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「辛亥革命」とは?日本人も多く参加した中国の転換点となった革命をわかりやすく解説

「辛亥革命」とは?日本人も多く参加した中国の転換点となった革命をわかりやすく解説

みなさんは孫文(1866年~1925年)を知っていますね。

孫文は台湾では「国父」と呼ばれ、中国では「中国民主革命の偉大な先駆者」と称えられます。

孫文らが中心となった辛亥革命(1911年)は、清朝を滅亡させただけでなく、秦の始皇帝(BC221年即位)から2000年以上続いた中国の皇帝専制政治を終わらせました。そしてアジアで初めて共和制国家が出現した大変革でもありました。

1840年のアヘン戦争以来、中国は欧米列強の侵略で半植民地状態にありましたが、真の独立を目指す戦いは辛亥革命からはじまったということができます。

革命の指導者というと、ロシア革命のレーニン、中国共産革命の毛沢東、キューバ革命のカストロを思い浮かべます。旧政権を打倒するため、社会動乱のなかで自らが民衆の先頭に立ち、生命をかけて戦ったというイメージです。

はたして孫文はどうだったでしょうか。

また孫文は清朝官警などの追求を逃れ、何度も日本に亡命しています。孫文の理想に共鳴し支援する日本人が多かったといいます。
それでは孫文は日本をどう見ていたのでしょうか。

一方で孫文は中国、日本で何人もの女性と交流があり、何度もの結婚歴があります。

時代が違うとはいえ、現代の人権意識や倫理感からは首をかしげる行動もあります。「英雄、色(女性)を好む」で片付けてよいのでしょうか。

孫文と辛亥革命

興中会の結成と広州蜂起

アヘン戦争(1840年)を契機に列強の中国分割が進みましたが、日清戦争(1894年~1895年)と義和団事件(1900年)の敗北で、いよいよ清は崩壊の淵に立たされていました。

立憲君主制を模索するなど政権内部で近代化の動きはありましたが、漢民族は満州民族による支配(清朝)への不満を募らせ解消されることはありませんでした。

孫文は1894年清朝打倒をめざす秘密結社「興中会」をハワイで結成し、革命資金の調達を始めていました。

1895年興中会は広州での武装蜂起を計画しましたが、失敗します。孫文は清朝に手配され、日本に亡命しました。その後も中国では革命派による武装蜂起が広東省や広西省を中心に何度も起こされましたが、ことごとく失敗しています。

三民主義と四大綱領

1905年10月孫文は東京で「中国同盟会」を結成しました。

中国初の政党であり、「民族の独立(民族主義)・民権の伸張(民権主義)・民生の安定(民生主義)」という「三民主義」を掲げました。

孫文は同時に三民主義を補うものとして、「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」の「四大綱領」を示しています。

  • 駆除韃虜とは清朝を倒して満州族を追い出せという意味です。
  • 恢復中華とは漢民族による支配を取り戻せということです。
  • 創立民国とは共和制の国を創ろうということです。
  • 平均地権とは土地改革を目指すということで、土地の国有化といった社会主義の概念を含みます。

ここで疑問に思うのは、恢復中華の中華とは何かということです。

中国は多民族国家です。満州族という特定の民族を追い出すと、他の少数民族も追い出すことにつながりかねません。

そこで孫文は「五族共和」というスローガンを掲げることにしました。漢族、満州族、蒙古族(モンゴル)、回族(ウイグル)、蔵族(チベット)の共存です。

ところで日本が満州国を建国した時、「五族協和」の理念を唱えました。この場合の五族は、日本人、漢人、朝鮮人、満洲人、蒙古人を指します。

孫文は五族共和を唱えましたが、それでは他の少数民族はどうなるのかという問題は残ります。

そこで中国に存在するすべての人々を包含する民族概念として創り出されたのが、「中華民族」という言葉です。中華民族とは国民統合のスローガンにはなっても、民族概念としては曖昧なものでした。

果たして、五族共和の実態はいかなるものだったでしょうか。

孫文は書き表しています。

「漢族ヲ以テ中心トナシ満蒙回藏四族ヲ全部我等ニ同化セシム」
つまり、満州族、蒙古族(モンゴル)、回族(ウイグル)、蔵族(チベット)は全部漢民族に同化させろと言っているのです。

現在の中国共産党は、「中華民族の偉大な復興」という統治理念を掲げています。
一方でモンゴル族、ウイグル族、チベット族などにどのような同化政策をとっているかご存知のとおりです。

辛亥革命

革命派の武装蜂起は何度も失敗しましたが、1911年10月湖北省武昌(現在の武漢)で軍が反乱し、湖南省長沙、陝西省西安、上海へ広がりました。

各省の実権を握った反乱軍は清朝からの独立と共和制国家の樹立を宣言したのです。1911年が辛亥(しんがい)の年に当たるため、ここから始まった革命を辛亥革命と呼びます。

