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コンスタンティノープルの陥落とは – 世界史の大事件、東ローマ帝国の滅亡につながった大包囲戦を解説

コンスタンティノープルの陥落とは - 世界史の大事件、東ローマ帝国の滅亡につながった大包囲戦を解説

コンスタンティノープル。
哀愁漂うこの名前の街は、歴史において多くの支配者、征服者たちにとって垂涎の的とも呼べる場所でした。

古くから、西方の人々がアジアとヨーロッパを分かつと考えてきたボスポラス海峡、そのほとりにあるのが、現在のトルコの都市、イスタンブールですが、東ローマ帝国(ビザンティン)時代はコンスタンティノープルと名乗っていました。

多様な人々が行き交うこの街には、いまも不思議な魅力が満ちています。白い大理石の宮殿に西方的な雰囲気を感じる一方で、モスクの尖塔やカラフルな品物が並ぶバザールの喧騒を目にすると、一気に東方のムードに魅せられてしまうのです。

アテナ

遺跡と博物館めぐりが大好きなアテナです。ギリシャに3年ほど住んでいて、2020年末帰国しました。その前年の夏、バルカン半島1万5000キロの旅を決行、昨年帰国前にトルコ再訪を計画していたのですが、コロナ禍でロックダウンになり、断念。でも、近いうちに絶対行きます。

今回解説するのは、世界の歴史の中で、中世と近代の分岐点になったといわれる「コンスタンティノープルの陥落」についてです。コンスタンティノープル – この西洋と東洋の間に位置するコンスタンティノープルは、難攻不落の街として西ローマの滅亡から1000年に渡り東ローマを様々な侵略者から守ってきました。どのように、オスマン帝国の英主メフメト2世はこの都市を陥落させたのでしょうか。

大山俊輔 - 対談人

本業は会社経営者。オギャーと生まれた瞬間からの世界史オタクで特にオスマン帝国史は、三度の飯より大好き。

コンスタンティノープルについて

東ローマ時代のコンスタンティノープル東ローマ時代のコンスタンティノープル

ローマ帝国の時代、陸と海のシルクロードを通って、遠く中国やインドから豊かな物産が運ばれてきました。まさに、ユーラシア大陸の東西交通の要衝地! この地は、長い歴史の中で3つの名前を持ちました。

まず、紀元前7世紀頃、古代ギリシャ人によって植民都市として建設された時、「ビザンティオン」の名が付きました。その後、330年、コンスタンティヌス大帝が東ローマ帝国の首都として建設し、「コンスタンティノープル」の名を得ました。5世紀に西ローマ帝国が消失した後は「新ローマ」とも呼ばれ、キリスト教圏最大の都市として繁栄します。世界の富の3分の2が集まる場所とも言われました。

そして、イスラム教徒であるトルコ人が建設したオスマン帝国が征服した後は、「イスタンブール」という名前で呼ばれることが多くなりました。ちなみに、「イスタンブール」の名称自体はトルコ語ではなく、ギリシャ語で「町へ」を意味する「イスティン・ポリ」が由来ともいわれています。 

メフメト2世について

オスマン帝国・メフメト2世メフメト2世

以上お話ししてきたように、地政学上とても重要な場所であることはおわかりですね。「コンスタンティノープルを制する者は世界を制する」とまでいわれてきました。

でも、なかなか守りがかたく、難攻不落な場所でした。4世紀にローマ帝国が東西に分裂して以来、幾度となく攻撃を受けてきたのですが、一時的に占領されたのは、第4次十字軍による1回だけ。ブルガリア君主もセルビア王も、東ローマ帝国を完全に征服しようと計画したものの、誰一人として成功していません。

ここに登場するのが、メフメト2世です。アレクサンドロス大王の伝記を好み、ヨーロッパの文化にも理解を示したスルタンは、果敢にも、まだ成功者のいないコンスタンティノープルの征服に挑んだのです。

