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オスマン帝国興亡史(2) – 中国〜イスラム〜ヨーロッパへ:東西世界史をつなげたトルコ民族

オスマン帝国シリーズ第2回はまだオスマン帝国は出てきません(笑)。
もう少し、トルコ系民族について話してみましょう。

  • 中国史学ぶ時にも西洋史でもトルコ系民族って出てくるけど一緒の人たちなの?
  • トルコ人はどうして、アジア人っぽい人もいれば、ヨーロッパ人っぽい人もいるの?
  • トルコ人というとケバブ焼いているおじさんのイメージしかない。

大山俊輔

本業は会社経営者。オギャーと生まれた瞬間からの世界史オタクで特にオスマン帝国史は、三度の飯より大好き。

このエントリでは、中国史、イスラム史、そして、西洋史をつなげたトルコ民族についてのお話です。

如何にして、中国史に登場するトルコ系の民族が、いつのまにかイスラム化し、そして、オスマン帝国を通じて西洋史も中世〜近世の主要アクターとなったのかがわかります。

この人達は全てトルコ系民族

この人達は全てトルコ系民族
出典: https://www.mapmania.org/map/79749/branches_of_turkic_languages_where_theyre_a_majority_or_where_theyre_concentrated_in

さて、前回のエントリで書きましたように民族の定義というのは、外見(DNA)、言語、文化など様々な要素から成り立ちます。

日本人にはこの感覚がなかなかイメージしにくいのは仕方がないのかもしれません。島国で、諸民族の往来が少なく、文明誕生前に日本列島に集まった人々をほぼ母体として、その中での交雑で誕生した民族が大和民族だからです。

もちろん、奈良時代には、ペルシャ系、インド系、中国系の渡来人も多くいましたのでまったくなかったわけではないですし、実は日本人のDNAはかなり多様性に富んでいます。とはいえ、このトルコ民族と比べると外見の多様性は比にならないため、海外の常識から見れば、日本=単一民族国家と言ってもおかしくない解釈になってしまいます。

一方、トルコ民族はその対極にあって、ユーラシア大陸を西に東に分散した民族です。
上記の図は、一般的にトルコ系と呼ばれる民族が多いエリアをまとめたものです。

  • 西はシベリアのヤクート(サハ)人
  • 中国のお隣ではウイグル人、キルギス人
  • 中央アジアはウズベク人、カザフ人、トルクメン人など
  • 西アジアではアゼリー人(アゼルバイジャン人)
  • 現トルコ共和国にはトルコ人
  • バルカン半島ではブルガール人(ブルガリア人)

では、こうした人々はどのように誕生したのでしょう。

シベリア系

ヤクート人ヤクート人

もっともトルコ系で東に位置するのがヤクートと呼ばれる人たちです。

今のサハ共和国のサハ人がこのヤクートと呼ばれる人たちに該当します。人種的には、ツングースなど北方系の民族と混交していると言われます。

基本的にはモンゴロイド主体ですが、最近では、一部、ロシア人などとも混血しているようです。

ウィグル系、キルギス系

ウィグル人ウィグル人

今、中国で大きな問題になっている新疆ウイグル自治区のあるエリアの人々です。

かつては、回鶻という大帝国を打ち立てて唐の安史の乱に介入するほどの国力を持っていた人たちの末裔です。なお、キルギス人はキルギスタンに大多数の人がいますが一部は中国に少数民族としているようです。外見的にはテュルク・モンゴル系とコーカソイドの混血ですが、人によってかなり顔立ちが違います。

ウズベク系、カザフ系、トルクメン系、

ウズベク人ウズベク人

さらに中央アジアを中央までやってくると旧ソ連構成国だった、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンなどの国があります。

これらのエリアは大昔にはソグディアナと呼ばれ、ペルシャ系の人々のエリアでしたがその後、トルコ系の民族が大量流入、その後、イスラム化したエリアでもあります。征服王ティムールは今のウズベキスタンのサマルカンドを都とした大帝国を築き上げました。

