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カンナエの戦いを徹底解説 ー【図解つき】戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲

歴史のことを調べてる人

  • カンナエの戦いについて解説を読みたい
  • なぜ、芸術的包囲と言われるの?
  • カンナエの戦いにおける布陣を知りたい
  • ハンニバルはなぜカンナエの勝利後、ローマに攻め入らなかったのか?

人類の歴史というのは面白いもので、時に信じられないようなことをしてしまう人がいるものです。ジンギス・カン、三国志の曹操、ナポレオン、織田信長、そしてケマル・アタチュルクなど数多くの英雄がまさかの勝利を掴むことで、人生の転換点をモノにしてきました。

こうしたアンビリーバボーな戦いの中でも特筆すべき戦いが、不可能を可能とする男、ハンニバル・バルカ(BC247~BC184)の行ったカンナエの戦いです。

大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、6歳の頃には世界史オタクに。今も、知り合いと雑談すればハンニバルの名前が出ないことがないほどのポエニ戦争、ハンニバル好き。毎年8月2日はカンナエの戦勝記念日を一人祝ってます(笑)。

カンナエの戦いは、第二次ポエニ戦争の中の戦いの1つとして行われた戦いで、現在に至るまで、その芸術的包囲殲滅にあこがれて各国の軍人たちが

「いつかは俺も」

と恋い焦がれてはパクってそして多くは失敗してきました。

このエントリでは、第二次ポエニ戦争、俗にハンニバル戦争といわれる戦役の中でも彼の才能が遺憾なく発揮されたカンナエの戦いについて解説します。なるべく、文献は複数のものを参照して、布陣の図なども含めて日本語のサイトとして一番詳細にこのカンナエの戦いの解説ついてまとめることを心がけました。なお、ハンニバルの人物像について、より詳しく知りたい方は「ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯」のエントリをご参照くださいね。

ハンニバルのアルプス超え ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯

ポエニ戦争とは?

ハンニバルのアルプス越えハンニバル軍のアルプス越え

カンナエの戦いは俗に第二次ポエニ戦争(BC219ーBC201)と呼ばれるカルタゴ・ローマ間の戦争中で行われた会戦の1つです。

MEMO
ポエニ戦争についてより詳しく知りたい方は「ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!」の記事もご参照ください。
ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!

第一次ポエニ戦争

第一次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第一次ポエニ戦争時のローマおよびカルタゴの領土
(出典:https://en.wikipedia.org/)

ここで、両国が戦争になった経緯を少しだけ見てみましょう。

カルタゴは北アフリカの現在のチュニジア周辺にあったフェニキア人の商業国で政治形態としては貴族による寡頭制を採用した国家でした。

フェニキア人は、現在のレバノンあたりにいたセム系の民族で海上貿易に秀でた民族でした。カルタゴは、そのフェニキア人が北アフリカにつくった植民都市の一つです。当時、ギリシャ人、フェニキア人の植民都市はヨーロッパ、北アフリカの地中海沿岸部に数多くありました。第二次ポエニ戦争の舞台ともなった、アルキメデスの登場したシチリア島のシラクサ市もギリシャ人の植民都市の1つです。

一方、ローマは当時は共和制の都市国家で、エトルリア人の王を追放して誕生した共和制国家です。イタリア半島で徐々に地盤を固めて同盟都市を増やして、地中海に進出する機会を伺っていました。中でも、カルタゴが支配していたシチリアの権益を巡って行われた戦いが第一次ポエニ戦争です。この戦争では、ハンニバルの父であるハミルカル・バルカがローマ相手に善戦するものの、最終的にはローマが勝利します。

こうして、シチリアはローマの領地となりました。

更に戦後、カルタゴ内での傭兵の反乱による混乱のどさくさにまぎれて、ローマはサルディーニャ・コルシカの両島をも支配下に置くことに成功します。

第ニ次ポエニ戦争

第二次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第二次ポエニ戦争時のローマおよびカルタゴの領土
(出典:https://en.wikipedia.org/)

第一次ポエニ戦争でシチリア、そして、その後、サルディーニャ、コルシカなど地中海諸島と制海権を失ったカルタゴは、ハンニバルの父であり、第一次ポエニ戦争の英雄でもあるハミルカル・バルカを中心としてヒスパニア(スペイン)に進出し、植民地とします。当時のヒスパニアは銀などの鉱物資源が豊富にあり、ここでカルタゴは国力を回復させることに成功します。

