大山俊輔
根本博という人をご存知でしょうか?
私が尊敬する代表的日本人の一人ですが不思議と日本の教科書には出てこない人物です。
根本の生涯は2つの大きな功績があります。
1つは、大東亜戦争(第二次世界大戦)において日本降伏時、駐蒙軍司令官として軍命に背いてソ連と戦いを継続し日本人居留民の命を守り抜き、無事日本に帰還させたこと。
そして、2つ目は、恩義のある蒋介石の要請でこれまた法を犯して米国占領下の日本を離れ台湾へ。軍事顧問として中国名「林保源」の名のもとで、金門島の戦いに貢献。中国共産党の人民解放軍を撃破。台湾の独立を確定させ、今に至る東アジアの国際秩序の基礎をつくることに貢献したことです。根本博と蒋介石の関係については、下記のエントリでも詳しく記述しましたのでご参照くださいね。
金門島に立つ根本博 – 恩義ある蒋介石のために、そして台湾のためにすべてを捧げた後半生今の日本もコロナウィルス騒動に伴い政府の機能停止、霞が関の暴走が目立つようになってきました。
当時の敗戦を迎えるタイミングの日本もまさに同じ状況でした。
このような状況で、自分の頭で判断し時には軍命に背いても自分として何が正しいかを自問自答し行動に移した男。
それが、今回紹介する根本博です。
私は基本、第二次大戦時の軍部のヘボ作戦や官僚制度の機能不全に対しては過去のエントリでもかなり厳しく書いてきました。一方で、現場レベルではこの根本のように尊敬できる方が数多くいます。
日本的フェティシズム~戦争における餓死と経済におけるGDP減少を招くやっかいな病コロナショックにより日本は国家の機能不全が明らかになってきています。にも関わらず、役所は「法律ですから」の一点張りで、平時の対応で粛々と業務を回すのみ。これでは無垢の民を数多く犠牲にしてしまいます。
このような非常時に自分はひとりの人間としてどのように決断していくべきなのか。私自身もこの根本の生き方を自分の意思決定の参考にさせていただいています。
そこで、このような時期だからこそ、根本のような日本人がかつていたことを知ることで励まされる人も多いのでは!そう思って、このエントリを書きました。
なお、このエントリでは1つ目の功績でもある張家口でのストーリーをご紹介します。
目次
根本博について
まず、根本博について簡単な紹介から入ります。
根本 博(1891年6月6日 – 1966年5月24日)は明治〜昭和にかけて活躍された軍人です。
上記のように、戦後は蒋介石を救うべく台湾に渡り現地では中国名:林保源として活躍されています。
生まれは福島県の農家出身です。
陸軍士官学校卒業時の成績は509人中13番でしたので頭も良かったのでしょう。とはいえ、決して1番じゃなかったのです。そう、帝国陸海軍の軍人で私が尊敬できる方の多くはいわゆる受験エリートではなく、成績は微妙にいいのです(笑)。
昭和期の陸軍士官学校出身のエリートの多くは今のエリートと似ています。すなわち、暗記を中心とした受験エリートだったのです。一方で、根本は地頭はすごく良く自分の頭で考えることができる人だったけれども試験勉強マニアではなかった、ということです。
このことは、今回の張家口の話でも明らかにしていきます。
当時の国際情勢
張家口地図
話は1945年(昭和20年)8月9日。
遡ること、1年弱前の1944年(昭和19年)11月に根本は関東軍より内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)駐蒙軍司令官として張家口(ちょうかこう)市の司令官に任命されます。
かつては茶玻瑠(チャハル)の省都でもあった張家口は標高1000メートルの高地に位置し、在留日本人の間では「北支の軽井沢」と呼ぶ街だったそうです。この地に駐留する、駐蒙軍はわずか師団が2つに混成旅団2つの編成。この小規模な軍で日本列島に匹敵する面積の警備を受け持っていました。根本の部隊は国府軍(蒋介石軍)と八路軍(毛沢東軍)に加え、北方からはソ連の圧迫をうけていました。
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争(支那事変)、1941年(昭和16年)に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)も1942年以降は日本軍の敗北路線がはっきりします。こうして、関東軍の多くの将兵は米国との戦いが繰り広げられていた太平洋戦線に移動させられます。おそらく、この理由としては当時の国府軍(蒋介石軍)が比較的軍事的に弱かったことと、北方の虎とも言えるソ連とは日ソ不可侵条約を結んでいて攻め込まれる心配がない、とお花畑で信じていたことがあげられます。
