大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

源頼朝 | 幕府という日本型政権交代のモデルを作った男

源頼朝 幕府という日本型政権交代のモデルを作った男

鎌倉時代といえばやはり源氏の棟梁である源頼朝が中心といえますね。しかし、知名度では弟の義経のほうが圧倒的であり、どちらかというと頼朝は悪者になるケースが目立ちます。本当はどんなことをしたのか?義経よりも英雄だったのか?どうして兄弟ケンカしたのか?子どもの頃は何をしていたのか? そんな源頼朝の人物像をもっと知るためにここで解説していきます。

chise

外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

源頼朝って実際はどんな人だった?

源頼朝は父を殺され、自身は成人前に処刑寸前のところで命を救われ、平家の監視の中において源氏の棟梁として密かに東国に拠点を構えます。その後、長年の因縁であった平家を打倒し、全国を平定して征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた苦労も多い武家の政治家です。

サクセスストーリーだけだと十分に時代の英雄なのですが、平家打倒の立役者だった弟の義経追討や奥州藤原氏の滅亡といった容赦ない粛清と、源氏三代での政権を失った後継者の育成不足など、歴史の教科書に必ず登場する重要人物ながら、小説や映画、漫画などの描き方もあって後世の人によって評価が分かれることもあります。

そんな源頼朝の妻は尼将軍といわれた北条政子で、この時代では珍しい恋愛結婚ともいわれており、後の鎌倉幕府を取りまとめた執権北条氏の台頭に貢献しています。しかし、エンタメ的な作品では義経と妻の静御前は悲劇のヒーロー・ヒロインとして扱われることが多く、その対等者として描かれることの多い頼朝・政子は実際とは違うとはいえ、ヒーローを追い詰める悪役に模写される場合もあります。

父の死を境に平氏の監視下に置かれた幼少期から成人期

頼朝は久安3年(1147年)4月8日に、源義朝の三男として誕生しています。祖先を辿ると清和源氏(第56代清和天皇の皇子が父祖)であり、その支流である河内源氏の嫡流です。

1156年には保元の乱が起こり、当時の源氏は父の義朝と祖父の為義が争うこともありました。一族の争いを経て源氏の頂点に立ったのが義朝で、この時点では京での実力者でもあった平清盛と協力関係にありました。

頼朝はまだまだ少年期にも関わらず、父の力もあって主だった政敵も見受けられず、兄弟の中でも順調に出世していきます。

父と清盛が対立した平治の乱

しかし、1159年から1160年にかけて平治の乱が起こります。これは二条天皇の側近として朝廷での権力を争った信西と藤原信頼の戦いで始まりました。義朝は公卿として大規模な権力を誇る藤原信頼に与しており、一時は信西を滅ぼして政権奪取にまで至っています。ところが、政権を奪取した藤原信頼による政治改革を快く思わない他の公卿たちによって二条天皇がそれまで中立を保ってきた平清盛に近づきます。清盛は天皇を味方につけることで官軍となったので攻勢に出ており、藤原信頼や義朝は賊軍となって敗れてしまいました。

義朝は京から逃れる途中に殺害されており、頼朝は道中ではぐれていたので父の死を知らずに近江国で捕まっています。頼朝は京へと送られて処刑されそうになりますが、清盛の継母である池禅尼によって助命を嘆願されて許されています。

伊豆に流されて政子と出会う

頼朝は清盛の計らいで伊豆国(静岡県)に配流されます。当時の伊豆地方は平氏の一族とつながりのある北条時政が支配しており、頼朝は時政の監視下に置かれることになりました。

頼朝は目立つ行動もせずにこの地で知り合った時政の長女である政子と恋仲になります。初めは交際に反対していた時政でしたが、政子の一途さに観念し、遂には結婚を認めました。

頼朝は父や源氏一門を弔い、日々を学問や武芸にも費やすようになり、頼朝の周辺には源氏に恩恵を受けた人材が集うようになっていきました。このころ頼朝と政子の間には長女大姫が誕生しています。

このころ朝廷では平清盛が実権を握るようになっていました。清盛は武家ながら朝廷内の最大権力を誇る太政大臣にまで登り詰めました。1168年には後白河上皇の意向もあって、わずか6歳ながら上皇の第7皇子である高倉天皇が即位しています。高倉天皇は上皇と平滋子の間に生まれた皇子であり、清盛の妻が滋子と異母姉妹ということから、ますます清盛による平氏の栄華が極まっていきました。

挙兵を決意して源平合戦~平家滅亡

1176年に平滋子が亡くなると、これまで良好関係だった後白河法皇(1169年に出家して上皇から法皇へ)と平清盛の関係がぎくしゃくし始めます。後白河法皇を日本最大といえる武家の頂点に立っていたのが清盛でしたので、朝廷の重鎮たちも清盛の独断に逆らうことができずにいました。

