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元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します

元寇を徹底解説 一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します

こんにちは。執筆家のクボッピーこと久保田です!記事をお読みいただきありがとうございます。このエントリは、日本史上、最大の危機とも言われた元寇についてです。

歴史のことを調べてる人

  • 元寇とはどのようなものだったのかをわかりやすく知りたい
  • 鎌倉武士の活躍について
  • 元寇の戦いについて知りたい
  • かつての一般的な説と最近の説を知りたい

この記事では、歴史オタクの私が鎌倉時代の末期に起こった日本を揺るがす大事件「元寇」(文永の役・弘安の役)について徹底解説していきます。

クボッピー

 学生時代から受験科目として日本史を勉強する上で、その魅力に憑りつかれた、いわゆる【日本史オタク】です。受験が過去の話になった今でも、日本史の書籍などを読み、塾講師としても、受験生などに日本史の講義を行っています。

「元寇ってなんだったっけ?」と感じている学生の方や、「日本人としての教養をつけたい!」という大人の方にまで満足していただけるよう、「元寇」の概観とその戦いの中で起こったドラマ、日本がいかにしてこの窮地を切り抜けたか、ということまで幅広く扱っていきますよ。

サイト管理人:大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、歴史が三度の飯より大好きです。得意分野はイスラム史、古代地中海史ですが日本史も大好きですよ。クボッピーから元寇について教えてもらいつつ、補足できそうなことは世界史・中国史的な側面からも補足していきます。

今回のエントリでは、「元寇の真実」と題して、従来学校の教科書などで教わる元寇のイメージをはじめに紹介しつつ、昨今の研究でわかってきた鎌倉武士の活躍ぶり、そして、対馬や壱岐の人々などの苦難から執権北条時宗のリーダシップなどに至るまで網羅したかたちで文永の役・弘安の役とは何だったのかについて解説します。

是非、楽しみながらお読みください!

元寇とはどんな戦いだった?

まずは「元寇」がどのような戦いであったか、という外観についてお話をします。

「元寇」とは当時の中国の王朝である「元」が日本に襲来をしてきたという侵略事件です。当時は13世紀初頭で、鎌倉幕府による治世も100年近く経過し、安定と発展を目指していたころ。隣国・元の突如の侵攻は、日本に大きな衝撃を与えました。

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中国大陸は歴史上、北方の騎馬民族によって何度も支配されますよね。これを征服王朝と呼びます。有名なのは、金・清(満州族)、遼(契丹族)、元(モンゴル族)が打ち立てた中華王朝ですが、最近は隋・唐なども広義の征服王朝として見る傾向があります。この時代、中原(中国大陸の華北~ど真ん中)を支配していたのはモンゴル帝国の後裔国家の元です。

戦いに至る経緯や、戦いの具体的な中身についてはこれからお話していきます。

元寇は2度に分けて行われました。すなわち、文永の役、弘安の役です。
この2度の戦いについてより詳しく掘り下げた記事もありますので、合わせてご参照ください。

文永の役

文永の役とは? | 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?」では、文永の役について解説をしています。どのような理由でクビライは日本に興味を持ったのか。戦いの経緯なども参照したい方はこちらの記事をご参照ください。

文永の役とは? _ 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか? 文永の役とは? | 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?

弘安の役

弘安の役とは? | 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説」では、昨今の研究を元に鎌倉武士の奮闘ぶりなどもふんだんに取り入れた解説をしています。もし、2度目の元寇となる弘安の役を知りたい方はこちらの記事をご参照ください。

弘安の役とは? 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説 弘安の役とは? | 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説

元寇が起こったのはどこ?舞台となった場所は?

