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ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!

ポエニ戦争という戦いをご存知でしょうか?

古代西地中海世界はアフリカ側のチャンピオン・カルタゴとヨーロッパ側のチャンピオンのローマが雌雄を決する戦いです。両者の戦いは1度では決着せず、実に3度にわたり血みどろの戦いを繰り広げました。

歴史のことを調べてる人

  • ポエニ戦争について知りたい
  • 第一次、第二次ポエニ戦争を具体的に知りたい
  • ハンニバルってどんな人?
  • ポエニ戦争を扱った映画、漫画、本を知りたい

大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、6歳の頃には世界史オタクに。今も、知り合いと雑談すればハンニバルの名前が出ないことがないほどのポエニ戦争、ハンニバル好き。毎年8月2日はカンナエの戦勝記念日を一人祝ってます(笑)。

この記事では「ポエニ戦争とは!?」をテーマに世界史が苦手だった方でも、地図を使いながら地理関係を把握しつつ、わかりやすく時系列で戦いの経過を理解できるよう、解説をしていきたいと思います。

ポエニ戦争とは

第二次ポエニ戦争の地図
第二次ポエニ戦争の地図

まず、ざくっと地理関係を見ながらポエニ戦争を理解していくことにしましょう

上記の地図は第二次ポエニ戦争時の地図となります。

時代は紀元前3世紀、西地中海世界に2つの超大国がありました。
1つ目の国は今のイタリア半島を中心とした共和政ローマ(Roman Republic)。そして、2つ目の国は今の北アフリカはチュニジアを中心としたカルタゴ(Carthage)です。

ローマはエトルリア人の王を追放し(紀元前509年)共和制に移行。
イタリア半島中部・南部を中心に勢力を拡大していました。

一方で、カルタゴは海洋商業民族フェニキア人の植民都市から発展した国で、北アフリカ、スペイン、サルディーニャ・コルシカの両島を支配するなど、勢力を拡大していました。

大山俊輔

ちなみに、ポエニ戦争は英語は”Punic wars”といいますが、これはカルタゴの主たる構成民族であるフェニキア人(Phoenici:ポエニキ)から来ています。

両国は同じ時期に大国化していきますが、残念ながら両国にとって地中海は狭すぎました。
ポエニ戦争とは、この両国が地中海(西地中海)の覇権をめぐり3度に渡って行われた戦争のことです。

戦争は、紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸をキッカケとする第一次ポエニ戦争の開始から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度に渡り行われてきました。

それでは、ここから先は第一次、第二次、第三次ポエニ戦争を1つずつ見ていくことにしましょう。

第一次ポエニ戦争とは? | シチリアを巡る戦争

第一次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第一次ポエニ戦争時のローマおよびカルタゴの領土
(出典:https://en.wikipedia.org/)

紀元前264年から紀元前241年の戦いを第一次ポエニ戦争とよびます。

第一次ポエニ戦争の原因はシチリア島の領有

第一次ポエニ戦争時のシチリア島

第一次ポエニ戦争のキッカケは、シチリア島です。
一番上の地図を見てみてください。下の紫色がカルタゴ領で、上のローマを中心とした赤色がローマ領です。

ちょうど、その間にあるのがシチリア島。

まさに、シチリア島はヨーロッパと北アフリカの間に位置する島で、両国にとって非常に重要でした。特にシチリア島は現在もそうですが、穀倉地帯として拡大していく人口を支えていく上で非常に重要な島です。

続いて、シチリア島の地図を拡大してみたのが上記の地図です。
当時、シチリア島の西半分はカルタゴ領で、東にはシラクサというギリシャ系の植民都市がありました。

戦争のきっかけとなったのは北東(右上)にあるメッシーナという街です。

このメッシーナはかつてシラクサに属していたのですが、カンパニア人の傭兵マメルティに占領されていました。シラクサを支配するヒエロン2世は、奪還すべく攻撃しますが、それに対して、マメルティにはローマとカルタゴ双方に援軍を求めます。これに対して、両国が派兵したことがポエニ戦争のキッカケです。

