学校の授業でも出てくる歴史。その中でも中国・三国志の時代の物語は、小説や漫画、映画にゲーム。多くのコンテンツで登場し、皆さんも目にする機会が多いのではないでしょうか?
三国志初心者の方には歴史物と聞いただけで、難しそう、途中で挫折しそう。と思っている方もいるのでは?
登場人物も多いし、実際に挫折してしまった方も居るかも知れません。そんな三国志初心者のために、今回はとりあえずこの人を知っていれば大丈夫!という人物「劉備」について、初心者にもわかりやすく解説していきます。
カヌタ
三国志のコンテンツでは、この劉備を主人公にした物語が間違いなく一番多いでしょう。まずは劉備を知った上で三国志に触れれば、初心者でもストーリーについて行けなくて挫折。という事にはなりません。
私が三国志に触れたのは、小学生の頃に見たNHKの人形劇が最初でした。その後漫画を読み、小説やゲームで三国志の世界を知り歴史オタクになっていくのです。
この記事を読んでくれた三国志初心者が、少しでも三国志に興味をもってくれれば幸いです。
目次
三国時代、蜀の国とは
三国志の時代といわれるのは西暦180年~280年頃のお話です。全中華を統一していた後漢王朝は170年頃から権威を失い始めていました。そして184年に起こった「黄巾の乱」をきっかけに、どんどん衰退していきます。
そんな混乱期の中、現れたのが3人の英雄。劉備(りゅうび)・曹操(そうそう)・孫権(そんけん)。劉備は「蜀」、曹操は「魏」、孫権は「呉」という国を作り覇権を争っていました。その時代を西晋時代の陳寿(ちんじゅ)という人がまとめた歴史書が「三国志」と呼ばれています。
そして明の時代に羅貫中(らかんちゅう)という人が俗話やフィクションも加えながら小説のようにまとめた物が「三国志演義」。この中では劉備が主役、曹操が悪役として書かれています。現在出回っている多くの三国志を題材にしたコンテンツは、この三国志演義を元に作られている物が多いですね。
劉備は漢王朝の血を引く末裔で、正当な後継者だといわれています(諸説あり)。220年に魏の曹不(そうひ、曹操の息子)が後漢王朝を廃し、魏の皇帝を名乗ります。劉備はそれに対抗するように蜀の国で、後漢王朝の正当な後継者は自分だと示すため、漢の皇帝を名乗るのです。さらに孫権が229年に呉の国の皇帝を名乗り、三国が並び立ちました。
劉備ってどんな人?
劉備元徳(りゅうびげんとく)。西暦161年生まれ、自分で見えるほど耳が大きく、腕が膝に届くほど長かったという脅威の風貌が伝わっています。本当だとしたら凄いですよね。
漢王朝の末裔として
前漢王朝の皇帝だった景帝の第9子、中山靖王劉勝の子(本妻の子ではないようです)、劉貞の末裔と言われています。皇帝の血を引いてない訳ではないですが、かなり遠い親戚って事ですね。皇帝の末裔といっても、劉備の父の代になる頃には地方の小豪族。その父も早くに亡くなった事も有り、家は貧しく、ムシロやワラジを作っては売り、なんとか生計を立てていました。
桃園の誓い
劉備が23歳の時、後漢王朝を揺るがす「黄巾の乱」が起きます。これを討伐すべく後漢王朝が呼びかけた義勇兵に関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と共に参加しました。劉備、関羽、張飛は世の乱れを思う気持ちが一致し、義兄弟の契りを結びます。これが三国志序盤の見せ場「桃園の誓い」ですね。有名なシーンですが、これは三国志演義の中の演出みたいです。
