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「太平天国の乱」とは?近代中国の転換点となった反乱をわかりやすく解説

「太平天国の乱」とは?近代中国の転換点となった反乱をわかりやすく解説

太平天国の乱は、清時代の中国で、洪秀全が中心となって起こした1851年から1864年にわたる大規模な反乱です。日本は、黒船を率いたアメリカのペリーが浦賀に来航(1853年)した幕末の時代にあたります。

南京に都を置いて太平天国という独立国家を樹立しましたが、最後は清朝に鎮圧されました。古来南京は多くの都が置かれました。三国時代の呉と東晋、南朝の宋・斉・梁・陳、初期の明、中華民国です。

長江天際

大学経済学部を卒業、本業では、大手製造業の会社で営業、調達、人事、プロジェクト管理に携わり、中国にも10年以上駐在し多くの会社を立ち上げました。

そしてあまり知られていませんが、太平天国も南京を首都としたのです。

王宮の天王府は、清軍により南京が陥落した後に焼き払われましたが、その後同じ場所に孫文が臨時大総統府を置き、蒋介石が中華民国国民政府の総統府を置きました。

南京を都とした歴代王朝は、何故かいずれも短命に終わっています。明朝は三代永楽帝が北京に遷都したため、長く栄えることができたといわれます。太平天国も例にもれず短期間に崩壊しました。

太平天国の乱は、アヘン戦争や辛亥革命に隠れ陰の薄い歴史になっています。しかしサプライズやトリビアの多い歴史で、関心を持つと面白い史実が浮かび上がってきます。

洪秀全の誕生から太平天国の建国まで

頻発する反乱とアヘン戦争の敗北

清朝は18世紀後半ころから社会不安が深刻になり、1796年「白蓮教徒の乱」と呼ばれる農民反乱が起こります。清朝は乱の平定に約10年を要し、無能ぶりを露呈しました。

教徒の一部は名前を変えて、1813年「天理教徒の乱」を起こします。紫禁城の不満分子と内通し、200名の反乱部隊を城内に侵入させました。

反乱は結局鎮圧されましたが、一時的とはいえ北京の宮廷に反乱軍が侵入したことは清朝の衰退を示すものでした。

その後も困窮した貧民や少数民族の蜂起は、各地で続発したのです。こうしたなか、清は英国とのアヘン戦争に敗れ、1842年南京条約で上海などの開港や多額な賠償金の支払いを余儀なくされました。

洪秀全とキリスト教

華北で天理教徒が乱を起こしたころ、広東省花県という農村で生まれたのが洪秀全です。

一族は客家(はっか)に属していました。

客家とは、過去の王朝滅亡時などに迫害を逃れ流民となった漢民族の人々です。元からの土着の人々からは「よそ者」と白眼視され、低賃金で仕事を奪う者として嫌われたのです。

洪秀全は勉強熱心で七歳から塾で学び、科挙合格を目指して勉学に励みました。

科挙とは官僚の採用試験です。14才から30才まで4回挑戦しましたが、いずれも失敗します。

そんな時、洪秀全はキリスト教に出会います。科挙に失敗した失意のなかで、不思議な夢を見たといいます。

夢の中で、上帝ヤハウェと思われる老人から破邪の剣を与えられ、イエスらしい中年の男から邪悪を成敗する手ほどきを受けたというのでした。ヤハウェとは旧約・新約聖書に現れる唯一神のことです。

客家という境遇から社会の矛盾への不満が強かった洪秀全は、「自分こそは、この世を救うために神からつかわされた存在なのだ」と信じるようになりました。

洪秀全は上帝信仰を説き、布教活動をはじめます。上帝が唯一神であるとして、激しい偶像破壊を行いました。ところが中国は元来多神教的な土地柄で、儒教・道教・仏教などの廟が多くありました。

それらを破壊したため、郷里広東省での布教活動は成功しませんでした。

太平天国の建国

その後洪秀全は広東省を離れ、1847年広西省(現広西チアン族自治区)金田村で上帝会を創設しました。

太平天国の前身組織です。

上帝会の参加者は、貧農・山林労働者・鉱山労働者・客家などの低階層民が中心でした。

郷里花県では成功しませんでしたが、この金田村では信者を集めたのです。組織は拡大しましたが、公権力や地元有力者との摩擦を生じることになります。上帝会成員の逮捕が相次いたため、洪秀全はそれまでの宗教活動を超えて政治革命の必要性を感じるようになったのです。

