- ショーペンハウアーってどんな人?
- なんだか神経質そうだし、気難しそう。
あるいは、ユニークな顔(というより髪型)が気になって仕方ない方もいらっしゃるかもしれません。
孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから。
一般的な解釈と真逆な言葉をズバリ言い切るユニークな哲学者ショーペンハウアー。
自分は人と一緒にいるときが楽しい、と言いながら、実はすごく他人の動向が気になったり比較したりしてしまうことってありませんか?
今は、SNSの時代でますます自分がどうありたいかではなく、人にどう見られたいかが気になる時代です。
そんな時代にこそ、見直してもらいたい哲学者。それが、ショーペンハウアーです。
ブログ管理人:大山俊輔
この記事では、ドイツの偉大なる哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーについて徹底解説します。この人はガチ天才です笑。生涯、代表書籍『意志と表象としての世界』や『余録と補遺』からの訳出『幸福について』『読書について』のあらすじを紹介します。ショーペンハウアーの書籍のあらすじや、彼の残した名言を通じて、その思想について、わかりやすくかみ砕いてお伝えしたいと思います。
目次
ショーペンハウアーってどんな人?
幼少期のショーペンハウアー
アルトゥール・ショーペンハウアー(1788~1860)は主に19世紀のドイツで活躍した哲学者です。
ペシミズム(悲観主義)を中心としたその思想は、ニーチェやキルケゴール、ベルクソンらドイツ内外の哲学者・思想家だけでなく、トルストイやアンドレ・ジッド、トーマス・マンら世界的な作家・文学者にも大きな影響を及ぼしたと言われます。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』の要約 |「神は死んだ」、「超人」、「永遠回帰」などニーチェ思想をわかりやすく解説!ショーペンハウアーは「人生は苦悩の連続である」と断言しました。それまでのヨーロッパの哲学者(カントやヘーゲルなど)は人間の「理性」を賛美しますが、ショーペンハウアーは「理性」よりも、生きることへの本能的な、盲目的な「意志」のほうが強いと言い切りました。生きることへの意志は盲目的な故に満たされることがない。他者との関わり合いは意志と意志とのぶつかり合いになるため、争いが起こる。その結果、「人生は苦悩の連続であり、人生は最悪である」とショーペンハウアーは断じます。超ペシミスティック(悲観的)であり、ユニークです。
しかしショーペンハウアーは「人生は最悪」と断言しつつ「そんな最悪の人生でも、なるべく快適に心おだやかな生き方を目指そうよ」とも言ってくれます。その思想については後で詳しく解説します。
こうした経緯から、ショーペンハウアーは「生の哲学」の始祖とも呼ばれています。その思想は、ニーチェ、ディルタイ、ベルクソンなどへ受け継がれます。また、デューイなどプラグマティズムへの影響も大きいと言われています。
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オルテガ・イ・ガセットの代表作『大衆の反逆』の解説はこちらになります。
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ショーペンハウアーの生涯-少年時代
自由都市ダンツィヒ
まずはショーペンハウアーの人生について紹介します。
ショーペンハウアーは1788年、ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク市)で生まれました。父ハインリヒはお金持ちの商人、母のヨハナは名家の娘で文学に精通し、当時は有名な女流作家の一人でした。