こうして、満州方面の日本軍の兵力不足は如何ともし難いところまで追い込まれました。根本駐蒙軍も終戦間際には戦車師団と一混成旅団がほか方面に引き抜かれてしまい残された兵は2500名しかいないというありさまです。
戦況は刻々と悪化し昭和20年を迎えます。沖縄戦敗北、そして、8月6日の広島、そして、9日には長崎に原爆が落とされ勝敗が決します。
根本が歴史の檜舞台に本格デビューするのはこのときでした。
日ソ不中立条約破棄・日本降伏〜ソ連軍の侵攻
同じ頃、ヨーロッパ戦線では大きな動きがありました。昭和20年5月にはベルリンが陥落しドイツは降伏します。こうして、ソ連は最も恐れていた日独両国東西からの挟撃という最悪の事態を免れます。
こうなると、常識的に考えてスターリンが次の矛先を満州方面に向けないはずがありません。
ところが、日本では軍部も外務省も現実逃避します。
その理由は日ソ中立条約です。
1941年(昭和16年)に締結されたこの軍事中立条約は5年の有効期限がありました。しかし、条約満期を迎える前年となる1944年4月5日には、ソ連により更新されない旨を通知されています。つまり、条約が切れたタイミングではいつ攻め込まれてもおかしくないことは確定していました。
ところが、軍部や満州国駐留の関東軍はここでもソ連が期限までは約束を守ることを信じているのです。受験エリートは基本人間ではなく、法律やルールを重視する傾向があります。そのため、こうした非常時も、ソ連が期間中条約を守ると信じてしまったのでしょう。
ですが相手が悪すぎました。なにせ、この時のソ連のリーダーはこの人です。
スターリン閣下〜ファンファン大佐じゃありませんよ(笑)
日ソ中立条約破棄〜ソ連軍の侵攻
根本はソ連という国の本質をその支配下の国々や第二次大戦中のポーランドやフィンランドの苦悩を通じて見抜いていました。西方の憂い(ドイツ)がなくなれば次は東(満州)だ。この根本の懸念は的中します。
ソ連は8月8日突如ポツダム宣言への参加を表明した上で、対日戦線を布告します。
すなわち、事実上の日ソ中立条約の破棄です。
8月9日にはソ連軍は南樺太、千島列島、満州国、朝鮮半島北部に一斉侵攻を開始します。不意をつかれた満州では地獄の光景が繰り広げられます。こうして、満州では多くの悲劇が繰り広げられますが、逃げ延びた多くの日本人が内蒙古最南端に位置する張家口に逃げてきます。
こうして内蒙古には実に4万名以上の日本人難民が溢れることになります。
一方、根本はドイツが降伏すれば、ソ連は必ず条約破棄を行い対日戦に参加することを見据えて準備を行っていました。満州と同じく、内蒙古でも日本とソ連の戦闘がはじまりました。
根本の部隊は粘り強く限られた武器を使いこなしてソ連軍の侵入を防ぎます。小競り合いからいっこうに事態が好転しない中、ソ連軍は苛立ちを深めます。しかし、こうした小競り合いをしている最中に日本は8月15日の終戦を迎えます。
張家口の根本博
昭和20年8月15日、根本博陸軍中将は張家口放送局にいました。
根本はじめ軍人たちにはこの日に何があるかを知った上で放送局にいたのです。
放送が流れ始めて、天皇陛下のお声が聞こえます。
玉音放送です。
こうして日本が敗戦したことを軍人たちは改めて噛みしめるとともに、根本は速やかに次の仕事にとりかかります。
根本一世一代の大芝居
玉音放送を聞いて多くの軍人、住民は絶望の気持ちで一杯だったことでしょう。
終戦の詔勅が出てしまった以上は外地の日本軍は直ちに武装解除をしてソ連、国府軍に降伏しなくてはいけません。
はたして、ソ連は降伏すれば身の安全を保証してくれるのか。しかし、相手はかつてフィンランド、ポーランドはじめ多くの国で暴虐を尽くした条約などなんとも思わぬ国です。
陛下の玉音放送が終わった直後に、放送局にいた根本はスピーカーを通じて張家口の街の人々にこのように語り始めます。
「皆さんは今後のことを心配していることと思います。」
「しかしご安心ください。我が部下たる精鋭は健在であります。」
続いて、根本は畳み込むようにこのように語ります。
「人々はみな心配する必要はありません。」
「疆民、邦人、およびわが部下等皆さまの生命は私が身命をとして守り抜きます。」