次にお話をするのは、「元寇」の舞台となった場所についてです。元軍が日本に侵攻してきたことはお話しましたが、元は日本のどこを目指して襲来してきたのでしょうか。

これについては地理関係をイメージしてくだされば容易に理解をすることが出来るでしょう。元軍は「九州地方」、より具体的には北九州を目指して襲来してきたのです。

中国(元)と一番近い日本の地域と言えば、もちろん九州地方ですよね。あえて遠回りをして、東北地方や関東地方に攻め入る理由はないでしょう。元軍は船でもって、海をまたいだ目と鼻の先にある九州地方に侵攻をしてきたのです。当時、元は朝鮮半島の高麗を属国化していて、ここを拠点に日本への侵攻を行いました。

そのため「元寇」の戦いの舞台は主に北九州となります。

元寇が起きた背景と理由について

次に紹介するのは、「元寇」の起きた背景と理由についてです。

モンゴル帝国によるユーラシア大陸の統一

先ほどもお話したように、「元寇」が起こったのは、13世紀の初め頃です。日本では、源平の戦いが終結しその後、1192年に武家による初の政権である「鎌倉幕府」が成立したことで秩序が保たれていました。

日本が安定期を迎え、発展をしていく中で、隣国の中国大陸では不穏な動きが始まります。モンゴル民族が、中国を支配したのです。この頃、モンゴル民族はテムジン(後のジンギス・カン)のもとでモンゴル高原を統一し、騎馬軍団による強力な軍事力で周辺諸国への侵略を行いました。その矛先は、中央アジア(トルキスタン)、ロシア・東ヨーロッパ、インド、そして、イランなどイスラム世界を次々に服属させていき、中国もその波に飲まれ、「元」としてモンゴル人系の新王朝が成立したのです。

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1度目の日本侵攻となる文永の役の時点では、元は中国大陸の中原・華北を支配していましたが、華南(中国南部)は南宋という漢民族の国がありました。日本とは友好関係にあり、文永の役の侵攻の理由の一つは南宋と日本との連携を断つことであったとも言われています。

モンゴル帝国の分裂と元国の誕生

モンゴル帝国の分裂と元国の誕生

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こちらの地図では元の最盛期の領土となります。図では中国南部を支配してますが、文永の役があった時点では、華南地方にあった南宋が顕在で、元の中国大陸における領土はもう少し少ないですよ。

モンゴル帝国は、フレグの西征によって誕生したイルハン国(現在のイランを中心)、バトゥの西方遠征によって誕生したキプチャクハン国(現在のウクライナ、ロシア、カザフスタンを中心)、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国に、モンゴルと現在の中国を中心に支配した「元」の4カ国に分割されました。

中でも、国威盛んだったのはクビライ・カアン(日本ではフビライ・ハンのほうが一般的に使われる)が支配した「元」です。

同じ征服王朝でもあった女真族(満州人)は華北を支配していましたが、長い中国大陸の支配のうちに徐々に遊牧民としての尚武の気質を失い、その後、進出してきたモンゴル人にあっけなく敗れ去り豊かな中国大陸はモンゴル族の支配するところとなりました。

日本への服属要求

クビライクビライ

こうして、国威盛んな元が次に標的を定めたのは、その隣国であった日本でした。

彼らは、東アジア一帯を支配する圧倒的な支配力を望んでいました。また、有名な話ですがクビライに使えていたイタリア人マルコ・ポーロから日本のことをジパング(黄金の国)として紹介されたことも、日本に対する興味を掻き立てたとも言われています。

モンゴル帝国は初期の征服では、征服地で大規模な虐殺を巻き起こしました。当時世界一の大都市であったバグダードは、壊滅的なまでに破壊されアッバース朝が作り上げた知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)のような施設も残念ながら消失してしまいました。しかし、その破壊を通じてユーラシア大陸がほぼ統一されたことで、シルクロードの西と東が再び安定政権によって繋がり貿易が発展しました。

このモンゴルによる安定を「パクス・モンゴリカ」とよびます。

こうして、東西の架け橋となったモンゴル帝国でしたが、そのお膝元のアジアでモンゴルの言うことを聞かなかったのは、日本、ベトナム、ビルマ、ジャワ、南宋(中国南部の漢人王朝)などごくわずか。

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ベトナムも日本同様に元の侵略をはねのけます。中国、モンゴル、フランス、そして、アメリカと強国に負けないベトナム人の強さには脱帽ですね。

中でも、お膝元の大都(北京)からも近く、人口が多く武力の高い鎌倉武士のいる日本は厄介な存在です。実際、元は鎌倉政権が服属させたばかりの高麗(朝鮮)に介入する可能性を警戒していましたし、また、華南にある南宋も文永の役の時点では健在で日本との連携を恐れました。

