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弘安の役とは? | 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説

弘安の役とは? 鎌倉武士とモンゴル(元)の最終決戦と戦いの経緯を徹底解説

世界人口のおよそ半分を支配下に収めたモンゴル帝国。
第5代皇帝は、1260年に就いたクビライ・カアン(日本ではフビライ・ハンのほうが一般的に使われる)でした。

クビライは家臣の進言から日本に興味を持ち、1266年から度々使者を日本に送って服従を求めます。
ところが、この勧告に従わない日本をクビライは討伐することに決めました。これが一般的に元寇と言われる戦いですが、元は2度に渡り日本に新興しました。1度目の文永の役、そして、2度目の弘安の役です。

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1度目の戦いであった文永の役。文永11年(1274)10月、数万の兵と900隻の軍船で侵攻してきた元軍を日本側は撃退しました。そして、それから歳月は流れて元は2度目の侵攻を企てます。弘安の役です。

chise

外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

この記事では、元寇と言われる一連の戦いのうち2度目の進行であった弘安の役についてわかりやすく解説します。日本にとって、第二次大戦に匹敵する国難ともいえる元寇。中でも、弘安の役は15万にも及ぶ大軍を動員した当時、世界最大規模の水軍による上陸作戦でした。はたして、日本はどのようにこの国難を乗り越えたのでしょうか?

今回は、2度目の元軍の侵攻、「弘安の役」ついて説明したいと思います。

なお、元寇全般を理解したい方は「元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します」の記事で全体図を理解してみてくださいね。

元寇を徹底解説 一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します 元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します

文永の役後の元の対応

文永の役が行われた翌1275年、クビライは再度の日本侵攻を企図していました。
そこで建治元年(1275)、5人の使者を日本に送ります。

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文永の役について知りたい方は、「文永の役とは? | 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?」の記事も見てみてください。
文永の役とは? _ 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか? 文永の役とは? | 日本・鎌倉武士はどのようにしてモンゴル(元)のピンチを乗り切ったのか?

使者達は長門(現在の山口県)に到着すると鎌倉まで連行され、そのまま鎌倉において斬首。
使節を派遣すると同時にクビライは、朝鮮半島で日本侵攻の準備を始めました。

クビライは日本に対する再度の侵攻準備を始めましたが、同時に進めていた中国南部の国「南宋」に対する侵略が佳境を迎えていました。
そこで日本侵攻の計画を一時中断。元は1276年に南宋の首都臨安を堕としました。南宋の抵抗は1279年まで続きますが、最終的に滅亡、元に組み込まれます。

1279年、南宋を完全に制圧した元は、一時中断されていた日本侵攻の計画を再開します。
そこで再度、日本へ使節を派遣し服属を求めました。

今回の使節は、南宋の旧臣から日本の幕府へ宛てた文章として出されます。

南宋は日本と貿易をしていた関係上、両国の関係は良好でした。使節の内容も、既に南宋は元に敗れて服従した事、日本も南宋と同じように服従した方が良い、というものでした。結局、使節の持ってきた内容が服従を求めたものだと分かり、使節団は博多で斬首に処せられました。

クビライは、派遣した使節を待つ間に中国沿岸や済州島、朝鮮半島で侵攻の準備を始めます。1280年には日本侵攻軍の司令部・日本行省(征東行省)を設置し、侵攻準備の最終段階に至りました。

日本の対応

前回の文永の役では、日本軍は元軍を退ける事が出来ました。
そのため「文永の役」が終わると、逆に日本が元帝国の勢力下にあった朝鮮半島に逆侵攻する計画を立てます。

大山俊輔

大陸側からの侵攻を防ぐために、入口を塞ぐというのは、百年戦争時のイングランド軍のカレー上陸、日露戦争、そしてノルマンディー上陸作戦と数多くありますね。

九州北部の沿岸を警備し防衛する異国警固番役の強化、博多などの沿岸に石を積み上げた石塁を築くことで防衛に力を入れました。

この石塁は「石築地(いしついじ)」と呼ばれ、築造の場所を国ごとに定め作られました。さらに、この石築地の築造を命じられたのは御家人だけではなく寺社領を持つ者にも賦課されました。御家人には石築地の築造が大きな負担となり、朝鮮半島への逆侵攻は実行されませんでした。

