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日露戦争をわかりやすく解説 | その原因、戦場、結果、世界への影響、もし負けていたらどうなっていたか!?

日露戦争をわかりやすく解説

明治時代、日本は産業革命を興し、急速に軍事力と国力を増強。近代国家に大きく変貌をとげました。そんな近代国家となった日本が初めて体験した国難が、日露戦争です。

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外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

サイト管理人:大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営。母方の実家は鹿児島で、曽祖父はじめ明治維新期の日本の要人に仕えていたこともあり、この時代には並々ならぬ想いがあります。

この記事では、日本がその維新の成果と国運を賭して戦った日露戦争についてわかりやすく解説します。原因は何だったのか?戦場がどこだったのか、そして、個別の戦闘、戦争の結果や世界への影響についてもまとめます。もし、日本があの時、日露戦争について負けていたらどうなっていたのか・・?そんなことにも想いを馳せながら書いてみました。

日露戦争の原因

江戸時代の終了と世界情勢

江戸時代が終わり明治時代に入ると、日本は近代国家の階段を駆け上がります。

260年に渡る江戸の太平は庶民にとってはとても良い時代だったかもしれませんが、世界の現実は厳しいものでした。戦国時代前後には中南米は既にスペイン・ポルトガルの支配下に。そして、アジアではオランダ、イギリス、フランスなどがしのぎを削っていました。

そして、遅れて産業革命を経験したロシア、統一国家として強国化したドイツ、イタリアなどもイギリス、フランスに追いつくべく、アフリカなどへ植民地獲得へと動き、また、アメリカも急速に国力を高めて中南米、アジア太平洋地域に進出します。

明治維新

明治維新

日本はこのような時期に明治維新を行い国の舵取りを大幅に変えました。

時は、帝国主義の時代。力のある西洋諸国は、植民地を獲得しようと躍起になっており日本も夷を以て夷を制すの言葉の通り、西欧諸国の近代化の成果をいち早く吸収し、国力をつけます。

日清戦争と三国干渉

 

このようなとき、アジアでは日本も海外に目を向け、領土を獲得しようと動き始めます。そこで、朝鮮半島をめぐって清(当時の中国)と争いました。

朝鮮半島を挟んでにらみ合った日本と清。明治27年(1894)に戦争となります。

日清戦争です。戦いは日本側が勝利し、清から賠償金と台湾や澎湖諸島・遼東半島の領土を日本に割譲し講和するという内容で下関条約を締結。

ところが、条約の内容に問題があると主張した国がありました。その国こそが、ロシアです。

ロシアは「遼東半島まで割譲することは清の安定にはならない」と主張。日本に遼東半島を返還させました。

この事件は、ロシアとドイツ・フランスの三国で日本に抗議したことから「三国干渉」と呼ばれています。

ロシアの極東進出

しかし、その直後にロシアは遼東半島を租借地として清から取り上げてしまいました。

もともと、ロシアは1年中凍らない港を昔から欲していました。ユーラシア大陸の極寒の地にあるロシアは、一年を通じて船が出入りできる港がほとんどありません。

冬になれば港の中が凍り、使えなくなるため、商船や軍艦の使用に支障が出てしまいます。

このような事情から、中国大陸の遼東半島はロシアにとって魅力的な場所だったのです。

ロシアは遼東半島の先端に港を整備し、港の周囲をコンクリートで覆い要塞化。そして、遼東半島から鉄道を敷設しました。

ロシアだけでなく、列強各国が清の権利を侵害するため、清の人々は怒ります。

義和団事件

人々は清にいる列強の国々や弱腰の役人に対し、抗議するために反乱を起こしました。義和団事件です。この反乱は列強各国の軍隊によって鎮圧されてしまいました。

ところが、この鎮圧の混乱に乗じてロシアは満州(現在の中国北東部)にまで影響力を強めます。

満州の南に位置する朝鮮半島。朝鮮半島は日清戦争の後、日本の影響力が強い地域でした。日本の影響力が強い朝鮮半島とロシアの影響力が強い満州。影響力の強い地域が隣接し、ロシアはさらなる南下政策を進めようと朝鮮半島を狙います。

