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桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説!

桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説!

織田信長が、名を馳せるきっかけとなった戦い、桶狭間の戦い。
この戦いを基に、誰が天下を統一するのか、各大名が名乗りを上げ、争いが始まります。

私は、静岡県出身で、愛知県にある桶狭間によく観光をしました。そこで、歴史好きの父親とともに、桶狭間の戦いを追いました。それをきっかけに歴史好きになりました。

フリスクン

 小学生から日本の歴史が大好き。中学、高校では、日本史につまずいている友人に教えると、分かりやすいと友人間で評判に。実はこう見えて現在、大学生。大学では、歴史に基づいたビジネスを考えています。

桶狭間の戦いには、すごく熱い物語があります。
各大名の思いや、感情がぶつかり合い、これからの時代を変えるきっかけになる戦いになっています。

この記事では、「桶狭間の戦いの真実」として、戦いの原因、場所、織田信長の勝因などについてわかりやすく解説します。家康、秀吉など有名武将はその時何をしていたのか?また、今川家のその後についてもご紹介します。

ストーリーで見る!桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは、戦国の世のターニングポイントとなる戦いです。
それを、ストーリーで徹底解説していきたいと思います。

ストーリーを理解する上では、英語で言う、「5W1H」を理解するのが大切です。
「Who(だれが)」「What(なにを)」「Why(なぜ)」「Where(どこで)」「When(いつ)」「How(どのように)」
の6つです。それでは、それぞれを踏まえながら解説をしていきます。

登場人物は?

ここで、桶狭間の戦いで登場する人物をご紹介します。

・今川義元(いまがわよしもと):今川義元は、戦国大名として名高い人物です。駿河・遠江・三河の3つの国(現在の静岡県・愛知県東部)を束ねたため、「東海道一の武将」と言われており、今川家の最盛期を担った武将です。
・織田信長(おだのぶなが):織田信長は、とても有名な戦国大名ですよね。「信長の野望」などの、戦国のゲームでも人気が高い人物です。彼は幼少期から「尾張の大うつけ」と呼ばれており、幼い頃から奇抜な衣装を着たりなどして、周囲を驚かせました。
ちなみに尾張は、現在の愛知県の西部に位置しています。

この2代大名が争う戦いです。

戦いの場所は?

桶狭間の戦いと言いますので、場所は、「桶狭間」です。

現在の愛知県に位置します。

戦場跡は2箇所あり、「桶狭間古戦場公園」、「桶狭間古戦場伝説地」という場所がおかれています。公園の方には、銅像や、墓碑などが設置されており、史跡ガイドの取り次ぎも可能になっています。

戦いのきっかけは?

今川義元は、尾張を攻めようと考えます。
織田信長は、父の信秀を亡くし内乱を経てまだ国内も安定していない状態でした。
これを好機だと捉えた今川義元。進軍をはじめます。

戦いの流れは?

ここからは、流れを解説します。

1560年、今川は、尾張への進軍を図ります。
あの大大名、今川義元が攻めてくるとなれば、織田軍側の武将も、今川軍の強さ、権力差にひれ伏し、寝返りしてしまいます。

丸根砦、鷲津砦を築き、今川軍を食い止めようとしますが、これに攻撃を開始。
簡単に落とされてしまいます。

このとき、織田軍の国境に位置する2つの城が今川軍の手に渡ってしまいます。
これで、織田信長の領地である尾張は、危機的な状況になります。

約2万5千人の今川軍は、本領地のすぐ近くまで来ていました。

このときの織田軍は、約3千人。
絶体絶命の状況になった織田信長。
しかし、決して諦めませんでした。

2つの砦を破り、桶狭間山と呼ばれる山のくぼ地で酒を飲み、休息を取っていた今川軍。
桶狭間というくらいですから、谷をイメージするかも知れませんが、実は山です。

その情報をいち早く手に入れた織田信長。山中を迂回し、今川義元を討つ機会を待ちます。

織田軍が今か今かと待っていたそのとき、突然、雨が降り始めます。
雨が降り出し、それが強くなりはじめ、今川軍は、甲冑を脱いだり、濡れることを嫌ってばらばらに分かれ始めます。

そのとき、織田軍が、今川軍に襲いかかりました。
今川軍は突然のことに仰天。
大混乱になります。

天気を味方につけた織田信長は、見事今川義元の首を取り、勝利を掴んだのです。

戦いの後は?

