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【多数伝説あり】アレクサンダー大王の生涯を徹底解説!

紀元前300年代に、地中海からインドまでを跨るほど広大な大王国を築き上げた、アレクサンダー大王。そんなアレクサンダー大王は、様々な意味で、”桁外れ”な偉人だと言えます。そこで今回は、アレクサンダー大王は、どのような功績を残したのかに加え、幼少期の性格や名言、死因などについても解説していきます。

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 小学生から日本の歴史が大好き。中学、高校では、日本史につまずいている友人に教えると、分かりやすいと友人間で評判に。実はこう見えて現在、大学生。大学では、歴史に基づいたビジネスを考えています。

なお、アレクサンダー大王は、アレクサンドロスや、アレキサンダーと呼ばれることも多いですが、今回は、「アレクサンダー大王」で統一いたします。

アレクサンダー大王の生涯年表を徹底解説!

幼少期はどんな人?

アレクサンダー大王は、マケドニア王、フィリッポス2世の息子として誕生します。その後、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスの元で、ギリシア文化を学び、多くの学友とともに少年時代を過ごしました。

アリストテレスは、初めてものの考え方、整理して考えるという「論理学」を提唱。それを土台にした学びを、この頃のアレクサンダー大王は受けていました。

青年になるとどのような活躍をする?

アリストテレスの思想を深く学んでいたアレクサンダー大王。ここで、フィリッポス2世が暗殺され、アレクサンダー大王は、20歳の若さで即位することになります。そして、父が生前に志していた、ペルシア遠征の計画を継承したのです。

ペルシア遠征を開始したアレクサンダー大王は、小アジアからシリア、更にはエジプトへと進軍し、勝利を重ねていきます。そして、ガウガメラの戦いに置いてペルシア王を治めていたダレイオス3世を倒し、王都ペルセポリスを占領します。その結果、アケメネス朝のペルシアは滅亡します。

その後、北インドまで侵攻し、最終的には、ギリシア、エジプトからインド北部にかけて広がる大帝国を築き上げます。

アケメネス朝のペルシアは、滅亡したと書きましたが、事実上、アレクサンダー大王が統治したため、アレクサンダー大王は、ペルシアの継承者と言えます。

なぜかと言うと、ペルシア王ダレイオス1世は、広大な領土を統治するために、「王の道」と呼ばれる道路網を作り、駅などを完備していたのです。

アレクサンダー大王は、ペルシアの統治方法をうまく利用し、更に領土を拡大。ペルシアの文化は、アレクサンダー大王の帝国の中で生き続けます。

アレクサンダー大王は、なぜ「大王」と呼ばれている?

○○王、○○皇帝という風に呼ばれる人物は歴史上に数多く存在しますが、何故アレクサンダーは「アレクサンダー”王”」ではなく、「アレクサンダー”大王”」と呼ばれるのでしょうか?
あまりにも基本的すぎる部分ではありますが、よく考えると疑問に感じる部分です。

これに関しては、明確な理由が存在していません。ですので、誰かに咎められるようなものではないと言えます。

ただ、大王という軽症の使われ方の傾向からすると、「他の人物とは比較にならないほど、偉大な功績を治めた王(皇帝)」に使われる称号と言われています。

アレクサンダー大王と言われるのは、青年時代まで、様々な功績をのこしたからだと言えます。

アレクサンダー大王は、どのように亡くなった?

ペルシアまで制服をしたアレクサンダー大王。その後、更に領土を広げようと、アラビア遠征を計画していましたが、とある夜にバビロンで催された宴の最中に倒れ、32歳の若さで死没。
この死因は諸説ありますが、「病死」、「毒殺」など、どれも一律の信憑性が感じられます。
そして、死の間際に「最強の者が帝国を継承せよ」という言葉を残したのです。

このアレクサンダー大王の言葉により、家臣らは荒れに荒れ、戦争を引き起こします。そこで、王国は分裂。アレクサンダー大王がいかに偉大な大王だったか、よく分かりますね。

ちなみに、遺体なのですが、故郷であるマケドニアへ向かう予定でしたが、アレクサンダー大王に仕えた将軍の1人である、プトレマイオス1世が、エジプトのメンフィスに埋葬するように指示。そして紀元前3世紀には遺体がメンフィスからアレクサンドリアへ移されます。

初期キリスト教会の地下聖堂にアレクサンダー大王の遺体が眠っているという伝説が残っています。

アレクサンダー大王の都市伝説 と名言を徹底解説!