朝鮮半島をロシアに取られれば、日本列島も危うくなりかねません。

日本は日清戦争の終わった直後から、ロシアの南下政策を予想していました。

そのため、清から得た賠償金を軍事力につぎ込み、対ロシア戦争を念頭に軍拡を進めていました。しかし、当時の日本とロシアの国力には大きな差があります。

日英同盟の締結

日露戦争時の国際情勢

そこで日本はイギリスに接近。

ロシアは極東以外でも南下政策を推進。世界中に植民地を持っていたイギリスは、ロシアの拡大が進めばイギリスにも脅威となります。しかしイギリスはこの頃、南アフリカで戦争を行っており、アジアまで手が回りません。

イギリスは日本に手を貸し、ロシアの脅威に対抗しようと日英同盟を締結します。

こうして、日本はロシアとの戦争に突入するのです。

日露戦争は、明治37年(1904年)2月の開戦から明治38年(1905年)8月のポーツマス講和会議までの18ヶ月にわたり続きました。

日露戦争の開戦

明治37年(1904年)2月4日、日本は緊急御前会議においてロシアとの開戦を決定します。

2月8日には遼東半島先端にある旅順港のロシア艦隊と日本艦隊が初めて交戦しました。

翌日の2月9日には、朝鮮半島の仁川に日本の陸軍が上陸し進軍を開始。

2月10日に「露国に対する宣戦の詔勅」 が出され、日本政府からロシア政府へ宣戦布告がなされました。

日本側の戦争目的

日本側は戦争の目的を「アジア周辺にいるロシア軍を駆逐すること」としていました。具体的には満洲のロシア軍に打撃を与えることが目的です。

そこで日本は、日本海から朝鮮半島付近にいるロシア海軍の艦艇を奇襲し撃沈。

そして日本から大陸への海上の安全が確保されると、朝鮮半島と遼東半島の二方面から満洲攻略を目指しました。日本の計画は順調に進み、陸軍の進軍が続きます。

日本の課題

しかし、順調に進んでいる日本側には不安要素が多くありました。

まず、ロシアの方が兵力も装備も圧倒的に上です。

ロシア陸軍はシベリア鉄道を使い、ヨーロッパから次々アジアへ軍隊を送り込むことができました。

旅順艦隊

さらにロシア海軍は、遼東半島に旅順艦隊を持っています。

これは、日本の艦隊と同規模。そのため、開戦からしばらくの間、海上で待ち受ける日本艦隊と港にとどまる旅順艦隊が睨みあいます。

これだけでなく、ロシアにはヨーロッパにもうひとつ「バルチック艦隊」も控えています。バルチック艦隊が日本まで来ると2倍の規模になります。

そうなると海上を押さえられ、大陸にいる日本陸軍は孤立。日本はバルチック艦隊が来るまでに決定的な勝利を上げることが至上命題でした。

日本の資金問題と高橋是清

それ以上に問題だったのが、日本には戦争を継続する資金力がないこと。

日本は同盟関係にあるイギリスからお金を借りようとしますが、イギリスの資本家は日本がロシアに勝てるわけがないと考え貸し渋ります。日本は日本銀行副総裁の高橋是清を中心に戦争の裏で金策に奔走しました。

日露戦争の経過

日本軍の上陸

日本陸軍は、朝鮮と遼東半島の二方面から進軍を開始します。さらに、行き先を二手に分けました。一方は満州、もう一方は遼東半島先端の旅順。

満州にはロシア陸軍のアジア方面主力がおり、旅順にはロシア海軍の旅順艦隊と旅順要塞があります。日本の陸軍は大部分を満州へ、一部を旅順へ向かわせました。

満州での戦いは、日本側が前進しロシア側が不利になると後退して新たに陣地を構築し守りました。古くからロシアは後退しながら相手の戦力を消耗させていく戦いを得意としています。

かつてはフランスのナポレオンも、ロシアと戦った際この戦法に苦しめられました。

日本陸軍も、次第に消耗。一進一退を繰り返します。

ところが、戦況を見ていた世界中の国々は日本が勝ち続け、ロシアが負けていると考えます。次第に日本の戦時国債が買われ、資金調達に目途が立つように。

しかし、後退するロシア陸軍を捕らえる事ができないまま、バルチック艦隊が来るまでに決定的な勝利を上げることが難しくなってしまいました。

旅順の戦い

旅順の戦い旅順要塞を攻撃する日本軍

旅順方面へ進んだ日本陸軍、はさらに苦しい戦いを強いられます。

当時使われ始めた機関銃と、厚いコンクリートに覆われた旅順の山々に旅順艦隊がいます。前述した通り、旅順艦隊と海上にいる日本艦隊とは同規模。バルチック艦隊が到着してしまうと日本と比べ2倍の戦力になってしまい不利になります。

