サイト管理人:大山俊輔
ラグビー・ワールドカップは南アフリカの優勝で終了しました。
その際、こんなニュースが話題になっているようです。
頼む。これに関しては批判しないでくれ。
欲しかったのは銀メダルじゃないんだ。
勝負の世界では金以外には価値がない。そう思えるほど必死で血の滲む想いがある。
https://t.co/vI4ny5H0nK— DuncAn (@duncan1coc) November 2, 2019
にわかラグビーファンの私がこのことを評論してもどうかなぁと思うので、スポーツとしての印象はここでは書きません。ですが、ふと思ったことは「ボーア戦争」以来の因縁の対決だわ。これ。
この一言です。
なので、イングランド代表がこうした大人気ないことをしてしまう背景に思いを馳せざるをえません。
かつて、南アフリカ(厳密にはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国)は全盛期の大英帝国に対して立ち上がりました。これが有名な「ボーア戦争(ブール戦争)」です。そして、何度と戦いで苦しめたからです。
そして、ボーア戦争をきっかけに、大英帝国は単独での世界支配を断念。「光栄ある孤立」路線を放棄することになります。そして同盟を結んだのが明治維新から我が日本(大日本帝国)だったのです。
そう考えると、今回の決勝戦が日本で開催されたというのも面白い縁を感じますね。このブログではボーア戦争を通じて今回のイギリス・南アフリカ戦の因縁を解説します。
歴史とはかくも因縁深いものなのですね!
目次
ボーア戦争とは
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1904_worlds_fair_boer_war_program.jpg
植民地としての南アフリカについて
現在の南アフリカに最初に植民したのはオランダでした(もちろん、それ以前からケープタウン周辺には原住民の方々が住んでいました)。こうした経緯から、南アフリカの白人の中にはオランダ系の人(ボーア人)が多いのが特徴です。
今回の南アフリカ代表監督のエラスムスなどは、『愚神礼賛』で有名なオランダの神学者エラスムスと同じ名前ですし、日本代表を苦しめたスクラムハーフのデクラークなどは、かつての大統領(ネルソン・マンデラと共にノーベル平和賞受賞)と同じ名前でこれも同じオランダ系の名前です。
こうしてオランダの植民地であった南アフリカですが、その後ナポレオン戦争のどさくさに紛れてイギリス領になります。こうしてケープ植民地が誕生します。このなかで、公用語が英語となります。オランダ語(アフリカーンス語)を話すボーア人たちは、イギリスの影響が及ばない内陸地に移動し、ここで、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国が誕生します。
ボーア戦争(第一次)の開始
セシル・ローズの風刺画/出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Rhodes.Africa.jpg
こうして植民が進んだ両国ですが、オレンジ自由国でダイヤモンドが、トランスヴァール共和国で巨大な金鉱が発見されます。これに目をつけたのが、ダイヤモンドを主とした資源カルテル、デビアスグループの創設者でもあるセシル・ローズです。当時、企業家でありケープ植民地首相でもあったローズは、現在のジンバブエを征服し、自分の名前にちなんでローデシアと命名。さらにトランスヴァール共和国内に侵入することをもくろみます。
ここで、イギリスは居留民保護(イギリス系の鉱山技師)を大義名分として、勝手にトランスヴァール共和国の併合を宣言。当然、これに納得しないボーア人政府は大英帝国に宣戦布告します。
この戦いは双方とも大規模な動員を行うことはありませんでしたが、大英帝国はいくつかの戦いで惨敗。多大な犠牲を出した上で、プレトリア協定を締結。
勝手に併合したトランスヴァール共和国の独立を再度承認するという面目丸つぶれの条約を結ばされます。
ボーア戦争(第二次)の開始
こうして第一次ボーア戦争はイギリスの敗戦に終わりますが、その後、ローズの政策を継承したイギリスの植民地相ジョゼフ・チェンバレンが両国への侵略を継続します。このときのイギリスの口実は再び居留民保護。チェンバレンは最後通牒を行いますが、トランスヴァール共和国側もイギリスに対して48時間以内にイギリス軍の退去を求める最後通牒を通達。こうして、1899年10月に二回目の戦いが起こりました。
前回と異なり、イギリスは最終的にこの戦争に25万人もの兵力を動員しています。初戦では、ボーア軍は再び英国軍を度々撃破し、英軍は戦線が崩壊する恐れもありました。こうして、議会での承認を待っていると戦線が持ちこたえられないと判断し、インドやオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどの大英帝国の植民地から義勇兵を募集し動員するに至っています。
こうして、何度かの苦戦を経て大英帝国はトランスヴァール共和国、オレンジ自由国を併合しほぼ、現在の南アフリカの領域が確定しました。
ボーア戦争その他のよもやま話
この戦争で英国は単独での世界支配を諦めることになります。そもそも、当時の人口が3800万くらいのイギリスがインドを含めた世界支配を行うこと自体、凄まじいと同時に無理のあることです。また、この頃にはヨーロッパでは国家統一を成し遂げたドイツやイタリアと言った強国が新たに誕生し、かつてのライバルだったフランスと共にイギリスの植民地拡大に待ったをかけるようになります。
更にイギリスから独立したアメリカも産業革命を経て急速に国力を整え、太平洋に進出するようになりました。
こうなると、のんきに「栄光ある孤立」なんてドヤ顔をする余裕のなくなったイギリスはついに第三国との同盟を結ぶことになります。これが、我が日本(当時は大日本帝国)です。
アパルトヘイトからマンデラへ(映画『インビクタス/負けざる者たち』)
このエントリではイギリスと南アフリカの因縁のについてまとめたため、南アフリカ内部でのアパルトヘイトについてはあまり触れません。
ですが、ボーア戦争後の南アフリカではイギリス系の白人と征服された旧トランスヴァール共和国、オレンジ自由国のオランダ系の白人は融和します。代わりに割りを食ったのが、それ以外のアフリカ系の方々でした。
御存知の通り1990年代まで南アフリカにはアパルトヘイトと呼ばれる強烈な民族差別が存在しました。この国家の分断をアパルトヘイトを廃止し、融和に導いたのが今はなきネルソン・マンデラ大統領です。
この視点で見ると、国内での過去の因縁を乗り越えた南アフリカのチームと、また、別の因縁を持ったイングランドとの対決という2つの因縁がこの試合には内包されていたとも言えるでしょう。このあたりに興味がある方は、クリント・イーストウッド監督、モーガン・フリーマンがネルソン・マンデラを演ずる映画『インビクタス/負けざる者たち』がおすすめです。
まとめ – スポーツは歴史とセットで見ると面白い
いかがでしたでしょう?
今回のイングランド・南アの決勝戦に開催地としての日本の因縁を感じるには十分な歴史的経緯があることが見えてきましたね。
また、サッカーやラグビーでは常にイギリスは構成国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドがバラバラで出場しますがこれもかつての大英帝国の歴史を見ていけば、複雑な関係であることがわかります。だからこそ、イギリス構成国であるこの4カ国の戦いは、フランスや日本といった外国との戦い以上に、ファンはヒートアップするのでしょう。
スポーツと歴史。この関係を紐解きながら見てみました。
それでは!
ハビットマンShun