大山俊輔です。12月16日に選挙が終わった。
選挙結果は、予想通りといえば予想通りの結果となった。
振り返れば2009年に日本国では、衆議院選挙を行い政権交代が行われた。
その後3年に渡る、経済、外交、安全保障における混乱は政策を分析すれば予想通りではあったが、いずれにせよ、日本国はこの3年間の間に失政だけならまだしも、尖閣諸島、竹島問題から東日本大震災まで、まさに国家解体を現実のものとして意識するレベルの苦難を経験した。
私自身、もともと政治にも興味はあったが、ここまで興味を持たざるを得なかったのは、国家の危機を具体的に感じるところまで日本国が陥ったことが大きい。それだけ、国民の責任は大きいのである。
鳩山政権から野田政権に至る経済政策を見ていると、選挙対策から票に直結する子ども手当や農家の戸別所得補償といった、所得移転政策が多く、本来経済(GDP)の成長につながる消費や投資と関係のない部分で予算を増やした結果、国家予算としては過去最高を更新したにもかかわらず経済は引き続き低迷した。
これは、マクロ経済学を学んだ方なら、ごくごく当たり前の予想と結果だったと思う。
個人的には、子ども手当も子育て世代にはありがたいだろうし、所得移転で経済効果が薄いから、と全面的に否定するつもりもない。ただ、一方で個人消費の多くが、社会保障や所得移転政策とひもづけられると結果的に、こうした政策と関連する特定の産業に資金が集まるものの、本当の意味での個人消費による経済成長が出来なくなり、歪な産業構造になってしまう。
皮肉だが90年台に公共工事を叩いて、建設産業の力をそぎ落とした一方で、社会保障費が膨らむ過程で、新しく別の社会保障費関連の産業で同じことが起きてしまった。そして、残念ながらこちらは投資ではなく、普通の支出でしかないため、GDPに対する乗数効果も低く、結果的に日本の国家としての競争力を削いでしまった。
公共工事と社会保障関連支出。
結論としては、どちらも必要だというのが答えであり、イデオロギーに陥らずどこでさじ加減をつけるかということなのだろう。
一方、これだけの所得移転政策を行う傍ら、TPPや消費税増税といったGDPにマイナスの効果をもたらす政策から、昨今、議論されていた日銀買いオペによる金融緩和を通じた脱デフレ、円高対策についても、経団連はじめ経済界から「TPP参加すべし」、「増税実行すべし」、「金融緩和まかりならん」という発言が多かった。
私自身、一経営者として小さいながら事業を営む立場から、「何故、震災直後のの大変な時にTPP?←被災地の復興が先だろ!」 「あるいは、何故税収が減るのに増税を行うの?」と素朴に疑問に思うと同時に、このブログを通じて個人的に自分の考えを明快にしてきた。
もちろん、自分の会社とてお客様の中にはこうした経団連企業やTPPや消費税増税推進をしている官公庁でお勤めのお客様も沢山いらっしゃって大変お世話になってる。また、一般的にビジネスの世界ではあまり政治的な発言をしないほうが敵を作らないので得策、ということが言われるが、ここまで経済全体に影響を与える政策となると、万が一、お客様と意見が異なったとしても自分自身、発言して立場を明快にしておいた方が変な気遣いをしないで済むと思っている。
そう思っていたら、金融緩和がまかりならん、と言っていた経団連の米倉会長が急に選挙結果を意識したからか、「自分が間違ってた」と発言を180度変えたそうだ。
http://www.asahi.com/politics/update/1213/TKY201212130295.html
経団連が内需に大きな冷水を浴びせる増税に賛成なのは、輸出産業からの加盟企業の多い経団連では、消費税の輸出戻し税制度があることが理由、と言われることが多いが、それはさておき、円安効果・脱デフレ効果のある金融緩和にまで反対するのは不思議なものだ、と思っていた。
政権交代が濃厚になり商人根性で勝ち馬に乗っかったというのが一番、彼の行動を説明するに最も妥当な回答に思えるが、それにしてもこんなものは、商人根性でもなんでもなく(かつての偉大なる商人たちに失礼だという意味で)単に利に対して浅ましい人間の行動にしか見えない。実際、お顔を見てるとそういう人生を歩んできた方の雰囲気であるが(もちろん、根拠はないですが)。
天下の経団連のトップに一中小企業の経営者が苦言を呈してもそんな声は彼には届かないだろうが、この出来事が今の日本の醜さ、そして、しいては経営者の経済全体に対する興味の無さを実感せざるを得ない。そう思って、久しぶりにブログを書いてみようという気になった。
そこで今回は、テーマとして、「経済学」VS「経営学」という2つの単語をキーワードにしてみた。
何よりも、今回の米倉氏の発言で、自分が大学を卒業してからの素朴なギモンが一つ解決した気がする。
それは、大学を卒業してからこの15年、自分自身が実際に大学の経済学部で学んだことと、大学を卒業後に日本経済新聞を始め、世間で言われている経済学の多くが中身がかなり異なることと。そして、日本経済新聞始めメディアやつい最近まで政治の世界で議論される後者の経済学はどちらかというとその後、私が米国のMBA留学時に学んだ経営学に近いものであったということだ。
分かりやすい議論が、事業仕分けや公務員給与の引き下げ。
何故、日本経済がデフレから奈落の底に落ちかけている時に、コスト削減をするのだろう?
