応仁の乱は、室町幕府の将軍家と管領家後継者争いです。
果たして、どのような決着が着いたのか?気になる方も多いのではないでしょうか?
この戦いをきっかけに、戦国時代に入ります。私は、歴史好きで、この戦いについて多方面から調べ、より学びました。
フリスクン
今回は、応仁の乱について時代背景から、戦況まで徹底解説します!
目次
応仁の乱を徹底解説!
戦いの場所は?
応仁の乱は、室町幕府の本拠地である、京都府です。
今の上京区あたりで行われたと言われています。
なぜ、この場所で全軍27万人もの武士が争い合っていたと言われています。
戦いの背景
実は、この応仁の乱。戦いの背景として、4つものお家争いが原因です。
まず1つ目は、将軍家争いです。室町幕府8代目将軍・足利義政と正室・日野富子は、子供に恵まれないという問題を抱えていました。子供を産み、お世継ぎが誕生しなければ、室町幕府は衰退してしまいます。
そこで、義政の弟であった義視(よしみ)を養子に迎えます。現代ではあまり考えられない養子ですよね。
これで、義政の後釜は決まったようなものでした。
しかし、1465年、義政と富子の間に子を授かったのです。これは、喜ばしいことなのですが、養子と生まれた息子との間には格差が生じます。なんと義政は、実の息子の義尚(よしひさ)を次期9代目将軍にすると言い出したのです。
次期将軍は自分だと思っていた義視。ここで争いが起こります。
義尚派と義視派
こうして、義尚派と義視派の2派に分かれました。
2つ目は当時有力大名であった畠山家です。争いの原因は足利将軍家と同じパターンです。
畠山持国(はたけやまもちくに)は、跡継ぎが出来なかったため、弟の持富(もちとみ)を養子にしますが、その義就(よしひろ)という実子が生まれます。ここで2派に分かれ、争いが勃発します。
3つ目は、斯波家(しばけ)がお家争いをします。斯波義健(しばよしたけ)の養子である義敏(よしとし)が重臣と対立し、家督を取り上げられてしまう時代が起こります。
これにより義廉(よしかど)と義敏が家督争いを始めます。
4つ目は、実力者を後ろ盾にして、権力を獲得しようとした、山名宗全(やまなそうぜん)や細川勝元(ほそかわかつもと)の争いです。それぞれは、娘婿の関係がとても悪かったため、将軍家の後継ぎとして、宗全は足利義尚を担ぎ、勝元は義視を担ぎました。
この4つの争いが、合体します。
東軍と西軍
東軍は足利義視、畠山政長、斯波義敏です。
対する西軍は、足利義尚、畠山義就、斯波義廉です。なんとこの争いは11年にも及びます。
これだけ大きな争いでしたので、西は九州から、東は富山までの大名が一気に集結します。
戦いの流れ
1467年から11年に渡って争われた応仁の乱。
東軍が16万人。西軍が11万人と、大きな争いになります。しかし、合体したとは言ったものの、それぞれはそれぞれの戦いをし始めるので、争いが11年も長引いてしまったのです。
両軍の大将である、山名宗全や細川勝元がこの世を去ったとしても乱は収まらなかったのです。
京都の真ん中で行われたのですが、天皇が一次避難するレベルで京都が全焼。
修学旅行などでよく回る、清水寺や伏見稲荷大社、更には金閣寺なども燃えてしまいます。
さらに、両軍の境というものが応仁の乱が無かったため、裏切りや寝返りも多くありました。それぞれがどちらをバックにつけ、なんとために争っているのがわからなくなり、ただただ両軍の戦力が削がれるだけでした。
ついに決着がつくかと思いましたが、なんと、ほぼ引き分けに終わります。
なぜこんなに長引いた?
大きな争いになったこともありますが、ここで欠かせないのは、大内家です。寝返りや裏切りは多かったのですが、大内政弘が西軍に着いたことで戦線は膠着。
しかし、大内家は、参戦理由が覇権争いなのではなく、瀬戸内海の制海権という全く関係のない理由で争いに参加します。しかし、いざ戦争を終わらせようとしても大内家と細川家の問題が解消されない限り、戦は終わりません。
さらに、畠山家をはじめとした守護大名同士の争いも発展したこともあり、それぞれの大名がそれぞれの理由で争い出すという無茶苦茶な状態に突入。
こんな理由があったから細川勝元と山名宗全が亡くなっても、足利義尚に決まっても、応仁の乱は終わることができなかったのです。
応仁の乱のその後
応仁の乱の後、どのように時代は動いていくのでしょうか?
室町幕府は?
応仁の乱により、室町幕府の権力は衰退の一途をたどります。
足利義尚は9代目将軍として継ぐことになるのですが、もはや将軍の意向は無く、中央では強力な守護大名が実権を握るようになります。
焼け野原になった京都は?
荒廃した京都。守護大名たちは、荘園が無くなってしまったため、地方に都落ちするようになります。そこで、民衆たちは、自分たちで団結してお互いの身を守る組織を作るようになります。
上京・下京それぞれの民衆は、自分たちで居住区の周りを塀で囲い、無法者の侵入を防いだのです。
都落ちした守護大名は?
京都に居られなくなった守護大名たちは、地方に逃げ、そこで、都のような文化を定着させ、町づくりをしたのです。
これを、「小京都」といわれており、京都と歴史的なつながりがあり、自然景観や町並み、佇まいがあるのが特徴です。
現在、残っているのは全国で30都市近くあり、金沢や、萩、松江などに見られます。
それぞれにも京都のような伝統工芸品も発達しており、金沢では加賀友禅が有名です。
戦国時代の始まり
しかし、荘園制度を基盤としていた守護大名。徐々に衰退していきます。
「荘園制」の崩壊です。
代わりに力をつけていったのは、地方の有力武士たちです。この武士や、有力者たちが戦国大名と呼ばれることになります。
社会的に身分の下位の者が身分の上位の者を実力で倒す「下剋上の世の中」になります。
応仁の乱により、権力が地に落ち、戦国大名の時代になります。
まとめ
今回は、応仁の乱について徹底解説しました。
ここから、時代は大きく変わります。戦国時代に入り、それぞれが権力を争い始めます。
足利義政の有名な建造物として、銀閣寺がありますが、書院造りなどの、東山文化が発展していましたが、すぐに応仁の乱が起こってしまいます。また、奈良県の栄山寺には、畠山義就が記した直筆の掛け軸が残されています。
ぜひ京都・奈良に行った際は、訪れてみてはいかがでしょうか。
フリスクン&大山俊輔