官渡の戦い(かんとのたたかい)とは、西暦200年に曹操と袁紹の間で起こった戦いです。
官渡の戦い・赤壁の戦い・夷陵の戦いは戦乱時代の三国志の中でも、大きなターニングポイントとなった戦いなので、三国志初心者には是非押さえておきたいところです。
中でも赤壁の戦いはとても有名で、多くの映画の題材にもなっていますね。三国志初心者でも聞いた事があるでしょう。今回紹介する官渡の戦いは、赤壁の戦いより前に行われた大規模な戦いです。
カヌタ
曹操と袁紹の天下分け目の戦いですが、三国志の主役とも言える劉備や関羽も絡んできます。最終的には曹操が勝利し、華北一帯の支配を確立する事になった戦いなのです。
一口に官渡の戦いと言っても、いわゆる官渡決戦をさす場合と、前哨戦とも言える白馬・延津の戦いから袁紹の一族が滅ぶまでの過程を官渡の戦いと捉える場合があります。
この記事では三国志前半の天王山とも言える官渡の戦いをわかりやすく解説します。前哨戦ともいえる「白馬の戦い」と「延津の戦い」から官渡決戦まで幅広くカバーします。曹操の華北統一までを「官渡の戦い」と考えて、わかりやすく解説していきますよ。
目次
官渡の戦い 現在の中国だと どのあたり?
官渡の戦いの舞台となったのは、現在の中国だと河南省鄭州市のあたりです。黄河の中流域で南側ですね。当時黄河より北側を支配していた袁紹が、曹操の支配する黄河の南側で、中華の真ん中あたりに南下して攻め込んで来た形です。なので、守る曹操VS攻める袁紹という形になります。
また、前哨戦となった白馬・延津の戦いは黄河にそって、官渡より東側に位置しています。
決戦の地となった官渡のやや南側には、当時曹操が本拠地としていた許昌がありました。この許昌には後漢王朝の皇帝もいて、曹操は皇帝の名の下に権力を握っていたのです。この頃の後漢王朝は度重なる戦乱で、すでに形ばかりの王朝になっていましたが、それでも皇帝の権威は利用価値があったのでしょう。当然袁紹もそれが狙いだったに違いありません。
中華北部の支配をかけた戦い その原因とは?
当時の曹操と袁紹の情勢を見ておきましょう
曹操は黄巾賊討伐や反董卓連合軍などの戦いで頭角を現し、度重なる戦乱の中で後漢の皇帝、献帝を保護していました。皇帝を擁し、正当性を手に入れた曹操は呂布や袁術などの群雄を下し、黄河の南側から長江の北側のあたり、兗州・豫州・司隷・徐州の4州を支配下に置き、一大勢力となっていました。
一方袁紹は191年、冀州(きしゅう)牧の地位を譲り受けます。今で言う県知事みたいな役職ですね。そこを拠点にして黄河より北側の中華一帯に勢力を拡大して行きました。同じあたりに勢力を持っていた公孫瓚を長い戦いの末、199年に滅亡に追いやり、その勢いのまま北方の異民族も勢力に治めます。
これにより黄河より北側の冀州・青州・并州・幽州の4州を支配下に置き、大きな勢力へと成長していました。
199年。この頃曹操の配下にいた劉備が徐州で反乱を起こしました。そして袁紹に同盟を求めてきたのです。この機会に乗じて曹操を攻めろ、と家臣からも進言されますが、袁紹は息子の病気を理由に少しの兵しか出さず、これも曹操軍に撃退されています。そして劉備の反乱も曹操軍に鎮圧され、劉備は袁紹の元へ逃げ延びてきました。
この時に劉備の妻子と関羽は曹操軍の捕虜となり、関羽は曹操軍の客将として扱われています。
黄河より北の4州を治めた袁紹と、黄河の南から長江北側の4州を治めていた曹操。当時の二大勢力の衝突は避けられないものになって来たのです。また袁紹には後漢の皇帝を曹操から救い出す。という大義名分もありました。
なんと10倍の兵力差!?