桶狭間の戦いのあと、今川家は、三河と遠江を失い、最終的には今川家の本領地である駿河を、甲斐(現在の山梨県)を支配していた武田信玄に奪われ、今川家が滅亡します。

織田信長は、この戦いをきっかけに、西を攻め始めます。そして力を失いつつあった室町幕府を滅亡させ、安土桃山時代に突入するのです。

 

未だ分かっていない…。桶狭間の戦いの謎

そもそも歴史というのは、書物や過去の遺産を元に体系化され、教えられるものです。現在も研究が進められており、研究者によって、真実が異なるのです。

この桶狭間の戦いにも、研究者によって意見が違い、謎が多く残ります。

先程の詳細は、学校で習う日本史、いわゆる「通説」を元に解説したものですが、ここでは、桶狭間の戦いにある謎について解説していきます。

今川義元は、上洛したかった?

尾張に攻めた今川義元。信秀が亡くなり、信長が領主になったため、攻めたのですが、
その目的は、上洛、つまり京都に入りたかったのではと言われています。

しかし、上洛するには、他の大名と戦いながら行かなくてはなりません。そんなことは、不可能です。現在で考えてみると、静岡から、京都に行くわけです。最短ルートで行っても、何県かを通って行かなくてはなりません。

こう考えると難しいのが分かりますね。

今川義元は、どこで討たれた?

実は、桶狭間山というのは、存在しておらず、桶狭間一帯の丘陵地帯を指すものであるという意見があります。また、先程挙げたとおり、桶狭間の戦場跡は、2つあります。

これも意見が分かれています。

天候は?

天候が勝敗を左右した桶狭間の戦い。
雨の中、織田軍が今川軍に奇襲を仕掛けて、討ち取ったという説ですが、違った説として、ゲリラ豪雨のような、凄まじい雨が降ったのではと言われています。

それを背中に受けての正面攻撃をした織田軍に対し、豪雨を顔面に受けた今川軍が、機能不能となり、討ち取ったと言われています。

熱田神宮での戦勝祈願は?

ある説によると、現在の名古屋市にある、熱田神宮に攻め込む前に勝利祈願したということをいわれています。

しかし、桶狭間の戦いは、一刻も争う事態です。果たして、戦勝祈願できたのか?
未だ分かっていません。

織田軍は正面から襲撃?それとも迂回した?

通説では、迂回して、奇襲したといわれていますが、正面から攻撃したという説もあります。しかし、正面から姿を晒したまま攻撃は可能なのか?進軍ルートも含めて、研究者ごとに意見が分かれています。

歴史を研究する際には、古い書物をもとに行うことが多いです。しかし、現在の時代小説のように、誇張された部分も多いです。実際のことは、未だ謎のままで、不明な点がいくつもあります。

これからの研究結果次第で、日本史の教科書なども変わってきます。

まとめ

今回、桶狭間の戦いについて、詳細と未だに分かっていない謎について、徹底解説しました。

通説として語られているものが、ご存知かと思いますが、様々な説があるというのが分かったと思います。
ここが、歴史の醍醐味です。

何かというと、一つの見方、ストーリーとしての歴史が、様々な見解をすることによって、新たな見方ができるというのは、すごく面白いですよね。

例えば、勇者が、魔王を倒すという物語があったとします。
単純に勇者目線で物語を見ても面白いかも知れませんが、魔王がどういう思いで支配をし、実は愛する妻と娘がいて、だれかによって奪われてしまったというストーリーが加わると、よりストーリーに深みが出ますよね。

このように、様々な見解や意見を踏まえて桶狭間の戦いという出来事を学ぶと、より面白くなると思います。

他の歴史の事柄についても、ぜひ学んでみて下さい。

フリスクン&大山俊輔