大山俊輔

日清戦争のキッカケも、李氏朝鮮における東学党の乱をキッカケに日清両国が派兵したことからはじまりました。いつの時代も大国に挟まれた緩衝国は大変です。

戦争の経過

シチリアでの対峙

カルタゴ、ローマ双方がマメルティニに出兵した中、両軍は対峙することになります。

マメルティニはローマとも同盟を結んで、カルタゴを追い出したもののカルタゴも援軍を出したのに追い出されたのでは引くに引けません。こうして、カルタゴとシラクサが組んで、ローマ軍と対峙しますがこれに対してローマが勝利します(ローマとシラクサはここで和議を結びます)。

海戦

カラス装置
カラス装置とローマの三段櫂船

一方、戦いはシチリア島での戦いから地中海での戦いに転じます。

従来、カルタゴの構成民族であるフェニキア人は海洋商業民族。
船の操舵術に関してはローマより上です。

そこで、ローマは一計を講じて、コルウスと呼ばれるカラス装置を使った三段櫂船を作り出します。当時の海上戦といえば、船同士のぶつけ合いによる戦いでしたが、これは操舵術の高いカルタゴ優位です。

しかし、このカラス装置をつけた三段櫂船は敵船まで近づいた後は、カラス装置をつけて相手船に乗り込んで戦います。つまり、従来の海上戦にローマ得意の白兵戦を持ち込むことでローマ優位に海戦を行うことに成功したのです。

アフリカ上陸戦

閲兵し兵を鼓舞するクサンティッポス閲兵し兵を鼓舞するクサンティッポス

シチリアでの戦い、そして、海戦で勝利したローマは余勢をかってアフリカへ上陸しカルタゴ攻略に乗り出します。

しかし、ここでカルタゴはスパルタの傭兵隊長クサンティッポスに兵を預けてローマを迎え撃ちます。
このチュニスの戦い(紀元前255年)ではカルタゴが大勝し、ローマ軍は戦死12,000、捕虜500という大損害に対してカルタゴ軍は800のみの損害でした。更に、ローマ軍の指揮官レグルス自身も捕虜となります。

そして、更に追い打ちされるように、ローマは撤退する最中に海難事故で帰還中の兵の大半を失います。

シチリアの戦いとカルタゴ国内の政争

チュニスの戦いで勢いを得たカルタゴはシチリアを奪還すべく動きます。

名将ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)に率いられたカルタゴ軍は勝利を重ねシチリア島ほぼ全土を攻略します。しかし、同じ頃、カルタゴ本国ではハンノという政治家が権力を握り、政敵でもあるハミルカルの足を引っ張ります。なんと、戦時中となる紀元前244年にカルタゴ海軍を解体という謎の決定を下します。その間に海軍を再建したローマにアエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年3月10日)で敗北するキッカケを与えます。

シチリアで勝利を重ねていたハミルカルは陸の孤島に追いやられ補給がないなか降伏します。

第一次ポエニ戦争は終了しました(紀元前241年)。

戦後について

こうして、両国は戦争を終了し講話します。講和条件には下記のようなものがありました。

  • カルタゴのシチリアからの撤退
  • 賠償金の支払い
  • ローマと同盟したシラクサとの戦争禁止
  • 同盟国の攻撃禁止および相手領土内で軍隊を組織しない

戦争は集結しましたが戦後、カルタゴでは傭兵たちへの報酬の支払いを拒否したため反乱が起きて大混乱になります。ローマはこのすきに乗じて、カルタゴ領であったサルディーニャ、コルシカ両島も領有することに成功します。

第二次ポエニ戦争とは? | ハンニバル戦争

第二次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第二次ポエニ戦争時のローマおよびカルタゴの領土
(出典:https://en.wikipedia.org/)

さて、第一次ポエニ戦争でシチリアを失ったカルタゴは、前述の通り戦後の傭兵の反乱のすきにサルディーニャ島とコルシカ島をも失いました。

北アフリカに閉じ込められたカルタゴは活路をイベリア半島に見出します。第一次ポエニ戦争の英雄、ハミルカル・バルカは見事にイベリアを占領、開拓しカルタゴにとって重要な植民地としました。

