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スレイマン1世について – 「壮麗帝」と呼ばれたオスマン帝国最盛期を築きあげた皇帝の生涯

スレイマン1世について - 「壮麗帝」と呼ばれたオスマン帝国最盛期を築きあげた皇帝の生涯

こんにちは。遺跡と博物館めぐりが大好きなアテナです。

今回解説するのは、「壮麗王」と呼ばれ、16世紀、オスマン帝国の黄金期を築いた第10代皇帝スレイマン1世の生涯についてです。

「壮麗王」、英語では、‟The Magnificent”。何ともすごいネーミングですね。

彼の母、ハフサ・ハトゥンは、オスマン帝国に隣接するクリミア・ハン国の王女。スレイマンの父、セリム1世のハレム(後宮)に入りましたが、息子のスレイマンが即位すると、帝国で初めて「ヴァリデ・スルタン(皇太后)」の称号を贈られ、宮廷で大きな影響力を持つ賢后といわれました。また、美貌で世に知られた女性でもありました。

アテナ

遺跡と博物館めぐりが大好きなアテナです。ギリシャに3年ほど住んでいて、2020年末帰国しました。その前年の夏、バルカン半島1万5000キロの旅を決行、昨年帰国前にトルコ再訪を計画していたのですが、コロナ禍でロックダウンになり、断念。でも、近いうちに絶対行きます。

母親譲りなのでしょうか。スレイマンもまた、帝国歴代で屈指の美男でした。25歳で即位した当時は、ふっくらとして色白の、まさに「眉目秀麗」な貴公子だったようです。スレイマンは、46年という長期に渡る在位の中で、ヨーロッパを中心に13回に及ぶ対外遠征を決行。数多くの軍事的成功を収めて、「ガーズィー(戦士)」の伝統を継ぐにふさわしい君主でした。

この記事では、オスマン帝国最盛期を築き上げたスレイマン1世の生涯を解説します。世界史などを学生時代専攻していなかった方にもわかりやすいよう、なるべく専門的な言葉を排除し、わかりやすく、当時の時代背景も含めて解説することを心がけました。

大山俊輔 - 対談人

本業は会社経営者。オギャーと生まれた瞬間からの世界史オタクで特にオスマン帝国史は、三度の飯より大好き。

王子時代

スレイマン1世は、1494年11月6日、オスマン帝国第9代皇帝セリム1世の息子として、アナトリア半島北東部の港湾都市、トラブゾンで生まれました。コンスタンティノープルを陥落したメフメト2世は曽祖父にあたります。父セリム1世は、マムルーク朝を滅ぼし、シリア、エジプトなどアラブ地域を初めて征服しました。

スレイマンは、父王の即位前から、黒海貿易の中心地、ケファの知事を務め、統治の経験を積んでいます。父王が即位すると、イズミルに近いマニサの知事になり、父が東方遠征する際は、最西端の都市エディルネに赴き、ヨーロッパからの侵攻に備えました。マニサは、王位継承の有力候補が暮らす町といわれています。母君のハフサ・ハトゥンもスレイマンに同行して移り住み、病院を建設するなど慈善事業に励みました。

ところが、父王は在位8年にして54歳で急死。スレイマンはセリム1世が残した唯一の王子だったので、兄弟同士の王位継承争いもなく、1520年、25歳で即位することになります。

若くして東ヨーロッパから中東にまたがる帝国の支配者になったスレイマンは、さっそく困難に向き合います。即位の年に、シリア知事で旧マムルーク朝の有力者、ジャンベルディ・ガザーリの反乱に直面、翌1521年にはアナトリア中央でイランのサファヴィー朝ペルシャに通じた部族の反乱が勃発します。スレイマンはそのいずれも鎮圧して足元を固め、まずは順調な滑り出しとなりました。

ヨーロッパ遠征(ハンガリー、ウィーン、プレヴェザの海戦)

半世紀近いスレイマンの治世の前半は、寵臣イブラヒムを小姓頭から大宰相に抜擢して右腕とし、西欧キリスト教世界と「聖戦(ジハード)」を繰り返した時代といえるでしょう。宮廷奴隷出身のイブラヒムは、スレイマンの少年時代からの寵臣で、主君が足を洗った水を飲んだと伝えられるほどの忠誠心を持った側近でした。