このエリアもアジア系とコーカソイドの混血で人によってかなり顔立ちが変わります。

アゼリー系

アゼルバイジャン人アゼルバイジャン人

最近ですと、ナゴルノ・カラバフ戦争できな臭くなっているアゼルバイジャン。

アゼルバイジャンを構成する民族はアゼリー人と言われてアゼルバイジャンとイランに多数いますが、実はトルコ系の民族です。しかし、トルコ系とはいえここまでやってくると混血も更に進み、かつ、カフカス(コーカサス)エリアの人々と混血したことで、ほぼ、白人の顔立ちになってきます。

トルコ系

トルコ人トルコ人

次にトルコ系。私たちがトルコといったときに出てくるトルコ人です。

現在のトルコ共和国を構成する民族ですが(トルコ国内にはクルド人、アルメニア人なども多数います)、かつてギリシャ文化圏だったこのエリアがどのようにテュルク(トルコ)化したのかは前回のエントリをご参照ください。

ブルガール系

ブルガリア人ブルガリア人

最後にブルガール人と呼ばれる人々です。

実は、かつて東ローマ帝国の統治していたバルカン半島にトルコ系の民族だったブルガール人が登場したのは5世紀から6世紀のこと。おそらく、この時期のブルガール人はアジア系の要素をかなり残していたと思われますが、9世紀頃までには完全にスラブ民族と混血し、言語もスラブ化(ブルガリア語はスラブ語族)しています。

ということで、トルコ系だったけども今はスラブ系ということになります。

トルコ系民族の出現

さて、こうして見てみるとトルコ系と言ってもアジア系の顔立ちの人もいればヨーロッパ人の顔立ちの人もいて面白いですよね。

これは、彼らテュルク系民族が騎馬民族として移動を重ねた結果だったと言えるでしょう。

中国史に登場するトルコ系民族

冒頓単于冒頓単于

では、このテュルクという人々が文献に登場したのはいつくらいだったといえるでしょうか?

それは、紀元前3世紀、まさに楚漢戦争により劉邦が項羽を打ち破り本格的な統一王朝である漢(前漢)の誕生した時期と重なります。

大山俊輔

時期的には、楚漢戦争はまさに秦の始皇帝が中華統一をした直後の時代です。このあたりについては、「春秋戦国時代を徹底解説! | 地図、武将など登場人物、キングダムとの関わりについてわかりやすくまとめました!」の記事をご参照ください。
春秋戦国時代を徹底解説! | 地図、武将など登場人物、キングダムとの関わりについてわかりやすくまとめました! 春秋戦国時代を徹底解説! | 地図、武将など登場人物、キングダムとの関わりについてわかりやすくまとめました!

この前の春秋戦国時代から趙、燕など北方に国境線を構える諸国は騎馬民族からの絶え間ない攻撃に国境維持に苦労してきました。その流れで、秦の始皇帝が築き上げたのがいわゆる万里の長城です。

しかしながら、この漢の誕生と時期を同じくして北方では冒頓単于(ぼくとつぜんう)という英雄が誕生し漢の国を圧迫しました。

これがいわゆる匈奴と呼ばれる民族です。

匈奴帝国匈奴帝国

この匈奴はおそらくモンゴル系かテュルク系かはまだ議論が分かれます。
しかし、当時の騎馬民族は雑多な民族を統合した遊牧国家を形成しており、その中にはモンゴル系、テュルク系、イラン系などの諸民族がいたものと思われます。

なかでも、冒頓単于は西方にいた丁零(丁令:ていれい)を討ち帰属させたことが漢の文献に残されています。
この丁零が”Turk”(トルコ)の漢字表記であったと思われます。匈奴という遊牧帝国の構成民族内にトルコ系の民族がいたことは確実なのです。

こうした事実から、紀元前3世紀頃には既にトルコ系の騎馬民族がバイカル湖近辺からアルタイ山脈(今のロシアからモンゴルエリア)にいたと思われます。

トルコ民族の西進

2世紀の世界地図2世紀の世界地図

さて、このトルコ系の民族ですが歴史上何度かにわけて西方世界に進出しました。

初期には、中央アジアをそのまま西進して直接ヨーロッパに侵入し、後期は、南西に進んでイスラム化したイラン経由でイスラム世界に侵入しました。

上記は2世紀の世界地図ですが、現在のイラン、インド方面にはパルティア(その後、ササン朝ペルシャ)、クシャーナ朝などの大国がありますね。ササン朝ペルシャ(226年 – 651年)はローマ帝国のライバル国家でもあり、シャープール1世の時代には、ローマと戦争し皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするなど国威盛んでした。

