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バルバリア海賊~アメリカ海兵隊創設のきっかけともなった地中海の荒くれ者たち

バルバリア海賊

ハビットマン/大山俊輔

こんにちは。地中海史研究家(自称)のフェルナン・シュミーデルこと大山俊輔です。本職はb わたしの英会話という英会話スクールの経営者です。

バルバリア海賊という言葉を聞いたことがありますか?
海賊といえば、パイレーツ・オブ・カリビアンのようなカリブ海賊やバイキング、はたまた日本史で学んだ倭寇のような海賊をイメージする人もいるかもしれません。

ですが、政治勢力としてみるとこのバルバリア海賊ほど、イスラム世界とキリスト世界が覇権のしのぎ合いを行った中世~近世にかけてのプレイヤーとして大きな力をもった勢力はいない(その割に知名度が何故か低い)のではないでしょうか?

このエントリーの舞台ともなるバルバリア(主にモロッコ、エジプトを除く北アフリカ)の地には中世以降多くの海賊たちの拠点となり中にはバルバロス兄弟(オルチとハイレッディン)のように時の超大国オスマン帝国と手を結んで海軍提督になるものまで登場しました。

このエントリでは地中海の荒くれ者集団バルバリア海賊についてまとめてみたいと思います。

バルバリアと海賊について

さて、バルバリアという単語を聞いたことはあるでしょうか?

英語を勉強した人ですと身近な単語に“barbarian”という言葉を知っているかもしれません。
“barbarian”=すなわち「野蛮人」の語源となったのは、ベルベル人という人々です。

ベルベルとはかつて北アフリカに植民した古代ギリシャ人たちが言葉が通じない人々のことをバルバロイとよんだことが起源だと言われています。

現在の北アフリカ~主にモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア~の原住民である人々をベルベル人といいます。

フランス代表ジダンはベルベル人フランス代表ジダンもベルベル人ですね

人種的にはコーカソイド(白人)で、ローマ帝国時代にはこの地からアウグスティヌス(キリスト教の教父)を輩出するなど帝国にとっても非常に重要なエリアでした。(最近ですと、サッカーフランス代表だったジダンや沢尻エリカのお母さんもベルベル人ですね)

バルバリアのイスラム化とイベリア半島の国土回復運動

バルバリア海岸

しかし、その後、バルバリアはアラブ人の大征服(マグリブ征服:647–709)により急速にイスラム化します。こうして、これらのエリアには様々なイスラム化・アラブ化したベルベル人によるイスラム系の王朝が誕生します。

中にはモロッコのムラービト朝(1040年 – 1147年)、ムワッヒド朝(1130年 – 1269年)のようにジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島まで攻め込んでアンダルシア地方の一部を支配するような国威盛んな国もありました。

レコンキスタ(国土回復運動)バルバリア海賊

一方、イスラムに占領されていたイベリア半島ではレコンキスタ(国土回復運動)が開始します。はじめは小さな宗教運動でしたが、徐々にイベリア半島各地に誕生したキリスト教国は占領された領地を奪還し、アラゴン王国とカスティーリャ王国の合併により両王国が合併しスペイン王国(イスパニア王国)が誕生します。

こうして、1492年最後までイベリア半島に残ったイスラム王朝、ナスル朝のアルハンブラ宮殿が陥落し滅亡、レコンキスタが終了します。

グラナダの陥落この絵はナスル朝最後の王、ボアブドゥルが下馬してスペインのフェルナンド5世・イザベラ女王に降伏をしようとするがフェルナンドがそれを制した場面です。まだこの時代にはキリスト教徒もイスラム教徒にも騎士道精神がありました。

1492年、ヨーロッパがすべてキリスト教徒に奪還されました。さらに、イベリア半島にスペインという強国が誕生し、婚姻政策を通じてハプスブルク家の一員となることで全ヨーロッパに覇を唱えます。

いっぽうで、北アフリカ側、特に現在のアルジェリア、チュニジア、リビアなどはどうだったのでしょうか?