ベオグラード攻略

父王セリム1世の活動のほとんどは、東方のイスラム世界に集中していました。これに対して、スレイマンの関心は、異教徒の土地である西方に向けられていたようです。聖戦の目標とされたのは、「クズル・エサマ(赤いリンゴの国)」。14世紀末から、オスマン帝国の北進に対する防壁になっていたハンガリーを指すといわれています。

1521年、スレイマンは最初のヨーロッパ遠征先にベオグラードを選びました。この町は、バルカンからハンガリー、さらには中央ヨーロッパへと攻め上るための入り口です。ハンガリー軍の守りは固く、あのメフメト2世でさえ避けた戦略拠点だったのです。しかし、スレイマンは、苦もなくベオグラードを陥落させてしまいます。

地中海の制海権

ベオグラードから帰京してまもない1522年、スレイマンは、2回目の遠征に向かいます。標的は、黒海・イスタンブール・地中海を結ぶ海上交易路の戦略拠点、アナトリア西南端のロードス島でした。ここは、インド洋・紅海交易の中心であると同時に、大穀倉地帯エジプトを結ぶ航路でもあったのです。

かつて東ローマ(ビザンツ)帝国領だったロードス島は、当時「聖ヨハネ騎士団」が譲り受けていました。十字軍時代、聖地巡礼に訪れるキリスト教徒の保護のために設立された騎士団でしたが、対イスラム聖戦に備える防衛任務も担っていました。

キリスト教徒の海上交通を守るためには、海賊活動を決行、付近の海岸に住むイスラム教徒を襲うこともありました。強者ぞろいの騎士団の予想以上の力戦は、スレイマンを驚かせたようです。1523年、騎士団は安全を保障された上で島を立ち去ります。彼らはのちにマルタ島を根拠地として、晩年のスレイマンと対決することになります。

ロードス島征服後、スレイマンは、父王が信頼していた名門出身のビリー・メフメト・パシャに代えて、寵臣イブラヒム・パシャを大宰相に登用しました。イブラヒムがまず送り込まれたのは、エジプト。伝統あるエジプトは、帝国に新たに組み入れられたものの、オスマン体制への反発が強く、困難を極めていたのです。支配体制を抜本的に見直し、様々な制度を整備。農業と交易から得られる莫大な税収は、帝国を潤すことになりました。こうして、即位後の5年間で、父王の新征服地での支配体制や東地中海の海上ネットワークを確固たるものにして、スレイマンは再び西へ向かいます。

ハンガリーへ

1526年、3回目の遠征の目標は、ハンガリーでした。ベオグラードを既に確保していたオスマン軍は、一挙にハンガリー平原に入り、ハンガリー軍を壊滅させます(モハーチの戦い)。以後、ハンガリーは、さらに西進しようとするオスマン勢力と、これを阻もうとするハプスブルク勢力の争いの舞台になりました。

ここで、ハプスブルク帝国について簡単に説明を加えておきましょう。

ハプスブルク帝国は、当時西欧で最強の勢力でした。スレイマンが即位した前年の1519年、ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世として即位します。新大陸の征服で富を手中に収めたカール5世は、西欧にキリスト教的世界帝国の建国を目指していました。ところが、ここで複雑な事件が持ち上がります。

かつて神聖ローマ皇帝の座をカール5世と争ったフランス国王フランソワ1世は、1525年、パヴィアの戦いで敗れ、カールの虜になってスペインに幽閉されていました。そして、フランスが救いの手を求めたのは、なんとイスラム世界のオスマン帝国だったのです。スレイマンは西方進出の手段として要請を受け入れ、フランスと友好関係を結びました。さらにフランソワは、ハプスブルク家の牙城ウィーンを攻めるようにスレイマンを焚きつけたのです。

当時ウィーンをはじめとするオーストリアの統治を託されていたのは、カール5世の弟フェルディナント1世でした。1529年、スレイマンはウィーン包囲(第一次)を始めます。しかし、冬の到来を前に撤退、攻略することはできませんでした。とはいえ、1453年のコンスタンティノープルの陥落と同じ強い衝撃を西欧キリスト教世界に与えたことは確かです。ウィーン包囲については、また別の機会に詳しく解説することにしますね。