1451年2月3日、オスマン帝国の失地回復に尽くした第6代スルタン、ムラト2世が亡くなりました。エーゲ海に近い西アナトリアのマニサで知事を務めていた息子のメフメトは急遽首都エディルネに戻り、1451年2月18日、オスマン朝第7代スルタンとして即位、メフメト2世になりました。エディルネは、トルコの最西端で、西はギリシャ、北はブルガリアと国境を接しています。

メフメトは当時弱冠19歳。しかし、彼にとって実は3度目の即位でした。

ムラト2世は有能な君主でしたが、イスラム神秘主義思想にはまって、唯一神アッラーと一つになることにあこがれて、隠遁生活に入りました。とばっちりを受けたのが、メフメトでした。

注意
メフメト2世の生涯については、「イスラム界の天才厨二病君主メフメト2世~力づくでローマ帝国の後継者となった男」の記事をご参照ください。
オスマン帝国・メフメト2世 メフメト2世の生涯 ~ 力づくでローマ帝国の後継者となった男

最初の譲位の時はまだ12歳。イスラム学者としての訓練を受けた、老練な大宰相チャンダルル・ハリル・パシャが後見役につきました。てきぱきと国事をこなしてくれたのはよかったのですが、メフメトが成長するにつれて、うっとうしい存在にもなっていきます。具体的な話はのちほどお話ししますね。

結局、ハリル・パシャは、メフメトに処理が困難と判断すると、ムラトに復位するように求めました。その都度メフメトは退位させられて、エディルネを追われたのです。1444年から1446年にかけて、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュ率いる十字軍が侵攻した時と、内部の歩兵軍団が反乱を起こした時、メフメトは退位させられ、代わってムラトが一時的に総司令官を務めました。

そんな経緯があって、メフメトはハリル・パシャに強い反感をもち始めます。さらに、養育係だった、宮廷奴隷出身のザガノス・パシャらがメフメトの味方につき、煽りました。

かくして、ハリル・パシャ一派とメフメットの側近ザガノス・パシャ一派の対立が際立つようになり、こうした状況の中で、メフメト2世の3度目の即位が行われました。ハリル・パシャは、代々培ってきた大きな地盤をもち、オスマン支配層の間で人望が高かったので、大宰相の座にとどまりました。

また、メフメト2世は即位にあたって、生き残っていた唯一の弟アフメトを処刑して、皇位争いの芽をつみました。

戦いの経緯

ファウスト・ゾナーロ「巨大な大砲を携えてコンスタンティノープルに近づくメフメト2世とオスマン帝国軍」.ファウスト・ゾナーロ「巨大な大砲を携えてコンスタンティノープルに近づくメフメト2世とオスマン帝国軍」

若く戦い経験のないメフメトの即位は、敵にとって好機のように思えたようです。軍事的にほとんど無力化してた東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝コンスタンティヌス11世も、この機会に巻き返しを図ろうと考えた1人でした。当時東ローマ帝国の領土は、首都コンスタンティノープルとその周辺、ペロポネソス半島の一部モレアス先制公領(ミストラ要塞)を残すのみでした

この時コンスタンティノープルには、オスマン家出身のオルハンなる人物が亡命していて、オスマン帝国はその監視料を支払っていました。

この事実を利用しない手はありません。コンスタンティヌス11世は、監視料の増額を求め、さもなければ、オルハンを解放して騒動を起こすとほのめかしました。

メフメト2世は怒りました。そして、以前から夢見ていたコンスタンティノープル征服の準備に取りかかったのです。

まず始めたのが、要塞の建設です。アナトリアの最強ライバルだった南部のカラマン君侯国を撃破した帰り、コンスタンティノープル近郊に立ち寄り、小高い丘に建設を決めました。後にルメリ・ヒサール(ルメリ砦)と呼ばれるこの砦は、即位した1451年の夏に完成します。ボスポラス海峡に向けて大砲も据えられて、かつて第4代スルタンのパヤズィト1世が建設したアナドル砦と合わせて、海峡封鎖の体制が整いました。