張家口の街にスピーカーを通じて根本の声が鳴り響きます。このシーンを想像するだけでブルブルっと武者震いがします。コロナの首相会見とはレベルが1億倍違います(笑)。
すべての責任は私が負う
放送を終えた後、現場に戻るとともに根本は全軍に対してこのように語りかけます。
「これに対する責任は、司令官たる私が一切の責任を負う」
この言葉の迫力に降伏を考えていた居並ぶ将兵は圧倒されます。
これは、法的にはポツダム宣言違反です。既に降伏し武装解除命令が出されているのですから、明らかに違反行為にもあたります。
仮に自分の行為が陛下の大御心に逆らうとしても、そして、国際法に背いたとしても今、自分の目の前の民を守るために何が正しいのか?根本は自分に問いかけます。陛下は民を救いたく、軍部に暗殺されることすら覚悟して、自らの立場を越えて終戦の詔勅をお出しにだられたのだ。ならば、今本当の大御心とは命に背いてでも大御宝たる民を守ることなのだ。根本の心は揺れます。そして、最後はこのように考えて自分の決断を是とします。
そうだ。最後は自分が責任を取ればよいのだ。
満州の悲劇
一方で、関東軍では全く異なる反応を取りました。
相手がソ連であっても素直に降伏し、武装解除、無抵抗に徹したのです。
こうして、満州では悲劇が繰り広げます。
相手はソ連です。武装解除に応じた兵は彼らにとっては都合良い労働力でしかありません。こうして、50万以上の兵はシベリアはじめソ連各地に抑留され6万名近い人が亡くなられます。また、逃げ遅れた開拓民の多くは戦後中国残留孤児として社会問題と化しました。
もし、根本が根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、満州同様の悲劇が内蒙古でも起きていたことでしょう。
ソ連軍撃破
先程の根本の迫真の演説に兵の士気は沸き立ちます。
「司令官は逆賊の汚名を受けてでも4万名の同胞を守る覚悟を固められた」
ソ連軍は総勢4万名以上。
一方、張家口の街の入り口となる丸一陣地を守る兵はわずか2500名。
長い戦争で、物資は途絶えて限られた武器で、後顧の憂いなき物資豊富なソ連軍との戦いは苦戦が続きます。
さらに日本軍はこの少ない兵力で戦いつつ4万名の居留民を守るという離れ業を演じなければならなかったのです。しかし、根本の覚悟を知った日本軍の士気は高く圧倒的な戦力ながら陣地を突破できないソ連軍は苛立ちます。
守備隊の動揺を誘うべく、ソ連軍飛行機からビラが散布されます。
「だが、張家口の日本軍司令官(根本博)だけが戦闘を続けている。」
「我々は、この指揮官を戦争犯罪人として死刑に処する。」
既に8月15日の降伏から3日が経過しています。
また、ソ連軍軍使がビラと同じ内容を伝えるべく、日本軍陣地までやってきて降伏勧告をすすめます。ソ連軍の常套手段です。圧倒的戦力を前に、議論は戦いの継続と降伏にわかれます。
しかし、根本はここで降伏すれば満州の悲劇が繰り返されることを理解しています。根本は、部下に対してこう言います。
「しかし、私が戦死してしまえばそれもできまい。」
「私が丸一陣地に赴き軍使を追い返してみせよう。それも叶わぬなら死ぬまでだ。」
この勢いに再び部下たちは圧倒され覚悟を新たなものとします。
こうして、正式に日本が降伏してからも何度と繰り返されるソ連軍の攻撃を食い止めるべく根本の部隊は戦い抜き、ついにソ連軍は戦意を失い撤収します。
内蒙古脱出
日本軍降伏後も根本の部隊はソ連との戦いを繰り広げつつ、居留民4万人を無事列車で輸送しました。
8月20日夕刻から始まった張家口からの撤収は、時には八路軍(中国共産党の人民解放軍の前身となる軍)に阻まれたりもしますが、根本は懇意でもあった中国国民党軍の傅作義と連絡をとりあい撤退について国府軍の協力をとりつけます。この時の国府軍の協力が後に根本を台湾へいざなうことになります。
4万名の日本人は北京・天津方面に無事に到着しました。
21日には居留民の輸送を無事に終えると同時に、根本の部隊も27日までに万里の長城に帰着します。こうして根本司令官の駐蒙軍は在留邦人4万名の保護に成功し、最終的には居留民が引き揚げ船に乗るまで見届けました。
根本博が私達に問いかけること〜本当に大事なことは何なのか?
同じエリート軍人であったはずの満州の関東軍エリートと根本博の違いは何だったのでしょう。
それは、ひたすら自分の頭で考えて「何が大事なのか」を問い続けた根本、それに対して、典型的受験エリートとの違いだったのではないでしょうか?