プレヴェザの海戦

1533年末、オスマン勢力の海上拡大に重要な意味をもつ事態が起こりました。
チュニジア、アルジェリアなど北アフリカの海岸で海賊として活動、西欧人から「赤ひげ(バルバロス)」として恐れられていたバルバロス・ハイレッティンがその艦隊を率いてイスタンブールに来港し、オスマン帝国に服従を申し出たのです。

その後バルバロスは、オスマン海軍の提督に任ぜられ、パシャの称号を与えられています。オスマン海軍は一挙にパワーアップし、アドリア海から西地中海にかけての海域でキリスト教徒側に攻撃を繰り返しました。

1538年には、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝らによって結成されたキリスト教世界側の連合艦隊ドーリア艦艇を、イオニア海の入り口プレヴェザで大破(プレヴェザの海戦)、その結果、クレタ島、マルタ島を除く東地中海の制海権を掌握することになります。

バルバロスが亡くなったあとも、さらに西地中海の覇権を求めて活動を続け、1551年、北アフリカ東海岸のトラブルス・ガルプ(現リビア)を征服しています。こうして地中海はほとんど「スレイマンの海」と化していったのです。スレイマンはもちろん、友好関係にある諸勢力に対して航海の安全をかなりの程度保障し、東西交易による利益の享受を認めることも忘れませんでした。

東方遠征など

東方における最大の課題は、サファヴィー朝ペルシャの存在でした。

アナトリアで旧来の生活になじんできた人々にとって、君主専制化が進むオスマン体制は何とも窮屈で、反乱を企てる者が絶えなかったのです。

スレイマンがサファヴィー朝遠征を決意したのは、1533年。バルバロスがオスマン帝国に服従を申し出た時期とほぼ一致します。まず腹心のイブラヒム・パシャが先発隊と出発、翌1534年、さしたる抵抗も受けずに、カスピ海南の町タブリーズに入城。スレイマン自身は本格的に戦う機会を得ないまま、越冬に備えて、サファヴィー朝支配下のバグダード(現イラクの首都)に向かいました。

そして、バグダードも、イブラヒムの先発隊により同年のうちに征服され、スレイマンも入城。オスマン帝国は、イラクのほぼ全土を支配下に置き、ペルシャ湾との接点を確保しました。父王セリム1世が手に入れた紅海ルートに加えて、ペルシャ湾ルートも押さえたわけです。

その後もオスマン帝国とサファヴィー朝は対立を続けます。1548年、スレイマンは2回目のサファヴィー朝遠征を敢行しますが、両者の関係は膠着状態になり、抗争に終止符が打たれるのは、1555年、アマスィヤの講和条約が結ばれてから。このとき、オスマン帝国のイラク領有は確定しましたが、結局サファヴィー朝の完全征服は叶いませんでした。

さて、海上活動についてもみてみましょう。イスラム世界の中核と東アジアや東南アジアをつなぐスレイマンの海上ネットワークは、インド洋にも向けられていました。このネットワークは、東方のイスラム教徒のメッカ巡礼にも使われていました。

北インドでムガール朝が成立しかけていた16世紀初頭には、イスラム勢力は中部インドにまで及んでいました。インド西岸のイスラム勢力の中心地、グジャラート・スルターン朝の君主は、ヴァスコ・ダ・ガマの新航路発見で勢いづたポルトガルの圧迫に悩んでいました。

援助を求められたスレイマンは、1538年、インド西部のポルトガルの拠点、ディーウにオスマン艦隊を派遣しました。圧倒的な艦隊を保持していたにもかかわらず、ポルトガルの巧みな戦術に敗北しています。ただ、この遠征で成果もありました。インド洋から紅海への入り口にあたるイエメンを征服したことです。スレイマンは、紅海の防衛とインド洋への進出の基地を獲得したわけです。

