この記事では戦国時代最大の逆転劇である河越夜戦について解説したいと思います。
日本各地で戦が続いていた戦国時代、時には劣勢を覆して少数の兵力で大軍を破る大逆転劇が繰り広げられました。織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いや、毛利元就の台頭のきっかけとなった厳島の戦いなどは有名ですよね。しかし、意外とその存在が知られないのが「河越夜戦」(かわごえよいくさ)です。
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実は、「河越夜戦」(かわごえよいくさ、「河越城の戦い」)は知れば知るほどその戦いの経緯から戦後の関東地方への影響まで実に大きく知る価値のある歴史的イベントです。この記事ではこの戦いをわかりやすく解説し、歴史があまり好きでない方でも河越夜戦について理解できるようにまとめました。
対談人:大山俊輔
今回の記事ではまず、河越夜戦に至る背景を解説してから、河越夜戦の経緯とその影響を論じていきたいと思います。
目次
河越夜戦はどこで起きた戦い?どうして起きたの?
河越夜戦は1546年(天文15年)に河越城を巡って、後北条氏(小田原北条氏)と山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方との間で起きた戦いです。
河越城はどこにあるの?
河越城はその名の通り、現在の埼玉県川越市にあった城で、1457年(長禄元年)に扇谷上杉家の家臣太田道真・道灌父子によって築城されました。なお、太田道灌は江戸城を築城した人物としても知られており、道灌山などの地名がいまでも東京都内に残っているように、江戸・東京とゆかりのある人物です。
河越夜戦の背景
では、なぜ河越夜戦が起きたのでしょうか。まずはその背景から解説していきたいと思います。
室町時代の関東地方について
河越夜戦の背景について述べる前に、まずは室町時代の関東地方について解説しておきましょう。
1336年に足利尊氏が室町幕府を開くと、尊氏は京から遠く離れた関東地方に幕府の出先機関である鎌倉府を設立し、1349年(貞和5年)には次男の基氏を鎌倉府の長、鎌倉公方として派遣しました。鎌倉府では鎌倉公方とその補佐役である関東管領が関東各地の武士団を管轄していました。
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時代が進むにつれ、鎌倉府は京の室町幕府からの独立傾向を強め、室町幕府との対立が深まっていきました。また、鎌倉公方は幕府からの独立を強く求める一方で、関東管領を代々務めていた山内上杉氏は幕府と親密な関係にあり、鎌倉府内でも鎌倉公方と関東管領との対立が強まっていました。
永享の乱
1438年(永享10年)には将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の対立が頂点に達し、義教は諸国の守護に命じて持氏を討伐させました。幕府方の大軍に敗れた持氏は降伏した後に幽閉され、翌年(永享11年)には自害に追い込まれます。この一連の戦いは「永享の乱」と呼ばれます。
持氏の死後も関東では戦乱が続き、1440年(永享12年)には持氏の遺児であった春王丸と安王丸を擁立した結城氏が反乱を起こしましたが(結城合戦)鎮圧され、春王丸と安王丸は殺害されます。春王丸と安王丸の弟であった万寿王丸も捕えられますが、処刑される前に将軍義教が翌年(永享13年)の嘉吉の乱で暗殺されてしまい、生き延びます。
享徳の乱
鎌倉府への抑圧政策を強めていた義教の死とともに、関東の諸豪族が鎌倉府の復興を求め、1447年(文安4年)に万寿王丸が足利成氏として鎌倉公方に就任します。しかし、鎌倉公方と関東管領、そして幕府との対立は再び激化し、1455年(享徳4年)には享徳の乱が勃発します。
享徳の乱が勃発すると、幕府方は駿河守護今川氏の軍勢を送り込んで鎌倉を攻略し、新たな鎌倉公方として将軍足利義政の兄、足利政知を派遣します。しかし、成氏は下総国古河(現在の茨城県古河市)に逃れて戦いを継続し、関東の諸豪族も政知に服従しなかったため、政知は伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に留まり、堀越公方と呼ばれます。その後も、関東各地で幕府方と成氏方の戦いは続き、先述の通り幕府方の拠点として河越城が築城されるなどしました。享徳の乱は1483年(文明14年)に幕府と成氏が和睦するまで28年間にわたって続き、享徳の乱によって関東地方はいち早く戦国時代に突入したとも言われています。
