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第二次ウィーン包囲をわかりやすく解説 – まさかの大失敗・オスマン帝国とヨーロッパの力関係の逆転のきっかけとなる戦い

第二次ウィーン包囲をわかりやすく解説 - まさかの大失敗・オスマン帝国とヨーロッパの力関係の逆転のきっかけとなる戦い

こんにちは。記事をお読みいただきありがとうございます。この記事では、オスマン帝国史の転換点として、歴史上名高い第二次ウィーン包囲について解説していきたいと思います。

アジア・ヨーロッパ・アフリカの三大陸にまたがる巨大な領土を支配した世界帝国であるオスマン帝国は、コンスタンティノープルを攻め落として東ローマ帝国を滅ぼし、プレヴェザの海戦で圧勝して地中海の制海権を手にするなど、15・16世紀を通じてヨーロッパ諸国にとっての脅威となってきました。

そんなオスマン帝国は、2度にわたり、神聖ローマ帝国の首都にしてヨーロッパ屈指の大都市であるウィーンを包囲したことが知られています。以前、第一次ウィーン包囲についても解説しましたので、興味のある方はこの記事と合わせて読んでみてください。

この記事ではオスマン帝国が敢行した第二次ウィーン包囲について解説します。大宰相、カラ・ムスタファ・パシャの勇み足で始まった包囲戦の場所、兵力から、包囲の背景、コーヒー、クロワッサンと言った文化的な影響まで、西欧社会全体に与えた影響までこの記事1つで第二次ウィーン包囲が理解できるようにまとめていますのでご期待ください。

第二次ウィーン包囲の背景

オスマン帝国側の背景

三大陸にまたがる大帝国であるオスマン帝国は建国以来、絶え間ない膨張を続けていきました。

特に、オスマン帝国の激しい侵略を受けたのは東ヨーロッパでした。1389年にコソヴォの戦いで勝利したオスマン帝国がセルビア・マケドニア・ブルガリア一帯を征服して以降、1453年には「征服者」メフメト2世によってコンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡し、さらに、1526年には「壮麗帝」ことスレイマン1世がモハーチの戦いで勝利してハンガリーを征服し、ついにバルカン半島は完全にオスマン帝国に併呑されることとなりました。

その後、勢いに乗るオスマン帝国はスレイマン1世の下でフランスと同盟しつつ、1529年には神聖ローマ帝国の首都にして、ヨーロッパ最大の貴族ハプスブルク家の本拠地であるウィーンに攻め寄せます。これが史上名高い第1次ウィーン包囲です。第1次ウィーン包囲自体は補給不足で失敗しますが、この戦いは西ヨーロッパ諸国を大いに震え上がらせるものでした。

第1次ウィーン包囲で敗れたもののオスマン帝国の力は強大であり、スレイマン1世は海賊の頭領であるバルバロス・ハイレディンを登用し、彼が1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア艦隊を破ったことで、オスマン帝国は地中海の制海権を掌握します。その後、1571年に起きたレパントの海戦でオスマン帝国はスペイン・ヴェネツィア・ジェノヴァらキリスト教諸国連合に敗れるものの、1573年にはすぐさまキプロス島をヴェネツィアから奪取するなど、依然として地中海の制海権はオスマン帝国が保持していました。このように、16世紀までのオスマン帝国は海陸両面で西ヨーロッパ諸国を圧迫する存在だったのです。

このように西ヨーロッパ諸国を圧倒していたオスマン帝国でしたが、17世紀に入ると徐々にスルタン(皇帝)の権力が低下し、実権は次第に大宰相によって握られるようになります。そして、17世紀のオスマン帝国において権力を掌握したのは、代々大宰相を輩出していたキョプリュリュ家でした。キョプリュリュ家は領土拡大路線を進め、ヴェネツィア・神聖ローマ帝国・ポーランドなどの国々から領土を奪い、17世紀半ばにはオスマン帝国の史上最大領土を実現しています。このように飛ぶ鳥を落とす勢いであったキョプリュリュ家の目標の一つに掲げられたことこそが、スレイマン1世ですら成し遂げられなかったウィーンの攻略だったのです。