こうして、地図を見てみるとカルタゴはイベリア半島の領有を拡大することで、むしろ第一次ポエニ戦争のときよりも領土が拡大していることが分かりますね。

この回復した国力を持ってカルタゴ軍を率いたのはハミルカルの息子ハンニバル。若干29歳、雷光とも呼ばれた孤高の名将です。このハンニバル・バルカがすすめた戦争が第二次ポエニ戦争です。一般的に、この経緯から第二次ポエニ戦争はハンニバル戦争とも言われます。

MEMO
ハンニバルの人物像について詳しく知りたい方は、「ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯」の記事もご参照くださいね。
ハンニバルのアルプス超え ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯

第二次ポエニ戦争の原因はカルタゴによるローマ同盟都市の攻撃

第二次ポエニ戦争の地図出典:http://jlogos.com/

第二次ポエニ戦争のキッカケはハンニバル軍によるサグントゥム(現在のサグント)攻撃です。

当時、ハンニバルは戦死した父ハミルカルの後を次いで、ヒスパニアにおけるカルタゴ軍の総指揮官となっていました。サグントゥムは、ローマの同盟都市でイベリア半島(スペイン)にあります。地図を見てみれば、ローマ本国からは遠くむしろバルカ家の統治するイベリア半島内にある都市であることが分かります。

ハンニバルからすれば、「うちの領内にある都市だろ」ということですが、ローマからすれば大事な同盟都市です。同盟都市との連携こそが国家の礎であったローマはその窮地を見放すわけにはいきません。

ローマはこれを前回の第一次ポエニ戦争の和約違反として宣戦布告します。

戦争の経過

ハンニバルのアルプス越えアルプスを越えるハンニバル軍

アルプス越え

まず、サグントゥムを降伏させたハンニバル軍はピレネー山脈を越えてガリア(現在のフランス)に侵入します。

一般的にローマに攻め込むには陸路海岸線を伝って攻め込むか、海路直接攻め込むしかありません。しかし、それは第一次ポエニ戦争で制海権を失ってしまったカルタゴ軍にはできません。

多くの人には不可能と思えるなか、ハンニバルは第三の道を見出します。

これが有名なハンニバル軍のアルプス越えと呼ばれるキャンペーンです。兵の半分を失いながらも、2週間でアルプスを越えたハンニバル軍は北イタリアに侵入。ここからハンニバルの快進撃がはじまります。

ハンニバル軍 – 三大会戦で勝利

ハンニバル軍は、下記の3つの会戦でローマ軍に大勝します。

ティキヌスの戦い(紀元前218年)

プブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父)を撃破。

トレビアの戦い(紀元前218年)

ピアチェンツァ郊外でローマ軍を撃破。ローマは2万名以上の兵を失います。
これにより、ガリア人はカルタゴ軍に合流し一気に勢力が拡大。

MEMO
トレビアの戦いの詳細は、「トレビアの戦いを解説 – ローマ軍を壊滅させた名将ハンニバルの戦術」の記事もご参照くださいね。
トレビアの戦いを解説 - ローマ軍を壊滅させた名将ハンニバルの戦術 トレビアの戦いを解説 – ローマ軍を壊滅させた名将ハンニバルの戦術を解説

トラシメヌス湖畔の戦い(紀元前217年)

ガイウス・フラミニウス率いるローマ軍を再び撃破。ローマは指揮官フラミニウスはじめ15,000人が戦死。

MEMO
トラシメヌス湖畔の戦いの詳細は、「トラシメヌス湖畔の戦い – 一瞬にしてローマ軍が地上から蒸発した?鬼才ハンニバルの戦術を解説」の記事もご参照くださいね。
トラシメヌス湖畔の戦い - 一瞬にしてローマ軍が地上から蒸発した?鬼才ハンニバルの戦術を解説 トラシメヌス湖畔の戦い – 一瞬にしてローマ軍が地上から蒸発した?鬼才ハンニバルの戦術を解説