先程の地図と比べて、今のスペインにおけるカルタゴの領土が大きくなっているのがわかりますね。

戦争開始とハンニバルのヒスパニア進発

ハンニバル・バルカハンニバル・バルカ(BC247-BC183)

こうして、国力を回復したカルタゴとローマが再び戦うことになりました。
これが、第二次ポエニ戦争です。

この時、カルタゴ軍を率いたのは若干29歳、雷光とも呼ばれた孤高の名将ハンニバル・バルカ

ハミルカルの息子で、この時、戦死した父の跡を継ぎ、ヒスパニアのカルタゴ軍の総責任者となっていました。ちなみに、ヒスパニアは形式的になカルタゴ領ですが、バルカ家が開拓した植民地であり、事実上のバルカ領ともいえる状態でした。サッカーでも有名なバルセロナの街が誇るFBバルセロナのニックネームのバルサ=Barçaは「バルカ」を意味します。

まず、ハンニバルはヒスパニア内にあったローマの同盟都市サグントゥム(現サグント)を攻撃します。

ハンニバルからすれば、「うちの領内にある都市だろ」ということですが、ローマからすれば大事な同盟都市です。同盟都市との連携こそが国家の礎であったローマはその窮地を見放すわけにはいきません。

ローマはこれを前回の第一次ポエニ戦争の和約違反として宣戦布告します。

ハンニバル軍のアルプス越え

第二次ポエニ戦争のルート

しかし、これこそがハンニバルの狙いでした。
これで、ローマの目線はヒスパニアに向きます。

一方で、カルタゴがローマに攻め込むことなど、当時ローマ人の誰もが不可能と考えていました。

なぜなら、ヒスパニアからローマにたどり着く方法は2つしかありません。1つは陸路地中海沿岸部からイタリア半島に侵入するルート(①沿岸部ルート)、もう1つは船に乗って直接乗り込むパターン(②海上ルート)です。しかし、当時、地中海の制海権はローマ側にあり海上ルートは不可能。そして、陸路沿岸部から攻め込もうにも、沿岸部の諸都市はローマの同盟都市であり、カルタゴ軍は手を出すことができません。

つまり、ローマ領内に攻め込むことは完全に想定外だったのです。

しかし、ハンニバルには歴史上、誰も考え得ないもう1つのルートがありました。
それは、ガリア地域中央部を突き抜けて冬のアルプス山脈を越えてローマの後背地となる北イタリアから侵攻するルートです。

弟ハスドルバルにヒスパニアを任せて、ハンニバルは5万以上の歩兵、9000の騎兵、そして37頭の戦象を引き連れて本拠地であるカルタゴノヴァ(現カルタヘナ)を進発。ピレネー山脈を越えてガリア(現在のフランス)へ侵入します。

そして、アルプス山脈の入り口に差し掛かります。

時はBC218年9月。アルプスは既に冬に差し掛かっていました。

数万名以上の軍人、そして、37頭の戦象を伴い2000m級の山々を踏破するなど狂気の沙汰。しかし、父ハミルカルとの約束でもある、ローマへの復讐に燃えるハンニバルは、約半分の兵を失いながらも約2週間後にはアルプスを踏破し、ローマの後背地となる北イタリアに侵入します。

敵本土での初戦の圧勝

さて、北イタリアに突如現れたハンニバル軍に対して、ローマではこの動きを察するものは少数でした。

敵地のヒスパニアでの戦争を想定して侵攻準備をしていたローマ軍は、このハンニバル軍の後背地への登場にパニックに陥ります。準備していたヒスパニア侵攻軍をハンニバル軍との戦いにあてることにしました。こうして、執政官の一人、プブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父)率いるローマ軍とハンニバル軍が戦います。

これが、ティキヌスの戦い(BC218年11月)です。

敵地でローマ軍を一蹴したハンニバルを見て、ローマに圧迫されていた北イタリアの原住民であるガリア人が徐々にハンニバル軍に合流し始めます。

ローマは更に大軍を繰り出してハンニバル軍の撃破をもくろみますが、ハンニバル軍は続くトレビアの戦い(BC218年12月)トラシメヌス湖畔の戦い(BC217年6月)でも圧勝します。

こうして、ハンニバル軍は本拠地ローマに迫ります。

カンナエの戦いへ・・・

第二次ポエニ戦争におけるハンニバル軍の進路第二次ポエニ戦争におけるハンニバル軍の進路
(出典:http://dcc.dickinson.edu/nepos-hannibal-essays/4)

