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トレビアの戦いを解説 – ローマ軍を壊滅させた名将ハンニバルの戦術を解説

トレビアの戦いを解説 - ローマ軍を壊滅させた名将ハンニバルの戦術

この記事では、名将ハンニバルが後に世界帝国となるローマを相手に大活躍する第二次ポエニ戦争の中の戦いである、トレビアの戦いを解説していきたいと思います。

歴史のことを調べてる人

  • トレビアの戦いの経緯について知りたい
  • ハンニバルってどんな人?
  • 戦いの具体的な布陣なども知りたい

世界史上でも屈指の名将として名高いハンニバルですが、そんなハンニバルの名が世界に轟くこととなったきっかけは、間違いなく第二次ポエニ戦争での数々の輝かしい戦績でしょう。

大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、6歳の頃には世界史オタクに。今も、知り合いと雑談すればハンニバルの名前が出ないことがないほどのポエニ戦争、ハンニバル好き。毎年8月2日はカンナエの戦勝記念日を一人祝ってます(笑)。

今回の記事ではハンニバルの戦歴の最初を飾る、トレビアの戦いについて、その背景から経過・結果に至るまでしっかりと解説していきます。

ポエニ戦争とはどんな戦争だったか?

ポエニ戦争とはどんな戦争だったか?

「ポエニ戦争」は紀元前264年から紀元前146年にかけて断続的に行われたローマとカルタゴの戦争です。

ローマは、皆さんもご存じの通り、後に世界的な大帝国を築くことになる国家ですが、紀元前3世紀前半のローマは、建国から500年近くもの長い期間をかけ、やっとイタリア半島を統一したばかりでした。

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一方、現在のチュニジアに位置するカルタゴは、シリアを原住地とするフェニキア人が築いた国家であり、当時は海上交易で大いに繁栄しており、西地中海の覇権を握る強大な国家でした。

第一次ポエニ戦争

ローマとカルタゴが初めてぶつかりあったのが紀元前264年に始まる第一次ポエニ戦争だったのです。

第一次ポエニ戦争のきっかけは、シチリア島を巡る争いでした。当時のシチリア島は豊かな農業生産を誇る地域であり、シチリア島西部はカルタゴが掌握していた一方、シチリア島東部はメッシーナやシラクサなどのギリシア人が建設した都市国家が支配していました。

そんな中、メッシーナとシラクサの抗争に対してローマとカルタゴがそれぞれ軍事介入したことがきっかけとなり、ローマとカルタゴは全面戦争に突入します。

これが第一次ポエニ戦争です。

第一次ポエニ戦争では、初めて海軍を本格的に組織したローマがカルタゴを破り、陸戦でも各地でカルタゴを退けたため、紀元前241年にローマの勝利に終わります。その後、シチリア島や周囲のサルデーニャ島、コルシカ島などはローマの勢力下におかれ、ローマはこれらの地域を海外領土である「属州」として領土に編入し、地中海帝国への第一歩を踏み出しました。

第二次ポエニ戦争への序曲

ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)

しかし、敗れたカルタゴも当然これではおさまらず、ローマに対する反撃の機会をうかがっていました。

中でも、第一次ポエニ戦争でローマを相手に善戦しながらも、本国の弱腰な姿勢によって降伏を余儀なくされたカルタゴの将軍ハミルカル・バルカは、ローマに対する復讐を以後の生き甲斐とします。彼は、今回の記事の主役である息子ハンニバル・バルカを神殿に連れていき、「ローマを生涯の敵とする」ことを誓わせるほどでした。

第二次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第二次ポエニ戦争開始時の両国の支配地域

この後、ハミルカルはローマと戦うための勢力を培うべく、ヒスパニア(現在のスペイン)への遠征を行います。ハミルカルの遠征は成功に終わり、ヒスパニアの地中海沿岸部はカルタゴの支配下に入りますが、ハミルカル自身は紀元前228年に志半ばで戦死を遂げてしまいます。

ハミルカルの遺志は娘婿のハシュドゥルバル、そして息子のハンニバルに受け継がれ、第二次ポエニ戦争へと繋がっていくことになります。

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ポエニ戦争の流れについては「ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!」のエントリで解説しています。
ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!

