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北条氏康ってどんな人?地味そうに見えてやる時はやる男の生涯について

北条氏康ってどんな人?地味そうに見えてやる時はやる男の生涯について

北条氏康は戦国時代の武将。小田原を治めた名高い戦国武将のひとりですね。よく名前は聞くけど詳しく知らない・・・と言う人も多いかもしれません。

chise

外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

この記事では、北条氏康という人の生涯について解説します。幼少期、そして、家督相続後の大ピンチだった河越夜戦をどのように乗り切ったのか。また、晩年についてもまとめました。

北条氏康ってどんな武将?

北条氏康は相模国(現在の神奈川県)の戦国大名。

永世12年(1515)に北条氏綱の嫡男として生まれました。氏康の幼名は、伊勢伊豆千代丸と言います。

北条氏(鎌倉時代の執権北条氏と区別し後北条氏とも言われます)は、伊勢宗端(北条早雲)が京より関東へ下向し、伊豆半島で勢力を拡大します。宗端の息子、伊勢氏綱は宗端より家督を譲り受けると領国経営の安定化を進めました。

伊勢宗端が京より関東へ下向して勢力を拡大した為に、関東在地の武士からは馴染みがなく異端視されてしまいます。

そこで氏康が7歳の頃、父の氏綱が関東での領国経営を正当化するために、伊勢姓から北条氏へ改名。北条氏は鎌倉幕府で執権職を代々務め、関東では馴染み深い名前でした。

氏康の幼名が伊勢伊豆千代丸なのも、生まれた頃にはまだ伊勢姓だったからです。

少年時代から家督相続までの氏康と北条家

伊豆半島への侵攻と関東地方

伊勢宗端(北条早雲)が京から関東へやってくると、まずは伊豆半島を攻め取りました。

伊豆半島の東側には関東平野が広がっています。室町幕府を興した足利尊氏は、関東平野を管理するため鎌倉公方を設置。自分の息子(尊氏の4男基氏)を就けて以来、足利家(京の将軍足利家の分家)が世襲していました。

また、この鎌倉公方を補佐するため、関東管領を設置。これは上杉家が世襲していました。この鎌倉公方と関東管領が関東平野の大名や武士を管理していたのです。

ところが鎌倉公方足利家の中で内紛が起こり、堀越公方足利家と古河公方足利家に分かれてしまいます。また、関東管領上杉家の中でも内紛が起こり、山内上杉家と扇谷上杉家に分裂。

これら堀国公方と古河公方とを中心に関東では騒乱が続きます。北条氏康の祖父、伊勢宗端や父、北条氏綱はこれらの家と争いながら領土を拡大しました。

今川家との関係

また、伊豆半島の西側は駿河国(現在の静岡県)を今川家が支配。

伊勢宗端(北条早雲)が関東にやってきて以来、今川家と北条家は主従関係にありました。ところが天文5年(1536)に今川家の当主が急死すると今川家でお家騒動が発生、今川家と北条家との関係も悪化します。

そこで北条氏綱は駿河国の富士川以東に攻め込み、占領したことで今川家との主従関係は解消されました。

そのような状況の中、天文10年(1541)に父の北条氏綱が死去すると北条氏康が3代目当主として家督を継ぎました。

河越夜戦

北条氏康が家督を相続した時代は、争いの絶えない戦国時代。領土などをめぐって争いが日常で起こる世の中です。

争いが起これば、同じ兵力で戦う事はあまりありません。どちらかが多く、もう片方は少数です。ましてやこの兵力差が大きいほど少数の軍が大軍に勝つなど、まずありません。

戦国時代のような争いが絶えない頃でも、少数の軍が大軍を破ることは少ないものです。そのため、少数の軍が大軍を破る珍しい例を代表して「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)と呼びます。毛利元就の「厳島の戦い」、織田信長の「桶狭間の戦い」、そして北条氏康の「川越夜戦」です。

連合軍の結成

天文14年(1545)、駿河の今川義元は、北条家から奪われた東駿河の奪回を計画していました。そこで関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定等の関東諸大名と連携し、東西から北条氏を攻めます。