晩年

隆盛だったスレイマンの治世に影を落とし出したのは、後継者をめぐる陰謀渦巻く争いでした。

後継者の最有力候補だったのは、スレイマンの最初の妃マヒデヴランの子、ムスタファ王子でした。腹心の大宰相イブラヒムも支持していました。ところが、1534年、スレイマンが後宮にいた寵姫ヒュッレムと正式に結婚すると、様々なほころびが出始めます。

ヒュッレムの工作で、イブラヒムの行動に疑いを持ったスレイマンは、1535年、彼を処刑。ムスタファ王子は庇護者を失い、最有力候補から脱落します。ヒュッレムは自分の長子メフメトを候補者に据えますが、早世。再びムスタファが有力候補になると、ヒュッレムは娘婿と組んで、サファヴィー朝遠征に向かう途上のムスタファを処刑してしまいます。

1558年にヒュッレムが没したあとも、残された2人の息子バヤズィトとセリムの間で争いが続き、両者が兵を動かして対峙するまでに。有能なバヤズィトが敗れ、後継者は期待されていなかったセリムになったのです。

さて、スレイマン最晩年の関心は、再び西方に向かいました。ロードス島を追われた「ヨハネ騎士団」はマルタ島に移って「マルタ騎士団」を組織していました。1565年、スレイマンはマルタ島に遠征軍を送りましたが、マルタ包囲戦は失敗します。

さらに、1566年、生涯最後になる13回目の遠征を決行します。オスマン領となったハンガリーに、神聖ローマ帝国が攻め入ってきたからです。すでに71歳のスレイマンは体力も衰え、全行程を馬上で踏破する力はありませんでした。ハンガリーのシゲトヴァル砦の攻防で、スレイマンは亡くなりました。

当時スレイマンを補佐していたのは、オスマン史上で名宰相といわれるソコルル・パシャ。混乱が起こらないようにスレイマンの死を伏せたまま砦を攻略し、セリム王子への政権移行を成し遂げました。オスマン帝国第11代皇帝として即位したセリム2世の呼び名は、「酔漢王」。政務をすべてソコルルに任せ、自身は享楽にふけり、オスマン史上初めてどこにも遠征しなかった君主として知られています。

スレイマン統治下のオスマン帝国

スレイマンは、民衆から「立法者」と呼ばれていました。それは、スレイマンの時代に、帝国の強靭な支配組織が確立し、イスラム法の整備による統治が帝国の隅々までいきわたったことを意味しています。

父王セリム1世の時代は、軍隊組織が整備されたとはいえ、まだセリム個人の陣頭指揮に頼るところが大きかったのです。ところがスレイマンの時代には、彼自身が武器を持って陣頭に立つ姿は見られません。むしろ強大な皇帝直属の常備軍(イェニチェリ)をもつ、「組織の帝国」の統合のシンボルとして立ち合っていたという方がふさわしいでしょう。

常備軍を構成しているのは、「カプクル」と呼ばれる軍人・官僚たち。異教徒であるキリスト教徒の男子を強制的に徴用してイスラム教徒に改宗させて教育、絶対的な忠誠を誓わせることで、君主専制的で中央集権的な支配組織が出来上がっています。それは軍事面だけでなく、内政においても同様の組織のロジックが働きました。

さて、暗い晩年に華やかさを添えるのは、成熟したオスマン文化の輝きではないでしょうか。征服後1世紀近くを経たイスタンブールは、数十万の人口を擁する大都市に成長しました。商業が栄え、西はイタリア、フランスから、東はイラン、インドから商人がやって来ました。

様々な公共施設が寄進財産でつくられました。ごく普通の庶民の生活にも役立つものが建設されました。スレイマン自身も多くの寄進をし、例えば、1557年、イスタンブールに荘重なスレイマニエ・モスクを7年かけて完成させました。トプカプ宮殿には、絢爛豪華な宝飾細工や繊細な文様が織り込まれた絹の衣装などが残されています。写本を彩るミニアチュール(細密画)や詩を中心とする文学など、スレイマン時代には著しい文化芸術の発展がもたらされました。

スレイマン1世が登場するドラマ、漫画など

たくさんの物語があるスレイマン1世は、ドラマや漫画、演劇などに登場する機会が少なくありません。

オスマン帝国外伝~愛と欲望のハーレム

テレビドラマシリーズ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハーレム(英語タイトル“The Magnificent Century”)」はよく知られているのではないでしょうか。