つまり、遊牧民族が中央アジアのステップから南方経由でちょっかいを出しにくい時期だったのです。

第一波:ブルガール人・ハザール人

中央アジアのステップから現代のドイツ、ドナウ川からバルト海にまで広がるフン帝国中央アジアのステップから現代のドイツ、ドナウ川からバルト海にまで広がるフン帝国

こうして、南方にはペルシャなどの大国が興隆する中、遊牧民族は中央アジアから直接ヨーロッパ方面に侵入します。4世紀にはかの有名なフン族が西方世界に登場します。

フン族は、匈奴の末裔という説もありますが、おそらくはモンゴル・テュルク等混雑した民族が西方のアラン族(イラン系)などを糾合しながらヨーロッパに流入したと思われます。さらに、こうしてフン族の移動に押し出されたゲルマン人がローマ帝国領に大量に流入します。いわゆるゲルマン民族の大移動は、フン族の移動がキッカケだったのです。

フン族は英雄アッティラの元大帝国を築き上げましたがその死後瓦解。
徐々にヨーロッパ世界に溶け込んでしまいました。

その後、ヨーロッパ世界に登場したのがブルガール人です。

彼らは、ほぼ間違いなくトルコ系の民族であったと言われていますが帝国分裂後の東ローマのバルカン半島に出現しました。主に、交易、略奪、そして、中には東ローマの傭兵になるような形で徐々にバルカン半島に根付いて、最終的には、「第一次ブルガリア帝国」を打ち立てます。

しかしながら、上記紹介したとおりブルガール人はこの頃までには原住民のスラブ民族と完全に同化。
キリスト教を受け入れて、ほぼ、遊牧民族の名残をなくしてしまいます。

おなじように、ヴォルガ川流域にトルコ系のハザール人が国を打ち立てています。
この国は、面白くて国教をユダヤ教にしました。

一説では、南方に誕生したイスラム帝国、西にある東ローマ帝国の間にあって両国の圧力をかわすためにユダヤ教にしたとも言われています。

よく、ユダヤ陰謀論などではこのハザール人が登場しますね。

第二波:トルコ系民族の中央アジア進出とイスラムへの改宗

次の波は、第一波よりさらに先の話となります。
前回のエントリでご紹介したように、トルコ系民族は中国北方で何度か国を建国して時には軍事介入してきました。

トルコ人 オスマン帝国興亡史(1) – トルコ民族とは何者なのか?

中でも、大国であった突厥帝国(とつくつ)とその後継国家である回鶻(かいこつ:ウィグル)は、中央アジアのオアシス地帯を統治して交易で大いに栄えました。

この時期のオアシス地帯(現在の、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンなどのエリア)にはソグド人と呼ばれるイラン系の交易に長けた民族がいました(当時はソグディアナ)。

安禄山安史の乱を起こした安禄山

これらの国はその全盛期の国力は隋や唐に匹敵するもので、回鶻は安史の乱では唐に派兵しています。
(そもそも、安史の乱を引き起こした安禄山自体がソグド人と突厥人の混血でトルコ系です)

その後、回鶻も滅亡しその残党は更に西進してソグディアナエリアに大量に流入します。

こうして、このエリアは急速にトルコ化し「トルキスタン」(トルコ人の国)と呼ばれるエリアとなりました。
先程のウズベキスタンなどの人々の顔立ちも、様々な民族が混血した形跡を強く残しているのはこれが理由です。

タラス河畔の戦い

タラス河畔の戦いタラス河畔の戦い

また、この頃までに中東方面ではイスラム教が誕生し、オリエントの強国、ササン朝ペルシャを滅亡(642年)させさらに中央アジア方面に進出しました。この時、西と東の強国であるアッバース朝と唐が戦ったのが、タラス河畔の戦い(751年)です。

この戦いで唐は大敗。こうして、唐は中央アジアから撤退し、このエリアは急速にイスラム化します。
また、中央アジア進出に際してイスラム勢力はトルコ人の精強さを知ることになります。