西から攻めた義元に対し、氏康は駿河に急行するものの、北条勢は今川軍に押され状況は不利に。

駿河で義元と戦っている氏康に、山内・扇谷の両上杉氏が大軍で河越城を包囲したという知らせが届きました。

河越城は、関東管領上杉氏の地盤である上野国(現在の群馬県)、越後(現在の新潟県)と鎌倉とを結ぶ要衝でした。陸路だけではなく、縦横に流れる川のため水路の拠点でもあります。

今川家との和睦

北条氏康は、東西から迫っている両方の敵を相手にする不利を悟り、甲斐の武田家に斡旋を依頼。今川義元との和睦を図ります。その結果、東駿河の河東地域を今川氏に割譲することで和睦しました。

これで西側の脅威は解消されましたが東側にはまだ残っています。川越城を包囲している両上杉氏は、関東の他の大名にも声を掛け規模の拡大を画策。

北条氏康の義兄弟(妹婿)であり、それまでは北条と協調してきた古河公方の足利晴氏までもが連合軍の側につき、河越城の包囲に加わった結果、連合軍の兵は8万にまで膨れ上がります。 8万の連合軍に包囲され、河越城は約半年に渡って耐えました。

河越夜戦へ

今川家と和睦した氏康は、川越城へ急行しますが、北条家の軍はかき集めても1万ほどでした。8万の軍を相手に1万では不利です。

連合軍は自らが大軍であるという事に驕ったこと、また半年に及ぶ包囲戦によって中だるみが発生していました。そこで氏康は両上杉や足利の陣に「これまで奪った領土はお返しする」との書状を送り、連合軍の油断を誘います。

翌天文15年(1546年)、氏康は城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかけました。北条軍は夜間の移動中、鎧の音で気づかれることのないよう鎧を脱ぎ、白い布を腕に巻くことで味方の目印とします。

自らが大軍である事、敵の大将から条件を提示されてきた事に油断した連合軍は、北条軍の夜襲で崩壊しました。

この夜、上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡。また、上杉憲政は上野国平井に遁走します。憲政の山内上杉家もこの後、急速に勢力を失い越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り落ちます。足利晴氏は下総国に逃げ、北条氏出身の母を持つ次男の義氏に家督を譲ると自らは蟄居しました。

北条氏はこの戦いにより関東の戦国大名として確固たる地位を築きます。

MEMO
河越夜戦については、「戦国時代最大の逆転劇! 河越夜戦(河越城の戦い)とはどのような戦いだったのか?」の記事で詳しく解説しています!
戦国時代最大の逆転劇! 河越夜戦(河越城の戦い)とはどのような戦いだったのか? 戦国時代最大の逆転劇! 河越夜戦(河越城の戦い)とはどのような戦いだったのか?

武田・今川との関係

北条家と今川家は、川越夜戦で一時的に講和しています。

しかしその後も、両家は睨みあいを続け、今川家を甲斐の武田家が助けたこともあり、膠着状態が続きました。

天文23年(1554年)7月、今川家の家臣、雪斎の仲介などもあり北条、武田、今川の間でそれぞれの息子、娘を結婚させることで同盟関係を結ぶに至りました(甲相駿三国同盟)。さらに氏康は、今川義元の母である寿桂尼に息子氏規を預けます。実質的な人質です。氏康の妻の母が寿桂院であるので氏規は祖母に当たります。

これにより背後の駿河が固まったことになり、主に武田家と軍事的連携を強化し、関東での戦いに専念することになりました。

上杉家との関係

永禄2年(1559)、関東で「永禄の飢饉」と呼ばれる大飢饉が発生しました。

そこで氏康は息子の氏政に家督を譲ることにします。家督を譲る際に徳政令(借金の棒引き)を発令することで飢饉に苦しむ武士や民の助けをしようとしました。この時より北条家は、氏康、氏政の2頭体制になります。

永禄3年(1560)、今川義元が織田信長に敗れ、今川家は衰退します。(桶狭間の戦い)

大山俊輔

桶狭間の戦いについては「桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説!」の記事もあわせてご参照ください。
桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説! 桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説!

