『イェルサレムのアイヒマン』を読もうと考えている人
- 『イェルサレムのアイヒマン』って難しそう…
- 著者のハンナ・アーレントってどんな人だろう?
- 話のスケールが大きすぎて、自分たちにどんな関係があるのかがわからない
哲学者のハンナ・アーレントが1963年に発表した『イェルサレム(エルサレム)のアイヒマン ―悪の陳腐さについての報告-』。
大山俊輔
『エルサレムのアイヒマン』は非常に長い本で、50年以上前に書かれたものです。何か難しそう・・・。そんな印象を持つ方が多いのも無理はありません。そして、実際に一度手に取って読み始めても、最後まで読み終えるには切るにはかなり根気のいる作品です。
しかし、『エルサレムのアイヒマン』の内容は、現代を生きる私たちに深く関係しています。特に、副題にもある「悪の陳腐さ」というところに、今に生きる私たちが深く自己考察をするきっかけをあたえてくれるのが本著です。この記事では、そんな『イェルサレムのアイヒマン』を読んだことがない人でも理解できるように分かりやすく解説していきます!
目次
著者のハンナ・アーレントとは
ハンナ・アーレント
『イェルサレムのアイヒマン』は、ドイツ出身の女性哲学者ハンナ・アーレントによって、1963年に発表されました。まずは著者であるハンナ・アーレントについて紹介します。
ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレント
ハンナ・アーレントは1906年、ドイツでユダヤ人の両親のもとに生まれました。彼女はドイツの大学で哲学を研究していましたが、ナチスが政権を掌握した1933年にフランス・パリへ亡命。さらに1941年にはアメリカに亡命し、この地で学者・哲学者としての本格的な活動を始めました。
『全体主義の起源』(1951)や『人間の条件』(1958)など、彼女の代表的な著作のほとんどはアメリカで執筆されたものです。
『イェルサレムのアイヒマン』の執筆
1961年イスラエルで、ナチス・ドイツにおいてユダヤ人の移送を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
雑誌「ザ・ニューヨーカー」の依頼を受けたアーレントは裁判を傍聴し、1963年に『イェルサレムのアイヒマン』を発表します。すると、この論考は発表直後から大論争を巻き起こし、アーレントはユダヤ人社会から激しい非難を浴びせられました。
アイヒマンと「悪の陳腐さ」について
なぜ、自身もユダヤ人であるアーレントは同胞であるユダヤ人から非難されたのでしょうか?ここからは、『イェルサレムのアイヒマン』の内容について詳しく見ていきます。
ホロコーストの立役者アドルフ・アイヒマン
アドルフ・アイヒマン
『イェルサレムのアイヒマン』は、アドルフ・アイヒマンという人物に対して行われた裁判の傍聴記録です。
アイヒマンは、600万人とも言われるユダヤ人がナチス・ドイツに虐殺されたホロコーストにおいて、ユダヤ人移送の責任者だった人物です。第2次世界大戦後は逃亡していましたが、1960年に逃亡先のアルゼンチンで非合法的に捕らえられ、翌年イスラエルで裁判にかけられました。
ハンナ・アーレントは法廷でのアイヒマンを次のように描写しました。
- 組織内での出世を第一に考える官僚主義に支配されている
- 法廷で同じ言葉を何度も繰り返し、想像力が完全に欠如している
- ユダヤ人に対する憎悪をもっていない
- 精神医学者の鑑定結果は「きわめて正常」であった
法廷で初めてアイヒマンを見たとき、関係者は驚いたといいます。数百万人のユダヤ人虐殺に関わった「極悪人」のイメージとはかけ離れた、平凡で気弱そうな男だったからです。
アイヒマンは、自分は組織の命令に従い自らの職務を忠実に実行しただけだと主張しました。裁判を傍聴したアーレントは、実はアイヒマンはどこにでもいる普通の小役人に過ぎなかったのではないか?と考えました。
想像力と罪悪感の欠如
アイヒマンは、ナチス上層部がユダヤ人虐殺の方針を正式に決定したときも「罪悪感をまったく覚えなかった」と法廷で語りました。もし罪悪感を覚えるとすれば、それはユダヤ人の移送という自らに与えられた職務を全うできなかった場合だけだっただろうと。