また、清盛はクーデターを興し、平氏の所領を増やして後白河法皇を幽閉し、安徳天皇を即位させます。これにはさすがに全国で平氏に対する不満が噴出するようになっていきました。

以仁王の挙兵と失敗で頼朝も窮地へ

1180年にその不満を拾う形で挙兵したのが後白河法皇の第3皇子である以仁王でした。安徳天皇が即位したことで、自身の天皇即位も無くなってしまったのです。以仁王は源氏で唯一清盛の信頼が厚く京でも出世していた摂津源氏の源頼政を味方に付け、各地の源氏一門に連絡を取って挙兵するよう書状を送ります。

もちろん、伊豆の頼朝にも叔父の源行家より届けられますが、頼朝はすぐに動きませんでした。しかし、以仁王の挙兵は平氏に漏えいし、十分な戦力を整えないまま戦死する羽目になってしまいます。頼政も討死し、怒った清盛は全国の源氏追討の指令をだします。頼政の死を受けて伊豆国も平氏の勢力が及ぶようになり、身の危険を察した頼朝は遂に挙兵することになります。

石橋山で大敗を喫するも鎌倉で再起を図る

平氏が領地を圧迫することで、頼朝は平氏に恨みを持つ勢力を取り込んでいくことが想定できたので、父の代から恩を感じている東国の実力者たちを味方に付けることを模索していました。頼朝は東国からの援軍を待たずに手始めに伊豆を攻略していきます。伊豆を手中に収めたものの、頼朝の軍勢はすぐに平氏の戦力と戦うには厳しいものといえました。

頼朝は石橋山(神奈川県小田原)の戦いで平氏軍に大敗を喫し、命からがら東国へと落ち延びます。その後、頼朝は安房・武蔵の国で大軍を味方に付けることに成功。父が済んでいた鎌倉に入って力を蓄えます。頼朝が鎌倉で無事に過ごせたのも、甲斐源氏や木曽義仲が相次いで挙兵し、頼朝討伐への兵力に大軍がすぐに動かせなかったこともありました。

頼朝は富士川で甲斐源氏と合流し、平氏の軍勢を迎え打ちます。ほとんど無傷で平氏の軍勢が逃げ落ちたので圧勝ともいえる内容でした。この戦いを経て全国で平氏打倒の機運が高まることになっていきます。また、戦後には義経が馳せ参し、頼朝と対面を果たしています。

義経が参戦し壇ノ浦で平氏を滅亡

富士川の戦い以降、頼朝は鎌倉へ戻って鎌倉を本拠地として地盤を固めていきます。しかも、翌1181年には清盛が病死し、平氏に動揺が広がっていきました。求心力の弱まった平氏に対し、義経や義仲の活躍もあって京から平氏一門を追い出すことに成功しています。

一般的に頼朝は関東に構えていたので義経や義仲が平氏を打ちのめしたと認識されているものです。しかしながら、平安末期の関東では平氏に味方していた関東の雄である佐竹氏や当時の最大国力を誇っていた奥州藤原氏の存在が身近にあり、頼朝が鎌倉から抜け出せない要因ともなっていました。

一方、幽閉から脱した後白河法皇は京で乱暴狼藉を働いていた義仲軍を疎ましくなり、頼朝を頼ります。頼朝は源範頼と義経の兄弟を送り、宇治川の戦いで義仲を撃破。このとき義仲の長男であり、大姫と婚姻関係にあった木曽義高を処刑しています。大姫はこの事件がきっかけで病を発症し、20歳の若さで亡くなります。

清盛や義仲がいない中、頼朝の敵になる勢力もおらず、その後は西へと敗走する平氏を範頼と義経が追い続け、遂には壇ノ浦で平氏を滅亡させています。

義経を追い詰めて天下統一を果たし、52歳で死去

平氏滅亡に一番貢献度の高かった義経でしたが、その兵力の多くが西国の武将たちでした。頼朝に忠誠を誓った東国の武将たちは活躍できる場所はおろか、戦功を上げる機会すら奪われてしまい、源氏に対する不満が出始めていました。

さらに頼朝の許可を受けず官位を受けることも頼朝の怒りを買い、天才的軍略で電光石火のごとく平氏を滅ぼした才能に人心を集めることは武家政権を目指す頼朝にとって恐れを抱くほどでした。

さまざまな要因もあったことを受けて、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、遂に義経は反乱を興します。頼朝は後白河法皇を味方に付けて義経を賊軍と見なし、追討軍を設けました。さすがの義経も圧倒的な戦力差に敗れてしまい、奥州へと逃れました。

