大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

震災からの総括

東日本大震災の総括

大山俊輔です。震災が起きてからはなかなかブログを書く間もなかった。

うちの会社は3月は2週間以上の休校措置をとったので、当然ながら売上はその期間はたたない。ただ、海外出身のスタッフが7割以上の当社ではあまりここで無茶をして出社させても、消耗しきっては、震災状況が落ち着いたときに営業どころではない、ということでお休みすることにした。

正直、会社も創業して5年目。少しずつ売上も落ち着いてきているタイミングになってはいたが、1円でも売上はあったほうがいい。というか、これが創業間もないタイミングだったら1円の売上のために仮に10万円のロスがあったとしても、開校せざるを得なかったでしょう。いわゆる赤字受注をしてでもまわしていかざるを得ない状態になっていたと思うし、抱えているお客様やスタッフも少ないしステージなら事業継続はしないという判断をした可能性だってある。そんな意味では、立ち上げ期に今回の国難に直面していなかったのは、当社としては不幸中の幸いでありました。

外国人スタッフは、お休み期間中は東京疎開を奨励して、実際、一番原発情勢が不安定だった3月15日~25日までの期間、お休みできたことで、動揺も最小限に抑えることが出来ました。

そして、4月は反動の需要からか想定していたよりも良い結果で終わることが出来た。

というのが、当社の3月と4月の動向。
しかし、今回の震災、津波、原発という三大災害の実体経済への影響が出てくるのはこれからでしょう。現在は被災地の倒産は実務面で、経営者が死亡したり被災しているため倒産、倒産準備が進まないからデータに現れず表面化していないだけで、これからが日本にとっての修羅場となる。

そして、当然ながらその影響は日本全国に出てくる。

もし、今回のエントリの前~即ち震災、津波、原発の最悪期がひと段落する4月~にエントリすることがあれば、きっと、もう少し菅直人、民主党ふざけるな!みたいに一つの側面を捉えたことを書いていたと思います(実際、そう思ってますけど)。

しかし、そこから更に時間が経過する中でどうも、日本の問題の本質がどこになるのか。今の政権の問題だけではなく、私達ひとりひとりの日本人を含む戦後日本そのものにあるのではないか、と思うことが多々ありました。

もちろん、今の日本のこのふがいない状況や国家感ない政権の舵取りそのものを具現するのは当然ではありますが、今の菅政権に対する非難はいくらでも街を歩けば聞こえてくるわけで、逆に、今回は3.11から約2ヶ月経過したタイミングでのエントリであることも踏まえ、もう少し、深掘りして自分の考えをまとめていきたいと思います。実際に街を歩いていて思ったこと、自分達や自分達のお客様とのふれあいの中から感じたこと、そして、自分自身を振り返ったときに思ったことを率直にまとめたい。

ただ、自分はダラダラと長く書いてしまうクセが自分にはあるので、一番話したいと思ったことを3点のポイントにまとめてみました。

① 戦後日本(人)の最も醜悪なところが出てしまった
まず①の「戦後日本(人)の最も醜悪なところが出てしまった」について。
このようなことを書くと、「震災後日本人はみんな助け合ったじゃないか」「海外からも賞賛を受けたじゃないか」という声があると思う。

もちろんそのとおりだと思うし、被災地の日本人はじめ、自衛隊の皆さんや東京消防庁、警察のご活躍はすばらしいものがあった。

その一方で、ガソリンがなくなり水がなくなったのは、同じ震災の影響が直接ではないもののある東京であり同じ日本国だ。

石原都知事が今回の震災は日本に神が与えし天罰だという発言があり物議をかもし出した。私は彼の真意がどこにあるのかは別に、自分の解釈としてはここに書く戦後日本人の醜悪さに対する天罰ということが、元作家だった彼の文学的比喩でこの言葉を選んだのであれば、被災地の人たちに対してというよりは私達日本人に対する天の警告という意味であれば理解出来なくもない。

もちろん、その後の何もかも自粛で一億三千万一回貧しくなろうという考え方には、リアリストであり企業人である自分としては賛同できないし、逆にそんなことしてしまったらもっと自殺者も増えてしまうだろう。逆に昭和大恐慌の際の高橋是清のように自ら率先してお金を使う気概が石原氏にあればこの言葉に対してもう少し誤解されず、一般国民の賛同ももっとあったかもしれない。

ただ、後ほどまとめるが、今まで国家感を持たずに自分の身は自分で守ることも放棄し、国はサービス機関くらいにしか思ってこなかった私達日本国民。そして、ガソリン、水を買い占めてしまう我欲の日本人に対して「このままだとヤバイよ」と八百万の神がいるのなら言わんとしたいのかもしれない。

② 国家感の不在と危機に対する認識の欠如
次に②の「国家感の不在と危機に対する認識の欠如」であるが、これは、そもそもこの国難のときに国家感のない(そもそも党の理念がない)民主党政権があたったのも日本人に対するある種の警告なのかもしれないと思う。

実際、自分も直感的ではあるが昨年の尖閣諸島事件のきな臭い対応を見たあたりで、「もし、阪神大震災級の災害が来たとき彼らには自分たちが日本を背負っている覚悟で望めるのか」という不安があった。