陸軍士官学校卒業者は、記憶力、データ処理、文書作成能力にすぐれ、事務官僚としてもすぐれており、たとえば東条英機はメモ魔と呼ばれたほどだがその記憶力のよさも人を驚かせたと言われています(熊谷光久『大東亜戦争将帥論』)。
また、以前、ご紹介した 半藤一利『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』でも、陸軍士官学校の教育についてこのように述べられています
「上から言われたことだけをするように教育され、本来やわらかかったはずの自分の頭がどんどん固くなって、前の時代のやり方を踏襲するような思考方法しか教わらなかった」
こういうタイプのエリートはどうしてもルールの枠組みに従う傾向が強くなります。
したがって、ポツダム宣言の受諾と陛下の終戦の詔勅が意味することは武装解除であり速やかな降伏でしかありませんでした。
確かに相手が国際法を遵守する国であればそれでも良かったでしょう。対米戦線や対国府軍に対しては戦後多少の問題はありましたが、比較的スムーズに武装解除が進みました。
しかし、相手がソ連であるとこうはいきません。ルールを守ることが得意なエリートには、武装解除が生み出す悲劇を予期する想像力がありませんでした。(これが、太平洋戦線でアメリカに無残にも負けたこととも重なるのです)実際、ソ連の対日参戦で武装解除をした満州はじめ戦線では数多くの悲劇がありましたが、唯一ソ連を撃退したのはこの根本による張家口の戦いと樋口季一郎が指揮する占守島の戦いのみでした。
樋口季一郎
この樋口も素晴らしい人物で日独伊三国同盟があるにも関わらず、ナチスとの軍事同盟と人道問題は別とばかりに、非常に多くの亡命ユダヤ人を保護しました。占守島の戦いで手痛い敗北を受けたスターリンは、戦後、樋口を東京裁判で起訴しましたが、世界ユダヤ会議はロビー活動を行いGHQも樋口の身柄を保護しました。
樋口もルール一辺倒ではなく自分の頭で考えることができる人だったのです。
根本博とコロナ騒動が問うこと
コロナ騒動でも日本は懲りずに同じことを繰り返しています。
今、世界では、雇用や仕事を守るためになりふり構わず国債を発行して中央銀行に引き受けさせてどんどん実体経済に資金供給を繰り広げています。今まで、財政規律一辺倒だったあのケチケチ国家のドイツまでもが過去をすべて棚上げしてでもコロナとの戦いを国力を総動員しています。
一方、日本はどうでしょうか?今見る限りは、平時の対応と現行法の枠組みでのお役所仕事での対応に終始していますね。
平時であれば税金の未納があれば滞納金を取ることも必要です。
あるいは、平時であれば審査のために役所に長ったらしい書類を提出することも仕方ないでしょう。
ですが、まず国を守るためには国の礎たる民をまずは守ること。そして、生活の場としての仕事を守ることが大事な今に至っても日本のエリートたる霞が関とその傀儡たる永田町は平時の対応を繰り返しています。これが導く結果は、多くの民の絶望と経済苦による死。工場は破棄され、雇用は喪失し、そして店舗も撤退してしまいます。そして、このままでいけば見えてくるのは、コロナ収束後に世界から取り残された日本の姿です。
日本はコロナとの戦いを『玉川区役所 OF THE DEAD』的解決を目指すが、経済との戦いで一人負けする予感・・・・ コロナショック〜フランク・ナイトの「リスク」と「真の不確実性」残念ながら中央がこうなっているとき、私のような一介の中小企業経営者がやるべきことはこの根本と非常に被ります。
- まず、目の前のスタッフやお客さまを守ること。
- そして、手段を選ばず自分の頭で何が正しいのかを考えること。
- 時には超法規的措置もいとわないこと。
私も普段は良い子ですが(笑)、今回はかなりむちゃして会社を守ってます。平時と非常時ではモードを変える必要があるのです。そして、根本や樋口と同じく私も自分の頭で考えて動くことを最優先とします。
張家口での根本博のストーリーは、このコロナショックにおけるリーダーシップを考える上でも実に多くの示唆を与えてくれます。ですが、この張家口の話は根本のデビュー戦に過ぎません。
この根本さん、このあと更に凄いことをしでかすんです。次は浪花節です(笑)。情に厚い男なんですよ。この人。
戦後、日本に帰国した根本は恩人たる蒋介石に恩返しすべくふたたび立ち上がります。またしても法を犯して(笑)、占領下の日本を出奔、台湾に渡り蒋介石の軍事顧問として大活躍します。そして彼の活躍により、今の台湾という国の独立が確定したのです。これも歴史の隠れたストーリーとしていずれ紹介させていただきますね。
ありがとうございました!
大山俊輔