歴史のことを調べてる人
- トラシメヌス湖畔の戦いについて解説を読みたい
- ハンニバルはどのような戦術をとったの?
- なぜ、ローマ軍はいとも簡単に敗北したのか?
この記事では、名将ハンニバルが後の世界帝国になるローマを相手に大活躍する第二次ポエニ戦争の中の戦いである、トラシメヌス湖畔の戦いを解説していきたいと思います。
大山俊輔
世界史上でも屈指の名将として名高いハンニバルですが、そんなハンニバルの名が世界に轟くこととなったきっかけは、間違いなく第二次ポエニ戦争での数々の輝かしい戦績でしょう。
今回の記事ではハンニバルの戦歴の中でも、史上有名なカンナエの戦いにつぐ鮮やかな勝利として知られる、トラシメヌス湖畔の戦いについて解説していきたいと思います。
目次
ポエニ戦争とはどんな戦争だったか?
「ポエニ戦争」は紀元前264年から紀元前146年にかけて断続的に行われたローマとカルタゴの戦争です。
ローマは、皆さんもご存じの通り、後に地中海全域を征服し大帝国を築くことになる国家ですが、紀元前3世紀前半のローマはやっとイタリア半島を統一したばかりで、共和制の国家でした。
大山俊輔
第一次ポエニ戦争
そんなローマとカルタゴが初めて対決することとなったのが紀元前264年に始まる第一次ポエニ戦争でした。この戦争のきっかけは、シチリア島の覇権を巡る争いでした。当時のシチリア島は穀倉地帯であり、カルタゴのほか、メッシーナやシラクサなどのギリシア人が建設した都市国家がシチリア島を支配下に置いていました。
そんな中、メッシーナとシラクサの抗争に対してローマとカルタゴがそれぞれ軍事介入を行い、シチリア島に派兵したことがきっかけとなり、ローマとカルタゴは第一次ポエニ戦争に突入します。
第一次ポエニ戦争では、大規模な海軍を本格的に組織したローマがカルタゴを破り、陸戦でもシチリア島にあるカルタゴの拠点を次々と攻略し、紀元前241年にローマの勝利に終わります。その後、シチリア島をはじめとする地域はローマの領土となり、ローマはこれらの地域を海外領土である「属州」として領土に編入し、地中海帝国への第一歩を踏み出しました。そして、西地中海の制海権はローマのものとなります。
第二次ポエニ戦争への序曲
ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)
しかし、敗れたカルタゴの中にも、ローマに対する反撃の機会をうかがう者たちがいました。
第一次ポエニ戦争でローマを相手に善戦しながらも、本国が降伏したことで、ローマに敗北することとなった将軍ハミルカル・バルカは、ローマに対する復讐を生涯の目標とします。彼はある時、息子のハンニバル・バルカを神殿に連れていき、「ローマを生涯の敵とする」ことを誓わせるほどでした。
第二次ポエニ戦争開始時の両国の支配地域
この後、ハミルカルは領土を拡大することでカルタゴの経済力・軍事力を強化すべく、ヒスパニア(現在のスペイン)への遠征を行います。当時のヒスパニアは銀など鉱山資源が豊富で、かつ、人口も地中海世界の中では多いエリアでした。ハミルカルの遠征により、ヒスパニアの地中海沿岸部はカルタゴの支配下に入ります。
これによって、カルタゴの勢力は第一次ポエニ戦争以前よりも強まりました。しかし、残念なことがありました。ヒスパニア征服を行ったハミルカル自身は原住民との戦いの中で戦死を遂げ、ローマへの復讐を果たすことはできませんでした。
ハミルカルの遺志は娘婿のハシュドゥルバル、そして息子のハンニバルに受け継がれ、第二次ポエニ戦争へと繋がっていくことになります。
大山俊輔
第二次ポエニ戦争の勃発と序盤戦
ハンニバルのアルプス越え
