今日あらゆるところに姿を見せ、ところかまわず自分の野蛮性を強制しているこの登場人物は、まさしく人類史が生んだ甘やかされた子供である。そしてこの甘やかされた子供は、遺産相続以外何もしない相続人なのである。ところでその遺産とは文明というか、快適さや安全性など要するに文明の便益である。
これは、贅沢が人間の中に生み出す幾多の奇形の一つである。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)
大山俊輔
私はあまりこのコロナ騒動に対して持論を投げかけることは避けてきました。
捉え方は人それぞれ。お客さまにもスタッフにも皆、捉え方は違う中頑張って仕事をしてくれていますし、お客さまもご来校いただいています。
そのような中ですが、現在、日本社会をみると概ねこのいずれかの議論に集約していると見受けられます。
・ コロナとは付き合っていくしかない。まずは経済を回さないとまずいだろう。
私も当初(2月〜4月)までは、経済へのダメージをある程度覚悟したロックダウンはやむを得ないと思っていましたが、ここまでデータが揃ってくると、現在は後者に傾きつつあります。
7月末時点の我が国の死者数は1000人程度。
まずは、亡くなられた方には本当にお悔やみ申し上げます。
一方で、前回のブログでも紹介したとおり、我が国では年間137万人の人々が死亡しています。人は数が多くなるとイメージがわかなくなってしまい、急に家計レベルでしか物事を見なくなります。
コロナ対策は三密ならぬ三見ぬで:ファクトフルなデータの見方とワイドショーとの付き合い方
でも、私たち日本人はずっとこの事実と付き合ってきました。
・ 毎年、肺炎で9万人の方が亡くなってきました。
・ 毎年、インフルエンザで確実に3000人以上が亡くなってきました。
・ 毎年、交通事故でも確実に3000人が亡くなってきました。
・ 毎年、自殺でも2万人以上が亡くなってきました。
・ 毎年、お正月のお餅でも1500人以上の老人が亡くなってきました。
この事実は今まですべての日本人が受け入れてきました。
そして、この事実とうまく付き合って国と社会は運営されてきたのです。
しかし、このコロナ騒動。
この流れが続けば以前私が懸念していたように経済苦からコロナの死者の数十倍の自殺者を生み出すことはほぼ確実になってきました。実際、1%の失業率増大で増える自殺者の数は年間2300人。失業が5%前後だった1990年代後半から2000年代は年間3万人(現在2万人)の自殺者がいました。つまり、当時、不景気とデフレにより10万人以上の現役世代の命が失われたのです。この数は、日本が国運を賭して戦った日露戦争の死者数を上回ります。私の周りでもすでに絶望してある種、達観してしまった方も数多くいます。
もはやコロナ犠牲者の定義を変える時期だ(犠牲者総数=「感染による犠牲者」と「経済苦による犠牲者=自殺者」)
もちろん、この状況を生み出した諸悪の根源はマスコミです。
そして、そのマスコミに毒された意見を我々大衆の意見として迎合してきた国政・地方自治の政治家達ですよ。
とはいえ、私たち民衆にも大いに責任があります。
出典:http://www.garbagenews.net/archives/1102258.html
この図でもわかるように我が国のマスコミへの信頼度(?)は世界トップレベル。
軽減税率を勝ち取りたいから、消費増税を煽ろうが、コロナ騒動でもいい加減なコメンテーターを出して経済を破壊しようが許されてしまうやりたい放題の状況です。
これでは、フェイクニュースをマスコミが垂れ流すのは許されざることですが、騙される側にも責任があるのではないでしょうか。
自分で一次ソースから情報を取得すれば、客観的に状況を把握することはできるのですから。
それを怠って安易にテレビのボタンを押した時点でアウトです。
実際、80年前に私たち日本人はマスコミとその意見に踊らされて激昂し、政治家や官僚とともにあの大戦争を仕掛けてしまいました。そして、明治の元勲が亡国寸前の状況からわずか60年で作り上げた偉大な国を一度滅ぼしているのです(この明治維新自体も昨今では見直しが進んでいますが一旦このように解釈しておきます。)。そして、また、私たちは同じ過ちを犯す手前の地点にいます。しかも、相手はたかがコロナです。米国やソ連といった超大国じゃないですよ。