メフメトのコンスタンティノープル征服計画に、大宰相ハリル・パシャらは反対でした。ヨーロッパの異教徒を刺激して、再び十字軍が来襲することを恐れていました。混乱よりも東ローマ帝国との共存を図ろうとするのは、父ムラト2世の方針でした。でも、メフメトは征服の準備を進めていきます。スルタンの主戦論を、側近のザガノス・パシャらは支持しました。

戦いの経過

コンスタンティノープルの城壁コンスタンティノープルの城壁

メフメトは1452年末から、地図をもとに、大砲や塹壕の配置など街の防御体制を入念に点検していきます。

攻略の最大の難関は、何といっても、これまで幾多の敵を退けてきた三重の大城壁。

ハンガリーの技師ウルバンの巨砲

手始めに、ハンガリー人技術者ウルパンに巨額の報酬を払って、巨砲を作らせました。砲身の長さ8.2メートル、砲口の口径76.2センチ。黒海から取り寄せた石で600キロもある巨丸も作りました。エディルネで作製した巨砲をコンスタンティノープルに運ぶため、30の車をつなぎ合わせ、60頭の牛に引かせ、両脇を200人が支えたといわれています。

海からの攻撃のために、オスマン海軍が集めた艦船は300隻を超えました。各地に動員令を出して、陸上封鎖のための要員を集めました。1453年3月、メフメトはエディルネを出発し、各地の軍勢と合流しながらコンスタンティノープルに向かいます。2週間ほどで到着し、街の包囲に取りかかりました。

さて、コンスタンティノープルの街の防御はどんなだったのでしょうか。

コンスタンティノープルは、西から東へサイが角を突き出したようなカタチをしています。その頭頂部から鼻先にあたる北側は、金角湾と呼ばれる細長い湾に守られています。歴代の東ローマ皇帝たちはこの地形をよくわきまえていて、湾と海に面した部分には一重の城壁を巡らせ、金角湾の入り口は巨大な防御鎖で閉鎖して、敵船の侵入に備えていました。

一方、西側の陸つづきの部分には、長年かけてしっかりした防御施設を作りました。まず市街側に、地面から高さ12メートル、幅5メートルの内壁。この壁が最も重要な城壁で、「大城壁」と呼ばれました。その外側に盛り土が施され、高さ20メートルの塔が55メートル間隔で96基建てられました。その外側には、高さ8.5メートル、幅2メートルの外壁がめぐらされ、ここにも96の塔が設けられました。その外側には、高さ2メートルほどの防御壁があり、さらにその外側には、幅20メートル、深さ10メートルの堀がありました。もちろん、水を張ることができました。

大城壁の原型は、紀元5世紀前半のテオドシウス帝の時代に完成しています。この人工の大城壁と自然の湾とが一緒になって、ウマイア朝のアラブ軍やブルガリア王国のクルム汗の攻撃をはねのけてきたのです。

では、メフメト2世はコンスタンティノープルに乗り込むために、どんな作戦を立てたのでしょうか。

1453年4月6日、包囲に向けての作戦配置が始まりました。メフメト自身は常備歩兵軍団(イェニチェリ)を率いて、大城壁の聖ロマノス門の前に陣取り、兵力を集中させました。オスマン側は、イスラム法の規定にのっとって、東ローマ皇帝に降伏を求める使者を送りましたが、皇帝は応じませんでした。皇帝が街を明け渡し、部下と家族と財産を携えて退去すれば、住民の安全と財産を保障するというのが、申し入れの内容でした。

その結果、4月12日からオスマン側は攻撃を始めました。海軍は、金角湾の入り口の鉄鎖を破壊し、湾内に侵入しました。ところが、金角湾に配置された東ローマ帝国側の艦隊は小規模だけれどもよく装備されおり、経験を積んでいたため、戦いは膠着状態が続きました。

オスマン艦隊の山越えオスマン艦隊の山越え

そこで、海側からの攻撃は困難と判断したメフメトは、とんでもない作戦を実行します。艦艇の一部をボスポラス海峡から金角湾へと、北側の丘を越えて陸路で送り込んだのです。コロとてこ棒を使ったまさに人海戦術。北側の丘には、ジェノヴァ商人の居留地がありましたが、断固として東ローマ帝国を支持したヴェネツィア商人と異なり、中立の立場をとっていたことも幸いしました。「オスマン艦艇の山越え」とも呼ばれたこの奇策は成功し、東ローマ帝国軍を追い詰めました。