カンナエの戦い(紀元前216年)

カンナエの戦いとハンニバルカンナエの戦いとハンニバル

ローマは3つの会戦で多くの兵を失います。また、北部イタリアでローマと敵対していたガリア人が続々とカルタゴ軍に加入することで、ハンニバルはアルプス越えで失った兵力を回復させることに成功します。

ハンニバル軍は更に南下します。いよいよローマは亡国の危機に立ちます。

こうして、ローマはついに8万人近い兵士を動員しハンニバル軍を撃滅すべく出撃します。

これが有名な、カンナエの戦い(B.C.216年)です。

ハンニバル率いるカルタゴ軍はわずか5万人。
しかし、ハンニバルはその後2000年以上に渡り各国の軍人の間で語り継がれる用兵術により、少数の兵でローマ軍を包囲殲滅します。ローマが失った兵は6万名近くにのぼり、総大将の一人パウルス、そして、参戦していた80名以上の元老院議員も戦死します。これは、ローマの元老院の定数が300名であったことから、日本の国会議員で考えると4人に1人が戦死したということです。

MEMO
カンナエの戦いおよび第二次ポエニ戦争について詳しく理解したい方は、「カンナエの戦いを徹底解説 ー 戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲」の記事もご参照くださいね。
カンナエの戦いを徹底解説 ー【図解つき】戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲

ローマはいよいよ危急存亡の危機を迎えます。

戦争の膠着とローマの反撃

ファビウスとマルッケルス

カンナエの大勝によりハンニバルの名声は大いに高まります。

ハンニバルはこの戦勝を機に、ローマの同盟都市の切り崩しを狙います。カプア、シラクサなど一部の都市が、この誘いに呼応してローマから離反しますが、それ以外の都市は予想外にローマの勢力圏にとどまります。こうして、戦争は膠着します。

また、ハンニバルは弟のマゴをカルタゴ本国に派遣し本国から人材と物資の補給を要請しますが、残念ながらこれは失敗に終わりマゴはスペインに派遣されることになります。これは、ハンニバルの快進撃を快く思わない政敵の妨害であったと言われています。

方やローマは、しぶとく反撃に転じます。

徴兵年齢を下げ、また、牢屋に入っていた犯罪者までも兵士にすることで失った兵員を確保しハンニバル軍との徹底抗戦を行います。また、持久戦を主張していたローマの盾ファビウス・マクシムス、そして、ローマの剣と称されたマルクス・クラウディウス・マルケッルスの両名を執政官とし、攻撃対象をシチリア、ヒスパニアなどのカルタゴ周辺へと変更しました。

まさに、ハンニバルのお家芸の敵地での戦いです。

ハンニバルはイタリア半島南端に閉じ込められます。一方で、ローマではスキピオ・アフリカヌスはじめ若手将軍が台頭します。特に、最も敵将たるハンニバルから多くを学んだスキピオは、ハンニバルの拠点であったヒスパニア(スペイン)を奪うなど戦争は徐々にローマ優勢になっていきます。

ザマの戦い

ザマの戦いザマの戦い(紀元前202年)

シチリア、ヒスバニアをカルタゴから奪ったローマはついにカルタゴ本国に侵攻します。

一方、今までまったくハンニバルに協力しなかったカルタゴ本国はここでハンニバルにイタリアからの帰還を命令します。おそらく、ハンニバルはこの戦争で思うところが多かったと思いますが、イタリアの占領地を放棄しアフリカに帰還します。

しかし、カルタゴ軍の強さの源でもあったヌミディア騎兵はローマに寝返っています。

両手をもぎ取られた状態でハンニバルはカルタゴ軍を率いることになりますが、ローマ軍の総指揮官はスキピオ・アフリカヌス。
何度とハンニバルの戦いを目の前で見てきて敵将ハンニバルを師と思っていた男と、ハンニバルは対峙します。

ザマの戦い(紀元前202年)です。

まさに、カンナエの戦いでハンニバルがローマに行ったことと同じような形でスキピオはハンニバルを打ち破ります。こうして、第二次ポエニ戦争は終結します。

MEMO
ザマの戦いについて詳しく理解したい方は、「ザマの戦いとは?歴史的背景から、戦闘の流れまで徹底解説!」の記事もご参照くださいね。
ザマの戦いとは?歴史的背景から、戦闘の流れまで徹底解説! ザマの戦いとは?歴史的背景から、戦闘の流れまで徹底解説!