ここで思い出したのがこのエントリのタイトルでも登場する「慢心しきったお坊ちゃん」(Spoiled Children)という概念です。私の大好きなスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが命名した近代に生きる我々のある側面を名付ける時に使った言葉です。
今の一億総思考停止状態はまさに文明の毒。
オルテガの懸念はまさに令和日本で実現されたと言えるでしょう。
目次
オルテガの『大衆の反逆』と「慢心しきったお坊ちゃん」について
オルテガはその書『大衆の反逆』を1929年に発行しました。
実は起業家必見!?ホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』は生き方の指南書 – 要約・まとめ
時は、第一次大戦が終わり世界がつかの間の平和を楽しんでいた時期。
そして、この年にはウォール街の株価が暴落(ブラックチューズデー)。世界大恐慌が始まる年でもあります。
実に1800年代後半から1900年代初頭にかけて数多くの発明、科学的発見、そして、諸制度の改善がありました。電気が本格的に普及し、自動車が一般家庭に行き渡るようになりました。人々は冬は暖を取り夏は冷を楽しむようになりました。今まで旅することもできなかった遠隔地までバケーションをするようになりました。抗生物質の発明により、乳幼児の死亡率は激減し平均寿命はこの時期に大きく伸びました。第一次大戦を通じて、社会保障制度が導入され老後の心配をすることがなくなりました。まさに、古代の王侯貴族ができなかったような生活を一般庶民が楽しむ時代が到来したのです。
かつては、ごく普通に生まれて老齢まで健康的に生きられること自体が感謝すべき奇跡的偶然であったこと。その感謝すべき奇跡が生得的権利として主張するものことに変わった瞬間です。
オルテガ・イ・ガセット
一方で、オルテガはこの状況に対して警告をしました。
「慢心しきったお坊ちゃん」の概念はこの時代的背景を元に提示されています。
十九世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまうのである。これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。
人間の生がとりうる最も矛盾した形態は「慢心しきったお坊ちゃん」という形である。だからこそ、そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には、警鐘をならし、生が衰退の危機に瀕していること、つまり、死の一歩手前にあることを知らさなければならないのである。
つまり、今、自分が享受している文明の恩恵や社会制度的利便というものは当たり前のものではないこと。過去の先人たちの努力の積み重ねによるものであって、それを相続し維持する責任が近代人にはあるという自覚を失ってしまうことに対して警告をしていたのです。
同じ時代に2つの世界に生きる異なる生
今回のコロナ騒動では物事の捉え方が完全にわかれました。
片やすべての経済活動を止めろと強行的に主張する人たち。
そして、もう方や、うまくコロナと付き合いながら経済を回していこうという人たち。
確かに3月~4月にかけては世界的にも状況が日々刻々と変わりある程度極端な主張もやむを得ない時期もあったでしょう。しかし、今、この時点では十分にデータも集まってきました。
どの程度の確率で感染し(PCR陽性ではなく症状が出るという意味ですよ)重症化するか。
そして、その重症化した人のどの程度の方に生命の危険があるのか。
また、どの年代、基礎疾患のある人が注意する必要があるのか。
こうしたデータが蓄積されて、冷静な対処ができるステージなっています。
幸い、我が国では死亡率は他の国と比べても本当にラッキーな状況。つまり、バランスを取った感染症対策と経済の稼働を可能とできる恵まれた状況にあります。もう、指定感染症から外して他の感染症と並列して良い時期になっています。
コロナ対策は三密ならぬ三見ぬで:ファクトフルなデータの見方とワイドショーとの付き合い方
しかし、残念ながら各自治体の首長は一部の極端な声に押されてここで経済にとどめを刺す判断を取り始めています。経済にとどめを刺す、というと想像が働きにくいかもしれません。しかし、それはすなわち多くの人々が人生をかけて作り上げてきたものを潰して死刑宣告を言い渡すということと同義語です。残念ながら彼ら彼女らにその自覚は全くないですが。
ここで私が思うことは、このコロナ騒動の捉え方は2つの世界の異なる住民によって全く異なる眼鏡で見ているということです。