そこで元は、日本に服属を要求してきます。

執権北条時宗のリーダーシップ

北条時宗北条時宗

この時の日本のリーダーは北条時宗

元の属国である高麗の使節が、大宰府に元への服属を求める書簡を送り届けてきたのが文永5年(1268年)の正月。時宗は3月に執権職を継承し第8代執権となります。このとき、時宗はわずか18歳でした。

クボッピー

現代では高校卒業したばかりの年齢ですね。しかし、このあとの時宗がすごいです。

時宗は元からの使者を無視しつつ、国内の体制を整えます。

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有名なのが二月騒動と呼ばれる内紛で、異母兄の時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、世良田頼氏を佐渡へ配流するなど国論を統一するために苛烈な対処をしています。

chise

元寇は北条時宗のリーダーシップなくして乗り切れなかったでしょう。北条時宗については「北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!」の記事でくわしくその生涯を解説しています。
北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説! 北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!

こうして、しびれを切らした元王朝は、それならばと、軍事力を行使して力づくで日本への侵攻を決定しました。これが元寇(文永の役)です。

「元寇」の「元」は「元王朝」から来ていて、「寇」は「船による来襲」を意味します

漢字からもその意図がよく汲み取れますね。

元寇の戦いの内容について解説!経過と結果はどうなったの?

ここからは「元寇」の戦いの具体的な内容についてお話をしていきます。これを読めば、「元寇」の経過と結果についてはほぼ大枠を理解をすることができますよ。

元軍の侵攻路と主な戦闘地

元軍の侵攻路と主な戦闘地元軍の主な侵攻路(文永の役・弘安の役)
出典:https://ironna.jp/article/1099

対馬の悲劇

「元寇」は九州地方が舞台となったとお話しましたが、中でもひどいめに合わされた場所といえば、対馬と壱岐です。対馬と壱岐ともに文永の役、弘安の役でも日本側の前線でしたが、現地の武士の活躍も虚しく真っ先に攻め落とされて住民は残酷な目にあうことになります。

特に対馬は朝鮮の合浦から目と鼻の先の距離で、元軍としても橋頭堡として真っ先に押さえておきたい重要拠点。

こうしたこともあり、2度に渡る侵攻を受けて対馬の人々は大変な目にあいました。中には、手のひらに穴を開けられて捕虜として船の船首に吊るされて日本軍からの弾除けのための人間の盾にされてしまった人々もいたようです。戦争とは本当に残酷なものです。

主たる戦いは現在の博多周辺

文永の役では、対馬、壱岐を攻略した元軍は北九州に上陸し、いくつかの拠点を確保した後、在地の鎌倉武士と激闘を繰り広げました。この反省を踏まえて、2度目の侵攻となる弘安の役の前には防塁が築かれました。

結局、弘安の役では鎌倉武士の激しい抵抗を受けて九州本土に上陸することはほぼできないまま膠着戦に。

そして、その後は暴風雨により艦隊の多くが大破した上に、日本軍の掃討戦を受けて軍勢は壊滅しました。

戦いの経過について

「元寇」はニ度に渡り行われました。

1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」との二度に渡り元軍は日本攻略を狙って攻め込んできたのです。

兵器についての諸説

元軍の使っていたてつはう
元軍の使っていたてつはう

学生時代の教科書では、元軍は圧倒的な軍事力と、頭の切れる戦法で日本を攻めたてたと書かれます。

当時、世界文明の中心地は、イスラムと中国です。この2つの文明圏を支配したことで、モンゴル軍は従来の騎馬戦力での平地戦に加えて、城攻めのための攻城兵器(カタパルトなど)、また、毒矢やてつはうなどさまざまな武器を自軍に取り入れていました。

毒矢はイメージがしやすいと思われますが、「てつはうってなんだろう?」と感じた方も多いのではないでしょうか。こちらは何かに語感が似ていないでしょうか?そう、「鉄砲」です。

正確には火薬を詰めた爆発系の兵器です。これは当時の世界の文明力においてもかなり秀でたものでした。その後、この原理を応用した「鉄砲」が発明され日本に伝わってきたのが1543年となりますので、この時点ではかなりの先端兵器だったと言えるでしょう。

