紀元前202年、ローマの名将スキピオが北アフリカに上陸し、雷光とも呼ばれたカルタゴの天才将軍ハンニバルの率いるカルタゴ軍を破ったザマの戦い。
歴史のことを調べてる人
- ザマの戦いとはどのような戦いだったのか知りたい
- 両軍の指揮官などについて知りたい
- 戦いの経緯、戦後どのようになったのか?
第二次ポエニ戦争のクライマックスの戦いでもあるザマの戦い。
大山俊輔
ザマの戦いは、イタリア半島で連戦連勝を飾ったカルタゴの名将ハンニバルが本拠地カルタゴで若きローマの将軍、スキピオ・アフリカヌスに破れた戦いです。この戦いをもって、長い第二次ポエニ戦争は集結し、ローマは大きな犠牲を払いながらも西地中海における覇権を確立します。この記事では、ザマの戦いについて戦いの行われた場所から戦闘の経緯までをまとめました。
目次
ザマの戦いの経緯について
ザマの戦いが行われた場所は?
ザマの戦いが行われた場所は、もちろんザマです。今の北アフリカに位置する場所です。地形は、原野であると言われています。
カルタゴに向かうローマの将軍、スキピオと、カルタゴの軍を率いてローマに向かうハンニバルが、ザマで相対します。
ザマの戦いの主要人物
スキピオ・アフリカヌス
スキピオは、ローマ共和政時代の政治家、軍人で、最大の権門です。代表的な新貴族(ノビレス)出身で、このザマの戦いで名声を高めていきます。
ハンニバル・バルカ
古代カルタゴの将軍です。カルタゴとは、今のチュジニアの北に位置する地名で、イベリア半島のヒスパニアを拠点として、活動をしていました。最強と名高い、象の部隊を持っていました。
ザマの戦いの背景
ザマの戦いは、第二回ポエニ戦争を外して語ることが出来ません。ポエニ戦争の決着を決めたたたきとも言われています。第二回ポエニ戦争は、別名ハンニバル戦争とも言い、紀元前216年~201年、ハンニバルがイタリアに象の部隊を兼ね備えた大軍でイタリアに侵入します。そこでローマを脅します。第二回ポエニ戦争では、主に2回戦いが行われており、その中の1つがザマの戦いです。ここでは、もう一つのカンネーの戦いについて解説します。
ローマ共和政の時代最大の対外戦争であった、カルタゴとのポエニ戦争。その過程で、紀元前216年、カルタゴの軍とローマ軍が、イタリア半島東南部に位置する、カンネー(カンナエ)で衝突した戦闘です。ローマとカルタゴ双方の大軍が衝突した決戦であり、古代史上最大の戦いであったと言われています。結果は、カルタゴのハンニバル率いる軍が大勝し、ローマは最大の危機に陥ります。
カルタゴの主力は1万の騎兵と、2万のケルト人。その他スペイン人の重装歩兵5千人、リビア人や、フェニキア人の重装歩兵7千人の計4.2万人。対するローマ軍は8万人の大群であり、圧倒的に有利でした。カンネーは、ローマから400キロも離れた南イタリアの東海岸の原野です。ハンニバルは、ローマ軍の主力を盆地に誘い込み、両羽川から騎兵で狭撃する方法で、大勝します。
この後、ハンニバル率いるカルタゴの軍は、14年もの間、イタリア半島に居座ります。
この語、紀元前202年、ローマの将軍スキピオがカルタゴに進軍。その一報を聞いたハンニバルは、急いでカルタゴへ戻ります。スキピオと、ハンニバル。ついにザマで相対し、そこから戦いが始まります。
ザマの戦いについて
ザマの戦いの流れ
カンネーの戦いでは、相手の方が軍勢が多かったにもかかわらず、大勝したハンニバル。この戦いにも勝てるよう、策を講じます。ハンニバル率いる、カルタゴの軍は、4列の陣形を取ります。第1列は、お得意の80頭の象の部隊を並べ、第2列には傭兵、そして第3列にはカルタゴの市民からなる兵士たち、第4列にハンニバル自信が指揮する古参兵で固めました。それに対するスキピオは、重装歩兵を3列、市松模様のような陣形で配置。さらには騎兵も参戦させます。
