三国志という言葉を見聞きする機会も多いですよね。
映画や小説、漫画にゲーム。多くのコンテンツで様々な作品が作られています。
三国志初心者には、面白そうだけど、ハードル高そう。興味はあるけど、難しそう。そんなイメージがあるのではないでしょうか。特にも登場人物が多すぎて付いて行けない!という方も多いのでは?
カヌタ
三国志にはこの人を知っておけば大丈夫!という二人がいます。
それが「劉備」と「曹操」。
その中でも今回は曹操について、初心者にもわかりやすく解説していきます。
なぜ曹操なのかって?そう思う人もいることでしょう。なぜなら、曹操は三国志のストーリーの中心で、古代日本にもちょっと係わりのある人であり、昨今、彼の評価の見直しが進んで中国でも人気が出てきている人物だからです。
サイト管理人:大山俊輔
この記事では、三国志をこれから読んでいこう、そう思っている三国志初心者さんにわかりやすく理解してもらいながら、曹操の魅力を伝えていける記事にできればと思います。この記事を通じて、一人でも多くの方が三国志を好きになってくれれば幸いです。
目次
三国時代とはどんな時代?
三国志の英雄が活躍していた時代は西暦180年~280年頃のお話です。
学校の歴史の授業でも出てきた中国王朝の順番だと、殷・周・春秋戦国・秦・前漢・後漢の次の時代。後漢から西晋王朝が成立する間の時代です。日本は弥生時代で、邪馬台国の卑弥呼が活躍していた頃ですね。
後漢王朝が滅んだ後、中国には魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三つの国が並び立ちました。魏の国は曹操(そうそう)、呉の国は孫権(そんけん)、蜀の国は劉備(りゅうび)、によって作られ、中華統一をめぐって激しい戦いが繰り広げられていたのです。この様子を西晋時代の陳寿(ちんじゅ)という人がまとめた歴史書が「三国志」と呼ばれています。
さらに時代は進み、明の時代に羅貫中(らかんちゅう)という人が三国時代の俗話や自分の考えなども含め、小説のようにまとめた物が「三国志演義(さんごくしえんぎ)」です。この中では、漢王朝の血を引く蜀の劉備が主人公。後漢王朝を支配し横暴を振るう魏の曹操が悪役、として描かれています。
三国志を題材とする多くのコンテンツでは、この三国志演義を元に作られている作品が多いですね。ちなみに陳寿がまとめた三国志は「正史 三国志」と呼ばれています。
曹操ってどんな人?古代日本との係わり
「曹操孟徳」(そうそうもうとく)。三国志初心者の方でも名前くらいは聞いた事があるのではないでしょうか。三国志の国の一つ「魏」の基礎を作った人です。
曹操の略歴
西暦155年生まれ。三国志の時代が訪れるきっかけとなった「黄布の乱〔184年〕」平定での活躍で頭角を現しました。その後、後漢王朝を牛耳っていた董卓(とうたく)の横暴を阻止すべく「反董卓連合軍」に参加したり、逃げてきた献帝(けんてい、当時の後漢の皇帝)を助けたり、後漢王朝には大きな貢献をしているのです。
後漢の丞相(じょうしょう、総理大臣のような役職)となり政治家として手腕を振るいます。家柄など関係なく、能力のある人は積極的に採用。兵力と食料の確保のため屯田製を取り入れたり、悪しき慣例を配して税制改革を行ったりしています。
兵法家として
将軍や兵法家としても有能で、奇襲や伏兵を用いた戦術や騎兵の運用が得意でした。また自ら「孫子」「新書」などの兵法書を記していて、後の時代でも参考にされています。曹操にとっては負け戦ですが、有名な戦いだと「赤壁の戦い〔208年〕」ですね。赤壁の戦いは三国志前半のクライマックスといっても良いでしょう。
さらには文化人でもあり、自ら詩を作り、それに曲までつけていました。その詩は中国古典文学の「文選」にも残されているほどです。
日本との関わり
そして魏の国は、古代日本ともちょっと関わりがあるのです。