戦法について諸説

また戦法についても、日本と元軍で大きな違いがあったと言われています。当時の日本軍は一騎打ち戦にこだわり、それ以外で敵との戦いをしてはならない、という暗黙の了解があったといわれています。これは日本人らしい、正々堂々と戦うべきだという精神と国内での戦いを前提としたマナーのようなものが残っていたからだと言えるでしょう。

一方、モンゴル軍は大陸での戦いを通じて集団戦闘に長けた軍事集団でした。

彼らは、モンゴル高原の統一のみならず、中央アジア、ロシア、東ヨーロッパ、インド北部、イスラム世界から中国へと軍事侵攻しました。それぞれの文明圏で異なる軍事勢力と戦うことになりますので、当然ながら戦闘形態は柔軟な運用になります。

それと全く異なるのが日本でした。

同じ日本国内での戦いにおいては、源平合戦のような血みどろの戦いであったとしても、その血生臭さの中には一定のマナーのようなものがありました(それを、無視したから強かったのが源義経ともいえるでしょう)。

しかし、今度の敵はモンゴルという外国。作法が通じなかったことで、一度目の元寇である文永の役の初期の戦いでは鎌倉武士も苦戦したと言われています。ただ、そこは武芸に長けた鎌倉武士です。戦闘後半からは勝手がいかないことに適応し、日本側も柔軟に戦ったというのが昨今の研究でわかってきています。

果たして元寇にモンゴル人はどれくらいいたのか?

果たして元寇にモンゴル人はどれくらいいたのか?

これも、諸説別れています。

かなりいたという説から、実はほとんどいなかったんじゃないかとも言われています。
もともと、元寇については元の属国である高麗の忠烈王なども強く日本侵攻を進言していたと言われています(幻に終わった第三回目の侵攻などはフビライに上奏したことが残っています)。実際、参戦した兵力は文永の役では4万名弱、そして、弘安の役では東路軍・江南軍あわせて15万もの大軍が日本に襲来しました。

とはいえ、モンゴル人は騎馬民族です。

草原の遊牧民は、従来から、農耕地と比べると養える人口が少ないです。 したがって、動員兵力でみれば中国大陸、イラン平原、ロシア平原を支配していた従来の諸王朝のほうが多いのです。

しかしながら、その人間の数をカバーするのが騎馬による戦闘力とその機動力を活用した兵力の一点集中運用です。これのお陰で、歴史上多くの騎馬民族ははるかに人間の数が多い農耕民の王朝との戦いに勝利し、そして、支配してきました。

こうした経緯から、確実に言えることはモンゴル人はいたかもしれないけど数は少なく、その多くは漢人(中国北部の漢民族、女真族、契丹族など)と高麗の朝鮮人が兵力の大部分を占めていたと思われます。

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ただし、指揮官の名前を見ているとアタカイ(阿塔海)、ヒンドゥ(忻都)などモンゴル系の人間がいます。なかには、弘安の役などみていますと、マハマド(馬馬)などイスラム圏の名前も見られます。おそらく、モンゴル帝国内のウィグル、ペルシャ、アラブ方面の人材だと思われます。

おそらく、将官クラスには睨みを効かせるためにモンゴル人はいたけれども、兵士としての主力は文永の役では漢人・高麗人、そして、弘安の役では、漢人・高麗人、そして、南宋降伏後、いやいや動員された南人(中国南部の人)が主力だったと言えるでしょう。

元寇で活躍した鎌倉武士とは?

蒙古襲来絵詞の竹崎季長
蒙古襲来絵詞の竹崎季長

元寇といえば鎌倉武士です。

その中でも有名なのが竹崎季長を紹介します。彼は「元寇」における有名な武士の一人で、あの、元寇の絵巻(蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば))に登場する人物として有名です。

蒙古襲来絵巻は中学校の社会の教科書などでも出てくる有名な作品なのですが、この絵巻に元軍と交戦中の竹崎季長の姿が描かれています。

集団で、毒矢やてつはうを放ってくる元軍に対し、単騎で特攻をしかける竹崎季長の姿は今見ても臨場感があり、当時の戦況を垣間見ることができますよね。

しかしながらこの絵にはもう一つ裏話があります。「蒙古襲来絵巻」は竹崎季長自身が命令をして描かせた絵なのではないか、という一説がまことしやかにささやかれているのです。元寇後、日本に貢献をした武士に奨励金を支払うにあたり、これを根拠に、竹崎季長は多額のお金を求めた、とも言われています。