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息子を有能な商人に育てたかった父ハインリヒは、国際経験や上品なしつけが必要だと考えました。そのためショーペンハウアーは、幼少期にはフランスに住み、15歳になるとオランダ、イギリス、ベルギー、フランス、スイス、オーストリアを旅行します。この旅行はショーペンハウアーの思想形成に大きな影響を及ぼしたと言われています。
ショーペンハウアーは旅の途中、ガレー船(人力でオールを漕いで進む軍艦)で強制労働をさせられている囚人たちを目にします。またある時は旅の馬車の窓から、粗末な小屋とそこに住む貧しい人々の様子を眺めました。『ショーペンハウアー』の著者である遠山義孝氏は、ショーペンハウアーはこうした旅の風景に触発されて、自らの中にペシミスティック(「世界は最悪!」)な心情が芽生えたと指摘しています。
旅から帰った17歳のショーペンハウアーは、商人になるため帳場で働き始めますが、その矢先、愛する父ハインリヒが急死してしまいます。旅行中に芽生えたペシミスティックな心情は、父を失った悲しみと相まって、ますますショーペンハウアーを支配していきました。派手な母ヨハナとはもともとソリが合わず、孤独感を強めたショーペンハウアーを救ったのが、学問でした。
ショーペンハウアーの生涯-哲学の道へ
若き日のショーペンハウアー(27歳前後)
帳場の仕事を辞めたショーペンハウアーは、連日深夜まで、古典文学やラテン語、ギリシャ語を学びました。そして21歳の時、ドイツ国内で名高いゲッティンゲン大学に入学。そこで専攻したのが「哲学」でした。
ショーペンハウアー最大の業績は大学を出てから5年ほどを費やして書き上げた『意志と表象としての世界』という本で、ショーペンハウアーの思想のすべてがこの一冊に詰まっていると言われます。
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今となっては高く評価されているこの本は当時、全く売れませんでした。大著を書き上げながら、世間に認められなかったショーペンハウアーは失意の日々を過ごします。
ベルリン大学で講師の職を得たものの、そこには大哲学者ヘーゲル(弁証法で有名)がいて、学生たちはショーペンハウアーの授業になど目もくれません。大学講師を1年で辞め、イタリア旅行でリフレッシュしますが、帰国後には病気で右耳がほとんど聞こえなくなってしまいます。何をしてもうまくいかない日々が続きました。
ショーペンハウアーの生涯-晩年の成功
晩年のショーペンハウアー
ショーペンハウアーの人生の潮目が変わったのは、60歳を過ぎてからのことでした。当時ハンブルクに住んでいたショーペンハウアーは、『余録と補遺』という本を書きます。30歳の時に書いた主著『意志と表象としての世界』を分かりやすく解説するための本です。『意志と表象としての世界』が哲学の専門書だったのに対し、『余録と補遺』は入門書。幅広い読者(特に若者)を想定し、エッセイ風の文章を書き連ねました。彼自身、この労作、『余録と補遺』をもって
本書は「私の末っ子」であり、「この子の誕生によって私のこの世における使命を果たした」
と述べています。
『余録と補遺』は出版社の予想に反しドイツ国内でベストセラーとなり、ショーペンハウアーの思想はドイツ全土、そして世界中へと広まったのでした。
不遇だった前半生とは対照的に、ショーペンハウアーは一大哲学者として、世間から高く評価されるようになりました。ドイツの音楽家ワーグナー、デンマークの思想家キルケゴール、ロシアの文豪トルストイなど、世界各国の著名人がショーペンハウアーの熱烈なファンになりました。
ショーペンハウアーの墓
1860年、ショーペンハウアーは肺炎を患い、72年の生涯を閉じました。
「墓石には名前以外には一文字も付け加えないでほしい」という生前の希望通り、ショーペンハウアーの墓石には「アルトゥール・ショーペンハウアー」という名前のみが刻まれました。森鷗外が「墓は森林太郎のほか一文字も彫るべからず」という遺書を残したのは、ショーペンハウアーの影響ではないかと言われています。
ショーペンハウアーの代表的書籍は? その思想のエッセンスとは?