あるいは、GDP構成要因のひとつとして大きな消費の中の一角を占める公務員給与を今下げるのだろう。
これが、経済学部出身だった私の素朴な疑問。
誰かの所得を削るということは、GDPの公式に基づき考えればGDPの減少であるからだ。
一方で、経営学の発想では、コスト削減は利益の増加につながるので、そのとおり、となるのだろう。
こうした行動は、個別企業の行動としてみればもちろん正しい。
企業はあくまでも個別主体であると同時に、国家のように金融政策が使えない。
従って、入るを量りて出ずるを為すという企業行動は一般論としてはもちろん正しい判断となる。
一方で、これを国家経済としてみるとどうだろう?
非常にマイナス効果になる。それは、消費・支出・所得の三面等価の原則に基づけば、誰かの支出は誰かの所得となることを考えればアタリマエのことである。
心情的には私もリーマン・ショック後大変な思いをしたからこうした無駄の削減や公務員の給与引き下げはルサンチマンとしては理解できる。しかしながら、あえて、こうした行動はそれは巡り巡ってGDPのマイナス効果をもたらし、自分の事業も含めて経済全体にマイナス効果だと思うから反対してきた。こうした、公的部門に対する民間部門側の人間のルサンチマンの解消は、インフレーションを通じて、民間の給与等の伸びが公的部門よりペースが早まれば自然と忘れ去られる問題だと思っていたからだ。
しかし、何故かこうした議論が出ると、それっぽい経済学者やコメンテーターが家計や企業の発想での議論をしたがる。消費税増税も同じだろう。他の経営者仲間と話していても、「収入が40兆円しかないのに支出が90兆円なんて会社ならとっくに潰れてるね」ということをいう経営者が多い。もちろん、話している本人は、恐らく真面目にそう思っているのだろうが・・・・。
ここに経済学と経営学の違いがある。
経済学が取り扱う範疇は、個別企業や個人ではない。
経済全体 - つまり、国家・家計・企業 の連環で物事を見る必要があるのが経済学。つまり、自分だけじゃなくて周りも気にする必要がある。一方で、経営学の範疇は先ほど述べたように基本的には個別企業の事象だ。
経営学では、その狭い世界の中でどうやって売上を最大化し、コストを最小化することで利益を増やすか、ということが思想の基本形となる。代表されるのが、90年台後半から流行ったROE重視の経営。どうやったら、効率良く投下された株主資本に対して効率良くリターンを生み出すか、ということが大いに議論された。
結果的に、MBAなどに代表される経営学での議論の中には、企業行動における個々の活動であるマーケティング、財務、会計、人事、組織行動論、戦略といった企業ごとの利益最大化のためのテーマが科目として独立し議論されることになる。
私自身、MBA留学した時に学んだこうした知識が、実務の世界や自分が起業した際に非常に役立ったことは言うまでもないのだが、一方で新聞はじめ、メディアから政界でまでこうした個別企業におけるマネジメントがあたかも、経済政策に当てはめることで、国家運営もうまくいくだろう、という非常に短絡的な議論が長らく幅を利かせたことが日本の不況脱出において非常に大きな足かせとなったと思う。
そのきっかけが、80年台後半からのビジネス本ブームじゃないかと思う。
ビジネス本ブームにはもちろん、良いこともあったが、弊害も大きかったと思う。
その最たるものは、視野を自分自身や企業、もしくは、ある一つのテーマに特定することで、人間の視野を非常に狭くしてしまったこと。
・ 個人だったら、セルフプロモーション関係の本。どうやったら、自分をよく見せるか。
・ 企業だったら、どうやったら効率良く稼げるか。
・ あるいは、特定のテーマのノウハウ本。
私ももちろん、商売をやってるのでこうした本も沢山読む。
綺麗事を言ってても会社を潰してしまったら経営者として失格だ。
その一方で、自分が経済学を学んでいて一番良かったと思うのは、自分以外のことを常に考える気持ちを持たされたこと。