現地には主にイスラム化したチュニジアのハフス朝、アルジェリアのザイヤーン朝などのベルベル人政権がありましたが、国威振るわず、政治的空白が生じました。一方、新大陸を発見し国力を急速に強化したスペインやポルトガルといったカソリック諸国が反転して北アフリカに攻め込む機会が増えてきました。

バルバリア海賊の登場

このような時、現地に登場した勢力がバルバリア海賊です。

もともと、これらのエリアはもともと天険の地に恵まれた天然の良港を数多く有して、古代から海運が発展したエリアです。以前紹介した、名将ハンニバル・バルカの出身地もカルタゴ(現チュニジア)ですし、狭い湾は海賊の隠れ家としてピッタリのエリアです。

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このような政治的空白地帯で海賊稼業をはじめたのがバルバリア・コルセアです。

レコンキスタにより、イベリア半島に住み着いていたイスラム教徒とユダヤ教徒は国を追われて多くの人々が地中海対岸のバルバリア海岸に逃亡しました。天険の地であるバルバリアで、海賊稼業を行いながらスペインやポルトガル商船を襲って復讐をする。これが、イスラム海賊「バルバリア・コルセア」の起源です。

シナン・レイース

初期の構成員の中にはシナン・レイースのようにイベリア半島を追われた人々やその子孫が多くいました。ちなみに、シナンはバルバロス・ハイレッディンのもとでプレヴェザの海戦でも活躍した有名な軍人ですが民族的にはユダヤ人です。

この頃は、キリスト教という共通の敵にユダヤ教徒とイスラム教徒が手を組むことは珍しいことではありませんでした。

バルバロス兄弟~オスマン帝国のもとで海軍提督となる

さて、初期のバルバリア海賊で最も有名なのはバルバロス・オルチ(1474年 – 1518年)とバルバロス・ハイレッディン(1475年 – 1546年)の兄弟でしょう。

バルバロス兄弟はエーゲ海のレスボス島(現ギリシャ領)に生まれ、父はギリシャ、アルバニア、あるいはトルコ系とも、そして、母は清教徒でしたので恐らくギリシャ人だったと言われています。

海賊稼業に転じた兄弟は、政治的空白地帯であったバルバリアに拠点を移しときには現地のスルタンから港の租借権を受けて海賊業を行ったり、時には、現地の権力者やスペイン軍を追い出してアルジェリアを支配したりします。

オスマン帝国の属州として

バルバロス・ハイレッディンバルバロス・ハイレッディン

しかし、兄オルチはスペインとの戦いで落命。彼のニックネームでもあるバルバロス(赤ひげ)は弟のハイレッディンに受け継がれます。

一方、この時イスラム世界では2つの超大国がどちらがチャンピオンかを競い合っていました。ひとつはエジプトから中東を支配していたマムルーク朝、そして、以前別のエントリでも紹介したアナトリア(小アジア)からバルカン半島を中心に拡大してきたオスマン帝国です。

チャンピオンマッチは軍事的天才であったセリム1世率いるオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすことで決定(1517年)。スペインなどとの戦いで苦戦していたバルバロス兄弟は、こう考えます。

・ ずっと海賊稼業やってても上はスペイン、横はオスマン帝国って超大国に挟まれてる俺たち
・ だったら、割り切って同じイスラムのオスマン帝国の傘下で戦うほうが得じゃね?

なんか、資本力のないベンチャーが一通りプロダクトの開発を終えてGoogleなどプラットフォーマーに身売りしていく立ち回りと似ていなくもないですね(笑)。

こうして、アルジェを支配していたバルバロス兄弟はオスマン帝国のセリム1世に仕えます。セリム1世はお礼に兄オルチをアルジェの知事(ベイ)となることで、オスマン帝国の陸軍(イェニチェリ)、ガレー船、大砲の支給といった物資を受けるとともに、そこから、トリポリ(リビア)、チュニス(チュニジア)などのバルバリア地域を統治します。