第二次ポエニ戦争の始まり

ハンニバルのアルプス越えハンニバルのアルプス越え

ここからは、第二次ポエニ戦争が勃発した経緯を説明します。

ヒスパニアを手にしたカルタゴは、第一次ポエニ戦争の敗北で負った傷を瞬く間に癒し、ヒスパニアから得られる莫大な収益をもとに、国力を増強していきます。というのも、当時のヒスパニアは金や銀などの地下資源が豊富な土地であり、その収入によってカルタゴは瞬く間に強国としての地位を取り戻したのです。

そして紀元前221年、バルカ家の頭領であったハシュドゥルバルが暗殺されると、ハミルカルの息子であるハンニバルがバルカ家を受け継ぎ、ローマへの復讐に乗り出します。

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ハンニバル・バルカの生涯については、「ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯」のエントリで解説しています。
ハンニバルのアルプス超え ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯

まず、ハンニバルはヒスパニアの経営で稼ぎ出した巨額の資金を用いて、大量の傭兵を雇い入れます。その数は諸説ありますが、歩兵9万(アフリカ人6万・ヒスパニア人3万)・騎兵1万2千にものぼったと言われています。特に、ハンニバルは騎兵を北アフリカのヌミディア王国から雇い入れたことは特筆すべきでしょう。

 

ヌミディア騎兵ヌミディア騎兵

 

遊牧民であったヌミディア騎兵は馬の扱いに長けており、その戦闘力は農耕民族であったローマ人騎兵をはるかにしのぎ、まさしく地中海世界最強と呼ぶにふさわしいものでした。

そして、大軍を組織したハンニバルはローマを挑発します。あろうことか、ハンニバルはカルタゴ本国に無断でイベリア半島北部に位置した都市サグントゥムを攻撃します。サグントゥムはローマと同盟を結んでいるため、ハンニバルのサグントゥム攻撃は事実上のローマに対する宣戦布告でした。ローマはカルタゴに抗議するものの、イベリア半島を支配していないローマはサグントゥムが陥落するのを見ていることしかできませんでした。

しかし、これによってローマ側もハンニバルとの戦争は避けがたいと実感し、ハンニバルとの戦いに備えることとなります。

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パソコン一つで、スタバなどで仕事をする人をノマド族といいますよね。あれは、ヌミディアがなまった言葉です。私もその一人です(笑)。

ハンニバルのアルプス越え

第二次ポエニ戦争のルート第二次ポエニ戦争のルート

8か月後にサグントゥムを攻め落としたハンニバルは東へと進み、ガリア(現在のフランス・北イタリア)に進入します。その後、ハンニバルはローマの本拠地であるイタリアを目指すことになりますが、その際にハンニバルが取れるルートは3つありました。

3つのルートとアルプス越え

  1. 沿岸ルート:地中海沿岸を通るルート
  2. 海上ルート:地中海を渡り直接ローマを目指すルート
  3. それ以外の奇策

このうち、①はローマが地中海の制海権を握っている以上不可能です。
平地を通る②もローマ軍による待ち伏せが予想されていますし、沿岸部の諸都市の多くはローマと同盟関係にあります。

そこで、ハンニバルは誰もが考えなかった3を選ぶことにします。
すなわち、冬のアルプス越えです。

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当時、現地の地図はわかっておらずこのアルプス越えは狂気とも言える作戦でした。ハンニバル以降、このアルプス越えを行ったのはかのナポレオンのみです。

