オスマン帝国という言葉をご存知でしょうか?
私のようにオスマン帝国史が好きで、オスマン帝国という単語がテレビに出てくる芸能人の100億倍自分の会話に登場する人は別にして、普通の人にとっては、
- オスマンってオスマン・サンコンの友達?(ちょっと年の人)
- オスマン帝国ってアフリカの帝国?
- そもそも聞いたことない
なんて、反応が返ってきそうです。
あるいは、昼間に韓流ドラマならぬトルコ流ドラマを見てる方なら、
- オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム
で、少しなりとも中近東に大きな帝国があって、ヨーロッパなどと接点があったことをご存じの方もいるのかもしれません。
大山俊輔
この帝国は13世紀末に誕生してから、20世紀初頭に滅亡するまで実に600年以上に渡って中東、北アフリカ一帯、そして東ヨーロッパ主要国を支配する大帝国であり、その滅亡を通じて現世界に誕生した国は実に30以上。如何に数多くの国を支配していたかがわかります。
と、同時に単に武力で支配しているだけで600年以上に渡り支配ができたわけではありません。この国は、イスラム国家ではありますが、キリスト教、ユダヤ教など他宗教に寛大であり、かつ、トルコ民族以外の出自の人物が大宰相(皇帝に次ぐ地位)はじめ重要なポジションを占めるまさに世界帝国だったのです。
今回から私の熱意が続く限り・・となりますが、このオスマン帝国をシリーズで紹介していきます。
記念すべき第1回目はトルコ民族とは何者なのか?というお話です。
目次
民族とは何か?
まず、ここではじめに民族という言葉を考えてみましょう。少数民族問題の少ない日本人には、なかなか想像しにくいテーマです。
まず、民族を判断する基準は下記のようなものがあります。
- 「外見=DNA」で区別する方法
- 「言語」で区別する方法
- 「宗教」で区別する方法
例えば、ユダヤ人という集団はその複雑な歴史的経緯から様々な顔立ちの人々がいます。
古来のユダヤ民族の故地であった中東地域に残ってその外見を残している人々もいれば、欧州に行って同化した人々(ここは議論が分かれます)。中には、アフリカ系からインド系、あるいは、東南アジア系まで様々なユダヤ人がいます。彼らの民族としてのアイデンティティは外見ではなく、ユダヤ教を信奉するか否かであり、顔立ちがヨーロッパ人っぽいのか、それとも、アフリカ人ぽいのかといったDNA的側面はあまり関係ないのです。
一方で、日本のような島国を見てみることにしましょう。日本のように、自然発生的に誕生した国家で、かつ、島国という限られたエリアであれば、数千年かけて混血と言語の統一化を通して、ほぼ、DNA=言語いずれでも同一民族といっておかしくないくらいの均質化を取ることもあります(もちろん、その中でも例外はあり、DNAレベルでも東日本と西日本では実はかなり違います)。
では、トルコ人とは何者なのでしょうか?
トルコに行ったことのある人なら気づくでしょうが、金髪・碧眼でドイツや北欧で見かけてもおかしくないような顔立ちをしたトルコ人もいますし、中央アジアのモンゴル・テュルク系の名残りの残った人もいます。あるいは、体毛も濃い如何にも中東の人のような顔立ちの人もいます。いずれにせよ、私たち日本人にとって、トルコ人とは中東的でありヨーロッパ的であり、あまり、北アジア的(モンゴル・テュルク的)には見えないのです。
では、なぜ、このようなことが起きるのでしょうか?
そこには、トルコ民族の西進の歴史と、はたして、民族とは何なのか?という問題があります。
ギリシャ語圏だったアナトリア(小アジア)地方
各国の民族が共有するものの中で最も影響度の大きなものとは何でしょうか?