長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻

ところが同年、河越夜戦で越後(現在の新潟県)に落ちのびた関東管領上杉憲政を奉じ、長尾景虎(後の上杉謙信)が関東へ侵攻してきました。

関東管領の上杉家を奉じる事で関東の大名に参陣するよう促し、景虎自身は北条家の城を落としながら小田原城に向かいます。景虎の元には関東各地から大名が集結し、小田原城を包囲する頃には10万にまで膨れ上がったそうです。

永禄4年(1561)、北条家は各地の城を固めつつ、小田原城に籠城しました。

ところがこの間に、甲斐国、信濃国(現在の山梨県長野県)を領していた武田信玄が信濃国に海津城を築城し、長尾景虎の本拠である越後国を狙います。

また、小田原城を包囲していた関東の各大名も永禄の飢饉で十分な食料がありませんでした。小田原の籠城戦は約1ヶ月続きますが食料が乏しくなり、包囲から勝手に離脱する大名も出てきたので景虎は最終的に越後に退却。

北条家・上杉家の一進一退の戦い

この時から関東平野は北条家と、上杉憲政から関東管領を譲られ長尾姓から上杉姓に改名した上杉謙信とで一進一退の戦いを繰り返しました。

また、永禄3年(1560)にできた信濃の海津城がもととなり、翌永禄4年(1561)に武田信玄と上杉謙信との間で川中島の戦い(第4次川中島の戦い)が起こりました。

人物像

このように北条氏康は、関東内外の大名と戦いや外交で駆け引きを繰り返しながら領土を拡大していきました。その為、数十回に及ぶ戦を経験し、体や顔面には数々の刀傷を負います。特に顔面に負った二つの向こう傷は「北条疵(きず)」と称されています。

氏康は、文字通り体を張りながら今川義元や上杉謙信、晩年には武田信玄とも競い合いました。

晩年や逸話

永禄9年(1566)以降、北条氏康は成長した子供たちに戦いは任せ、自身は国内の統治や息子たちの支援を行うようになります。家臣への統率も長男の北条氏政にまかせました。

北条氏康は元亀元年(1570)ごろ脳卒中などの脳血管障害を患ったと言われています。後遺症である言語障害などの症状が出て日常生活にも影響を及ぼしました。

そして翌元亀2年(1571)10月小田原城内で亡くなりました。享年57才でした。

歌人として

文武両道であった北条氏康は、三条西実隆から歌道の教えを受け、歌を作れば有名な歌人も感嘆しました。そのため後世、後水尾天皇の勅撰と言われている『集外三十六歌仙』の30番に北条氏康の一首が載っています。

そんな歌を作ることが上手かった氏康には歌に関する逸話も残っています。

夏場に氏康が高楼で涼を楽しんでいると狐が一声鳴きました。これをそばに控えていた小姓が「夏狐が鳴くのを聞けば、身に不吉が起こります」と述べたので、即座に、

「夏はきつ ねになく蝉の から衣 おのれおのれが 身の上にきよ」

と詠みました。

夏は蝉が鳴くもので狐の鳴く時期ではないという意味の歌です。

それと同時に頭の5字と7字の間で「きつ」と「ね」を分け、狐を斬っています。翌日亡くなった一匹の老狐が城の近くで見つかりました。

ところが後日、この殺された老狐は氏康の家臣に憑き、殺された恨みから災いを起こすと訴えました。歌を詠んだ翌年、氏康が亡くなります。子の北条氏政は老狐の祟りと考え、小田原城内にこの狐を供養し稲荷神社を作って祀りました。

それが移築され現在の「北条稲荷」となります。

まとめ

以上、北条氏康について説明してきました。

文武両道で戦上手、さすがですね。戦国時代には名だたる武将がたくさんいますが、負け劣らずの凄さに驚かされます。

小田原方面に行った際は、ぜひ小田原城にも立ち寄りたいですね。

chise&大山俊輔