大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

文永の役とは? | 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?

文永の役とは? _ 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?

世界最大の領土を誇ったのは、20世紀初頭の大英帝国。

それより遡ること約700年前、大英帝国に次ぐ広い領土を支配していたのがモンゴル帝国です。
モンゴル帝国は地球上の大陸の約25%を支配していました。

西は東ヨーロッパのアナトリア(現在のトルコ)から中央アジア、東は中国、朝鮮半島、モンゴルまでユーラシア大陸を横断する形で治めていたのです。
領土の広さでは大英帝国より劣りますが、当時の人口で比較すると世界人口の半分以上をその領土の中に抱えていた大帝国でした。

chise

外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

そしてモンゴル帝国は日本とも戦っています。
歴史の授業で「元寇」と習った、「文永の役」「弘安の役」です。今回は初めてモンゴル軍(元軍)が日本へ侵攻した「文永の役」について説明したいと思います。

なお、元寇全般を理解したい方は「元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します」の記事で全体図を理解してみてくださいね。

元寇を徹底解説 一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します 元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します

モンゴル帝国とは

モンゴル帝国を築いたのはチンギス・ハン。
チンギス・ハンは、現在のモンゴル国のオノン河デウリン岳で生まれます。チンギス・ハンが生まれた頃、モンゴルでは遊牧民族同士が争い、抗争が絶えませんでした。その争いが絶えなかった遊牧民族を、チンギス・ハンは一代でまとめ上げます。

およそ1190年の話ですから、日本では源頼朝が鎌倉幕府を樹立し、始めて武士が政権運営を始めた時期でした。

1206年、チンギス・ハンは正式に遊牧国家モンゴル帝国を樹立します。騎馬民族であったモンゴル帝国は、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどに次々攻め込み、巨大な帝国に成長する基礎を築きました。

チンギス・ハンは1227年に亡くなります。
それからおよそ30年後、チンギス・ハンの孫フビライ・ハンが1260年、第5代皇帝に即位しました。
フビライはモンゴル王朝で初めて中国風の元号を採用し、中国式の政府機関を整備します。そして国名を漢語の「大元」と改めました。

日本では、モンゴル帝国の日本侵攻を「元寇」と呼んだりします。
この元寇という言葉の由来は、漢語で定めた国名「大元」(「寇」は「あだ」す、という意味で外敵を指します)から来ています。

ただし、フビライが初めて日本宛に書状を送った時には、冒頭に自らの事を「大蒙古国皇帝」とあり、「元」という国名は使っていませんでした。そのため日本側ではモンゴル帝国を「蒙古」という呼称で呼び、知られるようになります。
1271年、モンゴル帝国は国名を「大元」と改めました。
しかし日本では旧来の「蒙古」を使用し、江戸時代までモンゴル帝国の侵攻を「蒙古襲来」「蒙古合戦」などと呼んでいます。

「元寇」という呼称は江戸時代に入りできた言葉。
徳川光圀が日本の歴史を編纂した『大日本史』において初めて使った言葉でした。この『大日本史』は江戸時代に入ってきた漢籍(中国において著された書籍)も使用し、この漢籍の中で元が出てきた為です。