戦後について

ザマの戦いで戦意を喪失したカルタゴはローマに和平を請います。

ローマ救国の英雄となるスキピオは全権代表としてカルタゴと和平を結びます。下記が、結ばれた和議の内容です。

  1. ローマはカルタゴの独立を承認し、同盟を締結する。ただし従属ではなく対等の関係とし、ローマは自治権を奪わず、駐留軍も残さない。
  2. カルタゴはシチリア、サルディーニャ、ヒスパニア等の海外領土を放棄する。ただし、開戦以前のアフリカのカルタゴ領は保持を認める。
  3. カルタゴは支配下のヌミディア領を全てマシニッサに引き渡し、ヌミディアの独立を承認する。
  4. カルタゴは10,000タレントの賠償金を50年賦でローマに支払う。
  5. カルタゴが捕虜としているローマ人を全てローマに引き渡す。
  6. 以後、カルタゴはローマの許可なくいっさいの戦争を行わない
  7. カルタゴは10隻をのぞいて全ての軍船、および戦象をローマに引き渡す。また、以後は軍船の建造、戦象の育成を行わない。
  8. カルタゴは14歳以上30歳以下の子弟100名を人質としてローマに差し出す。人選はスキピオが行う。
  9. 以上の仮条約が元老院に承認されるまで、カルタゴ領にとどまるローマ軍の経費はカルタゴが負担する。

上記を読めば、国家が滅亡の危機にさらされたローマにしてはカルタゴに温情を残した和議内容だといえるのではないでしょうか。おそらく、尊敬する師であるハンニバルに対して、色々スキピオも思うところがあったのではないでしょうか。

こうして、第二次ポエニ戦争は終結します。

第三次ポエニ戦争とは?| 西地中海の女王 – カルタゴの滅亡

第三次ポエニ戦争時の領土地図

第三次ポエニ戦争時の領土地図
(出典:http://dcc.dickinson.edu/)

カルタゴはローマと和平を結び膨大な賠償金を背負うことになります。しかし、本国に帰還したハンニバルは国政改革に着手しカルタゴは海外領土を失ったにもかかわらず、国力を一気に回復します

50年かかると言われた支払いをわずか10年でやってのけます。

ハンニバルとスキピオの失脚

ザマの戦いを前に会見するハンニバルとスキピオザマの戦い直前のハンニバルとスキピオの会見

第二次ポエニ戦争におけるカルタゴ、ローマ双方の英雄だったハンニバルとスキピオというのは不思議な関係でした。

特にスキピオは第二次ポエニ戦争を仕掛けてきたハンニバルを、畏怖の念と同時に畏敬の念を持っていました。
こうした経緯もあって、ザマの戦いに勝利したスキピオが全権大使としてカルタゴに押し付けた条件は、厳しいとはいえローマを蹂躙したハンニバルに対しても温情があったのではという内容でした。

しかし、この2人の英雄はほぼ同じ時期に不幸な最後を迎えました。

ハンニバルは国政に復帰し、辣腕をふるいましたが政敵に追いやられて小アジアに亡命し最後はローマの追手を避けて自害します(紀元前183年)。

また、スキピオも政敵カトーに収賄の嫌疑をかけられて失脚します。
救国の英雄から、隠棲の身となったスキピオは失意のうちに死去します。死去したのは紀元前183年。ハンニバルと同じ年だったと言われています。

スキピオは、その死に際して、先祖代々の墓に入ることを拒否。自らの墓碑には、

「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」

と刻ませたと言われています。

第三次ポエニ戦争の原因はローマによるカルタゴへの恐怖

カルタゴの急速な国力の回復にローマは危機感をつのらせます。
スキピオの政敵であったローマの政治家、マルクス・カトー(大カト)は常にどんな演説であっても締めの言葉は、