実際、蒙古襲来絵詞をしっかりみてみるとこう。

蒙古襲来絵巻

出典:https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm

書き足してますね(笑)。今のようにフォトショがあったらもっと上手だったかもしれません(笑)。

実際、他にも御恩奉行・安達泰盛(あだち・やすもり)の屋敷に武勲をアピールし、恩賞を直談判する絵もあるんですよ。当時の鎌倉武士と幕府の関係は、御恩と奉公。しっかりとGive and Takeの関係が明確ないわば契約社会でした。

いずれにでよ、竹崎は色々な意味で存在感を放った鎌倉武士の一人であると言えるでしょう。

日本はなぜ勝てた?

元寇でなぜ日本は勝利できたのか

さて、ここまで元寇の詳細と経過についてお話をしてきました。最後に結果についてもお話をしていきましょう。

二度目の侵攻である「弘安の役」においては、はその前に滅ぼした中国南部の南宋の兵をも駆り出して、実に15万近い大軍で攻めてきました。海上兵力としてこれだけの大規模な侵攻は、第二次世界大戦末期のノルマンディー上陸作戦までありませんでした。

これだけの大軍を日本一国で守りきらなければならないということで、かなり日本側には不利な戦いであったことは間違いありません。しかし、日本の勝利の理由は?と聞かれると、学生時代の先生は神風でラッキーだたんだ、といって話をまとめてしまいますが最近の研究(元側の資料なども含めて)を総括すると、下記の点が大きかったのではないでしょうか。

北条時宗のリーダーシップと断固たる態度

モンゴル帝国と戦った国の多くは、一撃必殺で壊滅的な打撃をこうむり滅亡してきました

ロシア諸侯が敗北したカルカ河畔の戦い(1223年)、ポーランド・ドイツ連合軍が壊滅したワールシュタットの戦い(1241年)、バグダードの戦い(1258年)など負けた国はほぼ徹底的に殺戮される目にあってきました。こうしたこともあり、ユーラシア大陸では多くのイスラム・キリスト教諸国はモンゴルとの戦いを回避し、降伏したり貢納する形をとってきたのです。

ホラズム・シャー朝の王、アラーウッディーン・ムハンマドなど国力的には当時のモンゴルより動員兵力も多かったにもかかわらず、戦うことなく首都を放棄し逃げたほどです。

北条時宗は18歳でこれだけの国難に対して、二月騒動などを通じて国論を統一するとともに、文永の役の後に再度やってきた使者などは、話を聞くこともなく有無を言わさず斬首するなど断固とある態度を取りました。この若く芯の強いリーダーがいたことこそが日本にとっての行幸だったと言えるでしょう。

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時宗は32歳という若さで死んでいます。彼はこの国難の時に日本を守るためだけに生まれてきた人だと言えるでしょう。

鎌倉武士の一所懸命

鎌倉武士の一所懸命
鎌倉武士の一所懸命

もう一つ挙げられるのは鎌倉武士たちの一所懸命です。

学生時代の教科書のイメージで、鎌倉武士たちはモンゴル軍に手も足も出ず、てつはうであしらわれ、そして、集団戦に振り回されたイメージを持っている方も多いかもしれません。

しかし、実際の鎌倉武士はそのイメージとは全く異なります

当時世界のあらゆる武装集団の中で最も騎兵、それも、鎧甲冑をフル装備の状態での運用に長けて騎射が上手だったのは、モンゴル軍というよりは鎌倉武士だったと言えるでしょう。また、弘安の役などではモンゴル軍の上陸を防塁で防ぐだけではなく、大艦隊に対して小舟を繰り出して逆に攻め込むなど武勇については文句なし

当時世界でもこれだけ勇猛果敢な兵は存在しなかったのではないでしょうか。

そういう意味では、学生時代に抱かされたイメージは改めて新しい資料を通じて覆す必要があるのではないでしょうか。

挙国一致体制(元寇防塁)

