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壇ノ浦の戦いについて戦いの流れから、戦後の影響まで徹底解説!

壇ノ浦の戦いについて戦いの流れから、戦後の影響まで徹底解説!

壇ノ浦の戦いは、平氏と源氏の最終決戦です。この戦いから、大きく時代が動き、鎌倉時代に入ります。

果たして、どのような決着が着いたのか?気になる方も多いのではないでしょうか?

私は、歴史好きで、この戦いについても、多方面から調べ、より学びました。

今回は、壇ノ浦の戦いについて戦いの流れから、現在残っている場所まで徹底解説します!

壇ノ浦の戦いを徹底解説!

戦いの場所は?

壇ノ浦の戦いの場所は、もちろん壇ノ浦です。
現在の山口県下関市に当たる場所で、なんと水上戦だったのです。

下関市の「関門海峡」で行われた戦いであると言われています。
なぜ、この場所で最終決戦が行われたかと言うと、「関門海峡」の彦島という場所に、平家の本拠地があったからと言われています。

戦いの背景

平安時代末期、源氏や平氏を始めとする武家が朝廷内で力を強めます。
1156年、保元の乱が起こり、崇徳上皇と後白河天皇の争いに源氏、平氏が加担し、天皇側が勝利して源氏、平氏共に力を強め始めます。

1159年、保元の乱の戦後処理に不満をいだいた藤原信頼と源義朝。この2人が台頭し、平氏の大将、平清盛に戦いを仕掛けます。しかし、清盛は反撃をし、信頼、義朝は、敗死します。

この戦いにより、大きな権力と富を獲得した平清盛は、1167年、「太政大臣」と呼ばれる地位まで昇りつめます。

1180年、平清盛の娘が生んだ安徳天皇が即位し、清盛は天皇の外祖父になります。
これに、勘付き、不満を持った後白河上皇の息子である、以仁王(もちひとおう)は、「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)をだし、源氏に対して、平氏討伐を命じます。このときに動いた代表は、源頼朝、そして木曽義仲です。

1183年、2年前にすでに平清盛は亡くなり、倶利伽羅峠の戦いが起こります。義仲軍が平家軍を破り、京を制圧します。これに困った平家。安徳天皇をつれて、都を逃げるように立ち去り、西へと行きます。
後白河法皇は、京都に残っていました。いち早く京にたどり着き、見事平氏討伐をした義仲に権限を与えず、源頼朝に重要な権利を与えたのです。失脚の危機に陥った木曽義仲。このままでは、命を奪われる危険性がある。そう考えた木曽義仲は、後白河法皇を幽閉しようとします。後白河法皇と、木曽義仲が対立し、戦いが起こりました。

1184年、源義経が木曽義仲を撃破。確実に裏切りをした木曽義仲を倒します。
また、ここから源義経が戦いで大活躍するのです。
同年、一ノ谷の戦いも起こります。断崖に囲まれた場所で陣を敷いていた平氏。しかし源義経はこの崖をもろともせず、馬で駆け下り急襲をし、平家軍を攻略します。

1185年、屋島の戦いで源氏が勝利します。この屋島の戦いは、那須与一が扇の的を射たことが有名ですね。
そして同年、西へ西へと進軍してきた源氏。本拠地を構える平家。ついに最終決戦。
壇ノ浦の戦いが始まります。

戦いの流れ

義経軍は、瀬戸内海側、つまり東から攻めはじめ、平家軍はこれを彦島から迎え撃つ形になります。
水上戦は、平家のほうが一枚上手でした。戦いが始まり、序盤は義経軍が苦戦します。

しかし、渦潮なども有名な瀬戸内海。一気に潮の流れが変わり、義経軍を後押しするように波が動き出します。

それにのった義経軍。平家方の船に乗り移り、戦況は一変。制圧に長い時間はかかりませんでした。

海鮮で船が動かせないのではどうにもなりません。ですから、この時点で平家の主だった将たちは次々と海へ身を投げたと言われています。

壇ノ浦の戦い後の情勢

壇ノ浦の戦いで大敗を期した平氏。しかしこの後、どのように時代は動いて行ったのでしょうか?

平氏は?

壇ノ浦の戦いで完全に滅亡した平氏と思われていた平氏ですが、まだ生き残っていたのです。

清盛の妻、二位尼は、即位させた安徳天皇と入水。亡くなることになってしまいます。

総大将だった平宗盛は、義経に捕まり、鎌倉に連行され、京都に送還。そのまま斬首されます。

しかし、平清盛の異母弟である、平頼盛は、兄弟の中で唯一生き残りました。後白河法皇や、源頼朝とも深い接点があり、平家の中枢から距離を置かれたと見られています。

現在、平家が落人した地では、さまざまな祭りや、集落が今でも現存されています。栃木県日光市では、毎年6月、平家大祭が行われています。また、福岡県糸島市では、平重盛とその妻の2人が落ち延びた場所として、塚や滝などがあり、美しい自然に囲まれた大地になっています。

壇ノ浦の戦いの後は?

源義経が主に活躍した壇ノ浦の戦い。しかし、源頼朝にとっては、壇ノ浦の戦いは新たな政治争いの始まりでした。

源頼朝は、戦時中に特別に得た投獄の支配権や、西国での兵糧米徴収権などを戦後でも認めてもらうよう、後白河法皇に政治交渉をします。この成果こそが、後の「守護・地頭」の設置に通ずるのです。

源義経は、壇ノ浦の戦い後、政治的に源頼朝と対立するようになります。源義経が、政治的に対立している後白河法皇にうまく手懐けられ、頼朝にとっては危険人物になります。

源頼朝は、後白河法皇と親しく接している源義経に憤怒。義経を鎌倉から追放します。後白河法皇にとって親しくしていた義経は、頼朝との政治交渉のとっておきの切り札でしたが、頼朝が追放してしまったことにより、日本の政治は次第に頼朝優位に行われていきます。

ここから、鎌倉幕府の始まりです。

源義経のその後は?

源頼朝に追放された義経。

今の東北に当たる、奥州へと移り、藤原氏にかくまってもらっていました。

しかし、それをいち早く知った源頼朝。「敵をかくまった罰として奥州藤原氏を滅亡させる!」という名目で、義経もろとも奥州藤原氏を滅ぼしてしまいます。

これで、義経は亡くなり、頼朝の敵はいなくなります。

まとめ

今回は、壇ノ浦の戦いについて徹底解説しました。

これからの日本の歴史を決める大きな戦いでもあった、壇ノ浦の戦い。

戦いの背景から、壇ノ浦の戦い、そして源頼朝による鎌倉幕府建設までの一連の流れを、「源平合戦」と呼びます。

この源平合戦は、「祇園精舎の鐘の声…」から始まることで有名な平家物語にまとめられており、那須与一の逸話や、義経の一ノ谷の戦いでの急襲など、有名な話が沢山記載されています。

漫画版なども出版されていますので、今回の解説で興味を持っていただいた方は、ぜひ御覧ください。

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