1851年上帝会の信者たちは軍事組織を結成して進撃をはじめ、北の永安を攻略し最初の拠点としました。

太平天国の建国を宣言し、洪秀全を天王としたのです。

アヘン戦争から10年後のことでした。

アヘン運搬路の変化と太平天国

太平天国の乱の地図

南京に進撃し首都とする

永安で政治や軍事などの制度を整えましたが、長く留まることはできませんでした。

清軍が体制を立て直し、反攻してきたのです。このため、わずか6カ月で永安を放棄し、北上しました。

(出所)太平天国の怒り (coocan.jp)

その後太平軍は、桂林、全州、桂陽を経て、湖南の要衝長沙(現湖南省の省都)に至ります。湖南を進むにつれて貧農たちが次々と参加し、数万の軍勢に膨れ上がったといいます。

長沙を落とすことはできませんでしたが、西進した益陽で清軍が放棄した軍船二千隻を手にいれます。また次の岳州で大量の武器を入手したのです。

船と武器を手に入れた太平軍は、長江の流れにのって東進し、またたく間に湖北の漢陽、漢口、武昌を占領しました。武漢三鎮と呼ばれる政治、商業、工業の中心で、現在は合併して武漢市になっています。

ここまで来ると、呉以来の江南の旧都南京はもう目前です。

太平軍は水陸から20万の兵力で南京に迫り、1852年2月南京はついに陥落しました。

洪秀全は群臣をひきいて南京に入城し、太平天国の首都と定めました。

そして南京の名前は天京に改められたのです。

賑わったアヘン運搬路

南京での太平天国を語る前に、時計の針を少し戻します。

洪秀全は広西省金田村で信者を集めることができました。そして湖南から湖北を北上するにつれ、多くの人々が太平軍に身を投じました。

太平天国の乱は、何故広西省から始まったのでしょうか。

また太平天国の乱は、アヘン戦争で清が英国に敗北した約10年後に起こっています。これには何か意味があるのでしょうか。かつて広東で陸揚げされた密貿易のアヘンは、広東周辺だけで流通したわけではありません。

豊かな長江沿岸の平野部に運ばれ、さらに北の華北一帯に転売されたのです。

広東から長江沿岸部に至るには、真っすぐ北上し湖南を経て長江の流れに乗るルートが最短に見えます。ところがこの道は険阻な山岳地帯を越えなければならず、交通は不便です。

一方、広東から西江を西にさかのぼり、いったん広西に入り、ついで柳江を北上すると分水嶺があります。分水嶺を越えると桂林で、そこから湘江の流れにのって湖南の平野部を移動できるのです。

西江、柳江、湘江とは河川の名前です。

この交通路は、あらゆる物資が広東から湖南に運ばれる交通路であり、アヘンもこのルートを通って運ばれました。アヘンの運搬は、牛馬、川船、苦力が使われましたし、盗賊から荷物を守るため多数の武装護衛団が必要でした。

各地を通過し、中継点で積み換えが行われる都度、多くの需要が発生し多額の仲介費用が地元に落ちることになりました。

こうした交通路の賑わいは、沿線の民衆に利益をもたらします。埠頭、駅站、旅館などの需要が高まり、地元の経済を潤わせたのです。

お気づきでしょうが、アヘン運搬で繁栄したこのルートこそ、さきに説明した太平軍が金田村から武漢に進軍したルートなのです。

中国交通路の変化と太平天国

アヘン戦争は、1842年英国と清の間で結ばれた南京条約でいったん収束しました。

それでは、アヘン戦争の発端となったアヘンの密輸入はどうなったでしょうか。

南京条約で上海が開港すると、上海の外国人租界ではアヘン輸入が自由に行えるようになりました。上海のアヘン輸入は、1845・46年から1852年の間に100倍以上に増えました。

その分、広東の輸入量は激減したのです。それまで広東を唯一の対外窓口としていた輸出入品の運送経路に大きな変化が起りました。

長江沿岸部への輸送は、広東から内陸部を北上するよりも、上海で受け入れて長江などの水路を通るほうがはるかに容易です。

中国内地の交通路は、旧交通路がすたれ新交通路が興ったのです。この変化には10年を要しました。

アヘン搬送の道として賑わった広東、広西、湖南は、一転不景気に襲われました。失業者があふれ匪賊となるものも多くありました特に広西は、盗賊が各地に跋扈し、清朝は統治の力を失い無政府状態に陥ったのです。