この時、孫文はロンドンにいました。

そもそも孫文は、清朝首都の北京から遠く離れた広州など南方で蜂起する戦略をとり失敗を重ねていました。
これに反し、「革命はなるべく首都に近い長江一帯で起こすべき」との戦略を主張する人たちがいて、武昌を契機とした長江一帯の反乱に成功したのです。

さらに経済中枢の上海は、孫文とは異なる勢力の人々によって無血革命が実現し、浙江省や江蘇省の革命情勢を進展させたのです。

孫文は反乱軍の先頭に立って戦ったわけではありません。それどころか、辛亥革命で孫文が果たした役割はごく限定的であったといえるのです。

中華民国の成立と袁世凱

武昌蜂起の成功を知ると、孫文はただちに帰国しました。

1912年1月1日、独立を宣言した各省の代表が南京に集まり、孫文を臨時大総統に選出し、ここに中華民国が成立したのです。1912年2月内閣総理大臣袁世凱は、ラストエンペラー宣統帝を退位させ、清朝は滅びました。

袁世凱は孫文に代わって大総統となりますが、中華民国暫定憲法(臨時約法)が議会に強い権限をもたせることに反発します。自らの権力が制限されることを嫌ったのです。袁世凱は、選挙で第一党となった国民党の指導者宋教仁を暗殺しました。

袁世凱の独裁強化に対し、反対する勢力が挙兵しますが失敗に終わります。

孫文は弾圧を逃れ、1913年再び日本に亡命しました。

二十一か条要求と五・四運動

1914年第一次世界大戦が勃発します。

1915年1月、日本は袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけました。「山東省でドイツがもっている利権の日本継承」、「旅順・大連の租借権延長」などを要求した内容です。

5月最後通牒を突きつけられ、袁世凱は受諾しました。

さらに袁世凱は自ら皇帝となることを宣言したのです。激しい反対運動がおこる中、1916年袁世凱は死亡しました。

この後、中華民国政府の実権は軍閥が握り、混迷を深めます。

そして1919年二十一か条要求の撤廃を求めた五・四運動を契機に、国権回復・反日運動が激しさを増していったのです。

孫文と日本

孫文を支援した日本人たち

孫文は日本に15回来ています。12回が亡命で、3回は通常の訪問でした。亡命期間は通算約10年におよび、横浜に5年、東京に4年滞在しました。

孫文は58年の生涯のうち、革命に従事したのは31年、そのうち15年を海外亡命ですごしています。

孫文は、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどにも革命の支援を求めましたが、日本との関係が最も強いものでした。

滞在中多くの日本人と交流を持ち、主なもので300人、その他を入れると1,500人にのぼるといわれます。

なかでも強くかかわったのは、梅屋庄吉(うめやしょうきち)、宮崎滔天(みやざきとうてん)、萱野長知(かやのながとも)、山田良政(やまだよしまさ)、山田純三郎(やまだじゅんざぶろう)の5人が知られています。

梅屋庄吉は、日活映画会社の創業者で巨額の収益をあげ、その多くを革命運動の資金に提供しました。

1895年香港で孫文と知り合い、孫文の革命思想に深く共鳴したのです。梅屋と孫文の間で交わされた「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援する」の盟約は有名です。

宮崎滔天は、やはり孫文の革命思想に傾倒し、自らは貧窮にありながら終生献身的に支援を続けました。妻や子を実家に帰し、浪曲師になって収入を得るほどの苦労をしたのです。

3人目の萱野長知も孫文の死まで熱心に革命運動を支援した人物です。

1913年袁世凱の独裁に反対した挙兵に失敗し、孫文は日本に亡命しました。この時日本政府は孫文の入国を禁止しましたが、萱野は犬養毅、頭山満などをとおして働きかけ、入国を黙認させたのです。

山田良政と山田純三郎は兄弟です。

良政は、1900年革命軍の恵州蜂起(広東省)に参加し命を落としました。純三郎は1911年から12年にかけて、孫文と日本側の借款交渉の仲介に尽力しています。

また1916年上海のフランス租界にあった順三郎の自宅で、孫文の片腕陳其美が袁世凱の刺客に暗殺される事件がありました。この時純三郎の家族も重傷を負っています。

孫文と日本の友好

孫文にとって日本は革命の避難所であり根拠地でした。1905年孫文は東京で「中国同盟会」を結成しましたが、最初のお膳立てから会場の準備まで全てを日本人がやっています。

また1911年辛亥革命の直後、孫文は日本の資金援助に全面的に頼っていました。
何人もの民間人たちが巨額の借款を提供したのです。

さらに三井物産や大隈重信との間に秘密の約束を結び、借款と引き換えに中国で日本の利権を認めようとする動きがありました。
ただしこれは実現していません。

1917年孫文は、「中国存亡問題」という論文のなかで「日本と中国の関係は存亡が相関連している。日本なくして中国なく、中国なくして日本はない」と日本との固い友好を現わしています。