前述の通り、ショーペンハウアーの主著は1818年刊行の『意志と表象としての世界』です。もう一つは『余録と補遺』(1851年刊行)。『読書について』『幸福について』『自殺について』など、『〇〇について』というタイトルがついたショーペンハウアーの本がたくさん刊行されていますが、これらは編者や訳者が『余録と補遺』の中から抽出したものです。
『意志と表象としての世界』は専門的な哲学書、『余録と補遺』はそれを一般向けに分かりやすくした解説書といった位置づけです。『意志と表象としての世界』はかなり哲学の知識(特にカント哲学)がある人でないと読みづらいと言われています。『読書について』『幸福について』などの入門書を拾い読みするだけでも、ショーペンハウアーの思想の一端に触れることができると思います。
まずは主著『意志と表象としての世界』の内容を、ざっくりと紹介します。
ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』
意志と表象としての世界(1818年/30歳)
〈世界は私の表象である。〉
ショーペンハウアーは本書の冒頭でこう述べます。彼の言いたいことは冒頭のこの一文に詰まっていると言われています。ショーペンハウアーの遺した文章の中で最も有名なセンテンスでしょう。「表象」とは難しい言葉ですが、ドイツの文学や哲学に精通する遠山義孝氏は「私たちの知覚に基づいて意識に現れる外界対象の像を指す言葉」と説明しています。
「知覚」は「主観」と言い換えてもいいでしょう。要するに、本人の受け止め方によって、「世界」は変わるということです。
ブログ管理人:大山俊輔
翻訳家でドイツ文学者の鈴木芳子氏が大変分かりやすく解説しています。
〈ショーペンハウアーは、私たちの目に映るこの世界は、私たち各人の主観の世界なのだから、各人の脳裏に描かれたその世界はそれぞれ異なるものであると説く。現実世界のいかなる出来事も、すなわち、人間の心を占めるいかなる現在も、主観と客観という二つの側面から成り立っている。(中略)客観的半面がどんなに美しく良いものであっても、主観的半面が鈍くて不出来なら、劣悪な現実と現在しか存在しない。ひとりひとりが生きる世界は、何よりもまず、その人が世界をどう把握しているかに左右される。世界は、いまこの世界を前にした自分の表象なのだから、自分自身の意識が変われば、見えてくる世界も変わってくる。〉
自分にとっての「世界」は結局、自分の主観が描きだした表面的な像に過ぎない。そうすると今度は、「じゃあその表象の背後に潜む重要なものはないの?」という話になります。ショーペンハウアーは、表象の背後に潜むとても大切なものは「意志」だと断言しました。
一人ひとりの人間が「世界そのもの」を把握するのは難しく、把握していると思っているのはその「表象」に過ぎない。こういう考え方は、ショーペンハウアーの一世代上に当たる「近代哲学の祖」、カントが提唱したことと同じです。しかし、カントは「じゃあ、その表面的なものの背後に何があるの?」というところの説明には四苦八苦しました。苦しんで出てきたのが「物自体」という概念ですが、これは結構難しい。
ショーペンハウアーはそこをいとも簡単に「背後にあるのは“意志”である」と宣言したのです。
このあたりは、認知科学では「内部表現」と表されるものや、量子物理学でも意識によって量子の振る舞いが決定される観測者効果が指摘されていますが概ね同等のものであると考えて良いでしょう。
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スティーブン・コヴィー『7つの習慣』の解説はこちらになります。
7つの習慣の要約 | 読書苦手にもわかりやすい名著のまとめ
では、ショーペンハウアーの言う「意志」とは何でしょう。
遠山義孝氏はこう述べます。
〈ひとつは一般的な意味で何かを行おうとする意志、もうひとつは盲目的に人間を駆り立てる衝動とでもいうべき意志である。いずれも意志には違いないが、ショーペンハウアー哲学においては、後者の意志、つまり人間のうちにあって論理的にはほとんど解明できない不合理な暗い部分を占める意志が問題にされるのである。〉
この「意志」について、ショーペンハウアー本人はどう語ったのか。
引用してみましょう。
〈植物において発芽し、成長を促す力も意志である。それどころか、結晶がかたちづくられる力、磁石を北極へ向ける力、異なった金属が触れあって出る振動のもとになる力、素材の親和力において、逃げあったり求めあったりする力、つまり分離と結合という形で現象する力、その上とどのつまりあらゆる物質において強力に働いている力、すなわち石を大地に、地球を太陽に引きつける重力さえも、――これらすべての力は現象においてのみ異なるが、その内容的な本質の上では同一のものとして知られており、それが最もはっきりと現れる場合、意志とよばれる当のものであることにわれわれは思いあたる。〉
