紀元前331年、地中海からインドまでを跨るほど広大な大王国を築き上げた、アレクサンダー大王。その進軍のことを、東方遠征といいます。その遠征時に、アケメネス朝ペルシアがぶつかります。
フリスクン
結果は一体どうなったのか…。
この記事では、マケドニアとペルシャの天下分け目の戦いとなったガウガメラの戦いについて、背景から主要人物、さらには戦い後のアレクサンダー大王の動きまで、徹底解説していきます。
目次
ガウガメラの戦いについて徹底解説!
ガウガメラの戦いが行われた場所は?
ガウガメラの戦いが行われた場所は、もちろんガウガメラです。現在のイラク北部に位置する場所です。有名な土地として、モースルが挙げられます。モースルは古代のニネヴェの遺跡と世界有数の石油生産で知られています。
ガウガメラの戦いの主要人物
アレクサンダー大王
偉大であり、才能に溢れ、多くの人をひれ伏させた大王と言われています。ギリシアから、インドまで大きく征服したことで有名な大王です。桁外れの実績を持つアレクサンダー大王は、このガウガメラの戦いでも大きな活躍を見せます。
ダレイオス3世
アケメネス朝ペルシア帝国最後の王です。このガウガメラの戦いにて、アレクサンダー大王と退治することになります。ペルシアでの内紛により、王になります。長年ペルシアはギリシアと対立していました。このガウガメラの戦いによって、彼はどうなるのでしょうか。
ガウガメラの戦いの背景
ガウガメラの戦いを語る上で、イッソスの戦いは外せません。紀元前333年10月。アレクサンダー大王率いるアルゲアス朝およびコリントス同盟の連合軍対ダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシアの戦いです。現在のトルコ・イスケンデルン付近にあったイッソスという場所で戦いが起こります。ペルシア軍の兵力は推定10万。ギリシアの連合軍は約4万とされています。数ではペルシア軍が優勢です。
ペルシア軍は引き返してくるギリシアの連合軍に攻撃を仕掛けました。しかし戦場になったのは大軍が動きにくい狭い地形でした。アレクサンダー大王は騎兵と重装歩兵をうまく使ってペルシア軍を壊滅させました。
ダレイオス3世は、アレクサンドロス3世が率いる騎兵隊が向かってくるとすぐ逃げ出しました。鎧や武器まで放り出して逃げたといいます。王が逃げたのを知ったペルシア兵は総崩れになります。
ペルシア軍の大敗でした。ペルシアの王が参加した戦いで負けたのは初めてでした。戦いに同行していたダレイオス3世の妻スタテイラ1世と娘のスタテイラ2世とダレイオスの母、シシュガンビスが捕虜になりました。アレクサンドロス3世は彼女たちを丁重にあつかい後にスタテイラ2世を妻にしました。ダレイオス3世はアレクサンドロス3世に和睦を申し入れますが拒否されます。その後、ダレイオス3世はアレクサンドロス3世がエジプトに遠征に出ている間に軍を立て直します。
アレクサンダー大王は、ダレイオス3世を追い詰めるべく、ガウガメラへ進軍します。
ガウガメラの戦いの流れ
ギリシア連合軍は騎兵7000騎、歩兵4万人と推定されています。
ペルシア軍の数は諸説ありますが、騎兵4万5000、歩兵20万人の説が有力です。
ペルシア軍中央部はダレイオスが指揮を執り、王の「同胞」と呼ばれる精鋭騎兵部隊と「金林檎の槍持ち」と呼ばれる親衛部隊が陣をとります。その横を固めるのはペルシア軍最強の歩兵戦力であるギリシア人の傭兵部隊でした。中央部にはインド人やガリア人、マルドイ人やバビロニア人、紅海沿岸諸族、シッタケノイ人などが配置されたほか、この時代では最強とされていたゾウ部隊もここにおかれます。
アレクサンダー大王は、後にインド侵攻後にゾウ部隊と激しく戦いますが、始めてゾウ部隊に遭遇したのはガウガメラの戦いでした。
