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オスマン帝国による第一次ウィーン包囲 – 西欧に衝撃を与えた包囲戦をわかりやすく解説

オスマン帝国による第一次ウィーン包囲 - 西欧に衝撃を与えた包囲戦をわかりやすく解説

今回解説するのは、オスマン帝国で「壮麗王」と呼ばれたスレイマン1世が、ヨーロッパの雄ハプスブルク家と対峙した「第一次ウィーン包囲」についてです。

スレイマンは即位以来、ベオグラードを陥落させ、ロードス島の聖ヨハネ騎士団を打ち破り、ハンガリー、ルーマニアの獲得を狙っていました。フランス王フランソワ1世との同盟を結んだオスマン帝国はさらにヨーロッパ深く侵攻します。1526年にはドナウ中流域の湿地を越えてモハーチの平原でハンガリー軍と対峙、ハンガリー軍を壊滅させます。

アテナ

遺跡と博物館めぐりが大好きなアテナです。ギリシャに3年ほど住んでいて、2020年末帰国しました。その前年の夏、バルカン半島1万5000キロの旅を決行、昨年帰国前にトルコ再訪を計画していたのですが、コロナ禍でロックダウンになり、断念。でも、近いうちに絶対行きます。

大山俊輔 - サイト管理人

本業は会社経営者。オギャーと生まれた瞬間からの世界史オタクで特にオスマン帝国史は、三度の飯より大好き。

この戦闘でハンガリー王ラヨシュ2世は戦死し、スレイマンはさらにハンガリーの首都ブダまで進んで、ここを攻略しました。その勢いはとどまるところを知らず、1529年、オスマン軍は、ハプスブルク家の本拠地ウィーンに迫り、包囲したのです。

オスマン軍のウィーン包囲は、コンスタンティン―プル陥落以来の衝撃を、西欧キリスト教世界に与えることになりました。

この記事では、オスマン帝国の全盛期スレイマン1世が敢行した第一次ウィーン包囲について、わかりやすく解説します。包囲戦の場所、兵力から、包囲の背景、そして宗教改革など神聖ローマ帝国のみならず、西欧社会全体に与えた影響までこの記事1つで第一次ウィーン包囲が理解できるようにまとめていますので、ご期待ください。

包囲戦の場所

戦いが行われたのは、当時ハプスブルク家の牙城であったウィーンでした。ここを治めていたのは、神聖ローマ皇帝カール5世の弟でオーストリア大公のフェルディナント。1521年、祖父マクシミリアン1世の遺領分割でオーストリアを相続していました。

1526年、ハンガリーをめぐるモハーチの戦いで、オスマン帝国とハプスブルク家は直接対峙することになりました。フェルディナントはブダを一時奪回しましたが、スレイマンは、ブダをはじめとするハンガリーの諸拠点を次々に征服。ついに1529年9月27日、ウィーン城外に到達しました。

包囲戦の背景(政治・宗教的背景)

ウィーン包囲に至るまでの当時の状況はなかなか複雑です。

まず、政治情勢からみてみましょう。

オスマン軍に敗れたハンガリーは、首都であるブダを放棄し、現在のスロバキアの首都、ブラチスラヴァに都を移しました。

そこで問題となったのは、空位となったハンガリー王位の扱いです。ハンガリー王ラコシュ2世が後継者を残さずに死去したことは、ハンガリー情勢を混乱させました。

選挙の結果、ハンガリー貴族の大半の支持を得たトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュに委ねられることになり、オスマン帝国も後押ししました。一方で、ラコシュ2世の妹と結婚していたハプスブルク家のフェルディナントがハンガリー領有を主張。兄カール5世の支援を受けて独自に議会を招集し、ハンガリー王を名乗ったことで、事態は複雑化したのです。

ヤーノシュの親オスマン政権を守るために、スレイマンは1529年、再びハンガリー遠征を行います。まず、フェルディナントが奪っていたブダを奪還し、さらにフェルディナントが治めるオーストリアの首都ウィーンの包囲にまで進みます。しかし、ウィーン攻略には至らず、3週間の包囲ののち、10月14日、オスマン軍は包囲を解いてイスタンブールに引き上げました。このあたりのことは、あとに記す「戦争の解説」で詳しく説明しますね。