要するに、万物の「生」に向かおうとする力、それらはすべて「意志」であるということかと思います。そしてこの「意志」は、人間が持っていると信じられている「物事の判断力=知性」にも勝る、というのがショーペンハウアーの考えです。
ここまでくると、この「意志」というものが実はやっかいな存在であることもだんだん分かってきます。生への盲目的な意志は一つの欲望です。そしてその欲望というのは、完全に満たされるということがありません。命ある存在は永遠に生きようとします。生きていれば次の瞬間も生きていたいと思う。その意志、欲望は、永遠に続きます。
ただし、人間だけとってみても、世界は私一人ではありません。家族もいれば見知らぬ他人もいます。そのひとり一人にが「意志」を宿しているのですから、これは大変です。世界は盲目的な意志同士のぶつかり合い、バトルロワイアル的な万物闘争の場になってしまいます。
だからショーペンハウアーはこう考えます。
「われわれの世界は考えられうる限り、最も悪い世界である」
「人生は苦悩の積み重ねである」というショーペンハウアーのペシミスティックな考えは仏教やヒンズー教などの東洋哲学に結びついていきました。ショーペンハウアーは学生時代から、ヨーロッパの哲学を学ぶと同時に、インドなど東洋の哲学を積極的に吸収しました。
ショーペンハウアーと犬
ショーペンハウアーが26歳の時、戦争の危機(おそらくナポレオン戦争)を感じ、母の元へ居候していましたがその時期にウブネカット(ウパニシャッド)はじめ古代インド哲学にハマった時期があったようです。彼のペットの犬の名前もアートマン(真我:個の根源)となづけていたくらいです。
苦悩の積み重ねにどう対処したらいいのか。ショーペンハウアーは、苦悩を克服し、「意志」の束縛から解き放たれるには、「意志の否定」しかないと言います。
この点について鈴木芳子氏はこう説明します。
〈盲目的な意志の休みなき営みは、生き物たちに不満と悲惨しかもたらさない。したがって、人間が望みうる唯一のことは、できる限り、自分自身のうちにあるその意志を否定することにある。そしてこの否定は瞑想において達成される。なぜなら、瞑想のうちにおいてのみ私たちはその時間だけ、欲望の隷属状態から解放され、日常生活の不満や悲惨を越えて、理想世界の安らぎと平和の域に自分自身を高めることができるからである。〉
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ショーペンハウアー『幸福について』
『幸福について』
ショーペンハウアーの思想が広く知られるきっかけとなったベストセラー『余録と補遺』の中から訳出した著作として有名な作品を二つ紹介します。
一つ目は『幸福について』(aphorismen zur lebensweisheit)です。
ブログ管理人:大山俊輔
「『世界は最悪、人生は苦悩の積み重ね』というのがショーペンハウアーの考え方ではなかったの? 彼が『幸福』について書くのはおかしくない?」という声が聞こえてきそうです。
その通りで、ショーペンハウアー自身は「幸福な人生」というものをあまり想定していません。『幸福について』では、このように書いています。
〈さて、人生はこうした幸せな生活という考えに合致するものなのか、あるいはせめて合致する可能性はあるのかという問いに対して、読者もご存じのように、私の哲学はノーと答える。〉
本来、「幸福な人生」などというものは存在しないけれど、それでも生きているのだから可能な限り快適に心地よく過ごす術を身につけておきたいものだ
というのがショーペンハウアーのスタンスです。
ショーペンハウアーは「人生には三つの財宝がある」と言います。
本文から引用して紹介します。
一.その人は何者であるか。すなわち最も広義における人品、人柄、個性、人間性である。したがって、ここには健康、力、美、気質、徳性、知性、そして、それらを磨くことが含まれる。
二.その人は何を持っているか。すなわち、あらゆる意味における所有物と財産。
三.その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか。……すなわち、そもそも他人の目にどのように映るかという意味である。したがって実質的には、その人に対する他者の評価であり、名誉と地位と名声に分かれる。
ショーペンハウアーはこれらのうち、「第一の財宝」を最も重視します。生まれながら自分に備わっている資質を大切にし、磨きなさい。他者の評価に左右されず、自分で自分を評価してあげなさい。そのためにはまず、自分をよく知りなさい。そう読者に語りかけます。