戦いが始まると、ハンニバルは象部隊を突撃させ、同時に奇兵隊に偽の撤退を命じ、ローマ軍の分散を図ります。しかし、それが裏目に出たのか、ローマ軍は部隊の間に広いスペースを開けることによって、強力な象の攻撃を回避。一部の象は混乱して引き返し、更には味方へ突っ込んでしまう象も表れます。
カルタゴ軍第2列の傭兵は、象部隊が効かなかったローマ軍の歩兵と騎兵の攻撃を受ける形になり、戦いながら後退せざるを得ませんでしたが、第3列のカルタゴ市民兵は徴兵されたばかりで訓練不足だったため、ローマ兵に立ちむかおうとしません。裏切られたと思った傭兵たちはカルタゴ兵にも斬りかかっていきます。戦闘はハンニバルの本陣、第4列に及び、カルタゴ軍は必死に持ちこたえた。一時は形勢を盛り返すも、そのときカルタゴ騎兵を追撃していたローマとマッシニッサの騎兵が戻ってきて、カルタゴ軍の背後を突きますそのせいで自体は一変。カルタゴの軍は、挟み撃ちをうけることになります。その後、ローマ軍有利に展開。ついにカルタゴ軍はほとんど全滅し、ハンニバルはかろうじて脱出します。4万のカルタゴ兵のうち戦死は2万、残りは捕虜となり、捕らえられることになります。
ザマの戦い – 戦後のカルタゴ・ローマ両国について
ローマ軍の勝利と講和条約
ザマの敗戦によってカルタゴはスキピオに講和を申し込みます。スキピオは、以下のような講和条約を提案します。
・カルタゴがアフリカ以外の領土をすべて放棄すること
・ヌミディアをマッシニッサ(ローマ軍に協力した)に譲渡すること。
・軍艦は10隻まで削減すること
・賠償金は1万タレント(50年賦)とすること
・カルタゴ貴族の若者100人を人質としてローマに送ること
・カルタゴはアフリカ以外の所で戦争をすることはできず、アフリカでの戦争でもローマの許可が必要とすること
この厳しいスキピオの講和条件に対し、厳しい反対運動が起こりまhしたが、ハンニバルは、「この和平は受けるよりほかない。」と、演説をし、民の意見をねじ伏せます。
第3回ポエニ戦争勃発
その講和を受け入れたカルタゴは、存続を出来ていきますが、ローマは過酷な講和条件を迫り、次第に追い詰められていきます。
交易相手として存続させる意向を見せるも、「カルタゴは滅ぼさなければいけない」という意見もありました。交易が進むに連れ、大量の奴隷と、安価な穀物の流入は、ローマで中小農民の没落をもたらし、経済的な進出も見せ始めます。その政治的な矛盾を改善するべく、新たな海外の領土の獲得を目指して、カルタゴを挑発し、第三回ポエニ戦争が始まります。
その戦争終了後、カルタゴは滅亡し、ローマは一層力を強めていきます。
まとめ
今回は、ザマの戦いについて解説していきました。ハンニバルの軍は、象の部隊を使っていました。日本ではありえない戦法ですよね。もし、日本の戦争で使われていたと思うと、恐ろしいですね。
ハンニバルは、平和を求め、共生をするべく戦っていたのですが、スキピオは、ローマのことしか考えていませんでした。ハンニバルのように、勇敢で、困難にも立ち向かえるようになっていきたいものです。
ローマはその後、カルタゴを滅亡させ、海外の領土を増やしていきます。その増やした領土のせいで、格差がより広がっていきます。一部の富裕層が大地主となり、安価な労働力で、奴隷や、平民をつかい。貧富の差がますます増えていくようになります。
こうして、長期の間続いていたローマ共和政が、次第に行き詰まりを見せるようになり、帝政ローマへと続きます。
フリスクン&大山俊輔