紀元前221年、ハミルカルの後を継いだハシュドゥルバルが暗殺されると、ハミルカルの息子であるハンニバルがバルカ家を受け継ぎ、ローマとの戦争に乗り出します。
バルカ家が支配するヒスパニアは金・銀などの鉱物資源が豊かな地域であり、ハンニバルはそうして得た巨額の財を惜しげもなくつぎ込み、大量の傭兵を雇い入れます。その数は諸説ありますが、歩兵9万(アフリカ人6万・ヒスパニア人3万)・騎兵1万2千にものぼったと言われています。
ヌミディア騎兵
特に、騎兵は北アフリカのヌミディア王国出身のヌミディア人(現在のアルジェリアあたりにいたベルベル系の民族)が中心でした。遊牧民であったヌミディア騎兵は馬の扱いに長けており、その戦闘力は農耕民族であったローマ人騎兵をはるかにしのぎ、まさしく地中海世界最強と呼ぶにふさわしいものでした。
大山俊輔
第二次ポエニ戦争開始
ついに、ハンニバルはローマとの戦端を開きます。当時、ヒスパニアにはカルタゴの支配下に入らず、ローマと同盟関係を結んでいた都市も多数ありましたが、そのうちの一つである都市サグントゥム(現サグント)をハンニバルは包囲します。サグントゥムはローマと同盟を結んでいるため、サグントゥムを攻めることはすなわち、ローマとの戦争を意味していました。
ローマはカルタゴに抗議するものの、カルタゴ本国もハンニバルの行動を追認せざるを得ず、両国は再び全面戦争に突入します。
大山俊輔
アルプス越え
第二次ポエニ戦争のルート
8か月後にサグントゥムを攻め落としたハンニバルは東へと進み、ガリア(現在のフランス・北イタリア)に進入します。その後、ハンニバルはローマの本拠地であるイタリアを目指すことになりますが、その際にハンニバルが取れるルートは3つありました。
- 沿岸ルート:地中海沿岸を通るルート
- 海上ルート:地中海を渡り直接ローマを目指すルート
- それ以外の奇策
このうち、①はローマが地中海の制海権を握っている以上不可能です。
平地を通る②もローマ軍による待ち伏せが予想されていますし、沿岸部の諸都市の多くはローマと同盟関係にあります。
そこで、ハンニバルは誰もが考えなかった3を選ぶことにします。
すなわち、冬のアルプス越えです。
これが、今の時代でもいかに狂気とも言える作戦であるかは想像に難くありません。
数万の軍隊とゾウさんが、富士山を登り日本アルプス連峰を真冬に踏破することを想像してみてください。
ピレネーを越えて、ガリア(現在のフランス)入りしたハンニバル軍は先住民のガリア人との戦いを繰り返しつつも、アルプス越えに突入します。アルプス越えを開始した時点で、カルタゴ軍は5万9千(歩兵5万・騎兵9千)まで減っていました。
ハンニバルのアルプス越えは、標高2947mのトラベルセッテ峠を越える(諸説あり)厳しい行程であり、原住民のガリア人との絶え間ない戦闘も相まって、カルタゴ軍は多数の死者を出しながらアルプスを越えていきました。しかし、ハンニバルは自然の猛威と原住民の襲撃をはねのけ、ついにアルプス山脈を越えることに成功し、北イタリアに姿を現します。
ハンニバル軍イタリア侵攻
アルプスを越えた後、ハンニバルの下にはわずか2万6千の兵士(歩兵2万・騎兵6千)しか残っていませんでした。
厳しいアルプス越えで兵士の半分以上が失われた計算です。しかし、これはハンニバルにとって想定内だったはずです。当時のカルタゴ軍は、将官クラスを除き兵士の多くはアフリカ、ヒスパニアの傭兵です。一般的に、傭兵というのは士気は低く勝ち馬に乗る習性がありますが、このアルプス越えを通じて、生き延びた兵士たちはまさしく「精鋭」というにふさわしい者たちであり、ハンニバルたちとの信頼関係が構築されました。