1つ目の世界の住民は自分で自分の人生を生きている人たち。
・ 自分が表現したい世界を表現するために個人で事業をしている人
・ 農業(漁業)が好きで農家(漁)をはじめた人
・ 自分のやりたいことをするために独立した人
もう1つの世界はある程度組織に属して守られてる人や引退して制度に守られている人たち。
・ 毎月、月末に必ず給料が振り込まれている公務員(約300万人)
・ 同じく毎月、月末に必ず給料が振り込まれる(と思っている)大企業の人たち(約1500万人)
前者はオルテガの世界観で言えば、近代が登場する前からいた人たちと同じ世界に生きています。つまり、生きるということは様々な偶然の恩恵であり、つねに、死と隣合わせであることを望むと望まざるに拘わらず自覚して生きている人々です。つまり、このコロナ騒動が起きる前から常に死(現代で言うと社会的死を含む)を自覚している人々といえるでしょう。私自身も起業した時点で、失敗して社会的死を迎える可能性があることを日々感じながら、今日も無事1日が終わることに感謝してこの15年生きてきました。
こういう生き方をしているとコロナというものは自分を取り巻く様々なリスクの1つとして相対化して付き合おうという態度になります。つまり、突然の交通事故、予期せぬ病気、そして、事業が失敗して社会的死を受け入れるといった様々なリスクと並列化、相対化して付き合おうと受け入れます。この態度は私が知る方の大部分に当てはまります。
一方で、今の時点でコロナ以外のリスクがないと思える人々はどのような人々でしょう。
おそらく、毎月当たり前のようにお金の心配をしないでも振り込まれている方、すなわち、老衰による死以外に死というものを考えてくる必要がなかった人たちではないでしょうか?もちろん、人によっては前者と後者の中間的立場に存在する方もいることでしょう。
この近代的文明の恩恵をフルで享受するというのはどういうことでしょう?
オルテガはこのように述べています。
平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまうのである。これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)
まさに、文明の毒とも呼べる心境でありますが自分が属する共同体や文明というものを当事者としてでなく生得的な権利であると捉える心境に陥ると人生においてリスクというものは存在しない-すなわちゼロリスク神話-を信奉するようになります。
こうなると今回降って湧いたコロナの存在は自分の中において絶対的な唯一の、すなわち相対する対象のないリスクとなります。つまり、この唯一の(ホントはそうではないが)リスクを避けることが出来るのであればありとあらゆるものを破壊しても問題ないという態度になります。それが、先人の苦悩や努力の結集であったり多くの人々の人生の総仕上げであるということを自覚せず・・・。甘ったれた子供が先代が残した財産をあっという間に使い果たしてしまう態度と同じです。
残念ながら今回のコロナ騒動で最もダメージを受けたのは最初のグループ。
なぜなら、独立して生きるということは常にこういうリスクと向き合わせの人生でもあるからであり、このコロナへの社会全体の過剰反応により真っ先に影響を受けるからです。つまり、同じ世界に生きていてもこの近代的諸制度の恩恵を受けている層と、その枠外で生きている人が存在するという事実を否が応でも顕在化させたのです。
もちろん、このコロナウィルスがドーン・オブ・ザ・デッドのように人類をゾンビ化させて滅ぼすようなものだったらそこまで経済や人々の人生を破壊してでも活動を止めることに一定の合理性があるのかもしれません。しかし、コロナは数多くある他の既知のウィルスと並列できる存在であり、今まで、これ以上のウィルスともうまく人類の諸先輩は付き合ってきました。
コロナ騒動と慢心しきったお坊ちゃん
ところで、十九世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまうのである。
これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。人間の生がとりうる最も矛盾した形態は「慢心しきったお坊ちゃん」という形である。だからこそ、そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には、警鐘をならし、生が衰退の危機に瀕していること、つまり、死の一歩手前にあることを知らさなければならないのである。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)