成氏と幕府が和睦すると、今度は関東管領を代々輩出する名門・上杉氏の内紛が起こります。元々、上杉氏は本家筋の山内上杉家と分家筋の扇谷上杉家に分かれていました。享徳の乱が起こると、名将太田道灌を擁する扇谷上杉家の勢力が強まり、山内上杉家を脅かします。山内上杉家の上杉顕定は扇谷上杉家の上杉定正に太田道灌を暗殺するよう仕向け、古河公方足利政氏(成氏の子)と同盟を結び、1487年(長享元年)には顕定が定正を攻撃して長享の乱が勃発します。
後北条氏の台頭
こうした関東の戦乱に乗じて台頭してきたと言われているのが、今回の主役である後北条氏です。
後北条氏初代の北条早雲は元々駿河(現在の静岡県東部)の今川氏に仕えていましたが、長享の乱に乗じて堀越公方を攻め、伊豆国を占領してしまいます。その後、早雲は小田原城を奪うなど、相模国(現在の神奈川県)への進出を強め、関東に覇を唱える足掛かりを築いたのです。
1505年(永正2年)には扇谷上杉家が山内上杉家に降伏し、長享の乱が終結するものの、翌年(永正3年)には山内上杉家のお家騒動から永正の乱が勃発し、もはや関東管領としての上杉氏は力を失っていました。また、古河公方も政氏の後継者を巡る争いから、政氏の次男である足利義明が上総国小弓城(現在の千葉県千葉市)で独立して小弓公方を称するなど、混乱を極めていました。こうした情勢の中で、上杉氏や古河公方に代わって勢力を強めたのが後北条氏だったのです。
後北条氏による関東進出
初代早雲の跡を継いだ二代目の北条氏綱は、山内・扇谷上杉家と戦って領土を武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)に拡大する一方で、古河公方との関係を強化します。1538年(天文7年)には古河公方足利晴氏の要請で小弓公方足利義明を攻め、国府台合戦で義明を敗死させています。
その後、氏綱は娘を晴氏に嫁がせ、古河公方との姻戚関係を利用して晴氏から関東管領に任命されたと言われます。
もちろん正式には、関東管領は山内上杉家が務める役職であり、氏綱の任命は正式なものではなかったと思われますが、これによって自らの地位を脅かされた山内上杉家は強い危機感を抱き、扇谷上杉家と再び協力して後北条氏に対抗する姿勢を示します。そのような情勢の中で起きたのが、今回取り上げる河越夜戦です。
河越夜戦の舞台となった河越城は1457年の築城以降、扇谷上杉家の拠点となっていましたが、1537年(天文6年)に北条氏綱に攻め落とされ、以降は後北条氏と扇谷上杉家の勢力争いにおける最前線の最重要拠点となっていました。
河越夜戦の経緯について
ここからは、河越夜戦の経緯について説明したいと思います。
北条氏綱の死去、氏康の家督相続と挙兵
1541年(天文10年)に後北条氏第2代当主、北条氏綱が死去し、27歳の北条氏康が後を継ぎます。若い氏康が後北条氏を継承したことを見て、山内上杉家当主の上杉憲政が動き出します。憲政はまず駿河の今川義元と結託し、1545年(天文14年)7月に義元は後北条氏に対して挙兵しました。
義元の挙兵を知った氏康は駿河に出陣しますが、この隙をついて憲政も、扇谷上杉家当主、上杉朝定と同盟を結び、1545年(天文14年)10月には後北条氏が占領していた河越城を包囲します。山内上杉家と扇谷上杉家は永正の乱で争った仇敵同士でしたが、このままでは後北条氏に滅ぼされてしまうため、手を組んだのでしょう。
さらに、河越城を包囲した山内・扇谷上杉氏に古河公方足利晴氏も呼応します。晴氏の側室は氏綱の娘であったことから、晴氏が敵方についたことは氏康にとって誤算であったと思われます。古河公方の晴氏と関東管領の上杉憲政、そして扇谷上杉家の上杉朝定が同盟したことにより、関東各地の諸豪族が後北条氏を見限り、両上杉家に味方します。この結果、一説によれば河越城を包囲した軍勢は8万にのぼったともいわれています。
河越城には北条氏康の義弟である北条綱成が兵3000とともに駐留していましたが、圧倒的な大軍に完全に包囲され、籠城戦を余儀なくされます。ここに至って後北条氏は東からは今川義元、西からは両上杉家と古河公方の大軍によって挟み撃ちに遭うという後北条氏始まって以来最大の危機を迎えます。
対談人:大山俊輔
北条氏康の戦略
では、北条氏康はどのようにしてこの危機を切り抜けたのでしょうか。
まず、氏康は今川義元との和平交渉を行います。1545年(天文14年)10月に甲斐国(現在の山梨県)の武田晴信(後の武田信玄)の仲介により、後北条氏領であった駿河国東部を今川氏に割譲するという条件で義元との講和が成立します。