ハンニバルにとってのアルプス越えは、ローマの意表を突くのみならず、寄せ集めの傭兵たちのなかから、真の精鋭を選抜するという役割も果たしていたのかもしれませんね。
一方、アルプスを越えてくると予想していなかったローマは完全に虚を突かれてしまいます。地中海沿いにハンニバルが攻めてくると考えていたローマは作戦の変更を余儀なくされ、北イタリアに軍を派遣してハンニバルの攻撃に備えさせました。
この時、北イタリアに派遣されたのはプブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父親)とティベリウス・センプロニウス・ロングスという2名の執政官でした。この時、スキピオ率いる部隊が最初にカルタゴ軍と接触し、ティキヌスの戦いが勃発します。この戦闘は、数千人規模の小規模な戦闘にすぎませんでしたが、カルタゴ軍の勝利に終わります。しかし、この勝利を聞きつけた北イタリアのガリア人は続々とハンニバルに加勢し、カルタゴ軍の兵力は大きく増強されます。
これを見て焦ったローマの2名の執政官は合流し、トレビア川でハンニバルを迎え撃ち、紀元前218年にはトレビアの戦いが勃発します。トレビアの戦いは両軍ほぼ互角の兵力でしたが、騎兵戦力に勝るカルタゴ軍が、騎兵を活用してローマ軍を包囲したため、戦闘はカルタゴの圧勝に終わります。こうして、ローマ軍を破ったハンニバルはよりイタリア半島の奥深くへと攻め込んでいきます。
大山俊輔
トラシメヌス湖畔の戦いの背景 〜 ガリアとの同盟
ハンニバル軍に合流するガリア人
さて、前置きが長くなってしまいました。この背景なくしてトラシメヌス湖畔の戦いについて語ることは難しいため、長いイントロをお許しください。
トレビアの戦いでローマ軍に勝利したことで、ハンニバルの威信は一気に高まり、ローマと敵対するガリア人が続々とカルタゴ軍に参加します。
一方、敗れたローマも軍の立て直しに着手します。
当時のローマ軍は、ローマ市民とイタリア各地の同盟市民の混成部隊でした。これは、ローマ軍の兵士はローマのみならず、イタリア各地の同盟市からも徴集できることを意味しており、ローマ軍はカルタゴをはるかにしのぐ圧倒的な動員力を持っていました。一説では、その動員力は最大94万にものぼると言われており、トレビアの戦いでの損害を補うことは兵数的には容易かったと言われています。
こうして、ローマはすぐさま5万の軍を編成し、紀元前217年に新たに選出された執政官であるガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスの両名に軍を預け、北イタリアへと派遣します。両執政官は軍を二手に分け、イタリア半島の東西両岸をそれぞれ進み、カルタゴ軍を待ち構えます。
一方、ハンニバルはイタリア半島西岸を南下し、ローマを目指す構えを見せます。これに気付いたフラミニウスは、セルウィリウスに援護を要請するとともに、単独でカルタゴ軍を追跡し始めます。
この後、フラミニウスはイタリア中部のトラシメヌス湖でカルタゴ軍を捕捉し、両軍は戦闘態勢へと突入し、トラシメヌス湖畔の戦いが始まることとなります。
トラシメヌス湖畔の戦いの経過
現在のトラシメヌス湖(トラジメーノ湖)
両軍の布陣と兵力
ローマ軍とカルタゴ軍はそれぞれ、トラシメヌス湖畔北岸に布陣していました。その兵力は以下の通りであったと言われています。
- 総兵力:2万5千
- 歩兵:約2万2千
- 騎兵:約3千
- 総兵力:5万
- 歩兵:約4万
- 騎兵:約1万
トラシメヌス湖畔の北岸には丘陵地帯と湖に挟まれた隘路があり、ハンニバルが得意とする騎兵の展開が困難でした。
さらに、セルウィリウス率いるローマ軍がフラミニウスを救援すべく急行しており、長期戦になればハンニバルは前後から挟み撃ちにされる危険性がありました。