では、なぜここまで極端な政策を多数派が支持してしまうのでしょうか。
これは、日本だけではなく諸外国(特に欧米諸国)で同じ傾向が見受けられますが、被害の少なく冷静な対処が可能であるはずの日本において極端な形で顕著に発現されました。
私には上記のオルテガの言葉が非常に耳に痛く感じます。
すなわち、今の文明的な生活は私たちの努力ではなく先人の膨大な犠牲の上に成り立っているという感謝の気持ちが欠如しているということ。自分がその先人の遺産を相続し維持する責任があるということを自覚していないこと。1つ1つのお店にはその創業者の夢と人生が詰まっていて、一度なくしてしまえばもう戻ってこないという事実を無視してしまうこと。そして、一方で、自分自身は過去の先人の努力の相続人でしかないにもかかわらず、自分自身の主張は正当であり他の意見には耳を傾ける必要がないという慢心。
また、オルテガは「慢心しきったお坊ちゃん」の特性をこのように記述しています。
この自己満足の結果、大衆人は、外部からの一切の示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、自分以外の人の存在を考慮に入れようとしなくなる。大衆人はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮も無しに、「直接行動」の方法に従って強行しようとする。
こうした行動や態度は、「甘やかされた子供」と反逆的未開人、つまり、野蛮人に似たある種の不完全な人間のあり方を想起させる。 正常な野蛮人は、彼らより上位にある審判、つまり宗教、タブー、社会的伝統、習慣など、に従順な者である。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)
人々が行なっている唯一の努力は、自己の運命から逃れ、運命の明白さと深い呼びかけに対して目と耳をふさぎ、自分がこうあらねばならない姿との対決を回避することである。人々はユーモラスに生きており、彼らがかぶっている仮面が悲劇的であればあるほどその傾向は強くなる。人間が余すところなく完全に自己を投げ出すことをせず、中途半端な態度で生きるかぎり、それはつねに笑劇となる。
大衆人は、自分の運命という確固不動の大地に足をふまえようとはせず、どちらかといえば、宙に浮いた虚構の生を営んでいるのである。文明の寄食者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ。
(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)
まさにオルテガが警告した「慢心しきったお坊ちゃん」が多数派となることで今の日本は自ら経済的破滅に向かっているのです。さらに、このコロナ騒動に対して「慢心しきったお坊ちゃん」が1つ忘れていることがあります。
・ そして、その多くは現役世代であり年金制度や健康保険制度を支えてる人たちであること。
・ 今は自分に被害はないと思っているが、いずれ巡り巡ってすべての人が被害者になること。
・ そして、一度破壊してしまうと元に戻すのにはその何十倍もの時間とお金と人々のリソースを必要とすること。
つまり、どのようなリスクを取りどのような人生を選んだとしても実は巡り巡って同じ国家で生活する国民は一蓮托生であること。国家とはすなわち「国」の「家」です。「国」の「家」たる国家とそれを支える経済が崩壊すれば、最終的には全員が被害者となるという事実です。皆が実は当事者なんです。守られてると思ってる高齢者だって、現役世代がすべて失業すれば誰も守れなくなります。自分の会社は大丈夫と思ってる大企業のサラリーマンだって、中小・ベンチャー企業が倒産して失業者が増えれば自社に影響がでていずれは自分自身も失業者になるんです。しかし、多くの人がそのことを自覚しない、あるいは、オルテガの言うように見て見ぬ振りをして他人事を決め込んでしまうのが大多数であるのが今の状況です。
このことに多くの日本人が気づけばいち早くこの馬鹿騒ぎから脱して日常に戻れることでしょう。
しかし、残念ながら今影響が出ていない人たちにも影響がでるまでおそらくこの状況は続くでしょう。すなわち年金世代の子供や孫が失業したり就職できなくなるか、年金が減らされるような状況。あるいは、大企業の中で破綻する会社が出てきてサラリーマンに影響が出て自分が当事者であることに気づく人が多数派になるまでこの状況は続くのです。
