白村江の戦いって?そう思う方も多いのではないでしょうか?
読み方は、はくすきえ、はくそんこうと2つあります。この戦いは、日本初の対外戦争と言われており、歴史を大きく動かす戦いになったと言われています。
フリスクン
今回は、白村江の戦いについて、時代背景などを踏まえながら、徹底解説していきます!
目次
白村江の戦いを徹底解説!
戦いの概要
戦いの場所は?
白村江の戦いの場所は、もちろん白村江です。現在の韓国に当たる場所で、日本は、初めて他国で戦いをするのでした。
江(こう)というくらいですから、今では3番目に大きい河川となっています。
戦う相手は?
戦いは、唐(現在の中国)と、新羅の連合軍対百済そして倭国(日本)でした。
それでは、戦う相手である、唐と新羅の時代背景を見てみましょう。
唐と新羅の同盟関係
618年、「隋(ずい)」が滅び、その後唐が建国されます。権力争いがしばしばあったものの、国内を平定しました。
この時代の治世は、中国史上、最もよく治まった時代だと言われています。唐は、今までにない繁栄を遂げ、政治、軍事、文化などの多分野にあいて発展します。そのあと300年近く続いた国の基礎を作り上げます。
一方、朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三国がまだ勢力争いを続けていました。この三国は、表面上は「唐の柵封国」と言って、唐と君臣関係を結び、唐が国の統治を認める形を取っていました。
しかし、裏では高句麗と百済が、同盟を締結します。
これに対して新羅は、唐の政治制度を積極的に導入し、「唐風化政策」を推進。唐との交友関係を深めます。これにより、唐と新羅、高句麗と百済という二極構造になっていきます。
百済と倭国
もともと百済は、倭国と友好関係にあり、百済から仏教が伝わったと言われています。このころ、大陸の文化は百済と経由して倭国に伝わっているのです。
また、人の往来も多く、現在韓国にある古墳には、日本と同じものが出土することもあるくらい、盛んに行われていました。
また、百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)が倭国にいて、知識人として朝廷で重用されていました。
それくらい、当時の百済と倭国は、友好関係に合ったのです。
百済と倭国
戦いの開始
655年、朝鮮半島北部で、裏で対立関係に合った唐と高句麗がついに対決。戦いが始まります。一方南部では、百済が新羅を進行し始めたため、唐に支援を求めます。
そのとき倭国は?
そのとき倭国はどうしていたのか?
大化の改新の後、皇極天皇の弟である孝徳天皇が即位していましたが、653年、中大兄皇子は、都を飛鳥に戻すことを申し出ます。
政治の中心は、大化の改新を行った中大兄皇子にあり、その力は強力なものでした。孝徳天皇は遷都に反対するも、他の天皇家は中大兄皇子の誘いにのり、飛鳥へ戻ってしまいます。
孝徳天皇は崩御。そのまま655年、皇極天皇が斉明天皇として再度皇位に即位。権力を戻そうとします。
斉明天皇が最も力を入れたのが都の整備です。ふんだんに資源を使って都を建設していきます。しかし、この工事は、豪族の不信、不満をもつことに繋がり、有間皇子のもとに、豪族が集まってきます。
しかし、有間皇子は、この謀反がバレ、捕らえられます。19歳の若さで処刑されました。
倭国では、政治の流れがガラッと変わっていました。
百済の滅亡
660年 最初は侵攻していた百済でしたが、唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされてしまいます。
唐はこの頃、新羅を従えて朝鮮半島を征服する目論見がありました。百済は滅びてしまいましたが、最後に頼ったのが、倭国でした。
百済の遺臣、鬼室福信から救援要請が入ります。
倭国はどう動いた?
百済の救援要請に対して、当時国を治めていた斉明天皇は、難しい決断を迫られました。
しかし、斉明天皇は百済王朝の再建を約束し、自ら都である飛鳥をでて、今の九州である筑紫へ移ることにします。各地で武器を調達し、兵を集め、大移動をします。
しかし、661年、斉明天皇は、いざ、百済へ行かん!としているときに、朝倉宮で息を引き取ります。
その死を受け、中大兄皇子は、遺志を継ぎ、大将に就任。
対外戦争が始まります。
唐・新羅連合軍とどう戦った?
倭国は、まず、百済の王子で、知識人としていた豊璋を百済に帰国させ、王として即位させます。そこから、百済の復興をかけた戦いが始まります。
百済と倭国の軍は、優勢に戦いを進めていましたが、なんとここで、思わぬ自体に見舞われます。
王に即位させた豊璋と、遺臣の鬼室福信が対立を始め、鬼室福信が処刑をされてしまったのです。事態は一変。鬼室福信が処刑されたことにより、倭国の軍が現地につくのに10日遅れ、白村江の河口で唐の水軍と戦うことになります。
軍事力も凄まじかった唐。火矢を用いた攻撃に圧倒され、太刀打ちできなくなり、惨敗してしまいました。
なんと、日本の初めての対外戦争は、敗北で終わっているのです。
白村江の戦い後の情勢
唐との戦いに敗れた百済と倭国。
この戦いの後、どうなってしまったのでしょうか?
百済人
唐との戦いで破れ、本当に百済は滅亡しました。祖国を亡くした百済人たちは、倭国に亡命。滋賀県のあたりに多く住み着いたと言われています。
百済王族
百済の王族たちは、奈良地方に逃れます。その後、動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船を出します。
その名残は今もあり、百済の館は、宮崎県に造られました。
倭国はどうなった?
唐との戦いで敗れた倭国は、中大兄皇子が天智天皇へと即位し、近江・大津宮に遷都。
九州などを守る水城(みずき)を築き、防人(さきもり)を設置。唐の侵攻に備えます。しかし、688年、唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼしたため、新羅による朝鮮半島全土の支配野望が表面化します。
これに反対した新羅は、唐と戦争します。この外的な影響もあり、倭国は、重大な局面を逃れることが出来たのです。唐にとっても、倭国に対しては、親交ではなく、融和政策を取る必要がありました。
新羅を倒すためには、倭国の存在を無視できなかったのです。唐は倭の兵を開放するなどして、和解という形になります。
最終的に、唐の政治に感銘をうけた倭は、政治制度や、建造物を模倣し、中央集権国家を作り上げます。
まとめ
今回は、白村江の戦いについて徹底解説しました。
これからの日本の歴史を決める大きな戦いでもあった、白村江の戦い。日本書紀には、この戦いについて、以下のような記述があります。
「我等先を争はば、敵自づから退くべし」
百済や倭国の軍は、先を争うように攻め込めば、敵は勝手に退くだろうという甘い見立てのもとで突撃しました。しかし、何も考えずに突っ込んだ結果、自然環境や相手の把握を全くしておらず、負けること以外あり得なかったと言えます。
この戦いをきっかけに、外国との関係も徐々に変わっていき、新しい時代をむかえることになります。
フリスクン&大山俊輔