ペルシア軍右翼はサカイ人、パルティア人、カッパドキア人、ヒュルカニア人などの騎兵部隊が配置されます。右翼はシリア・バビロニアの太守マザイオスが指揮を執っていた。そしてダレイオスがかなり期待をかけていた兵器である大鎌付き戦車は全ての場所に配置されます。 ガウガメラの平原を戦場に選び、しかも戦場を前もってならしていたと言われることからもこの兵器によりギリシア連合軍に損害を与えようとしていたことが分かります。
ダレイオス3世は推定25万の軍勢を率いてガウガメラの平原に布陣しましたが、唯一の不安点はアレクサンドロスを恐れるあまり 一晩中完全装備の状態で警戒態勢をとらせ続けた事だと言われています。これによりペルシア軍の兵士たちは疲労してしまい、 恐怖心が心の中にわき上がり、結果としてペルシア軍の士気が低下してしまうことになったと言われています。
ダレイオス3世は、さまざまな民族から兵を率いて戦いに出ます。一体どうなっていくのでしょうか。
対する、アレクサンダー大王率いるギリシア連合軍。中央にマケドニアの密集歩兵部隊と近衛歩兵部隊が位置し、その両翼は騎兵が固めていました。左翼はテッサリア騎兵と同盟軍騎兵、オドリュサイ人騎兵、弓兵と投槍兵が位置し、右翼はヘタイロイ騎兵、アグリアネス 人軽装兵、弓兵、傭兵騎兵(メニダス指揮)、パイオネス人騎兵、前哨騎兵、古参傭兵部隊が配置されています。アレクサンドロスは メニダス指揮の傭兵騎兵部隊に、敵が側面包囲を試みたのであれば、方向を転じてそれを迎え撃つように命じていました。
中央の歩兵部隊の背後にはギリシア人歩兵部隊が第2列として配置され、ペルシア軍が包囲しようとしたならば方向を転じて迎え撃つように命じられていました。このような、斜線陣を組むことによって、ペルシア軍と戦います。
ダレイオス3世は自らに有利な場所を戦場に選び、帝国全土から大軍を動員して備えたにもかかわらず、彼が率いるペルシア軍は数の優位を生かしてギリシア連合軍を包囲することができず、マケドニア軍の中央に生まれた隙間を突くことはできても、それを活かすこともできず、さらに頼みの戦車は全く無意味で終わりました。一方でアレクサンドロスはペルシア軍の戦列にできた隙間を突いてダレイオスに突進し、彼を敗走させてペルシア軍を一気に敗北へと追いやります。アレクサンドロスの部隊の巧みな運用と攻撃するべき時にはためらうことなく攻撃を仕掛ける果断さが勝利をもたらしたのです。
ガウガメラの戦いの後、どうなった?
ダレイオス3世は?
ガウガメラの戦いに勝利したアレクサンダー大王。
ようやくダレイオス3世を討ち取れると思いましたが、捕獲することが出来ませんでした。ダレイオス3世は、体勢を立て直すべくさらに東へと逃げていきますが、再起することはできず、部下のベッソスらに裏切りにあって悲劇的な最期を遂げることになります。
ベッソスは自らペルシアの王を名乗ります。しかし、ベッソスはとアレクサンダー大王戦って敗退、処刑されました。歴史上、ベッソスはペルシアの王とは認められていません。ダレイオス3世がアケメネス朝ペルシア最後の王です。
アレクサンダー大王は?
アレクサンダー大王がダレイオスの追撃に夢中になるあまり後方に残したマケドニア軍左翼が危機的状況に陥るなどの問題も残しているとされています。この後、ペルシア帝国を滅ぼし、紀元前327年までかかって中央アジアのバクトリアとソグド人を平定。今度は南下してインダス川領域に入ります。ここからアレクサンダー大王の快進撃は続くと思われましたが、バビロンで熱病にかかり、紀元前323年に急死。ここから新しい時代へとはいっていきます。
まとめ
今回は、ガウガメラの戦いについて解説していきました。
この戦いによってペルシア帝国の敗北は決定的なものとなり、アレクサンドロスがペルシア帝国の新たな支配者としてバビロンやスサ、ペルセポリスへとはいる道を開くことになったのです。
圧倒的な兵力の差があったのに対し、大勝してしまうアレクサンダー大王。それだけ、才能があった王であったことが、この戦いでもよく分かります。
フリスクン