これをきっかけに、オスマン側の大城壁への攻撃は激化します。ウルパンの巨砲が威力を発揮しました。

5月23日、オスマン側は再度東ローマ帝国皇帝に使者を送り、退去を促しましたが、拒否されました。5月26日、東欧の強国ハンガリーからの使者が到着し、包囲を中止しなければ攻撃すると宣告しました。オスマン側の和平派ハリル・パシャらと主戦派のザガノス・パシャらが争いましたが、主戦派の意見が通ってしまいます。

兵力・戦力

ここで、人海戦術までもが成功した、両者の兵力について整理しておきましょう。

巨大な防御施設に守られてはいたものの、コンスタンティノープルの街の衰退は著しく、かつては数十万いた人口は激減して、せいぜい8万人にとどまっていたようです。皇帝の秘書官の記録によれば、東ローマ帝国側で戦闘員となりうる男子の数は外国人を含めても7000人程度でした。

一方、オスマン帝国側は、10万から12万人が動員されました。数の上で主力を成したのは、騎兵軍。彼らは、スルタンから土地と徴税権を与えられていました。その見返りとして、戦時には召集に応じ、税収額に応じた補助兵力を率いて従軍する義務がありました。また、常備軍団も他に例がないほど充実していました。核になるイェニチェリは1万から1万2000人といわれています。両者の兵力の格差は明らかでした。

戦いの結果

コンスタンティヌス11世の最後の突撃コンスタンティヌス11世の最後の突撃

包囲を開始して2か月近くが経ち、5月28日夕刻、メフメトは最後の総攻撃を命じました。29日朝、イェニチェリが中心になって西の大城壁を突破し、市中突入に成功しました。コンスタンティヌス11世は、乱戦の中で姿を消し、末路は定かではありません。

かくして、1453年5月29日、メフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。

イスラム法によれば、戦争によって奪取された異教徒の都市では、聖戦の戦士たちに3日間の略奪の権利が認められています。金銀財貨や宝石はもちろん、教会の聖器も何もかもが略奪の対象となりました。人間も略奪の対象で、多くの市民が捕虜となって奴隷に貶められ、その数は5万人。

一方、メフメト2世は、古代から続く東ローマ帝国への敬畏の念を忘れていませんでした。混乱がおさまると、側近を率いて聖ロマノス門から入城し、正教会の総主教庁が置かれていたアヤソフィア大聖堂(後にモスクに改修されますが……)に赴いて、地上にひざまずき、手で土をすくいあげて頭上にかざしました。その後、略奪を禁じ、秩序回復にとりかかったのです。

オスマン帝国内部でも地殻変動が起こります。大宰相のハリル・パシャが罷免され、一族は投獄されました。罪状は、コンスタンティノープル征服に際して利敵行為を働いたことでした。代わって、側近のザガノス・パシャが大宰相に起用されました。以後、大宰相職は、異教徒の異民族出身で、奴隷として宮廷で養育された、スルタン子飼いの側近によって占められていきます。

まとめ

ローマ帝国の遺産と東西交易の富に支えられて発展した東ローマ帝国は、西欧キリスト教社会の人々にとって、伝説に彩られ、畏敬に値する文明の灯でした。長年に渡って東方からのイスラム教徒の侵入に対する防波堤の役割を果たしてきた帝国が消失したのですから、まさに悪夢だったに違いありません。

教皇の権威は失墜し、16世紀に入ると、宗教改革の波が押し寄せます。交易では、コンスタンティノープルを経由しないルートの開拓が進み、大航海時代へと発展します。

コンスタンティノープルにいた多くのギリシャ人の知識階層は古代の文献を持って亡命し、そこからイタリア・ルネサンスが花開きます。

中世から近代へ。
時代は動いたのです。