日本史の中で、一番人気の時代だと言えるのが戦国時代です。戦国時代では、全国各地で武将たちが生き残りをかけて戦っていました。数多くの武将が歴史に名を残し、その中から名将と呼ばれ現在も慕われている人物がたくさん誕生しています。
薩摩の武将・島津義弘もその一人です。
大山俊輔
島津義弘といえば「関ヶ原の戦い」の「島津の退き口」がとても有名で、現在も大河ドラマや映画で名場面として描かれています。そして「鬼島津」という異名を持つ島津義弘には、「武勇の人」というイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。
この記事では、島津義弘ってどんな人なの!?ということで、その生涯と人柄を詳しくお伝えします。関ケ原での島津の退き口、島津家得意の釣り野伏せなどについてもまとめました。
目次
島津義弘ってどんな人?
1535年(天文4年)に島津義弘は薩摩の守護、島津家15代当主・島津貴久の次男として生まれました。
島津家は島津忠久を祖として、鎌倉時代から江戸時代が終わるまで現在の鹿児島県を中心に領地を治めていた大名家になります。
その島津家で戦国時代から江戸時代初期に活躍したのが島津義弘で、兄弟には兄・義久、弟には歳久、家久がおり、島津四兄弟としても有名です。
はじめ島津義弘は忠平と名乗っていましたが、足利幕府15代将軍の足利義昭から義の字を賜り義珍(よしたか)に改め、その後に義弘に改名しました。
黎明期 ~ 華々しい初陣をかざった島津義弘 ~
島津義弘が生まれたころは戦国時代の真っただ中で、このころの島津氏は薩摩(現在の鹿児島県西部)の一部を治めるだけにとどまり、内乱が絶えない状況でした。
しかし父・島津貴久と祖父の島津忠良によって、島津家家中をまとめることに成功します。
その後1554年(天文23年)、西大隅地方(現在の姶良市のあたり)の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈重豊など、父・貴久に従わない勢力との「大隅合戦」に突入しました。
そして、この合戦の「岩剣城の戦い」が19歳になった島津義弘の初陣となったのです。
岩剣城はその名からも分かるように険しい岩山の山城でした。
その岩剣城攻めに父・貴久らとともに参戦し、島津義弘は岩剣城の東南にあたる白銀坂に陣を張りました。
この戦いで島津義弘は、岩剣城の東にあった帖佐城の敵をおびき出して一気にたたき、また敵の船を10艘捕らえるなど、初陣とは思えない武功を挙げたのです。激しい戦いでしたが、最後は敵が城から退却し島津軍の大勝利に終わりました。
この戦いの後、初陣にして大きな戦功をあげた島津義弘は、それを認められ岩剣城を任せられます。
その後も反抗勢力との戦いは続き、島津義弘は5本の矢を体に受ける負傷をしますが、蒲生氏を攻めたときには初めて敵の首を取りました。そして、奮闘のかいあって最終的に島津氏が西大隅地方を制圧して、大隅合戦は幕を下ろしたのです。
また、この戦いでは日本史上で初めて鉄砲が使用されました。
九州三国時代
西大隅地方を平定したのち、島津義弘は真幸院(現在の宮崎県えびの市)の領主に任ぜられ飯野城に入城しました。
そして1566年(永禄9年)兄の島津義久が父・貴久から家督を受け継ぎ島津家16代当主となり、島津義弘は補佐役として、ここから島津の勢力拡大に実力を発揮していくのです。
⽊崎原の戦い=九州の桶狭間
1571年(元亀2年)、先代の父・貴久が亡くなり翌年に、日向(現在の宮崎県)の伊東義祐は島津義弘が治める真幸院に攻め込みました。
このとき約3,000人の大軍で押し寄せた伊東軍を島津義弘が迎え撃ちます。
これが「九州の桶狭間」と呼ばれている「⽊崎原の戦い(きざきばるのたたかい)」です。
この戦いで島津義弘率いる島津軍は約300人の少数でしたが、島津義弘は巧みな計略と戦術を繰り広げ、島津氏のお家芸とも言える「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれる戦法で、約10倍規模の伊東軍を撃破しました。
「釣り野伏せ」は軍を三つに分けて、二隊が待ち伏せて残りの一隊がオトリになって敵に正面から突撃します。
そして奮戦を繰り広げそのうち敗走に見せかけて後退し、そこへ待ち伏せていた二隊が襲いかかって三方向から敵を取り囲み殲滅する戦法です。
