大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

西部邁『思想の英雄たち』のギュスターヴ・ル・ボンの紹介が絶妙だったので引用します

思想の英雄たち

大山俊輔

こんにちは。大山俊輔です。
いやー、自宅で仕事している合間に久しぶりにこの本読んじゃったんです。

自裁死という形で残念なことにこの世を去られた西部邁先生の代表作の1つです。

私の好きな思想家としては、『大衆の反逆』で有名なオルテガ・イ・ガセット、『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』の著者、アレクシス・ド・トクヴィル、そして、ハイエクやシュペングラーなどの考察などもこの1冊で読めてしまうというスグレモノです。ただし、かなり西部節な独自の視点で描かれています(笑)。

先日、オルテガの「慢心しきったお坊ちゃん」の概念を通じてこのコロナ騒動を論じたのですがオルテガといえばやはり西部邁です。
大衆の反逆 慢心しきったお坊ちゃんの時代 – コロナにうろたえてすべてを破壊する令和日本人とゼロリスク信仰の欺瞞

今回は書評レビューではなく今の令和ジャパンで生き延びていくためには我々(私も)大衆とはどのような生き物であるか。これについての卓越した考察にヒントを見出すのが良いのではないでしょうか。

前回、オルテガを使って私なりの評論をしちゃいましたが、今回は酔っ払いながら書いてますので基本、本からの引用のみです。
今回は西部さんのこの本から引用するのは、ギュスターヴ・ル・ボンです。

どんな人かって?
とりあえず、バックグラウンドから気になる方はWikipediaでも見ておいてください。


群衆への闘い

まずは、西部さんが自分自身かつて安保闘争においてブント(産主義者同盟)に身を投じていた若き日を回想するところから始まります。

ここを読んでいるだけで、西部邁さんのタバコのニオイが漂ってくる気がします(笑)。

私はギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』という書物が、というより「群衆の時代」としての近代の惨劇が、人々から無視されたままであるということにたいして覚える私の不満は決して小さなものではない。その書には、「群衆の時代」にかんする絶望まじりの嫌悪が激しく表出されている。

ところが、「群衆の時代」に馴染むことによって禄を食んでいるらしい社会科学者たちは、この書に脚注でふれるのがせいぜいのところである。多くの場合、『群集心理』は書棚の片隅に野ざらしの死骸よろしく横たわっている。「群衆の時代」のクライマックスを刻しつつある戦後日本の現在にいるものとして、この死者に蘇りを期待したわけである。

西部邁『思想の英雄たち』

いきなり毒舌なのは言うまでもありませんが、表現が巧みです。
私はこんな日本語使えませんが、西部さんが思っていた戦後日本(本書が出版されたのは1996年)から更に今の令和ジャパンは腐臭の漂い方にも年季が出てきてます(笑)。

専門人への反発

彼の研究の構えは時代の流れにはっきりと逆行していた。つまり、科学をはじめとして表現の専門主義化が音を立てて進行する中で、彼は多分野を渉猟(しょうりょう)しつづけたのである。彼の著述は、医学、心理学、社会学、民俗学、歴史学、物理学、教育学、政治学、そして哲学にまで及んでいるらしい。だが、彼が群集心理を痛烈に批判しえたのは、専門の閉領域から逃れることに成功したからこそであるということもできる。

いいかえれば、「専門人こそが大衆の典型である」(J・オルテガ)という大衆(もしくは群衆)観がル・ボンにあっておおよそ確率されていたということだ。教養と財産を持たぬ大衆、という十九世紀前半の大衆観からル・ボンはすでに自由になっていた。

専門人たる社会学者たちはこの点を見逃しにして、ル・ボンに単なる民衆蔑視のみをみようとする。この専門人集団における自己防衛の態度が社会学にあってル・ボンが軽視されることになった最大の理由だと私は思う。

西部邁『思想の英雄たち』

西部さんは常に専門人という人種に対して警告を発していました。これ、時代背景から言うと本著が出版されたのは1996年。時はまさにアメリカンスタンダード、で、日本的ジェネラリストよりもスペシャリストだ、と騒いでいた時代です。もちろん、西部さんの警告はこうした先人の言葉を通じて出されたものなのですがおそらく当時の日本社会でもこの西部さんの指摘に気づいた人は少なかったのではないでしょうか。

ここでも、その後、文壇に登場するオルテガを引用しつつ大衆とは身分ではなくあくまでも生き方の違いである点を強調されています。(西部さんこそ、新宿ゴールデン街をこよなく愛する大衆ですからね(笑))。

ここで、実際の書籍からこの文章を引用しています。

社会の最上層から最下層にいたるまでの各層において、人は、単独でなくなるやいなや、ただちに指導者の掟に従うことになる。大部分の個人は、特に俗衆のうちに立まじれば、自分の専門以外には、何らはっきりした理詰めな考えを持たなくなり、みずから身を処することもできなくなる。そこで指導者が、その手引になるのである。