アレクサンダー大王の都市伝説!

人類最初の聖地巡礼

アレクサンダー大王は、母の祖先であるアキレウスを非常に尊敬していました。アレクサンダー大王が描かれている、ギリシア抒情詩『イーリアス』の大ファンだったと伝えられています。その尊敬ぶりは、戦場にも表れており、「戦場で『イーリアス』に描かれたアキレウスの言動を真似する」「遠征中、各地に残るアキレウスゆかりの地を巡ってはしゃぐ」など、中々微笑ましいエピソードも数多く残されています。

インド神話の神のモデル!?

「世界史上最も成功した軍司令官」として名高いアレクサンダー大王。
その成功ぶりからか「神のモデルになった」とも噂されています。
インド神話の神であり、仏教では「韋駄天」として伝わるスカンダ神などは、一時期は本気で「アレクサンダー大王をモデルにした伝説」と信じられていました。

アレクサンダー大王、死の予言

アレクサンドロス大王は、バビロンに帰還した後に32歳の若さでこの世を去りました。しかし、遠征軍がインドにいた頃、同行していたカラノスというヒンドゥー教のバラモン僧が、アレクサンダー大王の死を予言していました。

カラノスは、自らの焼身自殺を望み、多くの人に囲まれながら自殺します。そのときに残された言葉が、「アレクサンダー大王、我らはバビロンで会うだろう」と言ったと言われています。その当時は、進軍を進めていたため、誰も意味を理解できませんでした。

名言から紐解く、アレクサンダー大王の武勇伝

挑戦し続ける限り、我らに出来ないことはない

アレクサンダー大王は、約4500kmに及ぶ大遠征を成し遂げます。数字で見ると、いまいち伝わりにくいかもしれませんが、「邪馬台国も存在していなかった時代に、日本列島15個分の面積を整復した」と考えると、異常な功績です。この言葉は、よく言われがちの言葉ですが、アレクサンダー大王が言うと、言葉の重みが違います。

私は勝利をくすねるような真似はしない。

夜襲を進言してきた配下に対しての言葉だと言われています。
一見すると彼の「正々堂々とした人柄」を示す発言のようですが、実際は彼の「類稀な戦術眼」を示す言葉だと言える名言です。この言葉を言ったアレクサンドロス大王は、敵軍と睨み合っている状況下で悠々と眠りこけ、夜襲を警戒して翌朝には疲れ切っていた敵軍を、次の日の朝にはなぎ倒すように叩き潰していったと言われています。

運命とは伝説によってもたらされたものではなく、自らの剣によって切り拓くものである。

「解いた者がアジアの王になる」という伝説を持った”ゴルディアスの結び目”を、剣で叩き切った時の発言です。結び目を”解く”のではなく”切る”という斬新な解決方法は、現在でも「難題を思いもよらない方法で解く」という意味の故事成語『ゴルディアスの結び目』として語り継がれています。

まとめ

偉大であり、才能に溢れ、多くの人をひれ伏させた大王、アレクサンダー大王。その活躍ぶりあってか、現在も、その名前は消えることなく、語り継がれています。また、アニメなどにもアレクサンダー大王をモデルにしたキャラクターが出ており、大胆な発言と行動をするキャラというイメージが強いです。

古代に活躍したアレクサンダー大王。その人の言葉には、重みがあり、私達も挑戦してみようと、意欲が湧いてきますね。

今回はアレクサンダー大王をご紹介しました!

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