兄弟からすれば、大資本に買収されて子会社の社長になったもののやりたい放題でかつ、資本を潤沢につぎ込んでもらうなかなか美味しいディールだったのでしょう(笑)。

プレヴェザの海戦とキリスト世界への復讐

兄オルチはスペインとの戦いの最中、死にますがその後を継いだ弟ハイレッディンはその後オスマン帝国との関係を更に強化します。

この頃のオスマン帝国は壮麗王スレイマン1世の最盛期。ボーナスステージです(笑)。イスタンブールのトプカプ宮殿でスレイマン1世に面会したハイレッディンはついにオスマン海軍のトップである大提督に就任します。海賊が知事をして大提督になるというのは、当時のオスマン帝国がメフメト2世時代以来のおおらかさ、柔軟さを持っていたことの証でもありますね。

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プレヴェザの海戦プレヴェザの海戦(1538年)

1538年、教皇国、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国、マルタ騎士団から構成される神聖同盟軍に対して、バルバロッサ・ハイレッディン率いるオスマン帝国はイオニア海沖アンドレア・ドーリア率い連合艦隊をプレヴェザにて撃破します(プレヴェザの海戦)。こういして、地中海でのオスマン帝国の制海権を確立されました。

なお、この戦いでは先程紹介した「ユダヤのシナン」(”Sinan the Jew”)ことシナン・レイーがバルバロッサの部下として大活躍します。

ちなみに、ヨーロッパ視点でこの時代を眺めるのであればフェルナン・ブローデルの『地中海』は欠かせぬ名著です。

改修者によるバルバリア海賊とアメリカ海兵隊

さて、オスマン帝国の海上覇権の確立に多大な貢献をしたバルバリア海賊。

バルバロス兄弟の死去後は形式的には、オスマン帝国から派遣されたパシャが支配するという形式をとりますが、実態は有名無実。地図としてはオスマン帝国領ではあるものの、実態としては海賊たちが統治する軍事共和国でした。

大企業に形式的に買収されたものの、本社から来た落下傘サラリーマン社長は会議室に押し込めて、現場がやりたい放題やってる会社って結構ありますよね(笑)。あの感じです。

この軍事共和国時代を代表するのがジョン・ウォード(イギリス人)を始めとした改宗した海賊です。

反逆者イギリス人ジョン・ウォード、バルバリア海賊になる

この時期、イギリスやオランダでは私掠船と呼ばれる国家ぐるみの海賊稼業が盛んに行われていました。特にターゲットとなったのは、当時、新大陸を支配して黄金をたんまり積んで本国と中南米を移動するスペイン船。特に、スペインと敵対関係にあったイギリスやオランダは盛んに私掠船を作って盛んにスペイン船を襲います。

バルバリア海賊ジョン・ウォードバルバリア海賊ジョン・ウォード

ジョン・ウォードもそんな私掠船の船長の一人でした。
しかし、アルマダ海戦(1588年)の終焉によりスペインとイギリスは国交を回復し私掠活動が禁止されます。

やるせない気持ちになったジョンはイスラムに改宗、当時、海賊活動が盛んだったバルバリアに行きムスリム海賊に転じます。同じようなことは、スレイマン・レイースことデ・ビーンボーア、ムラト・レイースことオランダ人ヤン・ヤンスゾーンはじめとしたオランダ人改宗者たちにもあてはまります。

彼らはオランダ独立運動の際に敵国スペインとの戦いのため、共通の敵を持つバルバリアと同盟しました。当時のオランダは海運国として急速に国力を蓄えており、オランダの最新式帆走用艤装を紹介してバルバリア海賊の水軍力強化に大いに貢献します。

こうして、バルバリア海賊の活動領域は、地中海のみならずジブラルタル海峡を超えて大西洋にまで渡ります。ときにはテムズ川をさかのぼりイギリス奥地から、また、ときにはアイスランドやカナダのニューファンドランド島にまで攻め込むようなツワモノまで出てきます。そこまで行くならアメリカまで行っちゃえよ、って感じですね。