劉備らと一緒に決起した義勇兵は実に500人が集い、黄巾の乱討伐で大活躍を見せ、名を上げます。地方の小豪族だったとはいえ、ムシロ売りだった劉備の元に500人もの義勇兵が集ったのです。すごい人徳とカリスマ性を持ち合わせていたのでしょう。さすが三国志の主役です。
苦労時代
三国志の主役というくらいですから、ここから多くの有能な仲間と共に快進撃を続ける!とは行きません。なんと三国志の中盤頃まで様々な所に身を寄せます。
公孫瓚(こうそんさん)→陶謙(とうけん)→いったん自立→呂布(りょふ)→曹操→再び自立→袁紹(えんしょう)→劉表(りゅうひょう)と流浪します。そして劉表が本拠地にしていた荊州で諸葛亮孔明と出会い、家臣に加える事になるのです。
三国の一角に
その後は「赤壁の戦い〔208年〕」で孫権軍と共に、戦力が大きく上回る曹操軍を破るなど、やっと快進撃が始まります。そして孔明が示した[天下三分の計]により蜀を建国し、皇帝を名乗るまで上り詰めました。
劉備に使えた名家臣紹介
劉備の人徳に引かれ、多くの名臣が仕えました。その中から有名な方々を紹介していきましょう。三国志初心者にはちょっとマニアックかな?思う人もいるかも知れませんが、劉備にとっては重要な人物ばかりです
ここでは、横山光輝の『三国志』に登場する一番インパクトの濃い絵で紹介します。
軍師:劉備の参謀として活躍した名家臣
徐庶(じょしょ)
劉備が新野という所にいた時に出会い、劉備軍初の軍師となります。攻めて来た曹操軍の曹仁を相手に策を繰り出し、先陣で5,000の敵兵に対し2,000の兵力で見事打ち破りました。その報復とばかりに、30,000もの兵力で攻めてくる曹操軍。敵将曹仁は『八門金鎖(はちもんきんさ)の陣』を敷きます。しかし徐庶はこの弱点を見抜き見事に撃破。さらには攻め入って手薄になっていた曹仁の城『樊城(はんじょう)』までも奪ってみせるのです。
鮮烈なデビューを飾った徐庶ですが、これを最後に曹操軍の策略で劉備軍を離れる事になってしまいした。去り際に「わたしより凄い人物がいるから、訪ねてみてね」と紹介したのが、あの諸葛亮孔明です。
龐統(ほうとう)
諸葛亮孔明と同等の力を持つと言われたほどの人物です。しかし不細工で身なりも汚い。そのうえ口下手で、彼の才能を惜しんだ孔明から紹介されるも、見た目で判断され、登用はされたもののド田舎の県令でした。
その後は能力を認められ、赤壁の戦いでは曹操軍が船同士を繋げ、火責めが効果を発揮するように仕組みました。劉備が蜀の国を作るべく益州を攻めたときには、諸葛亮に代わり動向している程です。
しかしこの時に敵の流れ矢に当たってしまい、命を落としてしまいます。三国志演義では劉備の身代わりとなって危険な道を進んだため、劉備と間違われ伏兵に襲われて死んだ事になっています。NHKの人形劇ではもっと壮絶な最期を遂げていますよ。
法正
三国志初心者にはちょっとマニアックな人物かもしれません。でも劉備が蜀を建国できたのは、この人の力が大きいのです。
法正は元々益州を統治していた劉璋(りゅうしょう)に仕えていました。しかし、劉璋では将来性が無いと判断した張松(ちょうしょう)ともに、劉備に益州を統治してもらうべく画策したのです。
劉備が天然の要塞とも言われた益州を手に入れ、蜀の国を建国できたのは法正の手引きが無くては、なし得なかったのです。性格はかなり悪かったみたいですけどね。
武将:劉備の現場指揮官として活躍した名家臣
関羽(かんう)
主役級の大活躍をした人で、三国志初心者の方でも知っている人は多いのではないでしょうか?