ウィーンを目指したスレイマンの遠征は、1532年にも繰り返されました。フェルディナントが依然として全ハンガリーの王位を主張していたからです。この遠征も、ウィーンの80キロ南の町を落とすにとどまり、ウィーンの獲得には至りませんでした。

とはいえ、ヨーロッパ中心部に至るオスマン軍の進軍は、ハプスブルク家のバルカン進出の夢をくじいて和約の道を開いたといえます。1533年、フェルディナントがハンガリーの北部と西部を、ヤーノシュが中部と南部を領有することで、オスマン帝国とハプルブルク家は合意。分割された2つのハンガリー双方がオスマン帝国に貢納金を支払うことを定めた和約が結ばれたのです(ちなみに、1540年にヤーノシュが亡くなると、和約は破棄されます)。

貢納金を得たとはいえ、ハンガリー支配は、オスマン帝国にとって非常に経済的負担の重い事業でした。悪天候が続くと、イスタンブールからブダに行くだけで4か月を要したといいます。領土が膨大になったオスマン帝国にとって毎夏の遠征は大きな負担となり、帝国の財政を圧迫したのです。

次に、当時の宗教的な事情についてみておきましょう。

ドイツ領内での宗教改革をめぐる混乱は、神聖ローマ皇帝カール5世の足元を揺さぶっていました。

マルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会の門扉に「95箇条の意見書(テーゼン)」を貼りだしたのは、1517年10月。これが宗教改革の始まりといわれています。その内容は、カトリック教会が罪の償いを軽減する証明書として、贖宥状(免罪符)を販売したことを批判したものでした。1521年、カール大帝が招集したウォルムスの国会で、ルターは主張の撤回を拒否し、教皇から破門の処分を受けることになります。

ルターとその支持者が唱える福音主義は、都市と農村を問わず受け入れられ始めていました。儀礼や伝統を重視するカトリック教会に対して、福音主義は、「新約聖書」の4つの福音書の教義・精神に拠り所を求める信仰のあり方です。

1524年以降、福音主義と結びついた大規模な農民反乱がドイツ領内に広がります。ルター自身はこうした急進的な展開に戸惑い、反乱を鎮圧する諸侯たちと協力する道を探っていたようですが、かえってルターの教説を支持する層を増やすことになりました。

カール5世は、カトリック的立場から、また神聖ローマ帝国の政治的分裂を避ける意味からも、ドイツ領内に宗教改革の勢力を確立しようとするルターら新教の動きに否定的でした。

一方、新教を信奉する諸侯らにとっては、神聖ローマ帝国を東から圧迫するオスマン勢力は有効な力とみなされたのです。そもそもルター自身は、1520年代初頭、「トルコ人」と戦うことに反対しました。オスマン軍の攻勢を、教皇とその周辺の腐敗・堕落に対する「神罰」であると考えていたのです。

スレイマンのハンガリー遠征が行われた1526年、オスマン帝国の侵入を阻止するには新教を信奉する諸侯の協力を得る必要が生じて、カール大帝はシュバイツァーで開かれた帝国議会で、やむなくルター派の布教を許可しました。ところが1529年、再びシュバイツァーで開催した議会で、大帝は先の譲歩を一方的に撤回、信仰の自由を取り消しました。

これに抗議したザクセン選帝侯などのルター派諸侯は「抗議書」を提出し、政治勢力としての「プロテスタント」が文字通り出現することになります。スレイマンの率いる大軍はちょうどハンガリーを目指してイスタンブールを出陣した直後。その4か月後にウィーンに迫ることになります。

ところで、オスマン軍のウィーン包囲は、キリスト教世界にとってあまりに衝撃的で、抗議していたプロテスタント諸侯も、このときはカール大帝側の動員に応じました。しかし、1532年に行われたスレイマンの第3次ハンガリー遠征を機に、大帝は暫定的にプロテスタントを認め、新教勢力が一気に拡大しました。こうした動きの背後には常にスレイマンがいたことは確かなようです。

兵力(戦力)の比較

ここで、スレイマンのオスマン軍とフェルディナントのオーストリア軍の兵力について簡単に比較しておきましょう。

オスマン軍は、イェニチェリ軍団と常備騎兵軍団、砲兵・砲車兵など地方からの騎兵軍から組織され、その数は12万を超える大軍。300門の大砲を備えていました。大砲や弾薬、その他の武器、兵糧などを運んだのは、2万頭のラクダ。ただ、行軍中は悪天候に見舞われ、包囲戦に間に合わなかった大砲もありました。