〈私たちの最大の楽しみは、称賛されることだ。けれども称賛する側は、あらゆる理由がそろっているときでさえ、嫌々ながら、しぶしぶ称賛している。だから、何はともあれ、自分で自分を率直に称える境地にたどり着いた人が、もっとも幸福な人である。他人に惑わされてはいけません。〉
ショーペンハウアーは、他者に惑わされず、自分と向き合うために「孤独」を重視しました。
ショーペンハウアー『読書について』
読書について
『幸福について』と同じくらいよく読まれている著作の一つが、『読書について』(über bücher und lesen)です。これはタイトルの通り、ショーペンハウアーが「読書」についての考えを短い文章で書き連ねていったもので、大変面白いです。
〈読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。〉
〈読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。〉
〈ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。〉
〈精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。〉
『読書について』は、『意志と表象としての世界』を読んでいなくても、すらすら読めます。
それでいてショーペンハウアー特有の辛口な批評、鋭い指摘を味わえます。
ブログ管理人:大山俊輔
訳者の斎藤忍髄氏の指摘が的を射ています。
〈特別の説明や解説は無用のように思われる。読めばただちにわかるはずである。「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」とか、読書の第一の心がけは「読まずにすます」ことであるというような鋭い皮肉や、(中略)心を打つアフォリズムが、いたるところにちりばめられていて、読者は知らぬまに彼の文章の中に誘いこまれるであろう。〉
ショーペンハウアーは、小説『変身』で世界的に知られる作家フランツ・カフカから「言葉の芸術家」として称賛されていたそうです。
アインシュタイン、フロイトなどもショーペンハウアー以前の人類に、彼以上の文章を書ける人間はいないと絶賛していました。
ショーペンハウアーの名言は?
ここでは、おすすめのショーペンハウアーの残した名言を紹介していきます。
ショーペンハウアーの短文をまとめた『随感録』(秋山英夫訳)から、印象に残る名言をひとつご紹介します。
〈だれでも自分のなかに、どれだけ苦悩にたえる力があるか、また行動する力があるかは、なにかのきっかけでそれが働くようになるまでは、わからないものだ。――それはちょうど、なめらかな鏡のように静まりかえっている池の水を見ただけでは、それが滝となってたけり狂いながら岩角から落下し、あるいは噴水となってどんなに高く吹きあげうるかがわからず――あるいはまた氷のように冷たい水のなかに潜熱があるとは思えないのと同様である。〉
自分の中にどんな力や可能性があるかは、試してみないと分からないのだから、私には無理・・・などと最初からあきらめなくてもいいわけです。静かな池の水は、滝を流れている時は猛然と岩にぶち当たるのです。
人間を社交的にさせるのは、彼らが孤独と、孤独のなかにあるおのれを耐えることができないからである。彼らを社交に、さらに外国の人びとのなかに、あるいは、旅行に駆り立てているのは、彼らのうちにみなぎる空虚と、現状にあきあきした気分である。彼らの精神は、それ自身に運動を起こさせるバネの力を欠いている。まさにこうした事情によって彼らは常に外からの刺激を必要とするが、それももっとも強力なもの、つまり彼らと同じような存在による刺激を必要とするこれに反し、完全な人間である人は、卓越した人間でも、おのれだけで統一され、なんお破綻も来さず、おのれ自身だけで充実している精神の豊かな人は、独りで協奏曲を奏で、あるいはピアノをひく音楽の巨匠と比較することができる。こうした巨匠が一人だけで小オーケストラとなっているのと同じように、精神の豊かな人は、一人だけで小世界を形成している。さらに俗人が大勢でよってたかって行うことを精神の豊かな人は独りで意識の統一のもとに表現する。
人は他人と交わることによって、質的に失うものを量的にいわばおぎなわねばならぬという法則を読み取ることができよう。
内面の富、精神の富ほど安全なものはない。なぜなら、人は精神のすぐれた富を身につければつけるほど、退屈する余地が少なくなってくるからだ。それに精神がいつまでも活発であれば、外界およびおのれの内面世界の多様な現象は、つねに更新するたわむれであって、これらの現象をたえず他の結合として見る力や衝動が生まれる。したがって、卓越した精神の持ち主は、一時の弛緩した瞬間を除き、まったく退屈の範囲外に置かれている。