劉備と義兄弟の契りを結び、最初の挙兵から行動を共にした猛将です。忠義に厚く人望もあり、三国志の多くの登場人物の中でも屈指の人気を誇っています。
関羽が統治していた頃の荊州では、とても素晴らしい政治で、多くの民から慕われ、死後は関帝聖君(かんていせいくん)として神格化される程です。
張飛(ちょうひ)
劉備、関羽と共に義兄弟の契りを結んだ仲間です。ものすごい武力の持ち主で、最大の見せ場といえば『長坂の戦い』でしょう。多くの民と共に逃げている劉備を曹操軍が追ってきた時、一番後方にいた張飛が一人、長坂橋に立塞がったのです。そして「燕人張飛これにあり!誰か俺と勝負したい奴はいるか!!」と敵に向かって一喝すると、誰も近づく事ができず、劉備一向は逃げ切る事が出来たのです。
酒癖が悪く、最後は部下に裏切られてしまいますが、三国志演義の中では劉備の高潔さをアピールする為に、汚れ役になっている部分も大きいですね。
趙雲(ちょううん)
長身でイケメン、槍の達人だったと言われる武将。最初は公孫瓚に仕えますが、その後劉備と行動を共にします。多くの武功を立てていますが、一番の名場面は長坂の戦いで、劉備の甘夫人とまた赤ちゃんだった息子の劉禅(りゅうぜん)を救い出すシーンでしょう。
三国志演義の中では関羽、張飛、馬超(ばちょう)、黄忠(こうちゅう)と共に蜀の「五虎大将軍」となっています。
多くの三国志作品ではイケメンキャラとして登場しますが、横山光輝著の漫画「三国志」で出てくる「ドカベン趙雲」が個人的には大好きですね。
劉備元徳と諸葛亮孔明~三顧の礼~
劉備を語る上で絶対に外せない人物が、関羽と張飛。そして諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)です。孔明は三国志後半の主役といっても過言ではないでしょう。
劉備が新野にいた頃、劉備軍初の軍師だった徐庶からその存在を聞きます。劉備は徐庶に孔明を連れてきて欲しいと頼みますが、徐庶に「私が誘ったくらいでは動きません」と言われ、劉備自ら会いに行くのです。一度目、二度目の訪問は留守で会えず、三度目の訪問で会うことができ、劉備軍に加わる事になります。君主が自ら三度も尋ねて礼を示し、自分の家臣になってもらった事から「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。
劉備軍に加わった孔明の力は物凄く、赤壁の戦いでは孫権が参戦するように外交官としての役割を果たしたり、一晩で10万本の矢を集めたり、風向きまで変えちゃったり。もう人智を超えた超人ぶりを発揮し、曹操軍を大敗させています。
正式な自分の領地を持っていなかった劉備に「天下三分の計」を提案し、この頃手薄だった益州に蜀を建国させ、魏・呉・蜀の三国の形を作り出したのです。まずは3つの国の作り、呉と同盟して魏を討伐する。その後に呉も滅ぼして、全中華の統一し、劉備の元で漢王朝の復興させる事が最終目的でした。
蜀が建国されてからは丞相(じょうしょう、総理大臣みたいな役職)に就き、蜀の国力を蓄えるべく内政に従事。これは来るべき魏討伐へ向けての準備でもありました。
劉備の死の目前「もし息子の劉禅に君主の器が無ければ、君が変わって蜀を治めよ」と言われるほど信頼が厚かった孔明。しかし、孔明は自ら蜀の皇帝になる事は無く、あくまで劉備の息子、劉禅を立て自らは丞相として蜀を支え続けます。
西暦234年、五丈原の戦い最中に病に倒れ、陣中で亡くなってしまいますが、自分が死んだ後でも、無事に撤退する事まで見込んで作戦を残していました。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉を生んでいます。
軍事にも政治にも物凄い能力をもっていた孔明。奥様はかなり不細工だったという話もあります。これすら孔明の戦略の内なのかもしれませんね。
まとめ
今回は劉備を中心に蜀の国や家臣たち、諸葛亮孔明についてまとめてみました。紹介しきれなかったお話もまだまだ有ります。家臣一人だけでも記事を書けるくらい豊富なエピソードがある劉備軍ですからね。
三国志、蜀の国を見ていて思うのは、もし劉禅ではなく、孔明が蜀の皇帝になっていたら歴史はどうなったのだろう。長坂の戦いの時に趙雲が劉禅を救い出していなければ、どうなっていただろう。と想像してしまうのです。
そんな想像を掻き立ててくれるもの三国志、そして劉備の魅力でもあります。この記事を読んでくれた三国志初心者が、少しでも三国志を好きになってくれれば嬉しいです。
カヌタ&大山俊輔