神聖ローマ帝国側の背景

一方、オスマン帝国の脅威を受けていた17世紀半ばの神聖ローマ帝国は危機的な状態にありました。

皇帝として神聖ローマ帝国に君臨するハプスブルク家は、16世紀のカール5世が神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねるなど、西ヨーロッパ最大最強の勢力を誇っていました。しかし、間もなく宗教改革が始まると、カトリックを支持していたハプスブルク家はプロテスタント勢力との争いであるオランダ独立戦争や三十年戦争に巻き込まれ、神聖ローマ帝国・スペインはともに国力を大きく消耗してしまいました。とりわけ、三十年戦争(1618~1648年)は神聖ローマ帝国を荒廃させ、17世紀の神聖ローマ帝国はその深刻なダメージからまだ立ち直れないでいました。

さらに、西方のフランスも神聖ローマ帝国を脅かしていました。1643年に即位した「太陽王」ことルイ14世は領土拡大を狙って盛んに神聖ローマ帝国に侵攻しており、神聖ローマ帝国は常に西方のフランスの動向にも注意を払わなければならない状況でした。

一方、17世紀半ばの神聖ローマ帝国にとって、ハンガリー方面の対オスマン帝国戦線も苦戦が続いていました。1664年に神聖ローマ帝国軍はザンクト・ゴットハルトの戦いでオスマン帝国軍を破るものの、フランスの動きを警戒する神聖ローマ皇帝レオポルト1世はオスマン帝国に有利な講和を結びます。こうした皇帝レオポルト1世の弱腰外交に反発したハンガリー貴族がハプスブルク家に反乱を起こすなど、神聖ローマ帝国のハンガリー方面での戦いも困難な時状況が続いていました。神聖ローマ帝国がオスマン帝国の大規模侵攻作戦である第二次ウィーン包囲を迎え撃ったのは、そのような危機的な状況下でのことでした。

第二次ウィーン包囲の始まり

第二次ウィーン包囲は、オスマン帝国による大規模な北上作戦によって幕を開けます。

先述したように、1664年のザンクト・ゴットハルトの戦いで神聖ローマ帝国はハンガリーの地においてオスマン帝国を破りました。しかし、フランスの侵攻を恐れる神聖ローマ皇帝レオポルト1世はオスマン帝国と不利な条件で講和してしまったため、これに憤慨したハンガリー貴族たちはハプスブルク家から離反し、反乱を起こしてしまいます。そして、反乱勢力のリーダーであるテケリ・イムレはかつて敵対していたオスマン帝国と提携しようとします。

これを受けて、当時のオスマン帝国の実権を握っていたキョプリュリュ家の大宰相、カラ・ムスタファ・パシャは大規模なハンガリー・オーストリア方面への侵攻を決断します。カラ・ムスタファ・パシャが見据えていたのは明らかにハプスブルク家の本拠地であるオーストリアの征服であり、これはかつての「壮麗帝」ことスレイマン1世ですら果たせなかった事業でした。

絶え間ない領土の拡大を繰り返すことによって功績を積み上げ、権力基盤を固めていたキョプリュリュ家にとって、ハンガリーでの反ハプスブルク運動は、さらなる領土拡大の好機として認識されていたのでしょう。

第二次ウィーン包囲前半:ウィーンを巡る攻防戦

1683年3月、オスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャは大軍を動員し、オスマン帝国軍はウィーンを目指して進軍を開始します。この際のオスマン帝国軍は15万という大軍であり、オスマン帝国軍の北上を察知したヨーロッパ諸国は警戒を強めます。

一方、迎え撃つウィーンの守備隊はわずか1万数千であり、オスマン帝国軍の10分の1ほどの兵力しかありませんでした。このため、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は1683年7月7日にウィーンから北方のパッサウに逃れ、神聖ローマ帝国内の各諸侯やヨーロッパ諸国に援軍の派遣を訴えます。

皇帝レオポルト1世がウィーンを脱出してからまもなく、7月13日にオスマン帝国軍はウィーンに到着し、ウィーンは完全にオスマン帝国の圧倒的な大軍に包囲されてしまいます。しかし、兵力の上では圧倒的に劣勢であったのにもかかわらず、オスマン帝国軍はウィーンをなかなか攻め落とすことができず、戦いは長期戦の様相を呈するようになっていきます。