これはすなわち先の大戦でも当てはまります。
本来ならサイパン陥落の時点で本土空襲は確定し敗北も確定していました。
しかし、実際にはこの後、硫黄島、沖縄の悲劇、そして、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下により数十万人の犠牲を生み出してもうどうしようもなくなるところまで日本はこの状況を続けてしまいました。本来、すべての人たちが他者に対する思いやり、そして、近代の文明を相続していてそれを発展し次の世代にバトンタッチする自覚があればもっと早い状況で冷静に対処できているのです。しかし、そうはなりませんでした。
私にはこのオルテガの書籍が令和日本への警告のように感じます。
もう一つの解決策 – 大戦時の日本人が選んだ消極的解決策
私が考える日本や世界にとってのベストな解決策はこのコロナ騒動を通じてひとりひとりの個人が独立することです。
まさに、福沢諭吉の言うところの「一身独立して一国独立す」の気概です。
今、1日1日を一生懸命に生きて、この世に生まれた偶然に感謝し、そして、自分自身と誠心誠意対峙し生きている間に自分のしたいことを実現していく。そんな人生を追求する人が多数派になれば、こんなレベルの騒動は人生のさまざまなリスクの小さな部品に過ぎないと冷静に受け止めてあっという間に収束することでしょう。しかし、オルテガが指摘するまでもなくこの数十年に渡って私たちを蝕んできた近代の病からいきなり私たちが覚醒し変わることは難しいでしょう。
となると、もう1つだけ解決策があります。
非常に消極的な方法であり、本質的な解決策ではありません。
更に、この解決策は状況が大崩壊まで悪化したときに使われる解決策でもあります。
その方法は実際、かつて先の大戦後に日本人が選んだ方法でもあります。
それは、戦犯というスケープゴートにすべてを押し付けて大多数の人たちは仮想の被害者になるという解決方法です。
かつての大戦では私たちはメディアに踊らされ国が一丸となってあの戦いをはじめました。
あの戦いで日本が行ったことすべてを肯定することも否定することも私はありません。是々非々です。しかしながら、アジア各国を植民地化し奴隷のように扱ってきた欧米列強に上から目線で指導される筋合いは今も昔もありません。
しかし、明治の元勲とあの時代の日本人が死にものぐるいで勝ち取った日本の独立(植民地化回避)と五大国の地位を全部ぶち壊してやり直す羽目になったことは事実です。すべては、国民がマスコミの扇動に乗り、そして、政治家や官僚もその流れに乗ることで破滅へ向かいました。つまり、本来はすべての日本国民が責任者だったのです。しかし、敗戦の絶望下で「自分も当事者である」という辛い現実を受け入れることは厳しいものです。7000万人の国民が飢えと餓死の寸前にある中、日本撤収後の中国大陸は共産化し日本の速やかな復興が日本人にも占領国たるアメリカにも必要となりました。このような時期には、反省会をする時間も余力もありません。そこで、「軍部や一部の政治家をGHQとともに「戦犯」として祭り上げることで、自分たちは被害者であるというストーリー」を構築してだましだまし戦後を終え、その間に奇跡の復興を果たした、というのが精神的な側面から見た日本の戦後史の一面でもあったのでしょう。
伊丹万作は冷静に『戦争責任者の問題』というエッセイでこう書いています。
だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。(伊丹万作『戦争責任者の問題』)
我々一般人が当事者ではなく被害者というストーリーを選ぶということは、言い換えれば、民主主義の否定であり個人の独立の否定でもあります。だから消極的解決策と書いたのです。実際、この安易な道を選んだことこそが、我々日本人の精神薄弱を令和に至るまで続けた遠因でもあり、今回のコロナ騒動を冷静に対処せず自らの自傷的・破壊的結末を招いてしまったのです。
昭和史の『失敗の本質』と今回のコロナ騒動
今度はできれば日本人ひとりひとりが積極的な当事者としての自覚を持ってこの騒動から抜け出ることを切に願います。
大山俊輔
PS:伊丹万作の『戦争責任者の問題』について下記の記事を書きました。
あわせてお読みください。
「今こそ伊丹万作の『戦争責任者の問題』をすべての日本人が読むべき時」
今こそ伊丹万作の『戦争責任者の問題』をすべての日本人が読むべき時