これによって、二正面作戦を回避した氏康はすぐさま8000の兵を率いて河越城救援に向かいます。しかし、河越城を包囲する大軍の前に、河越城を救うことは容易ではありませんでした。
河越城救援
氏康による偽りの降伏文書
そこで、氏康はまず一計を案じて敵方を油断させる作戦に出ます。氏康は足利晴氏や上杉憲政といった敵方の指揮官に対し、こんな申し入れをします。
- 河越城を明け渡す用意があるので許してください
- 綱成や城兵を助命してくれれば古河公方に臣従するんで勘弁してください
8万にも及ぶ大軍で包囲してるわけですから、攻め手もこうした声を氏康の本心と思ってしまいます。そのうえで、氏康は自ら「大軍を前に戦意を喪失している」という偽りの情報を流します。
これによって、連合軍の間では楽勝ムードが漂います。さらに、河越城の防御は高く包囲戦が長期化したこともあり、連合軍の士気は次第に低下していったのです。
北条勢の攻勢
連合軍側が油断しきった1546年5月19日(天文15年4月20日)の夜半、氏康がついに行動を開始します。氏康は指揮下の8000の兵を4つの部隊に分け、1つの部隊を予備として残し、自ら3隊を率いて敵陣への夜襲を敢行します。
戦意を喪失していると思い込んでいた後北条勢の夜襲を受けて連合軍は大混乱に陥ります。奇襲を受けた両上杉勢は総崩れになり、山内上杉家当主の上杉憲政は命からがら上野国平井城(現在の群馬県藤岡市)に逃げ延びましたが、扇谷上杉家当主の上杉朝定は乱戦の中で討死してしまいます。さらには、河越城に籠城していた北条綱成もこれに呼応して城から出撃し、足利晴氏の陣に突撃します。
対談人:大山俊輔
混乱しきっていた足利勢は綱成の攻撃によって壊滅し、足利晴氏は本拠地の古河へと敗走してしまいます。
こうして、河越夜戦は後北条氏の勝利に終わり、連合軍は圧倒的な兵力を有していたにもかかわらず、1万数千の損害を出す大敗北に終わってしまいました。
河越夜戦の影響について
扇谷上杉家の滅亡
河越夜戦の結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡し、関東管領を務める山内上杉家の権威も失墜します。また、古河公方の足利晴氏も後北条氏に攻められ、1552年(天文21年)には北条氏康の妹との間に生まれた足利義氏に家督を譲ることを余儀なくされてしまいます。
上杉謙信の誕生
河越夜戦に敗れた山内上杉家当主の上杉憲政はその後も後北条氏との争いに敗れ、武蔵国を放棄して上野国(現在の群馬県)へと撤退します。しかし、上野国も後北条氏や武田氏の攻撃を受け、1558年(永禄元年)には越後国(現在の新潟県)を支配する長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに亡命します。
このように、河越夜戦を通じて両上杉家や古河公方といった室町時代を通じて関東に君臨してきた旧来の権力が没落する一方で、下剋上によって勢力を拡大してきた戦国大名である後北条氏は河越夜戦の勝利を通じてさらに勢力を拡大していきました。
まとめ
以上、河越夜戦について解説してきましたが、いかがだったでしょうか?
歴史上において少ない兵力で大軍を破った例はそう多くはありません。兵法の常道として、兵力の差は勝敗に大きな影響を与えます。しかし、そうした常識では考えられない奇跡が時には起こるのが歴史の面白さではないでしょうか。
考えてみれば、戦国時代の英傑たちには劣勢や逆境をはねのけて、勢力を拡大していった例が多く見られます。織田信長は桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破ったことで天下取りへの第一歩を踏み出しましたし、毛利元就も厳島の戦いで自らより遥かに大きな勢力を誇った陶晴賢を討ち取ったことで中国地方の覇者の地位へと飛躍していきました。また、今回ご紹介する河越夜戦において北条氏康は圧倒的な敵の大軍勢にも諦めることなく、ひるむことなく立ち向かっていった結果、常識では考えられないような大勝利を掴み、関東の覇者への道を駆け上がっていきました。
そして、河越夜戦の一連の経緯や結果を見ますと、「油断大敵」「逆境でもあきらめない」といった教訓を感じることができます。こうした教訓は現代に生きる我々の暮らしや仕事にも十分生かせるものでしょう。。歴史を知り、歴史に学ぶことで、歴史的な教訓を現代に生きる我々の人生に生かし、人生を豊かにする。これこそが「歴史を学ぶこと」の愉しさではないでしょうか。
フリスクン&大山俊輔