ガリア人のハンニバル軍加入

ハンニバルに合流するガリア人ガリア人(当時北イタリアには多くのガリア人がいました)

この三度の戦いで完敗したローマを見て、当初、日和見を決めていた北イタリアのガリア人(ケルト人)が続々とハンニバル軍に合流します。こうして、ハンニバル軍はアルプス越えで失われた兵力を回復することに成功します。

ガリア人は、ローマ人とは異なるケルト系の民族でローマ人、カルタゴ人のような地中海人種よりも体躯に優れ優秀な兵士でした。しかし、彼らを統一する勢力があらわれず組織力に勝るローマに敗北を重ねていました。彼らはハンニバルの将器と戦術を先の戦いでまざまざと見せつけられて、

「ひょっとすると、彼なら父祖からの宿敵、憎きローマをやっつけてくれるかもしれない」

と考えたのです。

アルプス越えで26,000名まで損耗していたハンニバル軍は現地でガリア人を糾合することで5万名を超す大軍となります。

第二次ポエニ戦争は、歴史ではローマ対カルタゴとして描かれますが、そこに参戦した兵士の視点でみれば、「カルタゴ・ガリア連合軍」対「ローマ同盟都市連合軍」という見方もできます。

ハンニバル、ローマそれぞれの思惑

ハンニバルが最も恐れるのはこのローマを盟主とした同盟都市のネットワークです。
その動員力は、同盟都市と合わせて90万人程度。これは、共和制で国民皆兵に近い制度であったローマだからこそ為せる技です。

一方、カルタゴは市民兵の概念はなく基本的に北アフリカ、スペイン、地中海諸島出身の傭兵からなる混成軍でした。

この動員力の差を打ち破るには、ヒスパニア、カルタゴに攻めてくるローマ軍から守りに徹したのでは、何度か撃退したとしてもいずれ、国力差からジリ貧となります。だからこそ、危険を冒してでも、敵地で大きな勝利を収めてこのローマの強さの根源でもあった同盟都市ネットワークを断ち切る必要がありました。

こうして、ハンニバル軍は更に南下し同盟都市の離反を促します。

一方、ローマは初戦でのヒスパニア侵攻の目論見がもろくもハンニバル軍のイタリア半島への登場で打ち砕かれ守勢に立ちます。とはいえ、自領内で圧倒的に動員兵力に勝る中、当初は楽観論が勝っていました。しかし、トレビア、トラシメヌス湖畔での敗戦で40,000名近い損害を出しローマに向かって南下を続けるハンニバル軍に対していよいよ、元老院も危機感を高めます。

のろま「ファビウス」の持久戦の採用と失敗

ファビウスクンクタトル(のろま)ことファビウス・マクシムス

ローマの元老院は、これ以上ハンニバルを図に乗らせてしまえば、ローマが同盟都市の盟主としての座を失い孤立化してしまうことを恐れます。

こうして、元老院はファビウス・マクシムスを独裁官に任命しました。彼が採用したのが有名な持久戦です。軍事の天才ハンニバルとの直接対決を避けて優位な自国領土内でハンニバル軍の兵の消耗と補給を絶つことを狙う戦略は、ハンニバル軍の弱点をついた的確な戦略であり、ハンニバルは強敵の出現に苦戦します。

一方で、市民にも負担を強いるこの持久戦略はローマ内で大変不評でした。

ハンニバルは、このファビウスの戦略に苦戦しつつ、ファビウスの不人気を利用して彼を政治的に追い込むことをもくろみます。ハンニバル軍は、イタリア各地で略奪を行いローマに揺さぶりをかけます。時には、あえて、ファビウスの所領だけは略奪しないことで、ファビウスの政敵に

「彼はハンニバルのスパイだ!」

と圧力をかけさせたりもしました。

それでも動かぬファビウス。このままローマが持久戦を続けたらハンニバルは打つ手がなかったかもしれません。しかし、両軍の心理戦の最中、ついにファビウスの独裁官の任期が切れました。そして、ハンニバルの挑発に耐えかねていたローマは一気に主戦論に傾きます。