オスマン帝国軍が早期にウィーンを攻め落とせなかった要因としてはまず、ウィーンの堅牢さが挙げられます。スレイマン1世による第1次ウィーン包囲にも耐え抜いたことから分かるように、当時のヨーロッパ屈指の大都市であったウィーンは難攻不落の要塞であり、都市は何重もの分厚い城壁によって囲まれていたのみならず、ウィーンの城壁は星形の突起を持っており、城壁に押し寄せた敵軍は左右からの砲撃や射撃に晒され、大きな被害を出すように設計されていました。

第二次ウィーン包囲の際のウィーンを描いた絵画
第二次ウィーン包囲の際のウィーンを描いた絵画

また、オスマン帝国はウィーンまで進軍する上でかなり長い距離を行軍せざるを得なかったこともあり、攻城戦に絶大な効力を発揮する攻城砲を十分に携行することができなかったと言われています。

オスマン帝国軍がおよそ150門ほどの攻城砲を保有していたとされている一方で、守るウィーン守備隊は370門もの大砲を配備しており(稼働していたのはそのうちの半数程度であったとされている)、攻城戦の成否を左右する砲兵火力の面でオスマン帝国軍はウィーン守備隊に劣っていたのです。

そして、士気の面でもウィーン守備隊が上回っていました。敗れれば後がないウィーン守備隊は、指揮官であるエルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルクのもと、皇帝レオポルト1世が援軍を引き連れてくることを信じ、必死の防戦を続けます。砲兵火力で劣るオスマン帝国軍は人海戦術で城壁の下に坑道を掘り、城内に侵入しようとしますが、ウィーン守備隊は丸太で地面を叩いて敵の坑道作戦を察知し、行動の掘削を徹底的に妨害しました。

こうして、ウィーンの攻防戦はオスマン帝国の当初の予想を裏切り、長期戦になっていくのです。

第二次ウィーン包囲後半:援軍の到着

ウィーンが守備隊の懸命の防戦によって持ちこたえている間、皇帝レオポルト1世の呼びかけに応じる形で、ウィーンを救援するべく、各地から援軍が集まっていました。レオポルト1世の援軍要請に応じたのはバイエルン公やザクセン公をはじめとする神聖ローマ帝国の諸侯であり、彼らはウィーンが陥落すれば「次は我が身」と危機感を抱き、救援に駆け付けました。

また、オスマン帝国と領土争いを続けていたポーランド王国も、国王ヤン・ソビエスキ自ら軍を率いて駆け付けます。ポーランド軍の主力は、ヨーロッパ最強の騎兵であるフサリアで構成されており、レオポルト1世にとっては心強い援軍でした。

フサリア
フサリア

ポーランドが誇る最強騎兵・フサリア

フサリアはポーランドが誇る騎兵部隊であり、彼らは主にポーランドの貴族階級であるシュラフタから構成される精鋭部隊でした。フサリアは背中に付けた羽飾りが有名ですが、その主武装は6mにもなる長槍であり、フサリアはこれと馬上から歩兵を切り裂くための長剣で武装していました。フサリアの長槍は一般的な歩兵が携行していたパイク(槍)よりもはるかに長かったため、フサリアの突撃は当時のヨーロッパで一般的な歩兵陣形であったテルシオを容易に蹴散らすことができました。

このため、フサリアの全盛期であった16~17世紀において、ポーランドの騎兵はヨーロッパにおいて無類の強さを誇り、ロシア帝国や神聖ローマ帝国、スウェーデン軍を散々に破っています。特に、三十年戦争で神聖ローマ帝国軍相手に大活躍したスウェーデン王グスタフ2世アドルフでさえ、ポーランドのフサリアとの戦いでは連戦連敗し、何度も討ち取られそうになるほどでした。

神聖ローマ皇帝レオポルト1世の下に集った援軍は7万4千(ドイツ諸侯:4万7千・ポーランド軍:2万7千(騎兵1万4千))にのぼりましたが、これはウィーンを包囲するオスマン帝国軍の半数程度にすぎませんでした。

この後、ウィーンを救うべく援軍は1683年9月11日、ついにウィーン城外に到着し、オスマン帝国軍と対峙することになります。この時点でウィーンは守備隊の驚異的な奮戦により持ちこたえていましたが、ウィーン守備隊・オスマン帝国軍の双方で食料や物資が尽き始めており、第二次ウィーン包囲の終局は近づいていました。