トプカプ宮殿の後宮で繰り広げられた男女の陰謀・愛憎劇がテーマです。史実をもとに大幅に脚色された娯楽大作で、2011年から2014年までトルコで放映されました。全312話という壮大なスケールで描かれ、トルコだけでなく、中東、東欧、アジア、北米など世界90か国以上で大ヒットしました。日本でも日本語字幕を付けて、2017年からテレビで放映、ネットでも配信されました。

ただ、ドラマではスレイマン1世が享楽的で誘惑に弱い人物として描かれているとして、保守層や現オスマン家からは、「皇帝だけでなく歴史家への侮辱」と批判の声も上がっていたようです。

新・オスマン帝国外伝~影の女帝キョセム

なお、続編の「新・オスマン帝国外伝~影の女帝キョセム」が制作され、日本でも、2021年8月からCSエンターテインメントチャンネル「チャンネル銀河」で放映が始まっています。こちらは、第14代皇帝アフメト1世の妃で、第17代皇帝ムラト4世と第18代皇帝イブラヒムの母、ギリシャ出身のキョセム・スルタンを中心に描かれています。前作を凌ぐどろどろの愛憎劇が展開されているようです。

スレイマンの二番目の妃ヒュッレムをヒロインにしたのが、少女漫画雑誌「姉系プチコミック」に連載中の篠原千絵作「夢の雫、黄金の鳥籠」です。2010年の創刊号からの連載なので、10年以上続いています。ヒュッレムとスレイマンの寵臣イブラヒム、スレイマンの妹ハディージェとイブラヒムの友人アルヴィーゼが禁断の恋仲になり、皇子が次々に誕生、後継者争いが本格化していくといったスト―リー展開です。

さらに、宝塚の演目にもありましたよ。宝塚宙組が2020年8月14~18日、大阪の梅田芸術劇場で、ズバリ「壮麗王」のタイトルで上演しました。スレイマンの生涯を愛と絆をテーマに描いた作品です。主役スレイマンを演じたのは桜木みなと。ファンからは「宝塚の名作になること間違いなし」との声が上がっていたのですが、コロナ禍の影響で、東京などでの公演がキャンセルになり、関西の1会場でごく短期間の上演になったのは残念です。

ちなみに、映画「神聖ローマ、運命の日~オスマン帝国の進撃」(2012年、イタリア=ポーランド合作)では、1683年の第二次ウィーン包囲が描かれています。

まとめ

スレイマンの時代、オスマン帝国の領域は西はハンガリー、アルジェリアから、東はイラク、イエメンにまで及びました。軍事的成功が続き、オスマン帝国がヨーロッパやイスラム諸国を圧倒し、東西貿易の繁栄は実に豊かな税収をもたらしました。それは帝国の「黄金時代」といってよいでしょう。

帝国の急速な拡大発展を可能にし、西欧社会に「トルコの脅威」を実感させたのは、その強靭な支配組織でした。西欧では、中世封建社会の古い制度が残っていた時代に、オスマン帝国はすでに君主専制的で中央集権的な支配の組織、そして強大な常備軍を擁していたのです。

スレイマンの晩年を支えた大宰相ソコルルは、この優れた官僚制度の下、スレイマンの築いた大帝国を維持しました。スレイマンの死後約100年が過ぎた1669年、帝国は最大版図を達成します。

ただし、スレイマン時代の外交政策がのちに思わぬ足かせになったことも忘れてはなりません。

1525年、西方への領土拡大を狙っていたスレイマンは、フランスと友好関係を結びました。そして、スレイマン死後の1569年には、オスマン側は領内における身体・財産などの安全保障や交易の自由を定めた通商特権、租税免除など、いわゆるカピチュレーションを、フランスに与えました。続いて、1580年にイギリス、1612年にオランダにも、同じ特権を与えています。

帝国の国威が盛んな時代には「友好のあかし」として機能したわけですが、18世紀以降ヨーロッパ諸国の国力が帝国を凌ぐようになると、不平等条約化して列強の介入要因の一つになっていきました。

アテナ