MEMO
なお、ファビウスは市民たちに「クンクタトル」(のろま、ぐず、という意味)という不名誉なあだ名までつけられてしまいますが、この言葉はカンナエの敗戦の後、ファビウスの戦略の正しさが証明されたことから「細心、容易周到、忍耐強い」といった敬称へと変わり、19世紀後半のファビアン協会(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの母体で漸次的社会改革を目指した)へとつながります。

元老院はルキウス・アエミリウス・パウルスガイウス・テレンティウス・ウァロの2人を執政官に選出します。そして、元老院は図に乗るハンニバル軍にとどめを刺すべく、この2人に8万名余の大軍団を与えます。

この数は、当時、西方世界で動員した兵力としては最大級でした。

この2人の執政官のうち、パウルスは今までの戦いに参戦していたこともあり、ハンニバルの軍事的天才を理解していました。また、ファビウスを個人的に敬愛していたこともあり、彼同様に大軍を用いて圧力をかけつつもハンニバルとの直接対決を避けることを主張します。一方、野心あふれるウァロは会戦で一気に決着をつけてローマの英雄となることを望みました。こうして、BC216年8月2日、南イタリアのアプリア地方のカンナエで、ローマ軍8万、ハンニバル率いるカルタゴ軍5万が対峙することになります。

カンナエの戦いのはじまりです。

カンナエの戦い – 図解で解説(布陣)


カンナエの戦いのあったカンネ・デッラ・バッターリアの現在。
大軍が集結するにふさわしい大平原です。
 

BC216年8月、イタリア南部、アプリア地方のカンナエ近郊で両軍は対峙します。

カンナエの戦いー序盤戦

両軍が対峙している間も、ハンニバルはしきりに小部隊を繰り出してローマ軍の陣地に攻撃をしかけます。しかし、これらの攻撃はことごとく失敗に終わりました。

一説では、この小競り合いにはハンニバルの意図があったようです。

  • 意図的にローマに局地戦での小さな勝利を味あわせることで、今まで、度重なる勝利を得ていたハンニバル軍に対する警戒心を解かせる
  • 当時、ローマの執政官は2人交代制で指揮をするため、様子を見ながらハンニバルにとって都合の良い好戦的なウァロが指揮を取るタイミングを見計らっていた

こうして、ハンニバルによって彼の望むような状態で、かつ、好戦的で野心家のウァロが指揮を取る8月2日がやって来ることになりました。

カンナエの戦いの開戦です。

カンナエの戦いの両軍の布陣

動員兵力

それでは、両軍の布陣を見てみることにしましょう。

ローマ軍
  1. 重装歩兵:55,000人
  2. 軽装歩兵:9,000人
  3. 騎兵:6,000人
カルタゴ軍
  1. 重装歩兵:32,000人
  2. 軽装歩兵:8,000人
  3. 騎兵:10,000人

ローマは多い兵力と得意の重装歩兵による中央からの正面突破を狙います。ある意味、飾りのない王道的な戦術です。一方で、カルタゴは歩兵に劣る戦力を側面の騎兵の優位性でどう覆すかがポイントとなります。

なお、ローマは野営地に10,000名の予備兵を残しており、万が一会戦に負けたとしても、ここから援軍が駆けつける余地を残すなど圧倒的に優位にありました。

カンナエの戦いにおける両軍の布陣を図解

カンナエの戦いにおける両軍の布陣カンナエの戦いにおける両軍の布陣
(出典:https://warfarehistorynetwork.com/2020/02/25/slaughter-at-the-battle-of-cannae/)

それでは、両軍の布陣を見てみることにしましょう。ここから先は戦闘の経緯を図を交えながら解説していきます。

ローマ軍の布陣図

ローマ軍の布陣

ローマは実に70,000名の兵力を展開することになります。

その作戦の本質は中央にあるローマと同盟都市の重装歩兵による正面からの中央突破。まず、突破力のある重装歩兵を布陣のど真ん中に置き、その前面に機動力のある軽装歩兵が展開します。また、両翼は騎兵で固めることになります。

中央の重装歩兵の指揮は、前の執政官でもあったセルウィリウスが行い、現在の執政官であるパウルスは右翼騎兵ウァロは左翼騎兵を担当します。

カルタゴ軍の布陣図

カルタゴ軍の布陣

一方、カルタゴ軍率いるハンニバルはここで歴史上、いまだかつてなかった奇妙な布陣を行うことになりました。

兵力は歩兵が40,000名(実際に参加した兵力は30,000名とも言われます)、騎兵10,000名。その布陣中央へは、ローマ軍の猛攻が予想されることから、主にガリア・ヒスパニア出身者を主とした重装歩兵と前面に軽装歩兵が展開し、そして、両翼を騎兵が固めます。左翼はヒスパニア・ガリア騎兵右翼は当時地中海世界最強と言われたヌミディア騎兵が布陣します。