『幸福について』からの一節です。
多くの人は幸せを、他者視点、つまり、他人が自分をどう評価するかに求めてしまいがちです。同様に、不安、困惑、呵責、怒りなどの根源も同様に他人が自分をどう思うかを評価した結果であることがほとんどです。
だからこそ、これらの愚劣から脱却することが大事であるということをショーペンハウアーは説いています。己自身にそなわるものが多ければ多いほど、その人にとって他人はそれだけますます問題にならなくなるからです。
ブログ管理人:大山俊輔
いかに内容の豊富な図書館でも、不整頓であるならば、はなはだ小さいけれども整理の行き届いた書庫ほどの利益も与えない。同様に、いかに多量の知識でも、自己の思慮がこれを咀嚼したのでなければ、反復熟慮したわずかの知識より、その価値ははるかに乏しい。
これは、『読書について』からの引用です。
本を読むのが好きな人は、ついつい読むことありきになってしまいがち。なぜ、本を読んでいるのか。そんな「そもそものこと」を思い出させてくれる名言です。
学者とは、書物を読んだ人々のことで、思想家や天才や、世界の啓発者や人類の恩人は、直接に世界という書物を読んだ人たちである。実際、真理と生命とを有するのは、自分自身の根本思想だけである。
同じく『読書について』の一節です。
この言葉も、深く噛み締めたいと常々思うことです。
本を読むことも大事ですが、実際の自分自身の経験とのフィードバックループがあってはじめて価値を生み出すものだということを思い出させてくれます。
人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである。孤独は優れた精神の持ち主の運命である。孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから。
会社経営者と言えば、ゴルフや飲み会大好きというイメージがあります。
でも、私は社交的ゼロですし、むしろ、一人の時間が大好きです。時々、自分はこんなに社交性がなくていいのかと思うことがあるのですが(ショーペンハウアーみたいにつむじ曲がりには見えないようにしてますが(笑))、そんな時に、この言葉を思い出すようにします。
ここまで極端に言い切る気もないのですが、つい200年前にこんなくせ者の面白いおっさんがいたと思うと勇気づけられるので、この孤独についての言葉を名言として紹介させてもらいました。
ショーペンハウアーのエッセンスを簡単に理解するのにおすすめの書籍・YouTube動画
さて、ショーペンハウアーの代表的著書とその主張について大まかに理解いただけたでしょうか?
そうなると、本を読みたいと思う方もいるかもしれません。
『意志と表象としての世界』は哲学の背景知識がないと難解かもしれません。
ショーペンハウアーが『読書について』で語っている通り本を読むことがエライわけではありません。
その主張を理解し、消化吸収して自分の考え・経験と照合し自分なりの哲学へと昇華させていくことが大事なのです。なので、ここではあまり難解な本ではなくそのエッセンスを学べると思ういくつかの簡易な書籍、YouTube動画などを紹介します。
『幸福について』(漫画版)
漫画版と侮るなかれ。
まず、ショーペンハウアーのエッセンスを理解するならここからはじめてもいいのではと思うくらいによくまとまっています。エリザベート・ネイ(1833年1月26日~1907年7月29日、女性彫刻家として後に米国で大成)が自殺未遂をするところを、救うところからスタートします(これは実話のようです)。
エリザベートとの会話で回想シーンをたどりながら、ショーペンハウアーの若き日のストーリーなども詳しく解説されていて、まず、大枠を理解したい方におすすめです。
『幸福について』(YouTuberアバタローさん)
こちらは、YouTuberアバタローさんの解説です。
アバタローさんのテンポ良い解説と、本著のみでなくショーペンハウアーの生涯についての解説もあり、まず、本著を手に取る前にこの動画で全体像を理解してからでも良いのではと思い紹介させていただきました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「世界は最悪、人生は苦悩の積み重ね」と断じながら、苦悩のなかを生き抜くことについて考え抜いたショーペンハウアー。世の中に生きづらさを感じ「人生なんて最悪……」と思ってしまう時、超ペシミスティックなはずのショーペンハウアーの思想に触れると、不思議と少し気が楽になりませんか?
今のようなSNS大全盛の時代、常に他者との比較に晒されて消耗する現代人にこそ、ショーペンハウアーの思想は強烈な印象を与えてくれます。
大山俊輔