「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)という言葉を聞いた事がありませんか?これは三国志の元となった歴史書「魏書」の中に登場する一説で、邪馬台国の卑弥呼の事が書かれています。倭の国(当時の日本の事)から魏に貢物が届き、これを喜んだ魏の皇帝が卑弥呼を日本の王と認定する「親魏倭王」の称号を送った、という記載があります。およそ1800年前から曹操が興した魏の国と、古代日本とは交流があったのですね。
220年に病で没するまで、多くの功績を残した偉大な人なのです。
曹操に使えた名家臣紹介
家柄など関係なく能力のある人なら採用していた曹操。その元には多くの有能な家臣が集いました。その中から代表的な名家臣を紹介します。名前だけでも覚えておけば、ゲームや漫画、映画などにも多く登場しますので「あ!こいつ知ってる!」という楽しみ方も増えますよ。
ここでは、横山光輝の『三国志』に登場する一番インパクトの濃い絵で紹介します。
軍師:曹操の参謀として活躍した名家臣
荀彧(じゅんいく)
若い頃から才能を開花させ「王佐の才」(王を補佐し国を動かす才能)と呼ばれました。軍事、政治両面で曹操を補佐し、よく助言を求められ、重く用いられていました。晩年は曹操と意見が対立した事も有り、干され気味だったようです。
郭嘉(かくか)
最初は袁紹に仕官しようとしましたが、将来性が無い事を見抜き、曹操に仕えました。「私の真意を理解しているのは郭嘉だけだ」と曹操に言われるほど、特に軍事面での信頼が厚かった家臣。38歳の若さで病死していますが、赤壁の戦いで大敗したときには「郭嘉がいればこのような負け戦にはならなかっただろう」と嘆いています。有能でしたが、プライベートはちょっと乱れ気味だったようですね。
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司馬懿(しばい)
曹操から「捕らえてでも連れて来い」と言われた程の人物です。曹操とその子、曹不(そうひ)にも重く用いられました。三国志の登場人物でも主役級の諸葛亮孔明と並び称される才能があり、何度も戦っています。軍師としてのイメージが強いですが、実際は将軍としての活躍が多いですね。そして政治的な役職にはついていなのです。彼の孫にあたる司馬炎(しばえん)が三国志の時代を終わらせ、西晋王朝を築いています。
武将:曹操の現場指揮官として活躍した名家臣
夏侯惇(かこうとん)
曹操の挙兵当時当時から行動を共にした猛将です。呂布(りょふ)との戦いの時に流れ矢を左目に受けたとき、眼球もろとも矢を引き抜き「親から貰った体をすてられるか!」とこれを食べ、再び戦いに戻った逸話が残されています。碧眼となった後は盲夏侯とあだ名を付けられますが、あまり好きではなかったようですね。
夏侯淵(かこうえん)
夏侯惇とは従兄弟にあたり、同じく挙兵当時から行動を共にしています。奥様はなんと曹操の妻の妹です。数々の戦いで武功を上げますが、亭軍山の戦いで劉備軍に破れ、戦死。三国志演義では弓の名手として登場します。
曹仁(そうじん)
曹操と同族で従弟にあたる人です。若い頃は乱暴物でしたが、曹操と行動を共にするうちに成長し、法を遵守し皆の見本となる人物になっています。騎馬隊の指揮が得意で、多くの戦場に参加。小説や漫画では引き立て役として書かれる場面も多いのですが、実際は大活躍した人ですね。晩年は大将軍にもなっているほどです。
許褚(きょちょ)
身長およそ184cm腰周りが120cmもあったと言われる大男。武勇も腕力も相当な物で、曹操の親衛となります。慎み深く、誠実な性格で曹操からの信頼は厚かったようですね。虎のように力はありましたが、頭の回転は少々遅かったようで「虎痴」(こち)というあだ名がありました。ゲームや漫画では愛嬌のあるキャラで登場する事が多いです。
曹操の名言・詩文(詩人としての曹操)
三国時代というのは民衆にとって非常に大変な時代でした。
後漢末期の政治腐敗から黄巾の乱、そして、董卓の横暴を経て様々な群雄割拠に繋がり最終的には魏呉蜀の三国鼎立の時代になったのです。
このような時代に、多くの人たちは一生懸命に生きてきました。曹操も群雄の一人ですが、実は詩人として多くの名文を残しています。ここでは、いくつかの曹操の名言と詩をご紹介します。
曹操の名言集
いちばん有名な曹操の名言はこれ!