難易度の高い戦法ですが、多くの戦いで島津軍は「釣り野伏せ」を用いており、ことごとく勝利を収めています。
さて、「⽊崎原の戦い」で島津義弘に返り討ちにされた伊東義祐は、敗戦をきっかけに勢力が衰え始めます。1577年(天正5年)に島津氏は伊東義祐を日向から追放し、薩摩・大隅・日向の三州を治めるまでに勢力を広げました。
この頃の九州勢力図を見ると、龍造寺氏・大友氏そして島津氏が三大勢力として台頭しており、そのため「九州三国時代」とも呼ばれています。
耳川の戦い
島津氏に日向から追い出された伊東義祐は、豊後の大友宗麟のもとへ助けを求めて亡命しました。
1578年(天正6年)大友宗麟は、その求めに応じて約50,000人の大軍勢を引き連れて日向へ攻め込み、島津氏も体制を整えて大友軍を迎え撃ちます。そして、このときの戦いでも「釣り野伏せ」を用いて、大友軍を壊滅させ勝利を治めました。
これが「耳川の戦い」です。
この敗戦以降、大友氏の勢力が衰退し始め、島津氏の勢いはますます強力になっていきます。
島津義弘は1581年(天正9年)に肥後(現在の熊本県)の相良氏をせめて服従させました。
ここから島津氏の勢力を肥後にも拡大させていきます。
沖田畷の戦い
そして三国の一角として、勢力を大きくしている肥前の龍造寺隆信と、島津家久が率いる島津軍が「沖田畷の戦い」で激突したのです。
この戦いでも島津氏のお家芸「釣り野伏せ」で龍造寺軍を混乱させ、大将の竜造寺隆信を討ち取り大勝利を治めました。
この勝利で龍造寺氏を傘下に治めた島津氏は、肥後・肥前・筑前・筑後と勢力を北上させて豊後の大友氏の領地にも侵攻、島津氏の九州制覇は目前でした。
九州征伐 ~夢に終わった九州制覇~
島津氏に追い詰められていた大友宗麟は、豊臣秀吉に助けを求めます。
このころ豊臣秀吉は織田信長亡き後に政権を築き、着々と全国平定を進めていました。
豊臣秀吉は島津氏に大友氏と講和する命令を出しましたが、島津氏はこれに応じませんでした。
そのため1587(天正15年)に豊臣秀吉による、島津氏を討伐するための九州征伐が始まります。
島津氏は豊臣秀吉の九州平定軍を迎え撃ち、島津義弘も日向根白坂で戦いました。これが「根白坂の戦い」です。
この戦いで島津義弘は自ら刀を抜き、敵に向かって切り込む奮闘をしますが、20万人もの圧倒的な兵力の豊臣軍には及ばす、敗戦します。
そして島津軍は総崩れし、窮地に追い込まれます。
島津義弘は最後まで徹底抗戦を主張しますが、先に兄・義久が豊臣秀吉に降伏をし、義久の説得により島津義弘もそれに続きました。
豊臣政権時代と鬼島津
豊臣秀吉に降伏したのち、島津氏は薩摩と大隅の二か国を安堵され、このとき島津義弘は兄・義久と同じ大名格として大隅を領地に与えられました。
そして島津家の家督が譲られて島津義弘が第17代当主になったとされていますが、この継承は事実確認ができず、その後も家中の実権を義久が握っていたので、家督相続は形式なものだったと考えられています。
そして豊臣秀吉の配下になった後の外交や交渉は義弘が行い、義久は国から動くことはなかったようです。
朝鮮出兵における活躍=鬼島津
さて豊臣秀吉の時代になり島津義弘の名を有名にしたのが「朝鮮出兵」です。
1592年~1593年(文禄元年~文禄2年)の文録の役と1597年~1598年(慶長2年~慶長3年)の慶長の役の2度にわたって行われました。
この2回ともに島津義弘は出兵し、文録の役では一緒に参戦していた嫡男の久保が病死してしまう悲劇に見舞われます。
そして慶長の役で島津義弘は大暴れをします。
1597年(慶長2年)7月の漆川梁海戦では藤堂高虎らとともに朝鮮水軍を攻撃し、敵将の元均を討ちとりました。
泗川の戦い
翌年の泗川の戦いでは20万人とも伝わっている明・朝鮮連合軍を相手に、島津義弘率いる約7,000人の島津軍が迎え撃ち、この戦いでも得意の「釣り野伏せ」で相手を翻弄し奮闘の末に大勝利を治めたのです。
しかし、慶長の役の朝鮮出兵は豊臣秀吉の死去によって、撤退することになります。
そして撤退戦では、順天城から身動きが取れなくなっていた小西行長軍を救うため、明・朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)明の鄧子龍や朝鮮の李舜臣を戦死させる戦功を挙げ、見事に救出し撤退に成功しました。
この朝鮮出兵での島津義弘の奮戦ぶりを見て朝鮮・明軍に「鬼石曼子(グイシーマンズ)/鬼島津」と恐れられていたと記録されています。