その後、原住民であるガリア人との争いを繰り返しながら、ハンニバルはアルプス山脈のふもとへとたどり着きます。この時点で、ハンニバルの軍勢は5万9千(歩兵5万・騎兵9千)まで減っていました。それでも、ハンニバルは厳しいアルプス越えを敢行します。アルプス越えはただでさえ厳しい行程であったのに加え、原住民のガリア人は頻繁にハンニバル軍に襲いかかり、ハンニバル軍は屍の山を築きながらもアルプスを越えていきました。

アルプス越えに際してハンニバルは、アフリカから連れてきていた戦象を先頭に立ててガリア人を威圧しながら進んだといいますが、好戦的なガリア人にはあまり効果がなく、むしろ戦象たちはアルプス山脈の寒さでそのほとんどが死んでしまったと言われています。

しかし、世界史に名を残す名将ハンニバルは自然の猛威と原住民の襲撃をはねのけ、ついに紀元前218年、アルプス山脈を越えることに成功し、イタリアに攻め込むことに成功します。

ハンニバル軍イタリア侵攻

こうして、第二次ポエニ戦争が幕を開けたのです。

アルプスを越えた後、ハンニバルの下にはわずか2万6千の兵士(歩兵2万・騎兵6千)しか残っていませんでした。厳しいアルプス越えで兵士の半分以上が逃げ出したか斃れた計算になります。しかし、これはハンニバルにとって想定内だったでしょう。なぜなら、アルプス越えという厳しい試練を乗り越えた兵士たちはまさしく「精鋭」というにふさわしい者たちだったからです。ハンニバルにとってのアルプス越えは、ローマの意表を突く作戦だっただけでなく、寄せ集めの傭兵たちのなかから、真の精鋭を選抜するという役割も果たしていたのでしょう。

一方、ローマは完全に虚を突かれました。ローマはまさかハンニバルがアルプスを越えてくるとは思っておらず、沿岸部を中心に守りを固めていました。しかし、ハンニバルがアルプスを越えてきたため、ローマは作戦の変更を余儀なくされます。ローマは、当時の執政官(毎年選挙で選ばれる2名のローマの最高政務官)に軍を率いさせ、ハンニバルのやってきた北イタリアに派遣します。

ティキヌスの戦いにおける勝利

この時、北イタリアに派遣されたのはプブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父親)とティベリウス・センプロニウス・ロングスという2名の執政官でした。この時、スキピオ率いる部隊が最初にカルタゴ軍と接触します。ティキヌスの戦いと呼ばれるこの戦闘は、偵察部隊同士がぶつかる小規模な戦闘でしたが、カルタゴ軍の勝利に終わります。

この戦いでスキピオは負傷し、後方に撤退してセンプロニウス率いる主力軍と合流し、ハンニバルを迎え撃つ態勢を整えました。

こうして、センプロニウスとスキピオ率いるローマ軍主力はハンニバルを迎え撃つべく出陣し、両軍は北イタリアのトレビア川を挟んで対峙し、トレビアの戦いへと向かっていくこととなります。

トレビアの戦いの経過

トレビアの戦いの布陣

(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

トレビア川を挟んで迎え撃った両軍は、まず野営地を築き、にらみ合いの様相を呈します。

このまま戦いは長期戦になるとおもいきや、ローマ軍・カルタゴ軍の双方にとって、長期戦はあまり望ましい展開ではありませんでした。当時、ティキヌスの戦いでローマ軍が敗れたことで、ローマと敵対していた北イタリアのガリア人たちが続々とハンニバルに協力し、カルタゴ軍に参加していました。ローマにしてみれば、長期戦となればなるほどカルタゴ軍の兵力が増強されるという状態は避けたかったと思われます。

一方、カルタゴにとっても、敵地であるイタリアで長期戦に持ち込まれた場合、補給の面に不安が残ることから、長期戦は避けたかったと思われます。こうして、トレビアの戦いが勃発することとなります。

