世界史のなかでも、とても重要な地点である、アナトリア(小アジア)。
ヒッタイト、ペルシャ、そして、ローマ帝国からビザンツ時代を経て最終的に現在トルコ共和国の主たる領土となっているエリアです。
フリスクン
- アナトリア(小アジア)という言葉を聞いたことはあるけれども、具体的にどのエリアを指すのかわからない?
- アナトリアの歴史を知りたい
- 現在のアナトリアはどうなっているのか知りたい
大山俊輔
この場所は、古くから様々な文明が築かれ、支配されてきました。
この記事では、数多くの文明を育んできたアナトリア(小アジア)につきまして、地理的な解説からはじまり、その歴史的経緯、そして、どのような経緯を経て現在に至るのかについて解説をしていきます。
目次
アナトリアの場所は!?
現在のトルコ
それでは、まず、このアナトリアというエリアを見てくためにアナトリアを保有するトルコがどこにあるのかを見てみましょう。
上記の地図のようにトルコはアジアとヨーロッパにまたがります。
ヨーロッパ側はバルカン半島に領地があり、ブルガリア、ギリシャなどと国境を接しています。また、アジア側がアナトリアと呼ばれるエリアになります。
アナトリア(小アジア)の場所は?
アナトリアは、北は黒海、西はエーゲ海、南は地中海に面しています。
東、南東は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアにつながっています。
アジアとヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置します。
ですから、文明の発祥から、オスマン帝国まで、長い歴史があるのです。
アナトリアの歴史を徹底解説!
オリエント・ヒッタイト時代
ヒッタイト
ギリシアやローマから見て、広くオリエント世界に属しており、アジアとヨーロッパを繋ぐ場所ですので、メソポタミア文明とエーゲ文明の橋渡しをする位置にあります。
アナトリアは、鉄鉱石が豊かであったため、鍋や釜、鉄瓶などに代表される、鉄器を作るのが始まった地ではないかと言われています。
また、民族移動によって移住をしてきたインドヨーロッパ語族のヒッタイトが、鉄器を作る技術を身につけ、アナトリアで有力な民族となります。
ペルシア時代
ヒッタイトは更にオリエント世界に進出し、エジプト新王国とも争いましたが、海の民の侵攻を受けます。
その後、アナトリアは都にサルデスをもつ、リディア王国の支配を受け、さらにアケメネス朝ペルシア帝国が、東からこの地を支配しました。アナトリアの西側のエーゲ海岸にはギリシア人が進出して、植民を建設しはじめます。
そしてアナトリアの南西部に位置するイオニア地方をめぐってペルシア帝国とギリシアのポリス連合軍の間で起こったのがペルシア戦争です。
ヘレニズム時代
ペルシア帝国がアレクサンドロスによって滅ぼされた後は、ディアドコイの一人、セレウコスがシリアと併せて支配し、セレウコス朝シリアとなります。
しかし、前3世紀には西端にペルガモンが独立し、ヘレニズム文化が栄えます。
アナトリアには他にポントス、カッパドキアなどヘレニズム諸国が分立します。
ポントス王国は、前1世紀にミトリダテス王の時に兄弟となり、その頃東地中海にまで支配を及ぼしていたローマに抵抗して、ミトリダテス戦争を起こし、最終的には、ローマ軍に制圧されます。
ローマ帝国の支配
ローマ帝国とコンスタンティノープル
前1世紀までにローマに服属し、アナトリアの西部はローマの属州アシアとなります。ローマは更に東方に進出して、パルティアと争います。
紀元前後の共和制ローマ及び帝政ローマは、アナトリアの東方のペルシア人国家であるパルティアとその勢力を争いましたが、同時にアナトリアを通る交易ルートを使って盛んに東西交易が行われました。
330年にはコンスタンティヌス帝が小アジアとバルカン半島の間のボスフォラス海峡に面した、かつてのギリシア人植民市であるビザンディオンに遷都して、ローマ帝国の中でも小アジアの比率が高まります。この場所をコンスタンティノープルと呼ばれるようになります。
この場所がローマに代わって新しい首都とされたのは、東西の交易ルートを抑えるという意味合いもあったと言われています。
この時代からキリスト教が国教になり、キリスト教の主要な公会議であるニケーア公会議、エフィソス公会議、カルケドン公会議などはいずれも小アジア後で開かれたものです。