それは、言語と習俗です。
例えば、日本人が日本人であることを自覚するのは、私たちが北海道から沖縄に至るまで同じ日本語を話して、お正月に神社に行ったり成人式があったりとほぼ、共通する習慣を共有するからです。もちろん、日本国内でも地域差はありますが、海外から見れば誤差の範囲。だからこそ、日本は海外から見ると単一民族国家であるというふうに見られるのです。
しかし、同じ国でもイギリスはどうでしょうか?イギリスには大きく分けて4つの民族ーつまり、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人ーが存在し、民族も言語も異なります。この国は、だからこそその正式国名が「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」なのです。
では、こうした言語や民族集団とはどのように誕生したのでしょうか。
基本的には、3つのケースが考えられます。
- その1:混血
- 特定の支配的民族が被支配側と混血していくうちに混じり合っていくパターンです。
- その2:支配を通じた相手の文化と言語の受容。
- 支配的民族の文化や言語を被支配側に強制したり、あるいは、被支配側が受け入れることを通じて行われます。
- その3:1と2のミックス
- ハイブリット型で混血と支配・被支配の混雑したパターンです。
しかし、これが必ずしも支配側に有利にならないこともあるのが、歴史の面白いところで、中国史などでは遊牧民が度々その武力で中国大陸に征服し支配します。しかし、支配していくうちに、支配側が被支配側の中国文化を受容してどんどんヘタれて気づけば自分たちが中国人になってしまうという現象が数多くあります(笑)。
アナトリアについて
では、現在のトルコ共和国のほぼ全ての面積を占めるアナトリア(小アジア)はどうだったのでしょうか?アナトリアとは、上記トルコ共和国の地図で見てみるとイスタンブールなどバルカン半島(ヨーロッパ側)を除くアジア側のエリアすべてを意味します。北は黒海、西はエーゲ海、そして南は地中海に挟まれて、更に南下すればメソポタミア地方であり、古来から文明発生のエリアと密接な交流がありました。
では、このアナトリアエリア。トルコ人が登場する前にはどのような人がいたのでしょうか?
実は、このエリアはもともとはギリシャ人(これも厳密に言えばギリシャ系の言語と文化を受容した人々)のエリアです。
トルコ旅行に行くと、小アジア側にはトロイの遺跡、エフェソス、カッパドキアなどギリシャ神話からローマ時代の遺跡が観光地として有名ですよね。紀元前から東ローマ帝国の滅亡する1400年代に至るまで、小アジアの多くはギリシャ系の人々が活動するエリアだったのです。
地中海帝国であったローマ帝国はその領土の広大さから統治を分割することにして東西に分裂したのは395年のことです。それ以降、東側を担った東ローマ帝国は首都をコンスタンティノープルとして、東方世界の統治にあたりました。
しかし、ローマ帝国と名がつくものの、その支配層の住民の多くはギリシャ系。また、コンスタンティノープルの旧名でもある古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンにちなみ、この帝国は、ビザンツ帝国(ビザンティン帝国)と呼ばれたのです。
なお、アナトリアについてより詳しく掘り下げた解説についてはフリスクンのまとめている「アナトリア(小アジア)とは?その歴史を通じてトルコの原点を知る!」の記事をご参照ください。
アナトリア(小アジア)とは?その歴史を通じてトルコの原点を知る!突厥帝国の滅亡とトルコ民族の西進
さて、東西に分裂したローマ帝国ですが、西側は分裂後間もなく滅亡します(476年)。
その後、西方世界にはゲルマン人が侵入して幾度かの戦乱を経てフランク王国により一定の統一がなされます。
一方で、東ローマ帝国はその後何度か混乱に陥ったり、時には、一時的に滅亡したりしながらもしぶとく生き延びます。ローマと名を冠していますが、その支配層はかつてこのエリアを支配していたギリシャ人が主体となりビザンツ帝国(ビザンティンに首都を構える帝国)として事実上のギリシャ帝国として存続します。
この帝国は以前紹介したオスマン帝国のメフメト2世に滅ぼされる中世まで生きながらえます(1453年)。
メフメト2世の生涯 ~ 力づくでローマ帝国の後継者となった男7世紀には中東でイスラム教が誕生し、急速な勢いで勢力を拡大します。その矛先は、旧東ローマ帝国の領域であった中東、エジプトなど北アフリカエリアのみではなく、旧西ローマ帝国領だったカルタゴ(チュニジア)、モロッコ、そして、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)が次々と陥落しイスラム化していきます。
