北条時宗といえば、まず「元寇」を連想するという方も多いのではないでしょうか。最近では2020年に発売されたゲーム「ゴースト・オブ・ツシマ」の大ヒットにより、元軍と戦った武将やその時代背景に興味を持つ方も増えています。
この記事では、鎌倉時代の第8代執権・北条時宗の生涯についてまとめました。日本にとって建国以来最大の難関とも言える元寇から日本を護った救国の英雄とも言えるその生涯と功績についてわかりやすくご紹介しています。
なお、元寇全般を理解したい方は「元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します」の記事で全体図を理解してみてくださいね。
元寇の真実と鎌倉武士 | 文永の役・弘安の役とはどのような戦いだったのか一般的なイメージと最近の研究を交えて解説します目次
北条時宗って何をした人なの?
北条時宗は鎌倉時代中期(1251~1284)に生き、鎌倉幕府第8代執権として政治の中枢に君臨しました。第5代執権の嫡男として生まれた時宗は、早くから家督を継ぐことを期待され育ち、時宗自身もそれに応える有能さと苛烈さで執権の座に登りつめます。
しかしこの当時の日本は、国内だけでなく国外に大きな問題を抱えていました。それがフビライ・ハーンの築いたモンゴル帝国からの侵略でした。度重なる服属への命令を拒否し続けた日本に、とうとう元軍が襲来してきました。これが後世まで広く知られている「元寇」です。
この元寇は二度に渡って起きましたが、北条時宗によって強化された国防と天候の助けもありいずれも撃退しました。時宗は1284年、34歳の若さで世を去りましたが、この功績により彼の名は後世に長く残ることになったのです。
次期執権としての期待を受けて育った黎明期
北条時宗は1251年5月、相模国鎌倉(現在の神奈川県)で北条時頼の次男として生まれました。宝寿丸(後の北条時輔)という兄がいましたが側室の子であったため、正室の子である時宗が後継者として育てられることになりました。
1256年、父の北条時頼が執権を辞任しました。その2年後、わずか7歳で元服した時宗は征夷大将軍・宗尊親王より賜った「宗」の字と北条家が代々使ってきた「時」の字を合わせて、幼名の「正寿」から「相模太郎時宗」と名を変えたのです。当時の元服は14~15歳が一般的で、7歳での元服は異例の早さでした。この背景には、北条家の次代棟梁であることを内外に知らしめるという目的があったと考えられています。
10歳になった時宗は、将軍に直接仕える小侍所の別当(長官)の職に就きました。別当の職には代々北条一族が就いており、この時もすでに北条実時が別当となっていました。第2代執権の孫にあたる北条実時は、日本最古の武家文庫「金沢文庫」を設立するなど、学識豊かで思慮深い人物であったと言い伝えられています。北条実時とともに別当の職に就いた時宗は、実時から執権になるために必要なさまざまな教育を受けました。
さて、ここで鎌倉幕府における重要な役職「執権」についてご紹介したいと思います。執権とは、本来将軍の補佐を行う役職として置かれていました。しかし鎌倉時代の将軍職は形式的なものだったため、事実上は執権が最高権力者といって差し支えない状態だったのです。
7代執権北条政村の時、14歳の北条時宗は執権を補佐する連署という役職に就きます。一族で協力し合い鎌倉6代将軍宗尊親王を将軍の座から退け、惟康親王を7代将軍に据えるなど、幕府の中枢でその実力を発揮しだしました。
そして1268年、北条政村から執権の職を引き継ぎ、北条時宗は18歳にして第8代執権に就任したのです。
蒙古襲来と二月騒動
時宗の8代執権としての活躍は最初から波乱含みでした。弟に不満を持っていた兄の時輔、先代将軍宗尊親王の側近だった名越時章、教時兄弟を謀反の疑いありとして誅殺。さらに執権の座に就く直前には、高麗の使節がモンゴル帝国(元)からの国書を持って日本を訪れました。元への服属を求める国書は6回に渡って届きましたが、時宗はいずれもこれを黙殺しています。正式な外交文書を黙殺するというのは、当時としても極めて異例なことでした。これによって、蒙古との戦争が現実味を帯びたものとなってきます。元の侵略に備えて、時宗は西国の御家人に戦争準備を整えるように命じて守りを固めました。侵略戦争の前線となる九州北部を防衛するために編成された「異国警固番役」が設置されたのもこの頃です。
そして1274年、とうとう元国の軍隊が日本に襲来しました。700艘以上の軍船が壱岐・対馬に上陸したのです。進軍を続けた元軍は博多湾まで到達、上陸を果たしました。赤坂に陣を布いた元軍を、待ち受けていた御家人たちが迎撃しました。赤坂の戦いで敗走した元軍を、百道原・姪浜まで追走しました。副将・劉復亨が負傷したこともあり元軍は撤退。文永の役と呼ばれた戦いは日本の勝利に終わりました。