援軍の到着を知ったオスマン帝国軍は迎撃態勢を取り、ついに第二次ウィーン包囲、そしてキリスト教世界の命運を決する一大決戦の火ぶたが切って落とされます。

しかし、戦いは思いのほかあっけないものでした。

ポーランド王ヤン・ソビエスキ率いるフサリアがオスマン帝国軍に総突撃を行うと、フサリアの圧倒的な突破力によってオスマン帝国軍の戦列は瞬く間に引き裂かれ、ポーランド騎兵はオスマン帝国軍の総大将であるカラ・ムスタファ・パシャの目前に迫ります。恐れをなしたカラ・ムスタファ・パシャは戦場を離脱したため、オスマン帝国軍は総崩れとなって壊滅し、第二次ウィーン包囲はまたしてもオスマン帝国の敗北に終わりました。

第二次ウィーン包囲の結果・影響

このように、第二次ウィーン包囲は神聖ローマ帝国・ドイツ諸侯・ポーランドらキリスト教連合軍の勝利に終わりました。敗れたオスマン帝国はオーストリアの征服に失敗し、敗戦の責任を問われたカラ・ムスタファ・パシャはスルタンの命令によって処刑されてしまいます。

この戦いは、オスマン帝国が西ヨーロッパ諸国を脅かした最後の戦いでした。この後、オスマン帝国の最盛期は過去のものとなり、かつてはキリスト教諸国を圧倒していたオスマン帝国は逆に、オーストリアやポーランド、ロシアなどのヨーロッパ諸国に領土を削られるようになる、徐々に世界帝国だったオスマン帝国は衰退していくことになります。

第二次ウィーン包囲の勝利に勢いづいた神聖ローマ帝国は、ポーランドやヴェネツィアと神聖同盟を結び、オスマン帝国に対する大反攻を行います。第二次ウィーン包囲の直後からは、神聖同盟とオスマン帝国の間で大トルコ戦争が勃発し、強力な指導者であったカラ・ムスタファ・パシャを失ったオスマン帝国は敗北します。

そして、1699年にはその講和条約であるカルロヴィッツ条約が締結され、オスマン帝国はハプスブルク家にハンガリーを割譲することとなり、オスマン帝国の領土縮小がここからはじまることとなりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。

第二次ウィーン包囲は、神聖ローマ帝国が圧倒的に不利な状況を覆し、キリスト教世界の危機を回避したのみならず、世界帝国であるオスマン帝国の衰退のきっかけともなった戦いでした。このように、第二次ウィーン包囲は、その後の世界の歴史に対して非常に大きな影響を及ぼした戦いでした。

なお、第二次ウィーン包囲に関しては次のような面白い話が残っています。第二次ウィーン包囲が終わったのち、オスマン帝国軍が遺棄した物資の中に謎の黒い豆が残されているのをポーランド軍の兵士であったイェジ・クルチスキが発見します。これこそが、今では世界中で愛飲されているコーヒー豆だったのです。

コーヒーはアフリカ原産の作物で、エジプトを通じて当時のオスマン帝国に入ってきていたようですが、17世紀のヨーロッパ人にとっては未知の飲み物だったようです。ともかく、コーヒー豆を発見したクルチスキはその豆を買い取り、ウィーンでヨーロッパ初のカフェを開いたと言われています。

当初は独特の苦味からあまりウィーン市民に受けなかったようですが、苦味を和らげるために牛乳を混ぜたところ、コーヒー独特の風味と牛乳の甘味が絶妙にマッチしたのか、一気にコーヒーはウィーン市民の間で大流行し、いつしかヨーロッパ中で飲まれるようになっていったのです。これが、ヨーロッパにコーヒーが伝わったきっかけと言われています。

また、コーヒーのお供としてよく食べられるクロワッサン(フランス語で「三日月」の意味)も、第二次ウィーン包囲の勝利を記念し、オスマン帝国の国旗に描かれている三日月を象ってつくられたという説があります。このように、第二次ウィーン包囲は、文化的にも大きな影響を残しているのですね。

大山俊輔