しかし、東ローマ帝国はその首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)とアナトリア(小アジア:現トルコのアジア側)をしぶとく保持し続けました。
東アジアのチャンピオン突厥帝国
さて、ここで地図をはるか東、中国史のエリアに向けてみましょう。
世界史で9~10世紀前後に東西にあった帝国といえば、東は唐帝国(中国、その後、五代十国~宋)であり、西は分裂し生き延びた東ローマ帝国です。
そして、その下の中東エリアで誕生したイスラム帝国が旧東西ローマ支配地であった中東、北アフリカ、そして東ローマのライバルだったササン朝ペルシャを征服し、さらに、中央アジアに進出し唐に対抗していました。
実は、この時期対中国とイスラム世界で重要な役割を演じたのがトルコ系の民族です。
その中でもトルコ系の民族が打ち立てた突厥帝国(とっけつ)=突厥可汗国(ハーン国)はモンゴル平原はじめ北アジアから中央アジアで覇権を握ります。
さらに、その突厥を滅ぼした同じトルコ系の後継国家である回鶻(ウィグル)は東では衰退期の唐の安史の乱に介入するなどトルコ民族は中国史でも重要な役割を演じました。
突厥は東は中国と、西はローマ、ペルシャと、中央アジアのシルクロードを支配することで、交易を通じて様々な文化を受容しこの時期の世界史における主要プレーヤーとなります。しかし、残念ながら世界史の教科書での扱いは粗末なものです。世界史は、ヨーロッパと中国の視点から紹介されることが多いため、こうした中央アジアにスポットライトをあてることが少ないのが残念でなりません。
この突厥はその後東西に分裂(大きすぎる国は分裂しますね)、両国とも滅亡し同じトルコ系回鶻(かいこつ、ウイグル)に吸収されます。しかし、回鶻も同じトルコ系の民族です。
突厥滅亡後、中央アジアに残存したテュルク系の遊牧民族たちは、この頃からその武力を買われイスラム世界に進出します。ちなみに、現在のトルコ共和国では突厥帝国の建国となる552年を建国記念日としています。どんだけ離れてるねん!と思いますけどね。
マラズギルトの戦いとアナトリアのトルコ化
さて、ここで中国の上にいたトルコ民族がひょっこり西アジア史に現れます。
その理由は、トルコ系遊牧民族の武力です。
7世紀に登場したイスラム教は、その後、イスラム帝国を通じて急速に支配地域を拡げます。初期は、アラブ人の信仰心を通じて高い士気で、ササン朝を滅ぼし、東ローマ帝国、西方世界から領土を削り取りますが、徐々にヘタれていきます。バグダードは世界最大の都市であり、文化的にも優れた文物をたくさん生み出しますが、同時に、文明は尚武の気質を奪います。
こうして、イスラム世界では支配層のアラブ人、古来より大帝国の運営に長けていたペルシャ人は行政を担うようになります。そして、武力については中央アジアなどにいたトルコ系民族を数多く奴隷として輸入します。これがマムルークです。マムルークとして輸入された奴隷の中には、その後、エジプトで王朝(マムルーク朝)をつくるようなツワモノもでてきますが、基本、イスラム世界の武力担当として活躍します。
中央アジアは古来はソグド人などペルシャ系民族のエリアでしたが、突厥などの進出により徐々にトルコ化(これも、混血だけでなくトルコ文化の受容とあわせた同化と考えられます)、この頃はソグディアナ(ソグド人の土地)からトルキスタン(テュルク系の土地)と名前も変わっています。
当初、テュルク系の民族は土着のアミニズムを信仰していましたが、トルキスタンエリアでは現地のトルコ系住民の大規模なイスラムへの改宗が起こります。こうして、トルコ民族が本格的にイスラム世界のキープレイヤーとなり始めるのです。
この中でもテュルク系遊牧民オグズの指導者セルジュークにより、打ち立てられたセルジューク朝は中央アジア、イラン、そして、バグダードに入場(1055年)してスルターンを称し、イスラム世界の中心地を支配する大帝国を打ち立てます。カリフは引き続きアラブ人ですが、スルターン(王)はトルコ人になりました。この関係は、日本史の天皇と征夷大将軍の関係と似ています。
アラブ人によるイスラム世界の主導権がトルコ系民族に渡った瞬間です。
このセルジューク朝はさらに西方に進出し、2代目となるアルプ・アルスラーンのもとで、東ローマ帝国の領域であるアナトリアでついに東ローマ帝国と衝突します。これがマラズギルトの戦い(1071年)です。この戦いで、東ローマ帝国は壊滅的打撃を受けて東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となります(その後、身代金と引き換えに釈放)。
この瞬間にアナトリアにおけるトルコ民族の進出が決定します。
現地との同化
では、このマラズギルトの戦いが意味したこととは何なのでしょうか?