この戦いの犠牲者は御家人だけで数百人規模、庶民の死者数は「数を知らず」というほどに凄惨なものでした。
文永の役が終わったあとも、元は日本侵略を諦めていませんでした。1275年、服属を求めて長門国(現在の山口県)を訪れた元の使節を処刑したことをきっかけに、北条時宗は九州の守りを再び固めだしました。
「異国警固番役」を強化、博多湾岸から香椎まで続く延べ20kmに及ぶ強固な防塁を建築するなど、再襲来に備えました。国防強化を通じて御家人だけでなく寺社本所領(武家ではなく公家や寺社の持つ荘園・所領)にも影響力を発揮したことから、西国への支配がより拡大したという側面もありました。この間、高麗への出兵計画も持ち上がりましたが、費用と人員の問題から断念。迎撃体勢を整えることに専念しました。
文永の役から7年後の1281年、元軍が再び襲来しました。3万人規模といわれた前回をはるかに上回る10万人以上の大軍勢で攻め寄せた元軍は、壱岐・対馬を制圧したのち長門に襲来、再び博多湾に侵入しました。
しかし博多湾に構築された防塁に阻まれ、志賀島経由での上陸を試みましたが日本側の猛反撃に遭いました。大敗した元軍は壱岐まで後退して援軍の到着を待つことにしましたが、うまく合流できなかったばかりか兵士の間に疫病が流行して3,000人あまりの死者を出す事態になったのです。
その後、大きな台風に見舞われるなど、日本側にとっては幸運としか言いようのない偶然も味方して、二回目の元軍襲来も日本の勝利で終わりました。弘安の役と呼ばれたこの戦いのあと、元の国情悪化なども手伝い日本への侵攻は停止しました。
大国の侵攻を退ける立役者となった北条時宗でしたが、戦争後も問題は山積みだったのです。
晩年
時宗は弘安の役の翌年、元寇による犠牲者を弔うため円覚寺を建立しました。異国警固番役による九州の警備も続行していましたが、徐々に武士たちから不満の声が上がり始めたのです。
幕府の命に応じて参戦した武士たちには、褒賞が与えられるのが一般的でした。それは金品だけでなく、敵から奪い取った領地も含んでいます。しかし元寇は防衛戦であったため、戦に勝利しても得られるものがありません。鎌倉幕府の財力だけでは御家人たちに充分な褒賞を与えることができないという難題に取り組んでいる最中、北条時宗は34歳という短い生涯を閉じました。弘安の役の3年後、1284年のことでした。亡くなる直前には自らも出家し、死後は自らが建立した円覚寺に祀られたのです。
北条時宗の人物像とは
北条時宗は生まれながらに執権となることを期待され、また本人もそれに見事に応える政治的な手腕を持つ人物でした。二月騒動における一族への粛清や、元に対する強硬な外交など苛烈な一面も色濃く、専制的で非情な人物という評価も残っています。
しかし一方では禅宗に深く帰依し、無学祖元という中国の高僧を招聘して教えを請いました。元寇の犠牲者を敵味方関係なく弔うために円覚寺を建立するなど、信心深い面もあったと伝えられています。また、家族には非常に慈悲深く優しい人物であったともいわれています。
現代の感覚で見ると苛烈で非情な政治家のように見えますが、未曽有の国難に立ち向かうリーダーシップを備えた人物であったともいえるでしょう。
残された逸話
北条時宗に関する逸話として、最も有名なものは「元寇の神風」ではないでしょうか。2回の元軍襲来の際、突如吹き荒れた暴風雨は元軍に壊滅的な被害を与え、日本に勝利をもたらしたと伝えられています。
政治的な思惑や思想も相まって、元寇の神風についてはさまざまな評価が下されてきました。中には神風そのものが虚構であるという説まで唱えられるほど、その時代によって評価は変遷しました。しかし近年の検証により、元寇の時に台風並みの強風が吹いたのは事実だったのではないかという結論に達しています。神風と呼べるほど戦局に決定的な影響を与えたかはともかくとして、天候が地政学に大きく干渉した最古の事例としても扱われているようです。
一方、北条時宗自身にまつわる逸話はさほど多く残されていませんが、このような話があります。
元服後の1261年、鎌倉・極楽寺で小笠懸という弓の競技が行われました。疾走する馬上から弓で的を射るというものでしたが、時宗は将軍の前で見事的を射抜きました。ときの将軍宗尊親王も非常に喜んだと記されているそうです。
まとめ
北条時宗は若くしてその才覚をあらわし、北条氏による執権政治を盤石のものとするだけでなく、元という大国の侵攻にも立ち向かいました。国外からの侵攻だけでなく、皇位継承の争いなど、その生涯は波乱万丈そのものであったといえるでしょう。
現在も時宗の指示で建造された防壁や寺社が残っており、短い生涯ながら日本の歴史に大きな影響を与えた人物のひとりとして、いまも多くの人に鮮烈な印象を与えています。