それ以来、日本ではモンゴル帝国の侵攻の事を「元寇」と呼ぶようになりました。

なぜ、モンゴルは日本へ侵攻したのか

フビライは、朝鮮半島出身でモンゴル帝国の役人であった趙彝(ちょうい)などが1265年に進言し、はじめて日本に興味を持ったと言われています。

趙彝は朝鮮半島でも南部の出身であったので日本に関する情報をもっていました。

その話を聞いたフビライは、使者を出すことにします。
ただしこの時、フビライが聞かされた日本は誇張されたものでした。

同じようにヴェネチアの商人であったマルコポーロも同様の話を聞いており、そこから『東方見聞録』において日本の事を黄金の国ジパングとして紹介しました。

また、中国南部の国「南宋」はモンゴル帝国に降伏していませんでした。海軍力が強く、インドや中東など西方への海外貿易の拠点でもあった南宋をフビライは欲していました。

そんな南宋と日本は貿易を行い、関係を持っています。

また地政学上、南宋と日本とは東シナ海を挟んで隣り合っていたため、日本は南宋の東隣にあることから、攻略の足掛かりとして重要な場所として目を付けていました。

そのため、モンゴル帝国は日本に対して服属を求めます。

フビライは1266年を皮切りに、1272年まで数度にわたり使者を日本へ出しています。

ところが1273年、南宋は戦いに敗れモンゴル帝国に対抗する力を失います。こうした事情から、日本侵攻に集中できる環境がモンゴル帝国で整いました。フビライは朝鮮半島に周辺の軍を集め、軍船を建造し侵攻の準備を始めます。

日本の対応

モンゴル軍が日本への侵攻を企てていた頃、日本では執権北条氏を中心とした鎌倉幕府が政治を行っていました。

フビライの使者が初めて日本の大宰府へたどり着いたのは文永5年(1268年)。
モンゴル帝国の国書は鎌倉へ送られます。その国書が鎌倉へ届けられた直後、北条時宗が執権職を継承し18歳で第8代執権となっていました。

時宗は前執権の北条政村や一門衆に補佐され、フビライからの国書への対応を協議します。度々国書を持って訪れるモンゴル帝国の使者には返事をせず、朝廷で作成した返答案も採用しませんでした。モンゴルの使者や親書に対し、無視し続けたのです。

最初の頃の使者は、モンゴルの影響力を拡大するために日本との交易を求めるだけの内容だったようです。

ところが、モンゴル帝国と対立していた南宋と日本は交易をしており、南宋からはモンゴル帝国の危険性を聞かされていました。
国書の対応を鎌倉で協議する一方で、モンゴル帝国が侵攻してきた場合に備え、最初に戦場となる九州の防衛策を進めました。

文永8年(1271)、モンゴル帝国の使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国の御家人に防衛の準備を整えさせます。

関東の御家人の中には、関東以外に飛び地として九州に所領を持つ御家人がいました。

これら飛び地を持つ関東の御家人にも九州北部へ赴くように命じ、守護の指揮下にいれます。
こうして防衛を整えながら、九州では幕府や執権の命令に従わない勢力を鎮圧し、防衛に専念できる状況を作っていきました。

さらに文永9年(1272)、北条時宗は異国警固番役を設置。
国土防衛に関する正式な役職と制度を整え、さらなる防衛体制を敷きます。

異国警固番役を命じられた御家人には、日常課せられていた京都や鎌倉の大番役(朝廷や幕府を警護する役目)を免除され、対外防衛に専念できるようにします。

異国警固番役という制度を設置すると同時に、指揮官として鎮西奉行を置き少弐資能、大友頼泰の2名を任命。この2人を中心として、筑前・肥前の重要な拠点の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせます。

文永10年(1273)幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて九州北部の豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人に対して名字や身分、領主の名前を書いた証文を持参して大宰府に到るように命じ、これらの地域に動員令を発しました。

chise

元寇は北条時宗のリーダーシップなくして乗り切れなかったでしょう。北条時宗については「北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!」の記事でくわしくその生涯を解説しています。
北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説! 北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!

文永の役

文永11年(1274)10月、モンゴル帝国軍はおよそ900隻の軍船に、兵30,000、水夫40,000を乗せ朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出港しました。

対馬、壱岐へたどり着いたモンゴル軍は虐殺を行い、多くの人を捕虜にします。対馬、壱岐を攻略すると10月半ばには肥前の松浦郡(現在の長崎県唐津市)に上陸。上陸してきたモンゴル軍に対し松浦党と本格的な戦闘に入ります。しかし、人数の違いからこの戦いで松浦党のほとんどが討たれ、あるいは捕虜となり、建物も壊滅したそうです。