孫文の日本観の転換

ところが1919年を境に、孫文は日本依存から日本批判に変わっていきました。
日本の帝国主義の野心を公然と非難するようになったのです。

直接の原因は、日本の二十一か条要求です。また日本政府と軍部は、常に清朝や袁世凱を支持し孫文の革命に反対してきた背景がありました。

1923年孫文は、「辛亥革命以後の日本の北京援助政策はことごとく中国人の期待を裏切った近視眼的な政策である」と非難しています。北京とは袁世凱政府とその後の軍閥政権のことです。

1924年神戸で行われた「大アジア主義講演」で孫文は、「日本が西洋の覇道の手先となるのか、東洋の王道の守り手となるのか、日本国民は慎重に考えて選んで欲しい」と訴えています。

また孫文は、「将来強国になったときに中国は、現在の列強のように弱小民族を圧迫してはならない。

列強の帝国主義を真似てはならないということを、まだ弱国である今のうちに中国は決心しておかなければならない」と言っています。現在の中国に、その決心は受け継がれているのでしょうか。

孫文と女性たち

孫文の結婚と愛人遍歴

孫文は日本の女性たちとも深い関係を持っています。

1898年日本亡命中の孫文は、横浜の華僑の家に身を寄せていました。一方横浜の商家の娘だった大月薫(1888年~1970年)は、美しく聡明な女性でした。1898年8月横浜に大火があり、大月薫一家の自宅は全焼してしまいます。

このため父親の知人だった華僑の家に間借りすることになり、同じ家の1階に孫文、2階に大月薫一家が住むことになったのです。

孫文は美しい薫に一目ぼれし、両親に結婚を申し込みましたが、薫はまだ13才のため断られます。1902年薫本人に求婚し、二人は婚約することになりました。このとき孫文は36歳、薫は14歳でした。

婚約はしたものの孫文は海外を飛び回り、 日本に戻ったのは1905年のことでした。

その後薫は妊娠しましたが、妊娠が判明した時孫文は日本を離れた後で二度と薫のもとに戻ることはありませんでした。薫は一人で出産します。

不可解なのは、同じころ孫文には愛人がいたのです。

神戸で15才の浅田ハル(1882年~1902年)と出会いました。ハルは美貌で英語を話せることから孫文の下女として雇われ、愛人にされたのです。献身的に孫文を支えたものの、肺を病み一人死んでいったといいます。

10代半ばの少女と結婚したり愛人とした孫文には、じつは中国に妻と子どもがあったのです。

最初は19歳の時で、同郷の盧慕貞(ルー・ムージェン)との結婚でした。子どもは3人いましたが、孫文は世界を駆け回り別居したままでした。中国に妻子がありながら、まだ少女の大月薫と結婚し子どもを産ませ、孫文本人は出奔したままというわけです。

また孫文は24歳の時、亡命先の香港で陳粹芬(チェン・ツイフェン)と同居生活を送っていました。正式な結婚ではなかったようです。

最後の結婚宋慶齢

1915年孫文は宋慶齢(ソン・チンリィン)と最後の結婚をしています。宋慶齢(1893年~1918年)は、有名な宋家三姉妹の次女として生まれました。

三姉妹は、「一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した」といわれます。

長女の靄齢(アイリン)は、金融で巨富をなした富豪の息子と結婚し、金を愛したといわれるのです。三女美齢(メイリン)は蒋介石の妻となり、権力を愛したといわれます。

そして孫文と結婚した慶齢(チンリン)は、中国を愛したというわけです。

孫文は東京で、孫文の秘書をしていた宋慶齢と結婚しようとしました。孫文47歳、宋慶齡21歳で、親子ほどの年の差がありました。
また前妻の盧慕貞との婚姻は解消されていませんでしたし、3人の子どもがいたことから、周囲は反対しました。

その時結婚の世話をしたのが、孫文の友人梅屋庄吉とその妻でした。1915年二人の結婚披露宴は、東京新宿の梅屋庄吉邸で催されています。

宋慶齢は1949年中華人民共和国成立後に中央人民政府副主席を務め、死の直前に中華人民共和国名誉主席の称号を授けられています。

おわりに

1924年1月、中国国民党と中国共産党の間で第一次国共合作が成立し、北京の軍閥に対抗する体制が整います。そして10月孫文は北上宣言を行いました。

ところがこの頃孫文はガンにおかされていました。1925年3月、「革命未だ成らず」の遺言を残し、58才の生涯を閉じたのです。

ふり返ると、孫文の武装蜂起は失敗の連続でした。

辛亥革命の出発となった武昌蜂起は、孫文とは異なる革命派によって行われました。また袁世凱には、武力の面でも政治の面でも敗北しています。

孫文の真の姿は、世に思われている理想像とはだいぶ違うようです。そうにもかかわらず、孫文は台湾で「国父」とされるだけでなく、現在の中国で「中国民主革命の偉大な先駆者」とされているのは何故でしょうか。

孫文の死後中国を統一した蒋介石は、孫文の偉大さを称え、自分を孫文の後継者とすることにより権威を高めようとしたのです。
そして中国政府は、未完に終わった辛亥革命を乗り超え完成させたのが共産党の革命と位置づけたいわけです。
孫文の辛亥革命を高く評価すれば、共産革命はより高く評価されるというわけです。

まとめ