ナチス・ドイツにおいては虐殺こそが“合法”だったのであり、アイヒマンは組織の命令や法律に忠実に従っただけであって、それによって引き起こされるユダヤ人虐殺については何ら罪の意識を感じていなかったのです。
「悪の陳腐さ」について
この本の副題にもあるように、アーレントはこれを「悪の陳腐さ(the Banality of Evil)」という言葉で表現しました。
「陳腐さ」は、「ありふれたもの」「凡庸さ」と言い換えることもできます。
アーレントによれば、人類史上でも類を見ないホロコーストという残虐行為は、私たちが想像するような「巨悪」によってなされたのではなく、ナチスの一員として自らの職務に徹した小役人によって引き起こされたのです。つまり、巨大な悪事は、自らの思考を停止し自らが帰属するシステムにとっての正義を忠実に実行する「凡庸な人間」によって行われるということです。
アーレントは、自分の頭で考えることをやめてしまった人間は誰でもアイヒマンのようになる可能性があると主張しました。
アーレントによるユダヤ人批判
『イェルサレムのアイヒマン』を発表したことで、アーレントはユダヤ人社会からの激しいバッシングにさらされました。その理由は主に2つあります。
- アイヒマンを「凡庸な悪」として描き、それまでのイメージを覆したこと
- ホロコーストにおけるユダヤ人協力者を批判したこと
アイヒマン裁判の目的とは
アーレントが非難された1つ目の理由は、それまで人々が描いていたアイヒマンに対するイメージを根底から覆したことです。これは、このアイヒマン裁判が何のために、誰のために行われたのか、ということと深く関係しています。
アイヒマン裁判が行われたイスラエルは、パレスチナへのユダヤ人国家再建を目指す「シオニズム運動」によって、第2次世界大戦後の1948年に建国された国家です。アイヒマンは逃亡先のアルゼンチンで、このイスラエルの情報機関「モサド」によって非合法的に捕らえられ、イスラエルに連行されて裁判にかけられたのです。
ユダヤ人社会にとってこの裁判は、数百万人の同胞を虐殺したアイヒマンを「自らの手で裁く」ためのものでした。アーレントが暴いたアイヒマンの「凡庸な悪」のイメージは、ホロコーストの象徴ともいうべきアイヒマンを裁判によって制裁する、という目的を持ったユダヤ人社会にとって不都合なものだったのです。
ユダヤ人協力者の存在
アーレントがバッシングを受けた2つ目の理由は、ホロコーストにおけるユダヤ人協力者を批判したことです。
ホロコーストにおいて、ナチスに協力してユダヤ人の拘束や移送に手を貸したユダヤ人がいました。ナチスは各地のユダヤ人居住区に「ユダヤ人評議会」という自治組織を設置し、ユダヤ人の刈り込みや移送における選定など、ユダヤ人によるユダヤ人の管理を行いました。ナチスに協力したユダヤ人の中には、自分の身内や知り合いなどを「生き残り」として選定して強制収容所へ移送されないようにするなど、その立場を利用した者も数多く存在しました。
アーレントは、このようなユダヤ人協力者がいなければホロコーストもありえなかったとして、それまで「絶対的被害者」として扱われてきたユダヤ人に対しても批判の矛先を向けたのです。アーレントによる指摘は、ナチスによって甚大な被害を受けたユダヤ人の傷に塩を塗る行為として受け止められ、各方面から多くの反発が噴き上がりました。
しかし、自身もユダヤ人であるアーレントは、そのような反発があることは当然想定しながら、それでも真実を追求するという姿勢を貫いたのです。ユダヤ人社会というシステムに埋没し、真実を明らかにするという自らの役割を果たせなくなってしまわないように。アーレントは自分自身が「凡庸な悪」へと成り下がってしまうことに抗い、実践をもって示したとも言えるのです。
アイヒマンの最期-「人種に対する罪」
アドルフ・アイヒマンの裁判
裁判の結果、アイヒマンは死刑判決を受けました。
アーレントは、アイヒマンに対する死刑判決がユダヤ人社会による報復的な判決であるとして批判しました。その上で、アイヒマンが問われるべき罪は「人種に対する罪」であるべきだと訴えます。
アーレントによると「人種に対する罪」とは、ユダヤ人などの民族や人種全体を排除・せん滅させようとする罪であり、国際秩序や人類全体に重大な損害を与えるものです。誰もそのようなことを行う権利は持たないのであり、それを行う者は他の人間と共存することはできない。
