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歴史オタク経営者が太鼓判を押す世界史・日本史の戦いランキング11選!(かなり個人的主観)

歴史とはさまざな人々の試行錯誤の結果です。

現生人類となるホモ・サピエンスがアフリカ大陸に誕生したのは30万年前。
その後、7万年前に出アフリカによりユーラシア大陸に拡散していき、1万年前には農耕をはじめます。

古代文明は5000年前には誕生しましたが、徐々に、各文明の周辺地域で誕生した国家は領土を争って戦争をはじめます。
最古の戦いとなる、古代エジプトと小アジアのヒッタイト王国の戦いでもあるカデシュの戦いは、紀元前1286年頃と言われています。それ以降、数多くの戦いがありますが、

戦いは数だよ兄貴

とばかりに、鉄板の数の差で勝利する戦いもあれば、まさかの大ポカンの戦いもあります。

大山俊輔

本業は会社経営者。女性限定・初心者専門の英会話スクール b わたしの英会話を運営しています。もし、起業してなかったら歴史学者になりたかった・・・(結構マジで)

このエントリでは中小企業の社長業をやってる私のかなり個人的に偏りのある評価ではありますが、世界史・日本史の戦いのなかから私がお気に入りの戦いをランキング形式で紹介していきます。かなり偏ってますからね(笑)

ジャイアント・キリング(小が大を制した戦い)

1位:アドワの戦い

アドワの戦い

イギリス、フランスなどヨーロッパ列強がアフリカ分割に乗り出した頃、遅れた帝国主義国家としてやっと国家統一がなされたイタリア。

ここから慌ててアフリカ分割に参戦しますが、ほぼすべてのアフリカ大陸がイギリス、フランスに抑えられてしまっていて残っていたのはエチオピア。ということで、エチオピアに攻め込むのは良いのですが、ものの見事にフルボッコに負けてしまいます(笑)。歴史的にはジャイアント・キリング(小が大を制す)戦いとも言われますが、エチオピア帝国が動員した兵力は10万以上。そして、大砲などの装備、兵の練度もイタリアより高く、負けるべくして負けた戦いです。

アドワの戦いについては、「アドワの戦い – 日露戦争もびっくり、近代世界史におけるGiant Killing(番狂わせ)」の記事で詳しく解説しています。

アドワの戦い アドワの戦い – 日露戦争もびっくり、近代世界史におけるGiant Killing(番狂わせ)

2位:日清・日露戦争

日露戦争

やはり、ここでは我らが日本が明治維新間もない時期に国家の存亡をかけて戦った、日清・日露戦争をピックアップします。

今の中国大陸・満州などを支配していた女真族の中華帝国でもある清国、そして、世界最強の陸軍国であったロシア帝国と我らが大日本帝国は国家の存亡をかけて戦い、そして、独立を守りました。

日清戦争はアジアの国同士の戦いということもあり複雑なところもありますが、日露戦争当時、ヨーロッパ列強とガチンコで戦って勝てるアジア、アフリカの国はありませんでした。いち早く、江戸時代の太平の世から目覚めて明治の御一新を成し遂げた日本が、その40年のキャッチアップの成果を試された戦いでした。

3位:桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

歴史上の偉人はその生涯で何度か大きな勝負を行いました。

その中でも、代表的な戦いの一つが桶狭間の戦いと言えるでしょう。駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元率いる2万以上の大軍を迎え撃つは、まだ尾張を統一して間もない27歳の織田信長率いる2000人強の軍勢。

そして、見事な采配で敵の総大将を討ち取るという大金星をあげました。この戦いで、織田信長は戦国時代にデビューを果たします。

織田信長のすごいのは、大きなリスクをとった大勝負はこの桶狭間の戦いのみ。それ以降の戦いは基本的には、その膨大な国力が生み出す兵力をしっかりと動員し、正攻法の戦いを好みました。この辺りも、信長のすごいところです。