ビザンツ時代
ユスティニアヌス大帝
ローマ帝国の分裂後は東ローマ帝国の支配を受けることとなりますが、東ローマ帝国は、次第にギリシア化が進みます。
7世紀ごろからは、ビザンツ帝国と言われるようになります。
ビザンツの名前は、コンスタンティノープルにちなんでいます。
ビザンツ帝国は小アジアの東方を脅かすササン朝ペルシアと激しく争いました。そのため、東西の交易ルートが衰えていきます。
マンジケルトの戦いとアナトリアのトルコ化
アナトリアに、トルコ系の民族が侵入してきます。
これは、中央アジアから起こって西アジアに侵入したセルジューク朝2代目スルタンのアルプ=アルスランが、1071年マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破ったことが原因です。
この後、トルコ人が大規模に流入して、セルジューク朝の地方政権である、ルーム=セルジューク朝の支配が続きました。
しかし、1242年にモンゴルの侵入があり、イル=ハン国に服属しますが、13世紀後半からはベイという君侯に率いられた少国家が分立します。そのようなベイの一つが、オスマン=ベイでした。
オスマン帝国時代
オスマン・ベイ
1299年、オスマン=ベイは、イスラームの戦士集団を集め、少国家を独立させます。そして、西に位置するビザンツ帝国の領をここに侵食していきます。2代目のオルハン=ベイはビザンツ領のブルサを奪い、1326年に最初の首都としました。
更に小アジアの小さなベイの国を併合していき、国家としての機構を整えていきました。
オスマン帝国はその後、バルカン半島などヨーロッパ、アラビア半島、北アフリカにまで領土を拡大。中でも、征服王メフメト2世は1453年にコンスタンティノープルを陥落させビザンツ帝国を滅亡させ、帝国の領土一気に拡大します。
三大陸にまたがる大帝国となったオスマン帝国ですが、その後もアナトリアは帝国の本拠として、20世紀まで続きます。
トルコ共和国
トルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク
第一次世界大戦の後、1922年にオスマン帝国は消滅します。
翌年の1923年、トルコ共和国として近代化を目指す改革を進めます。その代表が、ケマル=アタテュルクです。ケマルの指導の元、政教分離の原則を掲げ、改革していきます。
ケマル・アタテュルクとはどのような人なのかについては下記の記事により詳しく記述しています。
私の人生を変えた偉人 – 世界史No1のチート、ケマル・パシャ(アタテュルク)を好きなわけアナトリアはヨーロッパとアジアの接点に位置しているため、現在トルコのEU加盟と、それに反発するイスラーム原理主義の台頭という問題を抱えています。また、アナトリアの東に位置するアルメニアとの対立、クルド人の独立運動、西に位置するギリシアとの領土紛争(キプロス紛争)も、アナトリア情勢の周辺に存在しています。
そのような歴史を経て、今に至ります。
アナトリアの今
最終的にトルコ共和国になったアナトリア。中央部にはトルコ共和国の首都である、アンカラがあり、非常に繁栄しています。
この地域は、自然豊かな土地で、夏季と冬季で気温の差が激しいことが特徴です。
このアンカラには、アナトリアの歴史を巡るにはとても良い場所がいくつもあります。
アナトリア文明博物館という場所があり、オリエント・ヒッタイトの時代の貴重な鉄器などが展示されています。
また、アナトリア高原には、様々な遺跡が残り、中にはユネスコの世界遺産にも登録されています。
トルコ共和国を設立した、ケマル=アタテュルクの廊もあります。廊内には、独立に当たり、アタテュルクはどのように改革し、国を立て直していったのかということが欠かれている資料が多く展示しているため、観光にピッタリの場所です。
まとめ
今回は、アナトリア(小アジア)について、歴史を徹底解説しました。ヨーロッパと、アジアを繋ぐ場所であるため、支配や、占領などが移り変わり、今の形があります。
この歴史を知った上で、世界のニュースを見てみると、関心の度合いが変わってきます。
現在、トルコでは、周りの国で紛争が起こっています。
アナトリアであるからこその問題、課題があります。
ですから、これからの世界のニュースを、トルコに注目しながら見てみると、面白いかも知れません。
フリスクン