な考えを持つ国も多く、潜在的な敵を増やしていました。

イギリス以外の欧米列強は薩摩寄りの論評

ニューヨークタイムズの記事

このような、世界情勢の中で起きたのが薩英戦争でした。

日本の – しかも一領邦である薩摩が – 大英帝国の東洋艦隊相手に善戦したという報道は世界中を駆け巡りました。特に、イギリスから独立して100年足らずのアメリカでは、薩摩の善戦に好意的でこのようなニュースがニューヨークタイムズにも書かれています。

The retainers of Prince SATSUMA fought bravely, served their cannon well, and inflicted serious damage on their assailants — for the British had, according to their own statement, thirteen killed, fifty wounded, and so many of their vessels disabled that, as soon as night put an end to the conflict, they deemed it prudent to return to Yokahama to refit. This retreat must be regarded as a triumph for the Japanese; but it was a Pyrrhic victory, since the garrison failed to save Kagosima, which, with its palaces, factories and arsenals, was a pyramid of flame at the close of the day.

【簡約】薩摩藩士たちは勇敢に戦い、大砲を巧みに使いこなし、攻めてのイギリスに大きなダメージを与えた。イギリスは13名が死亡、50名が負傷、そして、多くの船が戦闘不能に陥り、戦闘が終了するやいなや修理のために横浜へ帰還した。イギリスの撤退は日本にとって大勝利だと言えるだろう – しかし、その勝利はピュロスの勝利(得るものがない勝利)だといえる – というのも、鹿児島市になる王宮(藩主邸)、工場、兵器庫などは消失したからである。

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確かに、戦死者、負傷者だけ見れば薩摩のほうが被害が少なく、アメリカなどの勝敗評価はどちらかというと勝利に近い評論です。ただ、鹿児島市街が消失してますので、長期戦には耐え得ないほろ苦い勝利、つまり、ピュロスの勝利だという評価なのでしょうね。

クボッピー

にしても、それをあたかも日本の砲弾は届かなかった、と小馬鹿にするように教える日本の歴史授業もちょっと考えものですね。

防衛戦争は、戦後、頑張って防衛をした兵士たちに恩賞を与える土地や金銀を敵から獲得できないので勝ったとしても得るものが少ないものです。以前、元寇について解説をしましたが、日本は勝利しましたがその後恩賞を満足に与えることができなかったため、鎌倉幕府の滅亡を早めたとも言われています。

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サイト管理人:大山俊輔

この戦争では、体裁的に生麦事件の見舞金という形で薩摩が支払いをしてますが、実際に払ったのは幕府で薩摩は最終的に踏み倒しています(笑)。

薩英戦争の結果=将来の日英戦争への布石へ・・・

薩英戦争講和講和会議

この戦いはイギリスにとっても予想外の結果をもたらしました。

イギリスは「薩英戦争」に際して薩摩藩士の勇猛果敢さ、そして、戦後の和平交渉におけるしたたかさなど、今まで見てきた幕府の幕官とは全く異なる日本人がいることを知り、かつての敵は今日の友とばかり、リスペクトを持つようになります。

そして薩長同盟の倒幕運動に対しても、畏敬の念を持つ薩摩藩を支援するという意味で、資金的・軍事的に力を貸すようになったのです。

この点からも、「薩英戦争」が攘夷停止・倒幕において大きな影響をもたらしたことが理解できますね。

そして、この時期からパクス・ブリタニカにも陰りがでてきます。

ヨーロッパ大陸では分裂していた、ドイツ、イタリアが統一されて急速に国力を伸ばしていましたし、アメリカも南北戦争に決着をつけて太平洋に進出し始めます。さらには、南アフリカで発生したボーア戦争でも遥かに人員・国力に劣るボーア人に大苦戦します。こうなると、世界の警官(といっても、自分都合ですが・・・)をイギリス一カ国でつとめることができなくなります。

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こうして、イギリスは後に光栄ある孤立政策を放棄しとある国と同盟を結びます。

それは、この戦いから39年後となる1902年、維新を経て急速に国力をつけていた我が日本(当時は大日本帝国)だったのです。
まさに、昨日の敵は今日の友。

これが日露戦争前に締結されたことが、日本勝利に大きく結びつきました。

まとめ

どうでしょうか、「薩英戦争」、あるいはそれを受けての倒幕・維新の動向がグッと理解出来てきたのではないでしょうか。

日本の歴史というのは、必ず因果関係があり一本の軸となっているものです。それを解きほぐすと、歴史が単純明快に見えてきてより楽しくなることは間違いありません。

今回の話を踏まえて、また他の周辺知識や流れなどについても学習をしてみてください。

クボッピー&大山俊輔