やむを得ない場合には、きわめて不十分ながら、定期刊行物が指導者のかわりをすることもある。定期刊行物というものは、読者たちに意見をつくってやり、彼らに出来合いの文句をつぎ込んで、みずから熟慮反省する労をはぶいてしまうのである。
ル・ボン『群集心理』

この文章ほど今の日本の惨状を予言してたのではないだろうかと思える文章はないですね。
「定期刊行物=新聞+ワイドショー」、と見れば今回のコロナ騒動でも同じことが再現されてしまいました。

では、群衆とはなんなのか。
先程、専門人(いわゆるインテリ)も群衆であると指摘しましたが西部さんもここでこのように書かれています。

繰り返して指摘しておきたいのは、群衆には教育を受けたものも専門知を所有しているものも含まれるということだ。人は、群衆のなかにおかれるとき、「暗示を受けやすく物事を軽々しく信じる性質」を付与される。

「心象(イマージュ)によって物事を考える」群衆(のなかにいる人間)はとくに「心象」を換気する力の強い「標語」によって「暗示」を受け、その暗示が群衆のなかで「感染」し、その結果、群衆は「衝動」の奴隷となる。これが「集団的錯覚のからくり」である。

西部邁『思想の英雄たち』

ここも実に示唆に富んだ表現であるとともに今回のコロナ騒動でもありましたね。

しっかりと、ウィルスや細菌について学び、検査や検査陽生、重症者、死者などの計算を自分で行わず、ただ、ワイドショーが単純な言葉で恐怖を煽りそれに私たちは乗って集団パニックになる。まさに、衝動の奴隷と化しました

西部邁

西部邁

西部さんは専門人という人種を極めて警戒していました。

一見、社会的にはステータスのある人 ー つまり、学者や権威者と呼ばれるような人 ー こそがこの大衆心理を体現するからです。そして、なまじそのステータスに多数派がなびき世論が形成されそれに政治家が乗るからです。先の大戦も、今回のコロナ騒動における過剰な反応はまさにそれですね。

ここで、西部さん独自の専門人についての考察があります。

専門人もまた舞い落ちる木の葉であり吹き飛ばされる砂粒である。専門人の扱いうるのは現象の一側面にかぎられるおであり、そしてその側面の意味は、他の諸側面の意味とのかかわりでのみ、明らかにされる。いいかえれば、物事の全体像を押さえることができなければ、その一側面にかんする専門に際して、群衆の集団的錯覚(世論)に頼り切っている。

ル・ボンが群衆から離れることができたについては、彼がスペシャリストでなかったという事実が強くかかわっているであろう。彼は、ジェネラリストとして、時代の全貌を世論とは異なる画布に描こうとしたのである。そのようにして描かれた時代の輪郭が「群衆の時代」であり、それにたいする色付けが「群衆の心理」であったのだ。

西部邁『思想の英雄たち』

まさに、今回のコロナ騒動では数多くの医学、疫学関係者が登場しました。
一見、プロフィールだけ見れば多くの人たちは有名な大学の教授だから、という理由で多くの人はその発言をそのまま受け入れています。

しかし、ル・ボンや西部さんが指摘するまでもなく現代社会におけるスペシャリストとはある意味、とある現象における専門家ではあるものの全体図を構想しそこから最適な解決策を見出そうという態度を取る人たちではありません。しかし、大衆にとって大事なのは「偉い」「有名」「テレビに出ている」いった要素であり、発言や主張の中身そのものではありません。なぜなら、そうした複雑な思考をすることは面倒だからです。

こうして、過去には自称財政専門家の言葉に従って消費増税が強行され経済が破壊されました。

財政専門家はマクロ経済を見ないので結果は彼が予期したものと真逆(景気悪化に伴う国債発行残高の増加)という皮肉なものとなります。同じようにコロナ騒動でも、本来は、経済、社会学、あるいは哲学(人の自由をどこまで制限すべきか)などのバランスをとった議論が求められる中、専門家の発言に国全体が振り回されたりしてしまいました。

イメージへの懐疑

西部さんはル・ボンを通じてイメージへの懐疑という概念を提唱しています。
イメージとは、「仮想(バーチャルなものでありながら実質とみえる)現実(リアリティ)」に人間が支配される現象です。

ここで出てくる仮想現実とはいわゆるテクノロジーとしてのバーチャル・リアリティとは違って虚構の事実といったものでしょうか。

最も真実らしくない事柄が、一般に、最も人の心を打つことなのだ。<br>
・・心象のみが群衆を恐怖させたり魅惑したりして、彼らの行為の動機となる。・・・非現実的なものが、(群衆の)眼には、現実的なものとほとんど同等の重要さを持つのである。群衆は、あきらかに、非現実的なものと現実的なものを区別しない傾向を持っている。・・・民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなく、その事実の現れ方なのである。
ル・ボン『群集心理』