対するオーストリア軍は2万の歩兵、1千の騎兵など、その数は多くても総勢5万数千に留まっていました。大砲も70門で、オスマン軍との差は明らかでした。

包囲戦を解説(展開と結果)

オスマン帝国の版図

では、戦いの展開を時系列で追っていきます。

まず、スレイマン1世時代のオスマン帝国の版図を確認しておきましょう。
以下の地図は、林佳世子著「オスマン帝国500年の平和」(講談社学術文庫)の128-129頁から引用しました。

1529年5月10日、スレイマン1世は大軍を率いて首都イスタンブールを出発して西へ向かいました。途上地方の軍勢と合流しつつ、7月半ばにベオグラードを経てバルカン半島をドナウ川に沿って北上。8月には、ハンガリー軍を壊滅したモハーチでサポヤイ・ヤーノシュと会見して、ハンガリー王位を承認しました。

さらに北へ進軍してブダをはじめとするハンガリーの諸都市を陥落させると、9月、オーストリアの首都ウィーンに迫りました。ハンガリーやオーストリアの農民、中でも女性や子供は奴隷にされて、イスタンブールに連れて行かれたといいます。

一方、オーストリア大公フェルディナントはウィーンを離れ、ドナウ川上流西のリンツへ退避していました。ウィーン陥落に備えた布陣だったといえましょう。

フェルディナントは、兄カール5世や諸侯の救援をひたすら待っていました。カール5世はスペインやドイツから援軍を派遣しましたが、到底オスマン帝国軍に対抗できる兵力ではありませんでした。宿敵であるフランス王フランソワ1世への対応などに忙殺されて余裕がなかったのです。

神聖ローマ帝国議会は、プファルツ選帝侯フリードリヒを司令官とする救援軍をウィーンに派遣することを決めました。ところが、フリードリヒは、オスマン軍のウィーン包囲の報告を聞くと尻込みをして、北東部のクレムスで進軍を止めてしまいます。こうして、戦いは、現地の守備軍だけに頼らざるを得なくなりました。

少ない兵力でオスマン軍と対峙することになったウィーンでは、防御体制の構築に全力を上げることになり、その指揮は、経験豊かな2人の老兵に委ねられました。ニクラス・フォン・ザルム伯爵とヴィルヘルム・フォン・ロゲンドルフ元帥です。

オーストリア側がまず取り組んだのは、城壁の外側にある家々の取り壊し。遮蔽となるものを極力減らし、堡塁を設けました。城壁内では、砲撃による火災に備えて萱葺き屋根を撤去し、南と西の城壁の内側に土塁を築いて、城壁が破られた場合の二次防衛線を敷きました。また、入り組んだ坑道を掘って、狙撃兵が城壁内に送り込まれました。

北側の城壁はドナウ川に守られ、東側は小さなウィーン川に阻まれ、側面攻撃の難しい地形だったので、攻撃は西と南に絞られました。オスマン軍は南側の城壁に攻撃を集中、オーストリア軍は南のケルンテン門に射撃の精鋭部隊を配置しました。

9月23日、オスマン軍はウィーン周辺に姿を現し、3日後には完全に包囲して、大砲300門を据えました。ドナウ川にはオスマンの小艦隊が陣取り、ウィーンはヨーロッパの他の地域から完全に切り離されることになりました。

ここで、布陣図を示しましょう。
以下は、ジェフリー・リーガン著、森本哲郎監修「ヴィジュアル版 決戦の世界史」188-189頁に掲載された布陣図です。

第一次ウィーン包囲

スレイマン1世が到着したのは、9月27日。すでに厳寒期に入り、大雨が降っていたという記録が残っています。スレイマン自身の巨大テントは、500人の護衛に守られていたといいます。

10月1日、オスマン軍の砲撃が始まりました。城壁は砲撃にさらされましたが崩壊は免れ、大きな被害はありませんでした。昼も夜も大砲がとどろき、イェニチェリ軍団が火縄銃や弓を手に大挙して城壁を攻撃しましたが、瓦礫の山に身を潜めたオーストリア軍は攻撃をものともせずに抵抗しました。