更に中央の歩兵の側面につく形で古参のカルタゴ重装歩兵が脇を固めます。

中央を歩兵が固めて、側面を騎兵が押さえる布陣はローマとほぼ同じですが、ここでハンニバルはユニークな布陣を中央の歩兵部隊に行わせます。

これが有名なハンニバルの弓形布陣です。

上記の図のように、中央の歩兵を逆U字型(弓形)に布陣し、更に攻撃が集中する中央は兵力を厚くしてローマの猛攻を耐えきるような布陣をしました。左翼のヒスパニア・ガリア騎兵はハスドルバル(弟ではない)、そして、右翼のヌミディア騎兵は甥のハンノ・ボミルカルが指揮し、また、ハンニバル自身は左翼側のカルタゴ重装歩兵を、弟のマゴは右翼側のカルタゴ重装歩兵を指揮しました。

この弓型布陣に仕組まれた罠によりローマ軍にまさかの大敗北をもたらすことになります。

カンナエの戦いー騎兵による序盤戦

カンナエの戦いー騎兵による序盤戦

序盤戦では、両軍の軽装歩兵と騎兵による戦いが開始されます。

カルタゴ軍左翼のイベリア・ガリア騎兵はあっという間にローマ騎兵右翼を撃破します。オファント川と両軍中央に挟まれた隘路で、両軍は激突しました。こうした隘路での戦いは一般的には、騎馬戦の得意とする戦場ではありません。

しかし、戦術の天才であったハンニバルはこれも計算済み。

イベリア・ガリア騎兵はこの隘路で下馬し歩兵に転じて、ローマ騎兵右翼を撃破することに成功しました。狭い場所では騎馬はその機動力を活かせません。ハンニバルは、むしろ、騎馬戦と見せかけて、下馬させて兵力に勝る歩兵戦に持ち込んでローマ騎兵右翼を撃破させたのです。最終的に、ローマ騎兵右翼を担っていた執政官であり総大将の一人でもあったパウルスはここで負傷し、その後、戦死しました。

一方で、総大将のウァロ率いるローマ(同盟)騎兵左翼はヌミディア騎兵右翼と善戦し一進一退の戦いを繰り広げられます。しかし、この膠着した戦線に先程、ローマ騎兵右翼を撃破したイベリア・ガリア騎兵が背後・側面から襲いかかります。

こうして、前からはヌミディア騎兵(カルタゴ右翼)と背後・側面からはイベリア・ガリア騎兵に挟撃されたローマ騎兵左翼も壊滅します。

総司令官のウァロは敗走し、戦場から逃亡します。

カンナエの戦いー歩兵戦を中心とした中盤戦

カンナエの戦いー歩兵戦を中心とした中盤戦

一方、中央の歩兵戦ではローマ軍がその高い組織力でカルタゴ軍中央を圧倒します。

戦闘開始直後から、ローマの重装歩兵はカルタゴ歩兵(ガリア・イベリア歩兵)の前列に向かって前進します。圧倒的戦力による圧力から、その攻撃を受けていたガリア・イベリア歩兵は少しずつ押されますがここでハンニバルの逆U字型の布陣が功を奏します。

カルタゴ軍は前列を押されて後退しますが、逆U字の中央に手厚く兵力を配置しているため中央突破をすることができません。こうして、はじめに逆U字型だったカルタゴ軍中央は徐々にローマ軍の猛攻を受けながら後退しはじめます。

一方で、逆U字から徐々にU字型に陣形が押されて後退していく中央の戦況を見ていたハンニバルは、無傷の両翼に待機していたカルタゴ重装歩兵を前進させます。

カンナエの戦いー包囲へ

カンナエの戦いー包囲体制へ

U字型となり、ローマ軍を徐々に包囲しつつあったカルタゴ軍ですが、更に中央は後退していきます。あと一歩で、ローマ軍は中央突破に成功できるというところで、ローマ軍の視線は完全に正面のカルタゴ軍に集中します。しかしながら、その中央はハンニバルが分厚く兵力を配置していたため突破することができません。

