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厳島の戦いって!? | 中国地方の命運を決定づけた戦いをわかりやすく解説!

厳島の戦いって!? 中国地方の命運を決定づけた戦いをわかりやすく解説!

皆さんは厳島神社をご存じでしょうか。赤い鳥居が海の中に浸かって見える風景をテレビや写真で見られた方もいるのではないでしょうか。

また、神の使いとされる鹿が厳島神社の周りにたくさんいて、神社には神聖な雰囲気があり、昔から聖域とされる場所です。

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外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

そんな神聖な雰囲気のある厳島神社ですが、戦国時代に大きな戦いがありました。それが厳島の戦いです。
厳島の戦いは日本三大奇襲戦の一つと言われています。

三大奇襲戦とは毛利元就の厳島の戦い、北条氏康の川越の戦い、そして織田信長の桶狭間の戦いを指します。この三大奇襲戦は、圧倒的に不利な少数の軍勢が、有利な多勢の敵を破った戦いの代表。特に桶狭間の戦いは、少数の織田軍が多数の今川義元軍を破った戦いとして有名ですね。

厳島の戦いも桶狭間の戦いと同じで、少数の軍勢で圧倒的に有利な相手を倒した戦いです。
そんな厳島の戦いは、毛利元就と陶晴賢が1555年に争った戦い。では厳島の戦いとはどういった戦いだったのでしょうか。

厳島の戦いが起こった場所は?

厳島の戦いが起こったのは、広島県の厳島(宮島)です。
厳島の北側には厳島神社があり、一般に「安芸の宮島」とも呼ばれています。日本三景の1つですね。瀬戸内海のうち広島湾に浮かんでいる厳島は古くから海上交通の要でした。
平安時代には、平清盛が日宋貿易の中継地点としていたことからも、多くの船が行きかう瀬戸内海の重要な位置にあります。

また、日宋貿易の関係から関わりの深い平清盛は仁安3年(1168年)頃、厳島神社の社殿を造成し現在と同程度の社殿を整えました。その歴史の長さ、荘厳さから平成8年(1996年)には厳島神社はユネスコの世界文化遺産に登録されています。
厳島の戦いは、この厳島の東側、海に面した所にある宮尾城という所で起こりました。

厳島の戦いの原因は?

厳島の戦いで争った毛利元就と陶晴賢とはどういった人だったのでしょうか。
まず、毛利元就は戦国時代の大名です。
元就は「三本の矢」というお話で有名です。
ある日、自分の3人の息子を呼び出すと、それぞれに矢を1本ずつ渡し折らせます。もちろん、矢は簡単に折れてしまいます。
今度は長兄に矢を3本渡すと、再び折らせようとしました。ところが、今度は簡単には折れません。その事実から、「1本の矢は簡単に折れるが3本の矢も、束にすればなかなか折れることはない。兄弟力を合わせるように」という教えを伝えたと言われています。

そんな元就は、安芸(現在の広島県西部)の小さな領主の次男として明応6年(1497年)に生まれました。成人すると毛利家を継ぎ、周防長門(現在の山口県)の大名であった大内義隆に従いながら勢力を拡大していきます。

一方の陶晴賢は大永元年(1521年)、陶氏の次男として生まれました。陶氏は代々大内氏の重臣を務めており、晴賢も成長すると陶氏を継ぎ大内氏の重臣となります。
晴賢は戦いの才能に秀でていました。
これに対し、主の大内義隆は政治や文化で国を富ませる考えを持っていました。
厳島の海にある大鳥居が現在の形になったのも、大内義隆によって再建された時からです。

陶晴賢と大内義隆の関係が良好な間は、大内氏の勢力も拡大します。
周防長門に加え、出雲(現在の島根県西部)、安芸(現在の広島県西部)、九州の筑前(現在の福岡県西部)、豊前(現在の大分県北部)と中国地方の半分と九州の一部という広大な土地に影響力を及ぼしていました。
安芸の小領主だった元就もその影響下に置かれています。

ところが一度の戦いで大内氏が負けると、大内義隆は次第に政治や勢力の拡大に興味を失っていきます。もともと文化に興味をもっていた性格から、芸事や茶の湯にのめりこんでいくようになりました。増大する支出は税金を増やす事で賄うようにしたため、大内氏の配下や領民は生活に苦しむようになります。

そんな状況の中で陶晴賢は、主であった大内義隆やその周囲を取り巻いていた家臣と意見の違いで対立するようになります。
そして天文20年(1551年)、晴賢は大内義隆に対して謀反を起こすと殺害し大内氏の実権を握ってしまいました。
ところが、軍備の拡張をめざした陶晴賢もまた、税を増やしたことで周囲から反発をうけるように・・・。

特に晴賢が目を付けたのは海上交通の要であった厳島のそばを通る船に対し、課税する通行料です。当時、厳島の海上通行料は海賊であった村上水軍の権利でした。
そんな海賊の収入源を奪ったことで海賊にまで恨まれるようになってしまいます。
大内氏の領民や侍だけではなく、村上水軍にまで恨みを買うような無理な政治を行った結果、安定な領国経営を強いられます。
そんな晴賢を見て、大内についていた小領主も反乱を起こしました。
大内氏のなかで混乱が起こると、毛利元就は安芸(広島県)にあった大内氏の領地や城を奪っていきます。奪われた晴賢も奪い返そうと兵を出しますが、追い返され膠着状態になりました。

事態が少し落ち着いた天文24年(1555年)、抜本的な事態の解決を図るため晴賢は自ら兵を引連れて元就の討伐へ出ます。

陶晴賢と毛利元就の兵力はどれくらい?