肥前の松浦郡にモンゴル帝国軍が攻め入っている頃、それより先に攻められた対馬・壱岐の使者が大宰府(九州に置かれた行政機関)に至り、そこから京都や鎌倉へ急報が発せられます。それと同時に九州各地の御家人が博多に集結しました。

10月20日、モンゴル軍は博多湾のうち早良郡(現在の福岡県福岡市)に移動。
博多に上陸すると周囲が見渡せる丘へ陣を張りました。

日本軍は総大将の少弐景資や大友頼泰が指揮を執り、大宰府に集結した御家人を引連れモンゴル軍のいる陣へと向かいます。
日本軍の動きに対してモンゴル軍も進出してきました。景資は進出してくるモンゴル軍を待ち受けるよう、全軍に指示を出します。

そしてやってきた敵に対し騎馬の集団で接近し、大いに矢を射かけました。モンゴル軍も弓や、震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる火薬兵器を用い応戦。火薬を使った武器や、ドラや鐘を叩き迫ってくるモンゴル軍に御家人たちは驚きます。

総力戦を行った御家人たちは奮戦し、この日の戦いでは日本軍がモンゴル軍を追い返します。さらに逃げるモンゴル軍を追い、戦果を挙げました。

初めての戦闘が行われた夜。

モンゴル帝国軍の内では戦闘継続か一時撤退かの話し合いが行われました。
この日の戦闘では、指揮官の一人が戦闘で負傷しています。また慣れない船での移動をしてきた兵が疲労していた事もあり一旦撤退することになりました。

撤退と決まったモンゴル軍は、その日の夜に撤退を開始。
ところが夜間に軍船で移動を強行し、荒い玄界灘の中を漕ぎ出したため暴風雨に遭遇します。

多くの軍船が崖に接触して大破または沈没し、溺死者を出すなど被害を出しました。翌21日の早朝、モンゴル軍は残った船で朝鮮半島まで戻りました。

文永の役後

こうしてモンゴル軍による初めての侵攻、文永の役は終了しました。
文永の役でモンゴル軍が被った被害は13,500余人にも上りました。さらに武器や船の多くを失います。

最初に攻撃を受けた壱岐、対馬の使者は鎌倉にたどり着きましたが、その頃には戦闘は終了、モンゴル軍は撤退した後でした。
しかし、対馬ではモンゴル軍の勢いが凄かったため、鎌倉において御家人以外の武士の動員令も出されます。

11月に入って勝利を知った鎌倉幕府でしたが、再度の侵攻に備え石築地(九州北部、博多の海岸を中心にした石垣の構築)の築造を進めます。
また異国警固番役を強化し、九州の御家人にモンゴル軍の再侵攻に備え九州沿岸の防備を固めました。

同時にモンゴルへの逆侵攻を計画。
幕府は建治2年(1276)3月にモンゴル帝国領への出兵を行うことを明言、少弐経資が中心となって西日本の御家人を中心に動員令を掛けて博多集結させました。

しかし逆侵攻計画は実行されませんでした。
詳しい理由は残っていませんが、同時に進めていた石築地の築造に多大な費用と人員を要したこと、軍船の不足などが理由だったようです。

こうして文永の役は終了。
しかしこの後、日本は弘安2年(1279)にモンゴル軍の再襲来を迎えます。

chise

弘安の役について知りたい方は、「弘安の役とは? | 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説」の記事も見てみてください。
弘安の役とは? 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説 弘安の役とは? | 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説

まとめ

以上、文永の役について解説してきました。
当初は交易を求めてきたモンゴル帝国ですが、もし交易に応じていたとしても文永の役は避けられなかったかもしれません。
当時、対馬の使者が鎌倉にたどり着いたころには戦闘が終わっていたあたりから見ても、情報伝達の速度が現代と大違い。これでは正確な状況を幕府がつかむのは至難の業。
混乱ぶりは、きっとわたしたちの想像以上だったのでしょうね。

chise&大山俊輔