このような中、前進してきたカルタゴ重装歩兵が側面からローマ軍の脇腹をつきます。

このカルタゴ重装歩兵はハンニバルと共にヒスパニアからやってきた古参兵。2000m級のアルプスの山間を越え、幾多の戦いでハンニバル共に勝利を収めてきた兵たちです。この無傷の部隊が、疲れ切ったローマ軍を側面から突きました。

秩序ある軍隊の弱点は側面と背面です。

こうして、カルタゴ軍正面がローマ軍正面からの攻撃を受け止めている間に、正面と側面からの包囲体制ができつつありました。

カンナエの戦いー完全包囲の完成とカルタゴ軍の完全勝利

カンナエの戦いー完全包囲とカルタゴ軍の圧勝

正面、側面からの包囲が完成しました。

重装歩兵の強さは槍と剣を用いたその秩序だった正面への動きですが、側面と背後は無防備です。ハンニバル、マゴ率いるカルタゴ重装歩兵が側面からローマ軍を攻撃したことでローマ軍はパニックに陥りました。ローマ軍は押し合いへし合いの状況になっていきます。

しかし、状況はここから更にローマにとって悪いものとなりました。

ローマ軍右翼騎兵、ローマ軍左翼騎兵を撃破したイベリア・ガリア騎兵とヌミディア騎兵が背後から襲いかかります。

こうして、少数の兵(カルタゴ軍)が自軍以上の兵力のローマ軍を前面、側面、背後から完全包囲するという歴史上前代未聞の包囲が完成することになりました。

ライブ会場など行った方は分かると思いますが押し合いへし合いになってしまうと、動きというのは取ることができなくなります。ましてや、盾と槍、剣をもっている軍隊では中央に行けば行くほど兵士たちは、一体何が起きているのかわからない状況だったことでしょう。

こうして、正面、側面、背後からすりつぶすようにローマ軍はカルタゴ軍によってひとり、そして、またひとりと人力で殺戮されていきました。

鉄砲も大砲もない時代に5時間ほどかけて粛々と剣と槍で殺されていきます。

ローマ軍の死傷者は6万名以上。また、予備で待機させていた1万名の兵は戦うことなくカルタゴ軍に降伏します。

通常、軍隊というのは3割程度の損耗で組織的な戦闘が継続できなくなり壊滅、潰走してしまいます。つまり、歴史上の数多くの大勝利もその多くは兵の死傷者数でみれば、半分以上がいなくなるようなことはありえません。

ハンニバルは完全包囲を達成することで、敵軍が逃げられない状況を作り上げて全軍を壊滅させることに成功したのです。

ローマの損害は兵だけではありません。

総司令官の一人パウルス、前執政官(プロコンスル)のセルウィリウスはじめ参戦していた80名の元老院議員が戦死しました。当時のローマの元老院議員の定数が300名でしたので、日本で言えば国会議員の4名に1人がたった5時間の戦いでこの地上から消え去ったということです。

一方のカルタゴ軍の死傷者数は6000名弱。

その大半は、中央でローマ軍の猛攻を耐えしのいだガリア・イベリア兵で、カルタゴ本国から連れてきた重装歩兵や虎の子のヌミディア騎兵はほぼ無傷でした。

こうして、5時間に及ぶカンナエの戦いは後世に語り継がれる戦いとして幕を閉じたのです。

カンナエの戦後

漫画アド・アストラにおけるカンナエの戦い漫画『アド・アストラ』より

カンナエの圧倒的勝利を背景に、ハンニバルはローマの同盟都市ネットワークの切り離しにかかります。

この戦争におけるハンニバルの狙いはローマを同盟都市の盟主から引きずり下ろして、同盟都市ネットワークから生み出される無尽蔵の人的資源へのアクセスを奪い取ることです。

そもそも、ハンニバル軍はアルプスを越えて敵地での調達に頼らざるを得ない軍勢であり、攻城兵器、工作兵などを持っていないため都市を攻略することは苦手な軍隊でした。こうして、ハンニバルは目と鼻の先の距離にあるローマに軍勢をすすめることはなく、ローマの同盟都市へ使者を送り離間工作を行います。

ここに、いらだちを隠せなかったのがハンニバルの重臣のひとりマハルバルです。
確かに攻城兵器はないものの、この大勝利の圧力を持ってローマに進軍すれば裏切りなどもあってローマを攻略できた可能性はゼロではなかったことでしょう。