陶晴賢は毛利元就と雌雄を決するため周防と長門(現在の山口県)、豊前(現在の大分県北部)筑前(現在の福岡県西部)から集めた将兵20000人の大軍を率いて毛利元就の討伐におもむいたと言われます。船も500~600艘はあったそうです。

これだけ兵力を集めた晴賢に対し、元就は5000人程度の将兵を集めるのが精一杯。船も120艘ほどだったといいます。
人も船も、晴賢は4倍から5倍の戦力です。まさに少数の毛利元就に対して、圧倒的に多数の陶晴賢の対決となります。

厳島の戦いを解説

20000人を集めた陶晴賢と5000人の毛利元就とが正面から戦っても元就には勝ち目がありません。
そこで元就は考えました。
「狭い場所に晴賢の軍をおびき出し、背後を襲えば少数の元就軍でも勝てるかもしれない」そう考えて目を付けたのが厳島。
厳島のような島に大多数の晴賢軍が上陸しても、狭い島では身動きがとれず大軍の利点が生かせません。晴賢より後から上陸しうまくいけば、少数の元就軍でも背後を襲い勝つことができるかもしれません。

そこで、元就は厳島に船で兵を送ります。
厳島の東側、海に面した宮尾城を攻め落とすと改修や補強を行って戦いに備えます。もともと5000人しかいない兵ですから、宮尾城に入れられる兵も500人程度しかありませんでした。おびき出す厳島の宮尾城に500人でしか守れないことも問題ですが、それ以上に厳島に晴賢をおびきださないと計画は成立しません。

ここから、元就は晴賢をおびきだそうと計略をめぐらします。
まず元就は、「厳島の宮尾城を手に入れ兵を入れたが、ここを攻められたら勝ち目がない」という噂を晴賢側に流しました。
いかにもそれが自分の弱点だと言わんばかりに噂をながします。
また、自分の家臣をわざと裏切らせて厳島に誘導させようとします。「晴賢が厳島に上陸した時点で、元就を裏切り攻撃する」そう手紙を書き送ることで、いかにも晴賢が厳島に行くことは利益になると晴賢自身に思い込ませました。

それを聞いた晴賢は、まんまと引っ掛かり宮尾城を攻めるために厳島に向かいます。
500艘の船で20000人の兵と共に晴賢は上陸。宮尾城を攻め始めました。宮尾城は海に突き出た所にあり堅城でしたから20000人で攻めてもなかなか落ちません。
しかし籠城する毛利軍は500人。頑強に抵抗しますがすぐに窮地に陥ります。

晴賢の軍が宮尾城を攻めたと聞いた元就は夜の闇にまぎれて厳島を目指します。
しかし、元就軍は船の数も不足していました。そこで瀬戸内海を荒らしまわっていた村上水軍に1日だけ味方になってほしいと頼みます。
村上水軍も、本来は自分たちの収入源であった厳島を通る船の通行料を晴賢に奪われていたので恨みがあります。1日だけ元就の味方になる、という条件を受け入れました。

村上水軍に守られた元就の軍は深夜、海を渡ります。その夜は暴風雨で一寸先も闇が広がっています。その中を先頭の舩にだけ松明をつけ海を渡り、無事に厳島へと上陸するとこっそり晴賢の軍の背後に布陣。
ところが晴賢軍は気づきません。晴賢も、「まさか元就が暴風雨の中の海を渡ってくるとはないだろう」と予想すらしていませんでした。

明け方、元就の軍は晴賢の軍を背後から襲い始めます。いきなり背後を突かれ驚いた晴賢。応戦するよう命令します。しかし、狭い島のなかでは元就の思惑通り思うように身動きが取れません。
元就の応援を知った宮尾城からも、兵が打って出ます。晴賢の軍は挟み撃ちにあい総崩れとなりました。晴賢の兵は厳島から脱出しようと浜に向かいます。
そこで味方同士が我先に逃げ出そうと舟を奪い合う間に元就兵に討ち取られたり、溺死したりする者が続出。
陶晴賢も厳島から脱出を図りますが、海上では村上水軍が・・・。
厳島には元就兵が、海の上には村上水軍が晴賢を血眼で探しています。観念した陶晴賢は、厳島で自刃。享年35歳だったそうです。

戦後の影響は?

厳島の戦いで勝った毛利元就は、まず血で汚された厳島神社をきれいに掃除します。そして厳島を崇拝し、3人の息子にあてた教えの中でも厳島明神への信仰を大切にするよう伝えました。

この厳島の戦いを契機に、大内氏と陶氏はさらに弱体化していきます。そして、元就は周防長門(山口県)を手に入れると、そこから中国地方を中心に勢力を拡大していき、毛利元就は一代にして中国地方の大名となりました。
安芸(現在の広島県西部)の一小領主だった毛利元就は、厳島の戦いを経て戦国でも有数の大大名となります。元就の亡くなったあとは孫の輝元が毛利氏を継ぎました。
そして同じころに急成長してきた織田信長と日本の覇権を争うようになっていくのです。

まとめ

以上、毛利元就の転機となった厳島の戦いについて説明してきました。
この戦いがなければ、毛利氏は小領主で終わったかもしれません。そう考えると、一世一代の戦いに打って出たことがよくわかりますね。
この後の毛利家は、豊臣政権の後関ケ原の戦いで西軍に与したことから改易され、領地を大幅に減らす結果となりますが明治まで続くことになります。
戦いの結果は紙一重。もし、陶晴賢がうまく厳島から脱出していたら・・・なんて考えてみるのも面白そうです。

Chise&大山俊輔