しかし文永の役よりも、一層日本側は防衛に力を入れています。

弘安の役

弘安4年(1281)5月、元軍は兵や水夫併せて150,000人、軍船4,400隻で日本に向かう準備を進めました。

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弘安の役の語呂合わせは「いつ(12)敗走(81)するんだ、元の船」って習いますよね。

前回の文永の役で用意された元軍の船の数が900隻ほど。今回の出兵は兵も船も前回よりも数倍の規模です。

船は造船をしただけでは足りなかったので、南宋が服従した時に接収した旧南宋軍の船も使うことになりました。その為、元軍は軍船の出港場所を朝鮮半島と中国沿岸の二つに分けます。最初に日本に近い朝鮮半島から出港した先発隊が日本へ侵攻。その後、中国沿岸から出向した本隊が日本で先発隊と合流することになりました。

朝鮮半島を出港した元軍は対馬、壱岐を制圧した後、更に博多へと向かいます。

ところが博多へ着いた元軍は、驚きました。
博多の浜には、前回の侵攻にはなかった長大な石塁があります。

最も規模の大きな所では、幅2m高さ3mにも及び、それが数kmにも築かれていました。その石垣の前には先を尖らせた杭を打ち上陸を阻んでいます。

6月6日、博多に上陸する事を断念した元軍は九州と陸続きの島の志賀島(現在の福岡県福岡市)を占領、軍船の停泊地としました。
ところがその日の夜、日本側から一部の武士たちが元軍の船へ夜襲を掛け、終夜戦います。前回の文永の役にはなかったことです。日本側からも積極的に応戦しようとしました。

6月8日、軍を二手に分けた日本軍は志賀島に総攻撃を行います。9日まで日本の攻撃は続き、抗しきれなくなった元軍は一旦壱岐まで撤退。

朝鮮半島から出向した元軍の先発隊は日本にたどり着きながら、日本軍と交戦した後に壱岐まで一旦退きます。

一方、中国沿岸から出港する元軍の本隊は6月中旬ごろに出港。
本隊は先発隊と壱岐で合流するつもりでした。しかし嵐で遭難した日本の漁師から平戸島(現在の長崎県平戸市)は防備が手薄で大宰府に近いと知ります。そこで平戸島に向かい6月下旬に辿り着きました。

6月29日、数万の日本軍は壱岐にいた元軍へ総攻撃を掛けます。
壱岐では、日本軍と元軍の激戦が繰り広げられました。しかし中国沿岸から侵攻した元軍の本隊が平戸へ到着したことを知り、壱岐から撤退し平戸へ向かいます。

7月中旬、平戸に到着した元軍は大宰府を目指して進撃するため鷹島(現在の長崎県松浦市)へ移動。そこで壱岐を放棄した元軍と合流を果たしました。合流した元軍は、先の志賀島や壱岐での戦いから日本軍を警戒します。占領した鷹島に土塁を築き、船を縛って砦の代わりとして陣を敷きました。

一方、日本軍も壱岐から元軍を撃退したとはいえ新たに大宰府を窺っている事を知ります。

北条時宗は新たな増援を送ることを決定。
京都の六波羅探題に集めた60,000人の兵を引付衆の宇都宮貞綱に与え九州へ向かわせました。さらに、九州や中国地方のうち鎌倉幕府の管理外の荘園領から兵糧米として年貢を徴収できるようにし戦時体制を推し進めます。

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こうしてみてみると、北条時宗は万全の体制で弘安の役に備えていたことがわかりますね。北条時宗については「北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!」の記事でくわしくその生涯を解説しています。
北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説! 北条時宗ってどんな人?元寇における救国の英雄ともいえるその生涯について徹底解説!