スレイマンの到着から約1週間後、オーストリア軍の歩兵2500人は城壁の東門から外に出てオスマン軍を急襲します。塹壕を壊し、土木技師を殺害。東から坑道を掘り進めていた最高司令官の大宰相イブラヒム・パシャの部隊を敗走させました(布陣図の1)。

オーストリア軍の指揮官は掘れるところはどこでも地下道を掘るように指示していました。そして、オスマン軍の坑道を見つけると、坑道を逆に掘って待ち伏せし、オスマン人土木技師を槍の先で殺害しました。爆薬が投げ込まれることもありました。

10月6日、オーストリア軍の指揮官フォン・ザルム伯爵は、守備隊のほぼ半数を集結してケルンテン門に面したオスマン軍の地下道を壊すように命じました(布陣図の2)。当初この攻撃が功を奏してオスマン軍は敗走。しかし門が狭すぎて、オーストリア側の守備兵も城壁内に逃げ帰る際に中に入れず、城壁の下で大勢が命を落としました。

こうしていくつかの攻防戦はありましたが、オーストリア軍はオスマン軍の攻撃を跳ね返し続けました。地雷で城壁が爆破されても、木材などで埋めたり修理したりして直ちに対処していったのです。

オスマン軍は勢いを失いつつありました。やがて10月10日も過ぎると雪が降り始め、食糧の補給不足で飢えた兵士たちの不満が高まります。スレイマンは、城壁内に突入した者は貴族に召し上げると言って兵士を鼓舞しましたが、応じる者はいませんでした。

スレイマンは10月14日を最後の決戦の日と定めました。オスマン軍はケルンテン門付近で最後の攻撃を行いましたが、オーストリア軍に打ち負かされ、一歩も進めなくなっていました(布陣図の3)。オスマン軍の攻撃は散漫になり、ついに力尽きてばらばらと後退していったのです。

14日夜から大雪が降ったこともあり、ウィーン陥落をあきらめたスレイマンは包囲を解いて粛々と撤退することを決意します。ドナウ川を下るオスマン艦隊は銃撃を浴びて大きな被害を受けました。

ウィーン包囲が失敗した原因はいくつかあります。
一つには、オーストリア軍の守りが固かったこと。人数は少なくても、質が高かったのです。ドイツ人傭兵団は、よく命中するスペインの火縄銃や5メートルもある槍や斧槍、大型の両手剣を巧みに操りました。オスマン軍はそういう戦士と戦うのは初めてで、衝撃を受けたようです。

もう一つは、包囲の攻城に手間取るうちに9月の末、ウィーンには既に冬が到来。寒さに慣れていないオスマン軍は、物資補給に失敗したことが挙げられます。

包囲戦後の影響

ウィーン包囲は失敗に終わったものの、ハプスブルク家はすぐに反攻に転じてハンガリー領を奪い返すことはできませんでした。

包囲から1年後の1530年、イスタンブールにフェルディナントの使節が来訪しますが、オスマン帝国との交渉は決裂。1532年になって両軍はハンガリー国境で対峙します。小競り合いに終始した後、スレイマン1世もフェルディナントも妥協を考えるようになり、1533年に和睦が成立。サポヤイ・ヤーノシュのハンガリー王位が正式に認められ、ハンガリーは分割されることになりました。

オスマン帝国はウィーン包囲後も攻勢を続け、カール5世は1538年のプレヴェザの海戦でオスマン帝国海軍に敗退。ヨーロッパ世界は地中海の制海権を失い、オスマン勢力の脅威を西欧全土に広く植えつけることになりました。

第一次ウィーン包囲戦はオスマン勢の撤退に終わったものの、戦略的には、スレイマン1世によるオスマンの世紀を紡ぎ出したといえるのではないでしょうか。

まとめ

オーストリア軍の頑強な抵抗により、ハプスブルク家の牙城、ウィーンの陥落は免れました。

ただし、分割されたハンガリーが元の領土を取り戻すのは、1683年の第二次ウィーン包囲の後。オーストリア軍、ハンガリー軍、ポーランド軍などが反攻してオスマン軍を打ち破り、1699年、カルロヴィッツ条約締結を待たなければなりませんでした。

歴史的にみると、第一次ウィーン包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は19世紀まで続くことになりました。

アテナ&大山俊輔