大カト

大カト
「ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない (Carthago delenda est) 」

と言いました。
いかに、ローマがカルタゴの復興を恐れていたか。そして、スキピオのカルタゴへの温情を否定したかったかが伺えます。

一方で、ローマ従来の伝統的外交でもある同盟国との緩やかな連携を考えていた人々(スキピオ派)は、カトーの演説に対して、「ところで、カルタゴは存続させるべきである」と締めくくったそうです。

ローマのカルタゴへの要求

このようなときに、ローマの同盟国ヌミディアがカルタゴの国境への侵略を行ったことをキッカケに、カルタゴは独自の軍を招集し戦争に突入します。

この戦いを第二次ポエニ戦争の協定違反として、ローマはカルタゴへの開戦を示唆します。

カルタゴは、良家の子息をローマに人質として送るなど低姿勢を貫きますが、ローマはそれでは納得しません。ローマは北アフリカに軍を上陸させ、武器と防具を差し出すことをカルタゴに要求しました。武器防具が供出されると最後にローマは、カルタゴに首都カルタゴを撤去し、内陸に遷都することを要求しました。

大山俊輔

このあたりの無理な交渉は、大阪冬の陣・夏の陣の際の徳川家による豊臣家への要求と似ていますね。

これは、海洋商業国家カルタゴへの死刑宣告です。

第三次ポエニ戦争の開始

こうして、行われたのが第三次ポエニ戦争です。

武器防具がない状態で、丸裸の状態での籠城戦がはじまります(紀元前149年)。

カルタゴは3年に渡りローマを苦しめますが最終的には滅亡(紀元前146年)。
カルタゴの街には塩が撒かれて街は地上から消失しました。こうして、カルタゴはローマの属領となります。

カルタゴ攻防戦の指揮官だったスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)は、地中海の女王とも呼ばれたカルタゴの炎上する光景を前にして、「ローマもいつかは同じ運命を辿るであろう」と手記を残しました。

ちなみに1985年にチュニジアは「建国2800年展」を開催しました。その際に、ローマ市とカルタゴ市が2131年ぶりに平和条約を締結したことで話題になったそうです。なんと、気の長い話ですね(笑)

ポエニ戦争の後・・・・

こうして、ローマは地中海における覇権を完全なものとします。

一方で、各地で行われた戦争によりローマは海外に属州を拡大し、戦争捕虜を労働力とした大規模農場(ラティフンディウム)による穀物生産体制に移行しました。

しかし、このラティフンディウムはローマの強さの源泉だったローマの中産階級の没落を招きます。
ローマの強さは市民たちが国防意識を持って、政治に参加することによって実現していましたがこの中産階級が没落したことでローマの市民社会は分裂、軍の弱体化に繋がります。

様々な改革の試みがなされましたが失敗に終わりローマは内乱の一世紀に突入します。
この混乱が収束したのは100年後のカエサルの登場までかかるのでした。

大山俊輔

中間層の崩壊による、国力の低下は日本はじめ先進諸国の現在の課題でもあります。ある種、属州とローマ本国の関係は現在の新興国と先進国との関係と似ています。その帰結は、先進国(ローマ)の中間層崩壊による混乱でした。トランプ現象、ブレグジットなどもすべてこの構図で見ていくと、歴史に答えを見つけることができるのではないでしょうか。

まとめ

いかがでしたか?

古代地中海の覇権をめぐり行われた超大国ローマとカルタゴの戦い。
これがポエニ戦争です。

第一次、第二次、第三次と行われた戦争ですが圧倒的に有名なのはハンニバル、スキピオの活躍した第二次ポエニ戦争です。
カルタゴは商業国家で、その滅亡劇はかつての経済大国日本とも重ね合わせる人がいます。それだけに、現代の日本人が学ぶことも多いのがこのポエニ戦争だといえるでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

大山俊輔