「鬼島津」という異名を付けられたことからも、戦で島津義弘が勇猛果敢に戦っていたことが容易に想像できます。
関ヶ原の戦い ~決死の撤退戦、「島津の退き口」~
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり朝鮮出兵も終わりましたが、その死によって時代が大きく動き出します。
ご存じのように秀吉亡き後の豊臣政権は徳川家康が勢力を拡大し、それを危険視する石田三成と対立する構図になっていました。
島津の退き口
1600年(慶長5年)、この対立を決着する「関ヶ原の戦い」が起きます。
関ヶ原の戦いでは徳川家康が率いる東軍が石田三成の西軍に勝利を治めました。
この戦いで島津義弘は島津軍として西軍に付き参戦していました。
しかし島津家中は反豊臣の兄・義久派と親豊臣の島津義弘派に分かれて対立していたのです。
そして義久は本国にとどまっており、大坂にいた島津義弘は甥の島津豊久らと合流し参戦することになります。
このときの島津軍の数は本国から兵を呼ぶことができなかったため、約1,500人という少人数でした。
親豊臣の島津義弘ですが、徳川家康からの援軍要請に応じ当初は東軍に付くつもりでした。
ところが徳川家康の家臣・鳥居元忠が籠る伏見城へ援軍で駆け付けたのですが、「援軍要請したことを聞いていない」と入城を断られたのです。
そのため、仕方なく島津義弘は石田方に付くことになります。
しかし石田三成は島津軍が約1,500人と少ない兵だったので軽視し、また作戦会議で島津義弘が夜襲を提案したのに対して却下し、徳川家康が得意としている野戦で戦うことを決定するなど、島津義弘は戦意を失っていました。
そして関ヶ原の戦いが開戦しても動こうとせず、石田三成からの援軍要請にも応じませんでした。
戦いは始まった直後、一進一退の攻防戦が繰り広げられていましたが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れになり、島津軍も退路を断たれてしまう事態に陥ります。
このとき、島津義弘は覚悟し自決をしようとしていましたが、甥の豊久に説得され撤退することにします。
そして、現在も語り継がれる「島津の退き口」と呼ばれる、必死の撤退戦を決行したのです。
捨て奸(すてがまり)
この撤退戦では「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦い方で撤退が行われました。
「捨て奸」とは主君である島津義弘を守るために少数がとどまり、追撃してくる敵と全滅するまで戦い足止めすることで、これを繰り返して主君を生還させる戦法です。
この撤退戦によって島津義弘は、無事に本国に帰還することができました。
しかし、甥の豊久および多くの将兵が討ち死にし、最終的に生き残って薩摩に帰ったのは島津義弘を含めて80人余りでした。
大山俊輔
晩年と逸話
関ヶ原の戦いから生還した島津義弘は、徳川方の追討への備えと、その一方で和平交渉を行います。
この和平交渉では、関ヶ原からの撤退戦で重傷を負わせた井伊直政に仲介役を依頼し、福島正則も尽力したと言われています。
一度は徳川家康が九州諸大名に号令し島津追討に向かわせましたが、交渉で和平が成立し島津氏の本領安堵と、島津義弘の息子・忠恒への家督譲渡も認められました。
隠居した島津義弘は平松城へ移り、その後は加治木で終生まで暮らし、1619年(元和5年)に85歳でこの世を去りました。
「鬼島津」と恐れられ、戦では鬼神の戦いをしていた島津義弘ですが、また違った側面を持っていました。
その逸話として、古代中国の儒教経書や古今和歌集を愛読し、医療にも関心が強く千利休から茶道も学ぶなど文芸にも長けた人物で、愛妻家でもあったのです。
鬼と呼ばれるその裏では、とても温かみをもった人間・島津義弘が伺えます。
そのため多くの家臣から慕われており、亡くなった際には13名の家臣たちが殉死したそうです。
まとめ
島津義弘を一言で表すなら「反骨精神」ではないでしょうか。
さまざまな戦で用いた「釣り野伏せ」のように、劣勢から活路を見出した人生でした。
そんな島津義弘の魂は後世まで薩摩隼人たちに受け継がれ、のちの明治維新の原動力になったとも言えるでしょう。
そして、鬼だけでなく温かい人柄から多くの家臣に慕われていたため、現在に至るまで語り継がれており、戦国を生きた名将として親しまれています。
大山俊輔