頼朝の執念は凄まじく、奥州藤原氏に圧力をかけて義経を攻めさせ、その藤原氏も後に攻め滅ぼしました。こうして天下に敵のいなくなった頼朝は征夷大将軍となって念願の武家政権となる鎌倉幕府を開いていきます。

頼朝は後継者を長男の頼家に決めていましたが、自分の在任中に征夷大将軍を譲ることはありませんでした。頼朝は1195年に子どもたちを伴って上洛し、気落ちしていた大姫の政略結婚を画策して朝廷を取り込める手はずを整えます。しかし、大姫は1197年に急死したため計画は頓挫してしまいました。

鎌倉にいながら京を抑えるのに苦労していた頼朝ですが、1198年の年末に相模川の橋を供養した帰り、落馬して体調を崩してしまいます。その一か月後に体調が急変して死去。52歳で生涯を終えています。

【人物像】猜疑心が強く意外にも美青年の頼朝

頼朝の人物像をみていきましょう。

容姿端麗

世間一般的なイメージでは頼朝が中年のオジサンで、義経が美青年というキャラクターが成立していることもあります。しかし、鎌倉時代前後の書物では頼朝の容姿が美しいと明記されているものもあります。

猜疑心が強くて一族であっても容赦ない

頼朝は監視下に置かれている状況が長く続いたため、自身が若いころから勢力を拡大して身に付けた地盤がありません。特に東国の地は源氏に恩を感じているというよりも、平氏に対して憤りを感じている豪族が多いものでした。恩賞目当てで味方になる勢力が多いため、頼朝が心の底から信頼できる仲間がおらずに猜疑心が強いともいえるでしょう。それは頼朝の兄弟や源氏一門にも向けられ、平氏討伐に貢献した範頼と義経は頼朝の命令で討ち取られていますし、義仲や甲斐源氏の当主であった武田信義も殺されています。

政子の嫉妬心が強くて密会に必死

また、女性関係では政子の嫉妬心が強過ぎたため、当時では当たり前の側室をおおやけに持つことができませんでした。頼朝は好きになった妾に政子の目を盗んで密会することもあるほどで、後継者を多く残すことができずにいます。頼朝の男系直属は全員が早世したこともあって、1231年には完全に断絶してしまいました。頼朝の死からわずか30年あまりのことであり、源氏が滅ぶ要因ともなっています。

【逸話】頼朝にまつわるエピソード

頼朝にまつわるエピソードをみていきます。

挙兵後にすぐ死を覚悟も敵に助けられる

頼朝の挙兵を知った平氏の軍勢は大庭景親を総大将にすぐに動き、石橋山(神奈川県小田原)において両軍が戦闘態勢に入りました。東国からの援軍を期待した頼朝でしたが、悪天候のために参戦できずにおり、数で劣る頼朝軍は壊滅状態に陥ります。

大庭景親は敗走した頼朝をしつように探し回りますが、頼朝は山中の洞窟に数名の従者とともに隠れていました。このとき平氏方で参戦していた梶原景時が偶然にも頼朝を見つけてしまいます。観念した頼朝は自害しようとしますが、景時はそれを止めて頼朝が逃げられるように助けます。後に景時は源氏方に寝返り、義経とともに平氏追討の立役者となりました。

政治家として優れたリーダーシップを発揮

頼朝は武士としての才能よりも、政治家としての能力に秀でています。東国の武士団は地理的にも平氏の支配から遠かったので、それぞれの豪族が独立した状態ともいえ、いくら頼朝が挙兵してもまとまりがない集団でした。それを頼朝がリーダーとしてまとめ上げ、関東の地盤を強固のものとしていきます。

頼朝は将軍を頂点として役職を制度化し、明確な組織系統を築き上げました。これは明治政府が樹立するまで約680年間も続いた武家政権の礎ともいえます。

まとめ

頼朝は父を殺されて長い間人質のように平氏の監視下に置かれた不遇の時期を過ごし、それぞれバラバラだった東国の武士団を取り込んで挙兵しました。頼朝は平氏打倒を一族に任せていたので、後世での評価は義経や義仲、範頼らが軍事的才能を活かして平氏滅亡の立役者となっています。

しかし、これも関東一円に巨大勢力を築いた頼朝の後ろ盾があったからこそであり、万が一にも関東を抑えられなかったら義経や義仲は京の平氏軍と挟み撃ちになって敗れていた可能性もありえます。

味方につける勢力をまとめて敵対勢力を排除したリーダーシップや武家政権の基礎ともいえる組織系統を築き上げた政治的手腕や優れたものですので、やはり鎌倉幕府の立役者は源頼朝が一番手といえるでしょう。

chise