しかし、ハンニバルはそのリスクを取りませんでした。
万が一、ローマがその誘いに乗らずにローマに釘付けになれば背後から援軍がやってきて今度はカルタゴ軍が前後から包囲されてしまいます。

こうして、ハンニバルによるローマ進軍は幻に終わりました。
そして、マハルバルはハンニバルに対して下記の有名な言葉を残します。

“Vincere scis, Hannibal; victoria uti nescis” 
「神は一人の人間にすべての才を与えなかった。ハンニバルよ、あなたは敵に勝利する方法を知っているが、その勝利を用いる方法を知らない。」

もし、ハンニバルがここでマハルバルの助言を受け入れて勝負をかけていたら歴史は違ったかもしれません。時に、歴史には猪突猛進な冒険が必要な局面というものがあります。ハンニバルは天才過ぎたため、戦場におけるカンナエのようなリスクは取れたのですが、ローマ攻略のリスクは取れませんでした。

似た話が三国志でもあります。

漢中を攻略した後、余勢を駆って入蜀間もない劉備を攻略することを進言した若き軍師、司馬懿仲達に対して、曹操は、

「隴を得て蜀を望む(望蜀)」

と、その進言を退けました。
正直、劉備も孔明もガクブルだったと思うので、あそこで蜀に攻め込んでいたら魏による天下統一は曹操の代で成し遂げられていたかもしれません。

閑話休題。

この大敗北に当初ローマは大混乱に陥りますが、その後、立て直しを図ります。徴兵年齢を落として、罪人までも動員することで兵力を確保するとともに、同盟都市にもそれを求めました。また、ファビウスの持久戦の正しさが証明されたことで、ローマ人に鉄の団結力が戻ることになりました。

結局、ハンニバルの離間策に応じたのは南部の大都市カプア、シチリアのシラクサはじめわずか。

大勝利を期待した成果に結びつけることができなかったハンニバルは、敵地での補給に引き続き苦しむことになります。結果、ハンニバルはローマ攻略は諦めて、攻撃の矛先をカルタゴ本国と連絡をつけやすいマグナ・グラエキア(イタリア南部)にして、長期戦へと転じます。

実に、ハンニバルはBC219年の北イタリアへの侵入からBC202年まで実に17年に至る長期間、敵地イタリアでの戦いを継続します。

この長期戦を行ったハンニバル軍もすごいですが、それに耐え抜いたローマの精神力、忍耐力はもっとすごいですね。そして、この忍耐が実を結んで最終的に第二次ポエニ戦争もローマの勝利に終わるのです。

ハンニバルが戦略家ではなく戦術家と評されるのは、戦場では神がかりといえる用兵術を駆使するものの、最終的な戦争には勝利できなかったことに由来します。

カンナエの奇跡をいつかはパクりたい – 各国軍人の教材へ

奉天会戦とカンナエの戦い

このカンナエの大勝利は、包囲殲滅戦のお手本として世界各国の軍人によって参考にされ、そして、パクられてきました。

奉天会戦

奉天会戦と大山巌奉天会戦と大山巌

我が日本が国運をかけた日露戦争の奉天会戦でも、240,000人と少数の大山巌率いる大日本帝国陸軍がクロパトキン率いる360,000人のロシア軍を包囲することに成功しています。残念ながら、日本軍も戦力の限界に到達しており、ロシア軍を殲滅するには至りませんでしたが、日本軍の勝利に大きな影響を与えました。

スターリングラード攻防戦

第二次大戦のハイライトの一つでもあるスターリングラード攻防戦においても、ソ連軍戦車隊がドイツ軍を包囲殲滅することに成功しています。

湾岸戦争

ノーマン・シュワルツコフノーマン・シュワルツコフ

他にも数多くの軍人が自己の作戦にカンナエを参照したことを言っています。有名どころでは、第一次大戦のドイツ軍によって採用されたシュリーフェン・プラン。また、湾岸戦争における砂漠の嵐作戦を実行した、ノーマン・シュワルツコフもその作戦において、カンナエの戦いを参考にしたことを述懐しています。

ノーマン・シュワルツコフもこのインタビューで、ハンニバルは自分のヒーローでありカンナエを参考にしたと回答しています。

大体は失敗に・・・

しかし、このカンナエの包囲を成功させるには、将の人間力、そして、異なる兵質を運用する統率力と戦場での判断力とが求められます。全てがギリギリの判断を求められるリスクの高い包囲作戦の大半は失敗に終わっています。その有名な例で言えば、ハドリアノポリスの戦いのように包囲に失敗、逆に、中央突破から逆包囲をされて壊滅的敗北をするケースも多くありました。