まず、動いたのはハンニバルでした。ハンニバルはまず部下のマゴ率いる一部の部隊を野営地から南側に位置する丘陵に伏せさせたうえで、早朝に小部隊を出してローマの野営地を急襲させます。これは、本格的な攻勢ではなく、あくまでローマ軍を挑発し、ローマ軍を戦場に引きずり出そうとする作戦でした。

これに対し、ローマ軍は見事に挑発に乗ってしまいます。指揮官のセンプロニウスは、兵士たちに朝食も取らせずに出陣を命じ、野営地から出撃します。これに対してカルタゴ軍も野営地から出陣し、両軍はトレビア川左岸で向かい合います。

この時の兵力は以下のようだったといわれています。

ローマ軍
  1. 総兵力4万
  2. 歩兵:3万6千
  3. 騎兵:4千
カルタゴ軍
  1. 総兵力4万
  2. 歩兵:3万
  3. 騎兵:1万

これを見る限り、両軍の兵力はほぼ同等ですが、ローマ軍は歩兵の数で上回り、カルタゴ軍は騎兵の数で上回っていました。この騎兵戦力の差こそが、トレビアの戦いの勝敗を分けたといえるでしょう。

戦いが始まると、ローマ軍歩兵がカルタゴ軍歩兵に攻勢をかけ、カルタゴ軍歩兵を押し込み始めますが、朝食を食べておらず、冷たいトレビア川を渡ったローマ軍はすでにかなり疲弊しており、カルタゴ軍歩兵の横陣を抜くまでにはいたりませんでした。一方、騎兵同士の戦いでは、カルタゴ軍がローマ軍を圧倒しており、まもなくローマ軍騎兵は壊滅してしまいます。そして、ローマ軍騎兵を敗走させたカルタゴ軍騎兵は、事前に伏せておいたマゴ率いるカルタゴ軍別動隊と共にローマ軍の背後に回り、ローマ軍は包囲されてしまいます。

包囲されたことで、ローマ軍は大混乱に陥ります。2人の執政官に率いられたおよそ半数の歩兵部隊は、前面のカルタゴ軍陣地を突破して脱出に成功しますが、残ったローマ兵たちはカルタゴ軍に包囲され、殲滅させられてしまいます。

このように、トレビアの戦いはハンニバル率いるカルタゴ軍の圧倒的な勝利に終わりました。

トレビアの戦いの結果・影響

トレビアの戦いはカルタゴ軍の圧勝に終わります。ローマ軍の損害は2万にものぼった一方、カルタゴ軍の損害は数千であり、そのほとんどは現地で徴集したガリア人で、アルプス越えを行った精鋭たちはほぼ損耗していませんでした。

大敗を喫したローマは軍の立て直しを余儀なくされる一方、2度にわたってローマを破ったハンニバルの武勇は一気に知れ渡り、ローマと敵対していたガリア人たちが続々とカルタゴ軍に加わり、カルタゴ軍の兵力は5万を超えることになります。

まとめ

以上、トレビアの戦いについて解説してきましたが、いかがだったでしょうか。

この戦いの経過を見て、勘のよい方は気付いたかもしれませんが、トレビアの戦いでハンニバルが取った戦術は優勢な騎兵戦力を生かした包囲殲滅であり、これは有名なカンナエ(カンネー)の戦いと同じなのです。

つまり、トレビアの戦いはハンニバルにとって、カンナエの戦いの予行演習とも言うべき戦いと言えるのかもしれません。

トレビアの戦いにおいて、ハンニバルはローマ軍の一部を逃がしてしまうという失敗を犯しています。しかし、カンナエの戦いでハンニバルは、ローマ軍をほとんど逃がすことなく殲滅することに成功しています。ここからわかるのは、ハンニバルはトレビアの戦いで既に包囲殲滅戦術を実行に移しており、カンナエの戦いでは失敗を修正して大きな戦果をあげているということなのです。

このように、勝利におごることなく、失敗をしっかりと修正してさらなる結果を挙げるというところもまた、ハンニバルの名将たる所以といえるのではないでしょうか。

大山俊輔