よって、アイヒマンはその理由においてのみ死刑になるべきだったと主張しました。
『イェルサレムのアイヒマン』が現在の私たちに訴えるもの
アイヒマンはあなた
これまで見てきたように、アイヒマン裁判を通してアーレントは、ホロコーストのような巨大な悪事が平凡な人間によってもたらされるということを明らかにしました。
「悪の陳腐さ」という言葉で表現されるこのことは、「誰であれ、アイヒマンの立場にあれば同じことをする可能性がある」
ということを示唆しています。
言い換えると、「アイヒマンのような立場に立ったとき、あなたは同じことをしないのか?」という問いかけでもあります。ホロコーストという人類史上でも類を見ない残虐な犯罪行為と、私たちの日常生活は、「誰もがアイヒマンになりうる」という点でつながっているのです。
私たちは会社や学校など、さまざまなシステムの中で日常生活を営んでいます。
しかし、所属する組織やシステムの中で“正しい”とされていることが、その枠組みの外の世界でも正しいとは限りません。組織を構成する人々が、自分の頭で考えることをやめてシステムに無批判に従うとき、組織は暴走する可能性があります。自分がいつでも「凡庸な悪」になる可能性を認識し、自らが帰属するシステムを常に疑い続ける必要性をアーレントは訴えているのです。
現代にもはびこる「凡庸な悪」
アーレントが指摘した「悪の陳腐さ」は、現代における様々な事象でも見受けられます。
この本を読んで私がまず思い浮かべたのは、オウム真理教による事件でした。一連の凶悪な事件を目の当たりにした私たちは「巨悪」としてのオウム真理教をイメージしましたが、その内実は、高学歴ではあるものの能動的な憎悪や悪意を持たない「普通の人」である信者たちが、自らの頭で考えることをやめ、外の世界に対する想像力を放棄することで行われた犯罪行為でした。その姿は、アイヒマンと重なるところがあります。
「組織的犯罪」と呼ばれる犯罪行為においては、その組織が積極的な悪意を持たない「普通の人々」によって構成されていることが多々あります。
私たちが統制・管理されたシステムの中で生きざるをえない現代社会で、「悪の陳腐さ」はすべての人に関わる問題なのです。
こんな人に読んでほしい
あらゆる組織人はこの『イェルサレムのアイヒマン』を読んでほしいと思います。
アーレントが同胞のユダヤ人に裏切り者扱いされながらも真実を追求する姿勢を貫いたのは、ユダヤ人社会を攻撃したかったからではありません。二度とホロコーストのような悲劇を生まないためにあの時何が起こったかを明らかにする必要があったからです。
現代の私たちの社会では、何か問題が起こると一人の「悪者」に責任を集中させ、それを制裁することで人々が留飲を下げるという風潮があります。さらに様々なメディアによってその風潮は発信され助長されます。しかし、そのことによって問題の本質は明らかにならず覆い隠されてしまいます。
大事なことは、なぜ、「なぜこのようなことが起きたのか」を理解することです。その前提に立った上で、「何が起こったのか」を徹底的に調べその本質を追求して、二度と同じようなことが起こらないためにひとりひとりの人間が自立する必要があるのです。
メディアに携わる人間が自分の頭で考えることをやめ、会社や現場の「ルール」に無批判に従うとき、再び同じような被害者を生むことになります。あなたが“現代のアイヒマン”にならないために、この本を読むことをおすすめします。
まとめ
- 『イェルサレムのアイヒマン』は、ホロコーストに深く関わったアドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記録。
- 著者のハンナ・アーレントは、アイヒマンが巨悪ではなく組織に従順な小役人に過ぎなかったと考え、それを「悪の陳腐さ」と呼んだ。
- ホロコーストにおけるユダヤ人協力者を批判したアーレントは、ユダヤ人社会から激しいバッシングを受けた。
- 「悪の陳腐さ」の問題は現代の私たちにも重要な問題であり、誰もがアイヒマンのようになりうる。
『イェルサレムのアイヒマン』の中で描かれていることは、遠い場所で遠い昔に起こった出来事ではなく、今を生きる私たちにも深く関わっています。興味を持たれた方は、ぜひ本を手に取ってご自分で読んでみてくださいね。
大山俊輔