それは、アナトリアでのトルコ民族の優位が確立したということです。
とはいえ、この戦いの前から多くのトルコ民族は交易などを目的にアナトリアで現地ギリシャ人と交流していました。
マラズギルトの戦い以降、トルコ系民族のアナトリアへの進出は加速。
なかでも、イラン本土にいるセルジューク朝本国では反主流派であったトルコ系遊牧名家のいくつかがアナトリアに活路を求めます。こうして、1077年にはイラン方面の本国から独立した「ローマのセルジューク」を意味するルーム・セルジューク朝がアナトリアに誕生します。
この時期、更に北アジアではモンゴル帝国が誕生。モンゴル帝国は、ロシア平原から南は中央アジア・イラン方面に進出します。中央アジアにいたトルコ系諸民族は帝国に圧迫されて、さらに、アナトリアに流れ込みます。
こうして、多くのトルコ系民族とギリシャ系民族が混交する状態がアナトリアに生まれました。
当然、混血も多く行われました。支配層間でそれぞれムスリムからキリスト教へ、あるいは、その逆の改宗も多くビザンツ、セルジューク間の通婚などもありました。さらには、アナトリアでのトルコ系民族の覇権が確立したことで、原住民であったギリシャ人のイスラムへの改宗、トルコ文化の受容も数多く行われたものと推察されます。
DNAから見えてくること
実際、現在のトルコ人とギリシャ人のDNAについて見てみると面白いことがわかります。Y染色体ハプログループでは、ラテン系Y-DNA「E1b1b1」、メソポタミア農耕民系のY-DNA「J2」などかなり共通します。一方、トルコ人のDNAで「C」(タタール系)は意外と少ないことがわかります。つまり、トルコ人が大量にアナトリアに流入して多数派になったというよりは、少数のトルコ系民族が流入し、現地人と同化したというのが正しいでしょう。
下記のサイトはなかなか、面白い考察です。
トルコ人とギリシャ人のDNA
1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm
こうしてみてみると、世界各国の民族問題というのは突き詰めると、DNAの違いの問題ではなく、宗教、言語、文化などの争いであるといえるでしょう。
今でこそ、トルコ、ギリシャ両国ともに国際関係は落ち着いていますが、かつてはこの両国の対立は相当なものでした。
誇りあるビザンティン帝国を滅ぼし、故地であるアナトリアを奪ったトルコ人はギリシャ人にとっては、いつまでたっても憎き敵であるでしょう。一方でDNA的に見てみると両民族ともかなり共通するということがわかります。そもそも、人間とチンパンジーのDNAの98%が一緒なのですから、ハプログループの小さな差なんてのは生物学的には誤差の範囲です(笑)。
いずれにせよ、現トルコ共和国のトルコ人とはナニモノなのか。
こうしたテーマへの興味は尽きることがありませんね。
大山俊輔