中央アジアでは、突厥、回鶻の残党が多く流入し現地在住の諸民族と合流した上でで王朝を作ります。
これが、カラハン朝です。そして、このカラハン朝の君主である サトゥク・ボグラ・ハンは自らイスラムに改宗しました。

これが初のトルコ系のイスラム国家と言われています。
カラハン朝だけでなく、ほぼ同じ時期にアフガニスタン方面でもトルコ系マムルークのアルプテギーンが打ち立てたガズナ朝もトルコ系のイスラム国家でした。

第三波:マムルークの移動

マムルーク

こうした、トルコ系民族の打ち立てた王朝の集団改宗を通じたイスラム化だけではなく、もう一つ別の波がありました。

それは、マムルークという私的奴隷制度です。

特にイスラム勢力が中央アジアに進出した8世紀前後は多くのテュルク系民族はシャーマニズムを信奉していました。遊牧民は生活は質素で、素朴な性格であり、普段からの遊牧生活を通じていざ戦争に慣れば騎射などに長けた有能な兵士になりました。

この戦力をイスラム世界が見逃すはずがありません。
また、この頃までには、イスラム世界は大いに発展しバグダードは人口百万人を超す世界最大の都市になります。

都市生活に慣れたアラブ人は徐々に兵士としてではなく、都市生活民として定住化し尚武の気質を失っていきます。こうなると、イスラム君主たちにとっては新たな兵士が必要となります。

ここで登場したのが、イスラム世界と出会ったばかりのトルコ系民族です。
また、このことは遊牧民族であるトルコ系諸民族にとっても願ったり叶ったりでした。というのも、遊牧生活では、定期的な飢饉などに見舞われます。

となると、定期的に食い扶持のない子どもたちが出てきてしまうため、引き取り手を必要としていました。

こうして、イスラム世界には大量のトルコ人が奴隷として流入します。
これがマムルークです。

奴隷とはいえ、かれらは、主人と擬似的な血縁関係を結ばれたいわば私兵
地縁、血縁から切り離されてしがらみがない彼らの唯一のインセンティブは、主人が領土を拡大しそして自身も立身出世できること。それこそが、自分自身の立身出世でもあったからです。

アッバース朝の8代目カリフのムータスィムは私兵として7000人以上のトルコ人を抱えていたと言われます。
こうして、中央アジアからバグダード、カイロといったイスラム世界には大量のトルコ人が流入したのです。

これがもう一つの波です。

マムルークの中には先程のガズナ朝やその後のマムルーク朝のようにマムルーク自身が独立して王になったケースも出てきます。

トルコ人がイスラム世界の主人公となりはじめるのはこの時期からです。

第四波:オグズ族の移動

最後の波は前回ご紹介したセルジューク朝に代表されるオグズ族によるイスラム世界への進出です。
トルコ人 オスマン帝国興亡史(1) – トルコ民族とは何者なのか?

セルジューク朝、そして、その後のオスマン朝もいずれも、オグズ族の出自です。

イスラーム化した中央アジアのテュルク族ですが、中でも、オグズ部族は22の集団を抱えておりそのうちの6氏族が西アジアで大きなイスラム王朝を打ち立てました。

  • クヌク氏 : セルジューク朝
  • カユグ(カユ)氏 : オスマン朝
  • バユンドゥル氏 : アクコユンル(白羊朝)
  • イウェ氏 : カラコユンル(黒羊朝)
  • サルグル氏 : サルグル朝
  • アフシャル氏 : アフシャール朝

彼らは主にイラン方面から一部はカフカスに入り、さらに、小アジア(アナトリア)がテュルク化したことは前回のエントリでもご紹介したとおりです。

さらに、オスマン帝国の拡大を通じて17世紀までの間にヨーロッパ、北アフリカ世界にも勢力を拡大しました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

中国の文献に登場していたテュルク系の民族がいくつかの波を通じて、ヨーロッパ世界やイスラム世界に進出していく歴史は騎馬民族のロマンチシズムを感じさせます。

それが、テュルク系と言われる人々が実に多様性に富んだ顔立ちをしていることともつながるのでしょうね。

次回くらいからいよいよ、オスマン帝国についてのお話になります。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

大山俊輔