日露戦争の決着を決めた、日本海海戦。
この戦いで、「日本が強い」ということを、列強諸国に知らしめることになります。
フリスクン
では、どのような戦況で、どのような勝ち方をしたのでしょうか?また、日本海海戦のその後はどうなったのでしょうか?私は、歴史好きで、この戦いについて多方面から調べ、より学びました。
今回は、日本海海戦について、時代背景から、戦況まで徹底解説します!
目次
日本海海戦を徹底解説!
戦いの場所は?
戦いの場所は、対馬海峡です。今の九州、中国地方に位置する小さな島です。ヨーロッパからやってきたロシア艦隊は、対馬周辺で日本海軍と戦うことになります。
戦いの主要人物
・東郷平八郎
連合艦隊の司令長官です。連合艦隊司令長官として海軍の作戦を指揮します。当時世界最強のロシア艦隊、バルチック艦隊に、T字作戦(トーゴーターン)を行い、世界的に有名なものとなっています。
・秋山真之
連合艦隊の作戦参謀です。とても勉強家で、アメリカで海軍の作戦・戦術について研究し、帰国後は海軍大学校の教官として勤務。そこから東郷平八郎に見いだされ、作戦参謀になります。ここで、バルチック艦隊と戦うための戦略を緻密に作ります。
戦いの背景
ロシア海軍は、島国である日本を倒すため、艦船増強をして、ほぼ2倍の戦力にすることにより、日本の連合艦隊を圧倒しようと目論みます。それが、当時世界最強のバルチック艦隊です。しかし、国土が広いロシアは、今の北海道側から日本への攻撃をすることはなく、なんとアフリカから東南アジアを経由して船を回し、対馬へ到着します。そこで、日本海軍と接触します。
戦いの流れ
1905年、ついにバルチック艦隊が、日本の連合艦隊と接触。バルチック艦隊は一斉に砲撃を開始します。砲撃の開始を見た日本海軍は、それにあせて砲撃を開始。
ここで、秋山真之が立てた作戦が功を奏します。
なんと、バルチック艦隊を撃滅するために、戦艦・巡洋艦の砲撃のみならず、駆逐艦・水雷艇による魚雷の発射、機雷敷設などを組み合わせ、なんと7段構えの作戦を立てていたのです。更に、東郷平八郎の、T字作戦(トーゴーターン)もうまく機能します。それは、バルチック艦隊の接近後、大きく左に変針をし、敵船の前方を遮り、集中砲火を浴びせます。
ここまで圧倒的に立ち回った日本軍。ここで、バルチック艦隊が敗走します。しかし、そこも逃さなかった日本海軍。砲撃を開始し、最後まで戦い抜きました。これにより、バルチック艦隊は、日本海軍に降伏。日露戦争に日本海軍は勝利を収めます。
日露戦争(日本海海戦)のその後
日露戦争後の条約は?
1905年、日露戦争の講和条約として、ポーツマス条約が調印されます。
ここで、アメリカが登場します。
中国への進出をはかろうとするアメリカは、日本とロシアのどちらかが決定的な勝利をおさめることを望まなかったため、日露戦争の講和を仲だちしました。
講和会議はアメリカ合衆国の東北部にある軍港ポーツマスで開かれ、1905年9月、日本の全権、小村寿太郎とロシアの全権ウィッテの間でポーツマス条約が結ばれます。
ロシアは韓国での日本の優越権を認めます。そのうえで、遼東半島南部の租借権や南満州の鉄道の権利や、樺太(サハリン)の南半分を日本にゆずることになった。また、沿海州やカムチャッカ半島沿岸の日本の漁業権も認めることになります。しかし、この条約では、日本は賠償金を得ることはできませんでした。
これにより、国民は激怒。小村寿太郎は激しい条約反対の国民運動を受けます。日本は、日露戦争で大きな犠牲、資金を使い勝利を収めました。しかし、アメリカに仲介され、賠償金がないなどの不利な内容に不満を持ちます。ここで、政府系新聞社や政府機関などは襲撃。交番は焼き討ちをされます。
他の国は?
ポーツマス条約を結んだ後、日本は韓国の指導、監督権を得ることが出来、三回に渡る日韓協約を結んで、韓国を実質的に支配を進めます。これに対して、韓国は激しい武装抗日闘争を起こします。しかし、日本はこれを弾圧。1910に、韓国併合をします。
ロシアが敷設した東清鉄道の支線で、ハルビンと旅順を結ぶものであったのですが、このとき日本が獲得したのは、長春〜旅順間の利権でした。日本は、南満州鉄道会社(満鉄)を設立して、鉄道経営のほか、沿線の鉱山開発など多角的な事業を推進します。
日本がロシアを撃退したことにより、ロシアは極東における積極的進出を断念。別の不凍港である、バルカン方面に関心を向けます。日本は、日英同盟を改定。同盟関係を継続しながら、ロシアと中国北東地方の利権を南極に分け、それぞれの勢力圏として了承することで、急速に接近していきました。
これと並行して、ロシアの同盟国のフランスとの間にも日仏協約が結ばれ、日本の刊行における優越的地位と、フランスのインドシナにおける優越的地位を相互に承認します。
このような動きは、アメリカにとってはあまり良くない状況でした。極東における日本とイギリス、フランス、ロシアの連携の成立は、好ましくなかったのです。このため、アメリカの日本に対する好意は冷却。両国の関係は次第に険悪な方向に向かっていきます。
東郷平八郎の日露戦争後
東郷平八郎は、日露戦争直後、同盟国のイギリスへ行き、他の商工や乗組員とともに、サッカーを感染します。また、日露戦争の活躍が認められ、大勲位菊花大綬章と、功一級金鵄勲章を授与されます。また、今も発汗されている、タイム誌の同年11月8日号において、表紙を飾ることになります。東郷平八郎のバルチック艦隊撃滅は、世界を動かしたのです。
東郷平八郎は、1934年に死去します。東郷の死後、東京都の渋谷と、福岡県宗像郡に、「東郷神社」が建立されます。東郷平八郎は、神格化されていくのです。
また、少し先のお話ですが、第二次世界大戦後、GHQによって、日本軍のモニュメントの撤去作業が行われますが、米国海軍は、東郷平八郎を崇拝していたので、東郷平八郎に関するモニュメントには手を触れさせなかったという逸話が残っています。
秋山真之の日露戦争後
秋山真之も東郷平八郎と同様、勲章も手に入れます。また、日露戦争の後も冷静に国力を分析。潜水艦と空軍の強化、アメリカへの非戦を唱えるようになります。しかし、日本海海戦が人生のピークであったと言われています。それは、病気で苦しんだためであると言われています。しかし、第一次世界大戦の結果を、長年の研究により、見事言い当てたと言われています。さすが、作戦参謀ですね。
ちなみに、俳句や文学で有名な、「歌詠みに与ふる書」などを発表した正岡子規と、同郷であり、ともに友人として過ごした過去があります。秋山真之は、虫垂炎を患い、更に腹膜炎も併発し、亡くなります。正岡子規は、結核によって亡くなります。当時は、医療も発達していなかったためか、病気で死去する人がとても多かったのですね。
まとめ
日本海海戦では、誰も予想をしていなかった結果になります。世界に、日本の力を知らしめる戦いでした。他の国よりも国力の少ない国なのに、圧倒的な大勝を治めます。しかし、それに対して、ポーツマス条約は、日本にとっては好ましくない条約でした。不平等な条約は改正されたものの、いい結果をもたらしませんでした。ここから、第一次世界大戦、第二次世界大戦と続いていきます。
フリスクン