数々の名言を残している曹操ですが、その中でも悪役としてのイメージを決定づけた名言
私が人を裏切ったとしても、人が私を裏切るのは許さない という意味ですね。
曹操が董卓から逃げている最中に、父の義兄弟「呂伯奢」(りょはくしゃ)という人に一夜の宿を借ります。その時に自分を裏切ったと勘違いした曹操が、おもてなしの準備をしていた召使たちを皆殺しにしてしまうのです。さらに逃げる途中で酒を買いにいっていた呂伯奢にばったり会ってしまった時、本人までも殺してしまいます。行動をともにしていた陳宮から「呂伯奢までも殺す必要は無いだろう」と言われた時に返した言葉がこれですね。
勘違いで殺害も酷い話ですが、悪びれもせずに放ったこのジャイアン的な名言。三国志漫画の金字塔とも言える横山光輝作の「三国志」の中では、もっと重厚な一言になっています。
おれが天下にそむこうとも 天下の人間がおれにそむくことはゆるさん」
ここまできっぱりと言い切れるのが、むしろカッコいいです。更に魅力的に感じて付き従う人もいるでしょう。でもドン引きして逃げ出す人もいるでしょうね。色々な漫画や小説で登場する有名な場面ですので、見比べてみるのも面白いですよ。
曹操の詩文( 短歌行 )
次にご紹介するのは曹操の残した有名な詩文である短歌行と呼ばれるものです。
人生をかけきった曹操の人間的魅力に溢れた躍動感あふれる詩文です。
人生幾何 人生 幾何ぞ
譬如朝露 譬ゆるに朝露の如し
去日苦多 去る日は苦だ多し
慨當以慷 慨して当に以て慷すべし
幽思難忘 幽思 忘れ難し
何以解憂 何を以てか憂ひを解かん
惟有杜康 惟だ杜康有るのみ
この詩を見てみると非常に人間味あふれる詩文ですよね。
生臭い戦や政敵との戦いの合間にこのような詩文を書くこと自体、曹操が並々ならぬ人物であることがわかりますよね。
まとめ
三国志の面白さ、曹操の魅力が少しは解っていただけましたでしょうか?
三国志の時代背景から曹操の魅力、有能な家臣たち、悪役のイメージを決定づけた名言を紹介しました。今回紹介しきれなかった政治的な実績もありますし、多くの個性溢れる軍師、猛将が付き従っていました。そして数々の名言をのこしています。
「治世の能臣、乱世の奸雄」と称された若き日の曹操。確かに魏の国の基礎を作り魏王となりましたが、曹操の代で魏はあくまで『後漢の配下の国』という位置付けでした。後漢を廃し魏の初代皇帝になったのは息子の曹不。実際は後漢を支配しながらも自らは皇帝にならなかった事が『ずる賢い』と思われがちです。その事からも奸雄との評が信憑性を増しているのですが、私の考えはちょっと違います。若き日の曹操は本気で後漢を立て直そうとしていました。なので、自分が生きている内は、なんとしても後漢王朝を残したかったのではないのでしょうか。
以前は悪役のイメージが強かった曹操ですが、近年は評価も変わってきていて、曹操が主人公になった漫画や小説も出されています。読むのがめんどうくさい!という方は曹操が主人公のドラマもありますので、調べて見てくださいね。
また三国志を題材にしたアプリも多くありますので、それで遊んで見るのもオススメですよ。
三国志初心者の方が少しでも興味を持ってもらえれば嬉しいです。
カヌタ&大山俊輔