4位:官渡の戦い

官渡の戦い

三国志の曹操が北方の雄、袁紹率いる大軍勢を打ち破る戦い。

曹操も何度と敗北を覚悟し、撤退を考えましたが参謀の荀彧、郭嘉といった人々が弱気になる曹操を支えて戦いを粘り強く継続。最後は、曹操の古き知己で袁紹に仕えていた許攸が曹操に寝返ったことをきっかけに、烏巣の食料庫を焼き討ちに成功し、兵糧不足に陥った袁紹の大軍を一気に打ち破ります。

この戦い以降、袁紹は失意のうちに死去。世継ぎ争いが勃発し、それに乗じて曹操は北方を統一。中国大陸の三分の二を統一して、南方攻略に取り掛かります。

この南方攻略で失敗したのが赤壁の戦いです。

歴史の転換点となった戦い

1位:コンスタンティノープルの陥落

メフメト2世のコンスタンティノープル入城

1つの戦いが時代をわけるような戦いがあります。

その代表が、オスマン帝国の若きスルタン(王)メフメト2世によって成し遂げられたコンスタンティノープル攻略戦と言えるのではないでしょうか。この戦いにより、1000年以上続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は滅亡。事実上、これをもってヨーロッパは中世に終わりを告げ、近世に突入します。

攻城戦に大砲を導入したり、艦隊が山越えをするなど予想外の作戦を次々と実行したメフメトの粘りがちでした。

この戦いについては、ドラマ『オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け』でも詳しく扱われています。

オスマン帝国・メフメト2世 イスラム界の天才厨二病君主メフメト2世~力づくでローマ帝国の後継者となった男

2位:第二次ウィーン包囲の失敗

第二次ウィーン包囲の失敗

もう一つの戦いもオスマン帝国関係です。

メフメト2世のコンスタンティノープル攻略以降、オスマン帝国はセリム1世、壮麗王ことスレイマン1世などの活躍により、北アフリカ、アラビア半島、クリミア半島、東ヨーロッパにまでその国土を広げます。

ヨーロッパ諸国は束になってもかなわないほどの国力を誇ったオスマン帝国ですが、17世紀に入ってじわじわと衰退がはじまります。

一方、ヨーロッパ諸国は南北アメリカ、東南アジア、インドなどの植民地化を通じて国力を増強。そんな時に、オスマン帝国が隣接する大国であった、神聖ローマ帝国の居城であったウィーンに攻め込むのが第二次ウィーン包囲です。この戦いには、国内でも反対も多かったものの、功名心にはやる大宰相カラ・ムスタファが強行し、15万以上の大群を率いてウィーン攻略を目指しますが戦いは長期化し、最後は、援軍に駆けつけたポーランド王ヤン・ソビエスキの軍勢に敗北します。

この戦いの後、ヨーロッパ連合軍はオスマン帝国領内に進軍し、オスマン領の東ヨーロッパを次々に攻略。トルコの世紀は終わりを告げます。

布陣を含めて芸術的な戦い

1位:カンナエの戦い

カンナエの戦い

北アフリカの交易国カルタゴはイタリア半島から急速に国力を増強した共和政ローマと地中海の権益を巡って争いをします。

それがポエニ戦争です。

第一次ポエニ戦争シチリア、サルディーニャ、コルシカなどを失ったカルタゴは、その後、ヒスパニア(スペイン)を支配下におき国力を回復。第二次ポエニ戦争がはじまります。この戦争の主人公の一人は、バアル神の恵と言われたカルタゴの名将ハンニバル。

制海権がないため、ハンニバルはイタリアの後背地である北イタリアから急襲をかけるべく、アルプス山脈を超えて、トレビア、トラシメヌス湖畔の戦いなどでローマ軍を打ち破ります。国家存亡の危機に陥ったローマは、ハンニバル軍の撃滅を期して、8万以上の大軍を動員。こうして、行われた戦いがカンナエの戦いです。

カンナエの戦いの考察は「カンナエの戦いを徹底解説 ー 戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲」の記事でも詳しくまとめています。