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)
そこで、ハンニバルは奇策によって一気にフラミニウス率いる前面のローマ軍を打倒しようとします。
戦いの経緯
上記の布陣図を見てみてください。ちなみに、湖の上の白色の場所は人が普通に歩けるエリアで茶色〜濃茶のエリアは丘陵地帯で木が生い茂っていました。
右手の青字のCampはハンニバル軍の陣地。一方、左の赤字のCampは追尾するローマ軍の陣地です。
まず、ハンニバルは自陣営でかがり火を焚き、兵士の多くが自陣営に残っているように見せかけ、夜に乗じてカルタゴ軍主力を湖の北方にある丘陵地に伏せさせます(Gaulはハンニバル軍のガリア人部隊、Light Tropsは軽装歩兵)。
一方、右手の陣営にはアルプス越えを達成したアフリカ・ヒスパニアの精鋭部隊を残します。
そして翌朝、濃霧が立ち込める中、ハンニバルが行動を開始します。まずハンニバルは、一部小部隊を突出させてローマ軍を挑発します。ローマ軍を指揮するフラミニウスはこれに乗ってしまい、全軍で出撃し、カルタゴ軍の陣営を目指します。しかし、これはハンニバルの罠でした。
ローマ軍はカルタゴ軍の陣営へと向かいますが、陣営前面に展開したカルタゴ軍精鋭部隊を前に攻めあぐねます。
先述したように、トラシメヌス湖北岸は隘路であり、少数の兵でも大軍の進行を食い止めることが可能な地形でした。こうしてローマ軍が攻めあぐねているところに、北方の丘陵地帯に伏せていたカルタゴ軍が一気に襲いかかり、ローマ軍は丘陵と湖に挟まれ、さらに濃霧で見通しがきかなかったこともあって大混乱に陥ります。
そして、乱戦の中で指揮官のフラミニウスが戦死してしまうと、ローマ軍は指揮系統を失い、カルタゴ軍によって各個殲滅させられてしまいました。こうして、トラシメヌス湖畔の戦いはカルタゴ軍の勝利に終わったのです。
実に数時間の戦いで数万のローマ人が地上から消え去ったのです。
トラシメヌス湖畔の戦いの結果・影響
トラシメヌス湖畔の戦いもまた、カルタゴ軍の圧勝に終わりました。ローマ軍の損害は1万5千にものぼった一方、カルタゴ軍の損害は約2千ほどであり、そのほとんどは現地で徴集したガリア人でした。つまり、本丸部隊のアフリカ・ヒスパニア出身の精鋭部隊を温存することに成功しました。これが、のちのカンナエの戦いに影響することになります。
この敗戦はローマに大きな衝撃を与えました。
トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いと、ハンニバルと2度本格的な会戦を行って2度とも敗れたローマは、これ以降戦略の見直しを余儀なくされます。
執政官の戦死という非常事態を受け、ローマでは独裁官(臨時に置かれる官職で、執政官を超える権限を持つ)にファビウス・マクシムスを選出し、ファビウスはハンニバルとの直接対決を避け、持久戦でカルタゴ軍を消耗させる戦略に出ることとなります。
まとめ
以上、トラシメヌス湖畔の戦いについて解説してきましたが、いかがだったでしょうか。
この戦いは、軍主力を丸ごと伏兵に使うというハンニバルの奇策が功を奏した戦いであり、地形を利用して敵軍を包囲するという、ハンニバルお得意の包囲殲滅戦術が威力を発揮し戦いでもあります。しかし、トレビアの戦いに続いて、、トラシメヌス湖畔の戦いでもハンニバルは、ローマ軍の一部を逃がしてしまうという失敗を犯しています。
このような包囲殲滅が不完全に終ってしまうという失敗をしっかりと踏まえ、ハンニバルは次の大規模会戦であるカンナエ(カンネー)の戦いにおいて、その包囲殲滅戦術を芸術の域にまで高めていくこととなります。
大山俊輔