次に曹操軍と袁紹軍の兵力を見て行きましょう
まずは曹操軍。後漢の皇帝を擁し、この頃の中華の中心4州を治めていました。黄巾賊の残党を吸収し、精鋭部隊となっていた青州兵などの戦力も保持していましたが、北は袁紹、南は孫策や劉表、西側には馬騰などの群雄に囲まれていました。
また、いくら中華の中心とはいえ、度重なる戦乱や董卓、李確らが都を荒らしまわり、荒廃していた地域も多かったのです。さらには各地で小さな反乱も起きており、それらを押さえ込むための兵力も必要でした。
なので、官渡の戦いに割けた曹操軍の兵力は10万程と言われています。
対する袁紹軍は黄河より北側一帯を支配下におき、北方の異民族も手なずけていたので、南の曹操に戦力を集中する事が可能でした。なので、70万もの大軍勢で攻め入る事ができたと言われています。
「守る曹操軍10万VS攻める袁紹軍70万」 この人数は三国志演義で書かれたものです。この他、曹操軍10万に対し袁紹軍100万。もしくは曹操軍1万に対し、袁紹軍10万と記されている物もあります。
後の歴史家からは、当時の人口を考えても、さすがに10倍までの戦力差ではなかったのではないか、と言われています。いずれにせよ袁紹軍の方が、圧倒的に兵力が多かった事には違いないでしょう。
どんな内容の戦い?そして結末は
前哨戦:「白馬の戦い」と「延津の戦い」
まずは官渡の戦いの前哨戦とも言える「白馬の戦い」と「延津の戦い」を見ていきまし
ょう。この戦いに先立って、袁紹は陳淋(ちんりん)とう部下に檄文を書かせ、自軍の戦意高揚と曹操軍を挑発します。曹操はこの檄文を見た後、「10万の軍にも匹敵する」と評したとか・・・三国志の時代にもライター業はあったのですね。
白馬の戦い
西暦200年。袁将はついに曹操と戦うべく進軍を開始します。手始めに将軍3人を曹操が支配していた白馬県に進軍させました。白馬県は官渡より黄河沿い東側にある地域です。
曹操もこの進軍を防ぐべく、軍を二つに分けて派遣し、袁将軍3人の将軍を2人と1人分断させる事に成功しました。
そして分断した1人の武将、顔良(がんりょう)を、この頃曹操の客将軍となっていた関羽が討ち取ります。これにより袁将軍は撤退する事になるのです。
延津の戦い
白馬の戦いが一段落したあと、曹操は白馬の住民を避難させようとしていました。袁紹はこれを阻止すべく、袁紹軍の名将、文醜(ぶんしゅう)に命じて黄河を渡り、進軍してきました。文醜が白馬に向かっている途中、延津という所に差し掛かった時、曹操軍の輸送部隊に出くわしたのです。
輸送部隊の列を発見した袁紹軍は、それに襲い掛かり略奪を始めます。これをチャンスと見た曹操軍は、袁紹軍の秩序が乱れる事を狙います。案の定略奪に夢中になる袁紹軍。当初6000騎ほどいた騎兵が600騎以下まで減っていました。この隙をついて袁紹軍の将軍、文醜を討ち取ったのです。
ちなみに三国志演義では文醜も関羽が討ち取った事になっていますよ。
本番戦:いよいよ官渡の戦い本番
白馬・延津の戦いで勝利した曹操。袁紹も顔良・文醜という2枚看板の将軍を失いました。しかしこれも袁紹にとってはかすり傷程度の損害でしかありません。袁紹本人も袁紹軍本体もまだまだ健在だったからです。
しかも曹操が支配しているはずの豫州では袁紹に味方する雰囲気まで出始めていました。これは袁紹が豫州の出身だった事が大きい要因ですね。
兵力・物量ともに大きく勝る袁紹軍。この頃袁紹軍にいた劉備が、黄巾賊の残党を集め背後を脅かします。さらには南の孫策が曹操の本拠地に攻め込むとの噂も広がり、曹操は官渡の砦まで撤退を余儀なくされるのです。