カンナエの戦いを徹底解説 ー【図解つき】戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲

2位:関ケ原の戦い

関ケ原の戦い

2位は日本の戦いです。

織田信長が本能寺で横死した後、残存した織田軍を再統合したのは豊臣秀吉です。朝鮮出兵で失敗し、失意のうちに死去した秀吉が息子秀頼を託したのは五大老の一人、徳川家康。一方、家康の野心を見抜いていた秀吉の家臣、石田三成が主に西国の豊臣恩顧の大名を率いて家康と戦った戦いが関ケ原の戦いです。

両軍合わせて15万以上とこの時期の戦いとしては世界最大級の兵力を動員した戦いですが、やはり見ものは家康の強かさ。

戦が決して得意ではないと言われていた三成も8万以上の兵力を動員し、鉄壁の布陣で家康の軍を鶴翼の陣の構えで包囲します。布陣だけ見ればほぼ、西軍の勝利と言われた戦いですが相手は戦国の乱世を生き抜いてきた家康。小早川秀秋などの裏切りによって、鉄壁の布陣は崩壊。両軍の戦いは1日で決します。

関ケ原の戦いとはどのような戦いだったのか、その解説については下記エントリをご参照ください。

【日本史】歴史オタクが関ヶ原の戦いについてわかりやすく徹底解説! 【日本史】歴史オタクが関ヶ原の戦いについてわかりやすく徹底解説!

勇気を与えられる戦い

1位:ガリポリの戦い

ガリポリの戦い

三大陸を支配したオスマン帝国は17世紀から徐々に領土を失い、1900年代に入ると小アジア、リビアなどの北アフリカ、アラビア半島、そして、一部バルカン半島のみを残す状態まで領土を失っていました。

この中、オスマン帝国は急速にヨーロッパで国力を増大したドイツ帝国に接近。

第一次世界大戦が始まった際には、ドイツ、オーストリアと組んで同盟国の一員として連合国と戦いました。

一方、イギリス、フランスなどは連合国として同盟していた西のロシアとの連携を確保するため、オスマン帝国の首都イスタンブールがあるボスポラス・ダーダネルス海峡を突破する作戦を立てます。

こうして、圧倒的兵力と武器弾薬を持った英仏連合軍を迎え撃つは若き日のオスマン帝国将校ムスタファ・ケマル率いるオスマン帝国軍。

この戦いでは、英仏の予想に反してケマル率いるオスマン軍が大善戦。最終的には英仏軍は撤退に追い込まれるという、大金星の戦いになります。この戦いで、ケマルはトルコ人の人気を得ることになります。

しかしながら、戦争そのものは最終的には連合軍が勝利し、オスマン帝国は降伏。その屈辱的とも言えるセーブル条約に対して反旗を翻した人々はケマルのもとに集結し、戦後に戦いをはじめます。これがトルコ革命です。「私の人生を変えた偉人 – 世界史No1のチート、ケマル・パシャ(アタテュルク)を好きなわけ」では、このケマル・アタテュルクについて詳しく解説しています。

ケマル・アタチュルク 私の人生を変えた偉人 – 世界史No1のチート、ケマル・パシャ(アタテュルク)を好きなわけ

2位:元寇

蒙古襲来絵詞の竹崎季長

日本史上、最大の国難ともいえる元寇。

2度に渡り大陸から攻めてくる大軍とその新兵器対して、日本側は何もできずにただ神風ラッキーだった、と学校で教わりますがこれは間違い。

日本の若きリーダー北条時宗と、国を守る鎌倉武士の一所懸命があったからこその我が国の大勝利に終わったのです。
実際の鎌倉武士の勇猛さなど「元寇の真実」ともいえる新しい見解と解説については下記エントリをご参照ください。

元寇を徹底解説 一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します 元寇の真実と鎌倉武士 | 元寇とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します

まとめ

いかがでしたでしょうか。

私は古代地中海、中東、そして、中国史と日本史が好きなので結構場所に偏りがありますが同じような悩みを抱えている方や、勇気を出して行動を取りたい方には調べてみると面白い方々だと思います。

歴史上の人物から様々な行動のキッカケをもらうのは歴史好きの特権だけにしてはもったいないと思ってこのエントリを書いてみました。
お読みいただきありがとうございました!

大山俊輔