元寇の防塁元寇防塁

もう一つは日本は時宗のリーダーシップを通じて挙国一致体制をモンゴル軍の襲来前に構築できたことがあります。

武士だけではなく、幕府は朝廷に申し入れて幕府の権限が及ばない荘園などからも兵糧米を拠出してもらったり、寺社も僧兵が動員されるなど事実上の総力戦を前提とした戦時動員体制を敷いていました。

特に有名なのは弘安の役の前に築かれた防塁(石築地)です。

高さ・幅は平均2メートル、総延長は実に福岡市西区の今津から東は福岡市東区香椎までの実に20キロメートル。距離だけで見れば、かの鉄壁の要塞都市、コンスタンティノープルとほぼ同じです。

これを見た元軍は、「これ、まじで上陸できるの・・・」と思ったことでしょう。

実際、弘安の役は九州武士の一所懸命を通じて東路軍・江南軍ともに壊滅させることに成功しましたが、その時、なんと、日本軍は六波羅探題から派遣された宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州目指して進軍中でした。

これを見ても、動員兵力と兵の質を見ても元軍が勝てる可能性は低かったかもしれませんね。万が一弘安の役で元軍が善戦して北九州が陥落したとしても、その後、六波羅派遣軍に早々に掃討されていたことと思われます。

粘り強く戦ったことで最後に神風が吹いた

神風については諸説ありますが、多くの人のイメージは日本のラッキーと言うところではないでしょうか。

確かに、この暴風雨は日本にとっては恵みの防風ですがたまたまやってきたわけではありません。文永の役も弘安の役も鎌倉武士の善戦により、上陸作戦がうまくいかず膠着していた中で、防風が訪れたわけです。なす手がない中で風が吹いて助かったわけはありません。

ただ、当時は幕府だけでなく朝廷から寺社に至るまで挙国一致のとき。

帝も異国打ち払いを祈願しましたし、寺社も財産を供出するなど一生懸命でした。この祈りが通じたという共通のストーリーが恐らく神国思想に繋がり、その後、第二次世界大戦末期の日本の神風とつながっていったのでしょう。

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実際の大ピンチから一転奇跡の大逆転といえば、プロイセンのフリードリヒ大王の「ブランデンブルクの奇跡」があります。あのヒトラーも敗戦濃厚になったとき、最後まで、フリードリヒ大王と同じ奇跡を望んだと言われていますよね。

元寇を扱ったもの(漫画・ゲーム・YouTube動画など)

さて、元寇を扱った書籍やゲームなどが最近増えてきていることで、興味を持つ方も増えてきているようです。特に、英語圏でもゲームのGhost of Tsushimaを通じて、元寇の英語でもある”Mongol’s Invasion of Japan”という言葉が知られるなど、ちょっとしたブームになっているようです。

ここでは、いくつかの元寇を扱った書籍やゲーム、そして、YouTube動画を紹介させていただきます。

アンゴルモア元寇合戦記

元寇を扱った漫画としていちばん有名なのはこの「アンゴルモア元寇合戦記」ではないでしょうか。アンゴルモアといえば、ノストラダムスの大予言でも登場した恐怖の大王。それを元寇と重ね合わせたタイトルの漫画です。全巻10冊と読みやすいボリュームです。

話の舞台の多くが対馬であることから、対馬での惨劇を知りたい方にもおすすめです。

Ghost of Tsushima

Ghost of Tsushima

『Ghost of Tsushima』(ゴースト・オブ・ツシマ)は、アメリカのゲーム開発会社Sucker Punch Productionsが開発したPlayStation 4用アクションアドベンチャーゲームです。

主に舞台は対馬のゲームのようですね。最近プレステのゲーム買ってないですが、久しぶりにやってみようかな・・・。

オススメのYouTube動画

元寇については多くの動画があげられれますが、最近の諸説をふんだんに入れた動画解説でオススメなのは、非株式会社いつかやるさんの動画です。文永の役、弘安の役双方ともに扱っていますが、最近の「鎌倉武士の無双っぷり」を強調した形で解説を入れられています。

文永の役

弘安の役

まとめ

ここまでお読みいただきありがとうございました。「元寇」は受験などでも頻出である他、日本の長い歴史で見ても相当なピンチであったため、日本人として知っておいて損はないと思います。

ぜひ当時の情勢や、元寇後の日本の流れなど、周辺知識についても調べてみてください。

クボッピー&大山俊輔