アヘン戦争から10年の後、広西で太平天国が生まれ、湖南を北上するにつれて勢力を拡大した理由はこうしたところにあったのです。

太平天国の崩壊

太平天国の乱北伐

北伐の失敗

太平天国が南京に都を置くと、清朝は南に江南大営、北に江北大営という強固な軍事基地を設けて天京を圧迫しました。

これに対抗するため太平天国は、1853年5月2万の精鋭をあてて北伐に出発し一挙に北京を落とそうとします。

他方、1カ月後には湖北・湖南地方を奪回するため西征軍を送ったのです。首都防衛のため天京に最大兵力を残し、北と西に遠征軍を送る多方面作戦を展開したわけですが、古来兵法の基本とされる「兵は集中して運用せよ」の教えに反する動きでした。

(出所)太平天国の怒り (coocan.jp)

 

北伐軍は長江の対岸にある揚州を落とし、半年後には北京に近い天津に迫りました。しかしその途上、河南の要衝開封や河北の主要都市保定を攻略することはできませんでした。

都市の攻略は、その財宝、食料、衣服、兵器などを手に入れることになります。軍団の補給に大きな意味をもつのです。

大きく西に迂回して進軍したことも兵の消耗を招きました。北伐軍は4カ月にわたり清軍と対峙しましたが、結局天津を落とすことはできませんでした。

天京から援軍が送られましたが間に合わず、1855年3月清軍の猛攻にあって北伐軍は大きな打撃を受け、その後盛り返すことはできなかったのです。

天京事件と太平天国の終結

一方、首都天京では指導者の間で主導権を巡る内紛がくり返されるようになりました。

1856年9月洪秀全の権威を奪おうとした楊秀清は、洪秀全に味方する韋昌輝によって殺害されます。それだけでなく、楊秀清の一族と配下の兵たち、その家族たち約4万人が虐殺されたのです。

君主によるクーデターであり、天京事件と呼ばれます。

指導者たちの争いは収まらず、つぎに洪秀全は韋昌輝を粛清することになります。太平天国はさらに内紛が続き、金田村で決起した時の主要人物は洪秀全一人となるのです。

太平天国の内紛は清にとって絶好の鎮圧の機会でしたが、洪秀全が若い将軍たちを登用したこともありしばらくは持ちこたえることができました。

しかしそれも限界がありました。

かつての太平軍は規律正しく民衆の支持があったため、いったん敗れても兵力の増強は可能でした。ところが末期になると、規律は弛緩し無秩序な徴収・略奪を重ねたため、民衆の心は離反したのです。

1863年以降、太平天国は無錫・蘇州・杭州といった浙江、江蘇の主要都市を次々に失い、天京は孤立しました。1864年6月洪秀全はついに病死します。

同年7月天京は陥落し、太平天国の乱は終結しました。

天京攻防戦は悲惨を極め、占領後に残された老人や子供を含めて20万人が虐殺されたといいます。

おわりに

中国の人口は、紀元後(漢朝)から18世紀前半(清朝)まで、おおよそ1千万人から6千万人の間で増減をくり返してきました。王朝の交代期に、農民などが戦いに大量動員され、戦闘、疫病、食料不足などで多くの命が失われました。

命を取りとめて故郷に帰っても、住居は失われ田畑は荒廃し、食糧問題などで人口が激減した歴史が何度もあったのです。

太平天国の乱と中国の人口の推移

清時代の18世紀前半、中国の人口は4億3千万人まで急増します。

この頃サツマイモやトウモロコシの栽培が広がり、多くの人口を養うことが可能になったからです。

(出所)中国の歴史と人口の変遷 (nbl-technovator.jp)

 

ところが太平天国の乱による影響はすさまじく、いっきに1億6千万人の人口減少をもたらしました。じつに1/3以上の人々の命が失われたわけです。

 

歴史上の戦争による死者数

「歴史上の主な戦争や人災による死者数」という研究があります。

(出所)図録▽歴史上の主な戦争や人災による死者数 (sakura.ne.jp)

 

死者数の多いもの上位10件をみると、うち4件は中国のできごとです。毛沢東(飢饉)、安史の乱、明朝滅亡、太平天国の乱。

中国には現在55の少数民族があり、それぞれ宗教、言語、習慣は異なります。多数を占める漢民族も一様ではなく、例えば東北地方と広東地方では、言語、体型、習慣など大きく異なります。

中国は古代から現代まで、広大な地域に多くの民族が覇を競ってきました。また常に周囲からの異民族の侵入にさらされてきました。統一国家を形成するため、巨大なエネルギーと犠牲を伴ってきたわけです。

犠牲となった人民は、世界でも例を見ない想像を絶する数になります。

太平天国の乱は、その典型といえるのです。

まとめ