まぁ、天才以外やっちゃだめってことですね(笑)。

カンナエの戦いをえがいた作品(映画・漫画・YouTube・書籍)

カンナエの戦いは数多くの作品で描写されています。ここでは、映画、漫画、YouTubeチャンネル、そして、書籍などで私がオススメ、と思ったものをご紹介します。

アド・アストラ

以前、別のエントリでも紹介していますがハンニバルとスキピオという2人の天才軍人を師弟関係としてえがいたカガノミハチさんの漫画です。

ハンニバルはロン毛、スキピオは金髪とあえて私たちがイメージするカルタゴ人、ローマ人と違う姿で描かれた漫画ですが、内容そのものはしっかりと調査を行い第二次ポエニ戦争を描いた漫画としては最も詳細までまとめられています。ちなみに私が黒髪のウェーブのかかったロン毛に髪型を変えたのは、この漫画のハンニバルがモデルです(笑)。

アド・アストラ - スキピオとハンニバル 『アド・アストラ ―スキピオとハンニバル』(漫画)は歴史好き・第二次ポエニ戦争を知るのにオススメの漫画

ドキュメンタリー映画

ポエニ戦争はいくつかのドキュメンタリーがあります。

数多くあるドキュメンタリーの中でも私がおすすめするのはBBCが作成している“Hannibal – Rome’s Worst Nightmare”です。このドキュメンタリーでは両国の軍人、政治家たちの人間模様も含めてかなりリアルにまとめられていてオススメです。

私もこのドラマ内でハンニバル軍の進軍を前にしたローマの元老院での討論は英語で暗記しています(笑)。

YouTubeチャンネル

YouTubeには数多くのカンナエの戦いの解説がアップされています。英語が分かる方は是非、”battle of cannae”で検索してみてください。かなりの動画が出てくることでしょう。

もし、英語に自信がない・・・。日本語で聞きたい。

そんな日本語の解説カンナエの戦いを最もリアルに解説しているものとしては、非株式会社いつかやるの副社長の解説が私は一番好きです。両軍の布陣から、心理戦にいたる解説まで副社長と聞き手のぴろすけのトークは最後まで惹きつけられることでしょう。

他にも、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いなどの解説もされていてオススメです。

その他書籍

やはり、圧倒的にポエニ戦争を扱った書籍として有名なのは塩野七生さんの『ハンニバル戦記──ローマ人の物語』ではないでしょうか。ローマ人の物語シリーズ第2巻となるハンニバル戦記は、その大半を第二次ポエニ戦争に当てています。当然、その中でのカンナエの戦いの描写も圧巻です。


まとめ

ローマの剣マルケッルスローマの剣マルケッルス

いかがでしょうか?

小が大を制す戦いは数多くありますが、その多くが奇襲です。一方で、戦場が見渡せる平野での堂々たる会戦で小が大を完全に包囲して飲み込む、という戦いはこのカンナエの戦いを除くとほとんど有史上存在しません。

補給がない敵地のど真ん中で雑多な言語・民族からなる混成軍を率いて数多くの勝利を重ねたハンニバルの人心掌握術、戦場の選択眼、そして、戦術力は実に後世に多くの影響を残しました。

しかしながら、歴史は皮肉なものです。
このカンナエでの大敗北をきっかけにローマは覚醒します。

ローマの盾ファビウス、ローマの剣マルケッルスがその後台頭するとともに後のスキピオ・アフリカヌスはじめ数多くの有力な人材が登場します。

ハンニバルによってローマは打ち砕かれましたが、敗戦によってローマはより強くなって立ち上がり、そして、最後はハンニバルを打ち負かします。カンナエの大勝利にも関わらず、第二次ポエニ戦争は最終的にローマの勝利に終わるのでした。

すべてをハンニバルという一人の天才に背負わせて自らは戦わないカルタゴという国家。
国民すべてが当事者であり、倒れても倒れても立ち上がってよどみなく人材を放出するローマ。

このあたりは、現代のカルタゴたる戦略なき商業国家日本もしっかりとカルタゴの失敗から学ぶべきではないでしょうか。

大山俊輔