朝鮮半島からやってきた元軍が博多に辿り着き2か月が経過。

そして、7月30日夜半の事です。
発達した台風が九州方面に接近。

鷹島や平戸に集結していた元軍は多くの船を停泊させていました。また砦の代わりとして船同士を繋げていた為に、船同士がぶつかり沈没。船に乗っていた多くの兵も海に投げ出されました。

台風が去った後、元軍は軍議を開き今後の侵攻を討議します。しかし多くの船を失い士気も落ちた事から撤退することに決めました。
残った船で日本から引き上げましたが、鷹島では船に乗り切れない数万の元軍が取り残されます。

7月7日、日本軍は鷹島の掃討戦を行い20,000~30,000の兵士を捕虜としました。掃討戦と言っても、数万人が戦ったため激戦となりました。現在でも遠矢の原、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、胴代、死浦、地獄谷、前生死岩、後生死岩、供養の元、刀の元、伊野利(祈り)といった激戦を連想させる地名が残っています。

この戦いをもって元軍の二度目の侵攻、「弘安の役」は日本側の圧勝という形で終了しました。

弘安の役のその後

二度の遠征が失敗に終わっても、クビライは日本の侵略を諦めませんでした。

早速、中国や朝鮮で船の建造を始めます。木材の不足から建造に時間がかかる為、商船を徴発し軍船へと替えて準備を進めました。また、二度の侵略で戦った朝鮮の兵や中国などの兵だけでなく、中央政府の直属部隊を派遣することさえ検討していました。

しかしそのころ、クビライ政権を支えていた東方三王家(チンギス=ハンの兄弟の子孫)の一つ、オッチギン家のナヤンが反乱を起こしました。日本遠征のために準備していた軍団もその鎮圧に動員。前後五年に及んだこの大反乱があったことで、クビライは第3回の日本遠征を実行できませんでした。

1294年にクビライは死去。この後、元は衰退へと向かっていきました。

日本側も九州の御家人を中心に「異国征伐」を命じましたが、前回と同じように実行はされませんでした。逆侵攻を行うよりも防衛に力をいれ、より強固な防衛活動を推進します。

元軍の侵攻を阻んだ石築地役(いしついじやく)を続け、工事や補修を行い、防塁を作り続けました。石築地は鎌倉幕府滅亡の前年まで続き博多の海岸におよそ東西20km、その他の沿岸にも防塁を作り続け長大なものになりました。

また九州の御家人に異国警固番役を命じ,定期的に海岸線の防備をさせました。又いざという時には,幕府は御家人以外の者にも防衛のために命令できる権限を強化しました。

これらは鎌倉幕府の末期まで続きます。

鎌倉幕府の命令により、御家人たちは二度の侵攻を戦いました。
ところが弘安の役の後も幕府は御家人に対し、5年をかけ戦争での貢献度を審査し、しかも十分な恩賞を与えられませんでした。褒美を与えたくとも幕府にも与える土地がありません。その為、二度の戦争と九州での警護の為、御家人は借金で苦しむようになります。

幕府は「借金で手放した土地でも20年を越えないものは、もとの持ち主に返さなければならない」という徳政令(借金の返済免除令)を発布して御家人の窮状を救おうとしました。

しかし、徳政令は借金の棒引きに関する事だけ。根本的な原因である、御家人の収入の安定については解決できませんでした。また借金の棒引きを強制された商人側も、新たに徳政令が発布されるかもしれないと警戒し、御家人との取引を控えます。結果、ますます生活苦になる御家人が出てしまい、不満は解消されませんでした。

貨幣経済の浸透や資金繰りの悪くなった御家人など、元寇の後、武士といえども没落する者が出現。

御家人たちの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが登場し、新興階層である悪党(既存の勢力に従わない武士)の活動が拡大していきました。
これらが原因のひとつなり、およそ50年後、鎌倉幕府の滅亡に繋がっていきます。

まとめ

以上、弘安の役について解説してきました。

日本も、再度の侵攻があると予見して準備していたまではよかったものの、思った以上に莫大な費用がかさんだことが鎌倉幕府の衰退につながっていったのですね。

いつの時代も、戦に兵糧と人員・費用はつきもの。
この時代以後も、戦を仕掛ける側・仕掛けられた側が費用に苦しんだ例は数知れず。

それでも、日本を守るために戦わなければいけなかった鎌倉幕府も災難だったのでしょうね。

chise&大山俊輔