いよいよ袁紹軍は袁紹本人が総大将となり、黄河を渡って攻めてきました。70万とも言われる大軍です。一方曹操も本人が指揮を執り、官渡の砦に立てこもりました。
官渡決戦
篭城作戦を取る曹操は袁紹の大軍を前に大苦戦を強いられます。次第に兵糧も底をつき、ついには袁紹軍の輸送部隊を襲ってなんとか食いつなぐ状況に陥ります。この時、曹操は本拠地を守る荀彧(じゅんいく)に手紙を送り「一度本拠地まで戻り、袁紹軍を呼び込んでから殲滅したい」と戦略的撤退を伝えます。
これを見た荀彧は、曹操が弱気になっている事を見抜き、「今撤退しては、勢いに乗った袁紹にやられてしまいます。今が頑張り所です。」と撤退を良しとせず、官渡に踏み止まるように励ましました。さすが王佐の才と呼ばれた荀彧ですね。
大攻勢を仕掛ける袁紹軍は、内部がまとまっていませんでした。大きくは短期決戦を望む派閥と、持久戦を主張する派閥に二分されている状況です。対立が激しさを増し、投獄される家臣まで出始める始末。そんな状況に嫌気が差し、袁紹に見切りをつけた許攸(きょゆう)が曹操に寝返ります。
この許攸から、烏巣(うそう)という地域に袁紹軍の食料拠点があるという情報が曹操にもたらされました。しかも警備も薄いらしい。曹操にとっては罠かと思える程の大きな情報です。曹操は迷わず烏巣を強襲し、袁紹軍の食料を焼き尽くしたのでした。
もちろん烏巣の強襲を知った袁紹は救援部隊を派遣します。この時も家臣の意見が対立し、中途半端な決定しか下せません。結果、烏巣の救援と官渡の砦を攻撃に出した部隊も破られ、兵力、兵糧ともに大損害を出した袁紹は自分の本拠地まで撤退を余儀なくされました。
こうして官渡決戦は大きく戦力で劣る曹操軍が勝利したのです。
官渡決戦後の三国志の世界はどうなったか
倉亭の戦い
官渡決戦で袁紹の大軍を退けた曹操は201年、黄河を渡り袁紹軍が駐屯していた倉亭まで進軍しました。この時も袁紹軍30万に対し、曹操軍3万とも言われています。兵力ではまだ圧倒的に袁紹軍が上ですが、曹操は「十面埋伏の計」を繰り出し、袁紹軍を打ち破りました。
袁紹の病死
度重なる敗戦で袁紹は求心力を失い、各地で反乱も起きてしまいます。袁紹は鎮圧にあたりますが、苦悩から病気になり、202年に病死してしまいます。今も昔もストレスは大敵ですね。
後継者を決めないまま亡くなった袁紹。長男の袁譚(えんたん)と三男の袁尚(えんしょう)の間で跡目争いが始まってしまいます。これに乗じた曹操は一時袁譚に味方し、204年に袁尚軍を破りました。そして袁尚軍を吸収し始めた袁譚をなにかと理由を着け攻撃し、205年に袁譚を斬っています。
袁氏の滅亡
中華の北方の果て、幽州に逃げ延びていた袁尚。207年、味方についていた異民族、烏丸族もろとも滅ぼされ、ここで袁家の命脈は絶たれる事になります。その勢いで幽州の果て、遼東の公孫氏も服属させています。
その後、僅かに残っていた袁紹軍の残党も駆逐し、袁紹の勢力を完全に滅ぼしました。これにより、黄河より北側の中華を支配下に置く事に成功した曹操は、その後西側にも勢力拡大します。さらには南側にも進軍し、時代はあの赤壁の戦いへと進んでいくのです。
まとめ
今回は官渡の戦いについて、前哨戦から官渡決戦、その後袁紹の一族が滅亡するまでを、わかりやすく解説しました。
戦力で大幅に上回る袁紹軍でしたが、多すぎる戦力をまとめる事が出来ず、判断が間違っていたり、遅かったり、優柔不断だったりした袁紹の決断が、全ての結果に繋がっているのではないでしょうか。
最後に、袁紹の名誉の為に一言、後漢王朝を腐敗させていた宦官の排除や、反董卓連合軍の結成など、英雄と呼ぶに相応しい活躍をしている事も付け加え、官渡の戦いの解説といたします。
カヌタ&大山俊輔