ロシアの旅順艦隊側からは、無理に攻めてきません。

そこで日本は、陸の方から攻め港ごと旅順を落とそうとします。

結果、半年の期間と延べ13万人の兵士で落とすことに成功。旅順艦隊は全滅します。

しかし13万の兵のうち約半数が死傷するという大損害を被りました。

奉天の戦い

奉天入城の大山巌奉天入城の大山巌

旅順要塞を落とした日本陸軍はここで初めてすべての戦力を大陸に集める事に成功。

明治38年(1905)2月、日露あわせて60万とも言われる軍隊が満州の奉天で激突、日本は勝利しました。ロシア陸軍は、立て直しに相当な時間が掛かる程の甚大な被害を受けたのです。

しかし、日本陸軍もこの奉天会戦で限界に。

日本政府は国際社会を通じ、ロシアとの講和を模索します。ところが奉天会戦でロシア陸軍が負けたものの、ロシアには日本に向かっているバルチック艦隊がありました。バルチック艦隊が日本艦隊を破れば日本陸軍は大陸で孤立。ロシアはまだ諦めていませんでした。

日本海海戦

1905年5月、バルチック艦隊は日本海に到着。

日本艦隊とバルチック艦隊とは5月27日、対馬沖で遭遇し艦隊決戦となります。日本海海戦です。結果、バルチック艦隊はほとんどを失い、日本艦隊は小艦艇数隻を失うにとどまりました。世界海戦史上まれにみる日本側の完勝でした。これによりロシアは戦争を継続する方法をなくしてしまいました。

日露戦争の影響

1905年6月、日本の外務大臣であった小村寿太郎からアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の調停を要請。ルーズベルトも受諾します。そしてアメリカのポーツマスにおいて、交渉が始まりました。

 

条約の内容のうち、最も重要な議題だったのが賠償金。

当時の戦争では、戦勝国が敗戦国から賠償金を得る事が一般的です。ロシアは長期間かければ、まだ兵力を集めることは可能でしたが、頼りのバルチック艦隊が全滅で痛手を受けています。日本はこれ以上戦争を継続する資金に不安があるため、このあたりで講和を結びたいのが本音です。

1か月に及ぶ交渉の末、明治38年(1905年)9月5日、日露講和条約が署名され最終的にはロシアが賠償金を支払わなくてよい、という内容で折り合います。

これにより日本とロシアとは講和が成立しました。

 

ロシアの南下政策を阻むという、日本の目的は達成されました。

ところが賠償金を得られなかった事に、日本国民には納得できません。ポーツマス条約が調印された日、条約内容に不満を持つ人が東京の日比谷公園に集まり抗議活動を行い暴動が発生。日比谷焼き討ち事件です。

その後、日本は領土拡大政策を進めます。明治43年(1910)には朝鮮半島を日本の統治下におきました(韓国併合)。

 

日露戦争は、日本のみならず世界中に大きな影響を与えます。

当時、世界を支配していた列強国は白人が中心。そして、列強国が植民地化した多くの国は有色人種の国です。

そのため、有色人種は白人に劣る、と考えられていました。しかし、有色人種の日本が白人のロシアに勝利。植民地の国々で、列強国の植民地支配に抵抗する動きが各地で活発になっていきます。

 

ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北と帝政に対する民衆の不満が増大。

国民の間には、厭戦気分が蔓延していました。経済も停滞の一途を辿り、明治38年(1905)1月9日には血の日曜日事件が発生。社会情勢が不安定になります。

この後、ロシア帝国の国内情勢はより不安定になっていきます。

 

ロシア帝国は、伝統的な南下政策を進める事がこの戦争の動機のひとつでした。この敗北を機に、極東への南下政策であった侵略を断念。

南下の矛先は再びバルカン半島に向かい、ロシア帝国はスラヴ民族の連帯を全面に唱え影響力を強めようとします。

このことがゲルマン民族の団結を唱えるドイツ帝国や、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国と対立を招き、第一次世界大戦の引き金となっていきました。

まとめ

以上、日露戦争の原因から経過、結果まで説明してきました。

日本の勝利が与えた影響は、思った以上に大きかったと言えるでしょう。戦争を続けるには、今も昔も莫大な資金と犠牲がいることに変わりはありません。

当時の日本がどれだけ大変だったのか、想像しきれませんが今のわたしたちが思う以上に様々な苦労があったことを思うと、何とも言えない気分になりますね。

Chise&大山俊輔