この時期、ヨーロッパでは覇権国がカトリック国スペインからプロテスタント国であるオランダ・イギリスに移行するタイミングです。

同じ時期に、日本にやってきて日本人に帰化した三浦按針ことウィリアム・アダムス(イギリス人)や八重洲の地名の語源に耶楊子(やようす)ことヤン・ヨーステン(オランダ人)もいたりとこうしたプロテスタント諸国が世界に進出していたこの時期には数多くの面白い物語がありますね。

バルバリア海賊とヨーロッパ

バルバリア海賊の主たる目的は略奪と奴隷の獲得でした。

地中海輸送に携わるイタリアの諸都市国家、スペインなどの商業船を捕獲してその富を略奪するとともに、バルバリア海賊は上記のようにキリスト教国各地の海岸線に住む住民を拉致します。こうして拉致された人々は保釈金で解放されるか、奴隷としてイスラム圏で生涯を終えました(中にはイスラムに改修して大出世した人もいます)。16世紀から19世紀にかけてバルバリア海賊は80万人から125万人の人々を奴隷にしたと言われています。

ヨーロッパ人奴隷とバルバリア海賊ヨーロッパ人奴隷とバルバリア海賊

こうしてみてみると、キリスト教圏が可愛そうですが同じことをアメリカ大陸やアジア・アフリカで行っていましたので、この時代はこうした海賊や海賊を半ば公認した国家によるビジネスという位置づけが強かったとも言えます。

バルバリア海賊とアメリカ海兵隊の誕生

やりたい放題でしたバルバリア海賊ですがヨーロッパでは宗教改革、30年戦争などを経て諸国が徐々に国力を蓄えていきます。イスラム世界のチャンピオンだったオスマン帝国も、1683年の第二次ウィーン包囲に失敗しヨーロッパ側の反撃が始まります。

こうした中、多くのヨーロッパ諸国は海軍力を強化し独自にバルバリア海賊と外交関係を結びました。とはいえ、まだまだヨーロッパ諸国にとってもバルバリア海賊は自分のライバル国を困らせるという点で旨味のある存在でした。フランスはスペイン船を、イギリスはフランス船をといった形でバルバリア海賊をけしかけます。

このような時に世界史に一つの未来の大国が誕生します。
アメリカ合衆国です。

1776年にアメリカは独立しますがそれまではイギリス植民地の一員としてバルバリア海賊の襲撃対象ではありませんでした(それだけイギリス海軍が強くバルバリア海賊も手を出せなかったのですね)。

独立したアメリカを最初に国家承認した国をご存知でしょうか?

実はモロッコのスルタンです。モロッコはバルバリアの位置する北アフリカ諸国の一角でオスマン帝国とは関係がないですが、地理的にバルバリア海賊とも関係の深いエリアです。バルバリア海賊としてはこの新国家の誕生は願ったり叶ったりです。襲撃する国が増える上に、相手の本国ははるか太平洋の彼方です。

こうして、アメリカの商業船舶に対してのバルバリア海賊の襲撃が常態化します。

独立間もないアメリカはイギリスからの独立に際して大陸軍(Continental Army)と同時に大陸海軍(Continental Navy)を創設しますが、太平洋を超えた遥か彼方の北アフリカに海軍を送る余地はありません。

アメリカは当面はバルバリア海賊に拉致された人質の身代金であったり上納金を北アフリカに貢ぐことが続きます。実に1800年のアメリカ合衆国の国家予算の20%がこうした上納金や身代金に支払われていたとも言われています。しかし、あの将来の超大国アメリカさんです。こうした流れをいつまでも我慢しません。

このような中、1794年にはアメリカは海軍を創設します(形式的には1775年に設立されているが、本格的に軍艦が就役したのが1794年)。今では世界最強の海軍国のアメリカですがその創設のきっかけがバルバリア海賊だったことはあまり知られていません。

米海軍ディケーターとアルジェのパシャ米海軍ディケーターとアルジェのパシャ

こうして、アメリカ初の宣戦布告を経た海外遠征はバルバリア海賊との戦いでした。1801年の第一次バーバリ戦争1815年の第二次バーバリ戦争の勝利によって、上納金の支払いは終わります。アメリカ海兵隊にとっても海外発の占領作戦も行われました。ちなみに、海外の占領地に初めて星条旗を翻したプレスリー・N・オバノン中尉の率いる海兵隊がトリポリを占領するという、輝かしい歴史の1ページを歌ったのが、海兵隊讃歌の歌詞「To the shores of Tripoli」ですね。