もちろん、経済学に限らず他者に対する気持ちはとても重要なわけで、経済学以前の問題だと思う。経済学の父として名前を引用されるアダム・スミスも国富論を書く前に道徳情操論で同感(sympathy)を説いていることからも、経済学は基本的に他の主体のことを考えることを前提としている。
じゃぁ、経営学は他者に対する思いやりがないのかというと、そんなことはないと思う。ないのではなく、忘れ去られているというのが答えだろう。
その代表例は、かつての近江商人の三方良し哲学 ー 売り手よし、買い手よし、世間よし - などは、かつての日本の経営学の中に哲学としてSympathyの概念があったことを今に伝えてくれている。
例えば、企業の行動として、一番安い仕入れ先に発注すること。
あるいは、仕入先と交渉して安くしてもらうことは、利益を最大化するためには正しい。
あるいは、商品の質を下げて原価率を落とすことで、粗利率をあげることももちろん、短期的には利益率をあげることになるだろう。
ただ、自分の会社が利益を最大化しようと思って行った行動は、仕入先やお客様の損をもとに成り立っている。
私達も、会社の設立間もなく資金も余裕がない時は、仕入先は常に変更したり安いところ、安いところと思って切り替えを行なっていた(というより行わざるを得なかった)が、少しずつ会社が成長するに従ってこれでは、本当に永続する企業にはなれないと思いやめることにした(もちろん、今でも適正価格より高いと思った時には相談はするが)。
お客様、取引先、従業員、自分の会社、全ての主体がハッピーになる経営。
これって、先ほど出てきた経済学で言うところの、家計・国家・企業との関係と似ていないだろうか?
経済学の三面等価の原則にあるように、誰かの支出は誰かの所得になることと同様に、経営学とて、自分達の株主だけのことを考えて他者の所得を奪うことばかり考えたり、コストを削ることばかりに目が行くと、結果的に、パイ全体が小さくなって気づけば自分達のお客様まで干上がらせることになってしまう。それが、日本におけるROE経営の重視が、皮肉にも、日本企業全体の収益率の悪化を招いたことに繋がっているのかもしれない。
ただ、その為にはやっぱり、多少の余裕を持つことが必要。
衣食足りて礼節を知るとはよく言ったものである。
私がブログでしつこくデフレーションの危険性を書くのは、もちろん、自分の会社のこともあるがデフレーションという環境がまさに、日本という国そのもののパイを小さくする過程そのものであり、こうした環境下では企業経営者もお客様とて、自分のことで精一杯となり他者に対する思いやりの精神を希薄化させられてしまうからだ。
もし、企業がこうした環境下で自分達の株主のことを考えて何とか利益を出そうとするとどうなるだろう?それが、経団連会長の主張なのではないだろうか?
パイの大きさが減少する中でも売上を増やしたり、利益を出そうと思ったらどうだろう?
学生時代よくやったイス取りゲームを思い出して欲しい。
イスがどんどん少なくなっていく中で、自分の取り分を増やすためには、他の企業や業界から所得を奪ってでも売上を作らないといけなくなるだろう。あるいは、コストを下げる為に質を落としたり、薄利多売に走ったり、はたまた、給与を下げてでも利益を出す行動を皆がとったらどうなるだろう?
それは、マクロで見れば個別主体同士の所得の奪い合いゲームでしかない。まさに、合成の誤謬だ。
よって、こんな時代だからこそ、企業経営者も経済学に興味を持つべきだと思う。
そして、どこまで経営者として、このデフレーションの環境下でも最低限のモラルを維持しながら、さりとて会社を潰さないようにするか、というジレンマを解決するか。そのバランスを保つものの一つが三方良し経営なのかもしれない。その過程で、今の時代の経営者もかつての偉大なる経営者たちと同じく、国家全体のことを考えたりすることこそが、自分自身の主義主張を押し通すことよりも立派で美しいことであることを思い出すことが出来れば、きっと、後世に残る経営者が出てくるのではとも思う。
いずれにせよ、中小企業の経営者がマクロ経済なんか気にしなくても毎年、パイが少しずつ増えていって、自分達だけでなく、取引先もお客様も全ての主体がハッピーな状態になって初めて、日本も本当の復活となるのでは。
大山俊輔