まさに、今回のコロナ騒動でも客観的な数字や現実を通じた議論ではなくこんな言葉がはやりました。

「クラスター」
「オーバーシュート」
「ロックダウン」
「重大局面」

コロナ前もこんな感じでしたよね。

「都民ファースト」
「ワイズ・スペンディング」
「改革マインド」
「サスティナブル」

こうした単語の単純なイメージに私たちは振り回されました。
西部さんは、このイメージについてこう論じています。

イメージに理性がはたらかないわけではなく、ロジックに感情が介入しないわけでもないのだが、比較的には、イメージは感情の産物でありロジックは理性の結果である。

今からちょうど一世紀前、人類の歴史が「群衆の時代」へと転落していくのを目の当たりにして、ル・ボンは「感情が理性との永遠の闘いにおいて敗れたことはかつてなかった」と結論づけずにはおれなかった。たしかに、日本の現状を見ても、「思想を大雑把に受け入れるか退けるかして、論議も反駁も許さない」という群衆のやり口が、主としてスローガンを駆使するという形で、社会を席巻している。

西部邁『思想の英雄たち』

群衆社会が導くリーダーとは

ここで最後に、突如19世紀に登場した群衆社会におけるリーダーについての記載があります。

こうした群衆社会が一度登場すると、リーダー像というものもかつての世界史や日本史に登場してきたリーダーたちとは全く異なるものになります。まさに、この「イメージ」と「感情」を揺さぶるのがうまい人間こそが群衆時代のリーダーなのです。残念ながら、そこにロジックや思考はなくなってしまいます。

指導者は「断言」を「反覆」し、そうすることによって自己の確信を群衆の中に「感染」させようとする。それに成功している限りにおいて指導者は「威厳」を保ちうる。そして、群衆の上に聳えるのが威厳であるからには、「議論の的にされるような威厳はもはや威厳とはいえない。・・・

<br>群衆から称賛されるには「指導者は」常に群衆をそばに近づけてはならないのである。
ル・ボン『群集心理』

まさに、ヒトラーの登場を予告するような内容ですね。
実際、ヒトラーは本著を読んでいたと言われています。そして、こうした指導者がすがるのはまさに世論である

こう西部さんは看過しています。
この「世論」について西部さんはル・ボンの考察に付け加える形でこのように述べています。

「政府に世論を指導する力がない」、また、「新聞はもはや世論を反映するのみである」というル・ボンの説についてはどうであろうか。正確には、政府も新聞も世論のうちいで最も目立つ部分に、つまり群衆の短期的な視野に立つ直接的な欲望に、呼応するほかなくなっている、そうしなければ安定的に存続することができないという恐怖にそれはさらされている、というべきだと私は思う。

西部邁『思想の英雄たち』

まさに、今回のコロナ騒動においても冷静な議論は鳴りを潜め感情が支配しました
感情が支配する世界は1日後、1週間後、そして長くても1ヶ月後の世界です。こうして、世界中で1日後、1週間後、1ヶ月後の「なんとなく怖い」を回避するために1年後、10年後の世界を破壊する政策が取られました。

残念ですが、こうした政策が取られた国の多くは民主主義国家 ー つまり私たち民衆が主導するはずの国 ー でした。

では、民主主義を否定し専制政治や寡頭政治を選ぶのかと言うと、これも人類の歴史を見ていくと難しいものです。つまり、民主主義でいくしかないけれども、このシステムを構成する我々大衆ひとりひとりが己をよく理解すべし、ということでしょうか。同じフランスの思想家であるアレクシス・ド・トクヴィルは自身のノートに次のようなメモ書きを残しています。

「私は民主制度を頭では好むが、本能では貴族的である。つまり群集を軽蔑し恐れる」(トクヴィル)

ここでいう貴族、群衆というのは再度となりますが社会階層ではなくその人の生き方を指しますので脳筋反射しないように!

最後に西部さんは群衆社会の行く先をこのように述べてル・ボンの紹介を終えています。

総力戦も軍官支配も民衆主権もすべて「群衆の時代」の現れであり、それらには、「群衆の心理」が貫かれているのだ。

そうした時代が頂点に登りつめた今、「群衆の状態と群衆の支配は野蛮状態への復帰を意味する」というル・ボンの診断にもう少しまじめに耳を傾けても良いのではないか。

西部邁『思想の英雄たち』

この逆説に気づくことこそが私たち大衆にとって大事なのではないでしょうか。

ル・ボン – 今の令和ジャパンを生きる我々日本人が今こそ見直すべき知の巨人ではないでしょうか。
『群集心理』を読むのも良いですが、独特の西部節がプンプン臭ってくるこの『思想の英雄』のル・ボン評は本当におすすめです。

大山俊輔

PS:『群集心理』は漫画版もありますので、ぜひ、読んでみてくださいね。