ウィーン会議と海賊について

さて、アメリカにとって輝かしい戦いでもあったバーバリー戦争
ラッキーだったのはバルバリア地域が名目的にはオスマン帝国領だったものの、実質的には海賊による自治共和国だったことです。

もし、オスマン帝国本国への宣戦布告となれば、まだ国力差はアメリカより圧倒的にオスマン帝国の方があります。さすがにアメリカも海外派兵先での戦いに勝利することは難しかったと思います。(実際に同年に終わった米英戦争ではホワイトハウスがイギリス軍による焼き討ちにあって、首都ワシントンD.C.は陥落、マディソン大統領は逃亡しているありさまでした。)

さて、第二次バーバリー戦争はナポレオン戦争後のウィーン会議(1814 – 1815年)の時期とも重なりました。かつて、ヨーロッパに恐れられたバルバリア諸国が新興国のアメリカに敗北したことによりいよいよ、バルバリア海賊にヨーロッパ全体としてNOを突きつけるときがきました。

ウィーン会議ウィーン会議「会議は踊る、されど進まず」の絵

こうして、ウィーン会議の議定案に「海賊の撲滅」が入れられることになります。

もちろん、この海賊の定義の中にはかつてヨーロッパ諸国自身も行っていた私掠行為(国家ぐるみの海賊)も含まれます。さんざん海賊稼業で稼いだイギリスからすれば、新興国が海賊稼業で海運国であるイギリスの世界覇権を邪魔させないようにする深慮遠謀もあったのかもしれませんね。

こうして、バルバリア海賊とヨーロッパ諸国の関係は軍事的にも外交的にもヨーロッパ有利が決定しました。

アルジェ占領と海賊稼業の終焉

こうして、緩やかに勢力を失いつつあったバルバリア海賊に最後のときがやってきます。ウィーン会議で海賊が禁止されたとはいえ、それは勝手にヨーロッパ諸国が決めたこと。海賊たちにとっては関係ありません。海賊行為はその後も散発的に続きます。

1820年にはイギリスが再度アルジェを威嚇砲撃するなど、ヨーロッパ諸国とバルバリア海賊の散発的な戦いが続きますがあっけなくその最後がやってきます。1830年のフランス軍によるアルジェ占領です。

ナポレオン退位に伴い再びブルボン朝による王政復古を成し遂げたフランス。
シャルル10世は国内の人気取りをするには対外戦争が有効と判断します。

扇の一打事件(1827年)扇の一打事件(1827年)

ちょうどその頃、アルジェの太守であったフサイン・イブン・パシャが、フランス領事の態度に腹を立てて扇子で叩く事件がおきます。いわゆる「扇の一打事件」です。なんか、チャンバラトリオみたいですね(笑)。しかし、これを好機と見たフランスはアルジェリア侵攻を決定します。

1830年6月14日、ブルモン将軍率いる3万7000人のフランス軍はアルジェのフサイン・イブン・パシャの軍を破り降伏させます。

こうしてバルバリア海賊の中でも最も力の強かったアルジェリアフランス領アルジェリア(1830年)となり、第二次大戦後、実に1962年までフランスはアルジェリアを支配します。

こうして、バルバリア海賊の活動は散発的な活動を除き地中海の歴史から姿を消すことになりました。

いかがでしたか?

思ったより近代に至るまで、地中海世界ではイスラム勢力の力が強かったことが分かりますね。

現在のイスラム諸国とキリスト世界、特に地中海イスラム諸国とEUやアメリカとの関係を見ていく上でもこのバルバリア海賊は歴史のキープレイヤーであるとともに、改宗者はじめ多くの心沸き立つ物語を今に提供してくれます。

それでは、今日はこのあたりで!

大山俊輔