だからといって、菅直人許すまじ、打倒民主党政権、ということも大事かもしれないが、それが問題の本質の解決にはならないと思う(もちろん、その悪しき象徴として彼らを排除したいという考えがあることは十分理解するが)。

何よりも、リーマンショックから日本に超弩級のサブプライムの経済不況の波が押しかけていた2009年の衆議院選挙に際して、「一度やらせてやるか」という軽い乗りで仮免内閣などど言われながら、彼らに任せたのは言わずもかな、私達日本国民なのだ。これが会社で、「○○さん、頑張ってそうだから社長にするか」なんて言って、何の実績もなく経営批判だけしていた労働組合員の人が社長になることは絶対に起きないだろう(労働組合を悪く言っているわけではない。ただ、覚悟と役割があるという意味で。ちなみに現政権の閣僚を含め組合出身者が多すぎるのは問題と思う)。

もちろん、当時、毎晩の食事やカップラーメンの値段まで、どうでもいいことで麻生氏に対する執拗な個人攻撃を行ったメディアの責任は非常に大きい(実際、現在も同じようなもんだが殆ど報道されてない)が、それに乗せられてしまうレベルな私達があることも事実。もし、私達が一票の重さをもう少し理解して慎重な投票を行っていれば、このような状態にはなっていないだろう(だからといって自民党がいいとも思わないが)。

私自身も当時は事業が大変な時期で、選挙に投票をしていないがそれはすなわち、会社で言うところの株主総会に白紙委任状を提出したようなものだ。会社であれば白紙委任状を出すということは、現行の経営陣にもろ手を打って賛成してしまったことと等しい。選挙であれば、いわゆる世論というやつに私は白紙委任状を出してしまった。私はこの時点で偉そうなことを言うことが出来る立場ではない。

③ 民主主義の危うさ
最後に③には「民主主義の危うさ」を選んだ。このようなことを書くと、「民主主義を否定するのか」と言われそうだが、自分の回答としては、

「民主主義というのは危なっかしい核のようなもので、その正の部分も負の部分も国民が理解していれば、民主主義を扱いこなし正しい人間を選べるかもしれないがそうではない場合には非常に危険なものだ」

と考えている。

先ほどと重なるが、色々な議論がある中、何故か民主主義そのものに対する疑念というものを日本人は持っていない。あたかも完璧なシステムで困ったときには自浄作用でよい方向に私達を導いてくれるものとすら、思っているのだろうか。

民主主義が誕生、発展した西ヨーロッパやアメリカの知識階級の中では建前としては民主主義に対する信念を表明する一方、民主主義が日本における現状に似たようなことを招きかねないことを知っている。フランスでは、ルイ16世による王政がフランス革命で打倒された後の第一共和制→ナポレオンによる第一帝政後のブルボン王朝復活、そして、再び第二共和制からナポレオン3世による第二帝政、そして、共和制と何度と民主主義と王(帝)政を繰り返していることからもいかに、当時のフランス人が民主主義と絶対主義の狭間で揺れ動き、時には民主主義を否定してナポレオン3世の帝政という道を選びつつ、民主主義の導入に試行錯誤してきたかがわかる。

私がもともとアメリカでお世話になっていた米国人上司と以前、民主主義に関する議論をしたことがある。2005年の夏に彼女の別荘があるワイオミング州のジャクソンに行った時。丁度、小泉純一郎(当時総理大臣)が郵政民営化法案が否決され衆議院解散総選挙に打って出た時だ。

私自身は、小泉氏は経済政策ではかなり新自由主義的な発想で行い負の側面が強く(ただ、外需により当時はそれなりの好景気が維持されたが)、彼のリーダーシップは経営者として大いに参考にするし個人として尊敬する。政局を見極めた喧嘩上手っぷりには敬意を評するが、その一方で、日本国民があのように雪崩を打ってあの時は自民党に投票した郵政解散選挙の結果には「怖いな」と思うところがあった。そして、そこからわずか4年後である2009年には、同じ日本国民がなだれをうって民主党に投票してしまう単純さには民主主義の欠陥、もしくは、危険である民主主義を使いこなせない日本国民の未熟さを感じざるを得ない。

話を戻すが、米国人上司が言った言葉は「ヒトラーを選んだのだって民主主義だった」というひと言だ。第一次大戦から第二次大戦の時期というのは、大きく見ると、帝国主義時代に植民地獲得に早めに乗り出したイギリス、フランス(その後アメリカ)に対する大陸国家のドイツの巻き返し、そして、第一次大戦から第二次大戦への経緯はそのドイツに対する復習としての戦後賠償が大きすぎた中、ヒトラーが誕生し、彼をドイツ国民が終身総統として選出するというプロセスを経た。

アメリカ人の中には、民主主義や資本主義に対する絶対的な信念がある一方、気をつけて扱わないと民主主義も資本主義も暴走してしまう危険なもの、というある種の達観が(少なくとも国家意識を持ったアメリカ人の中には)ある。

ここで自分が思うのは、結局日本人というのは、何か大変なことが起きたときには、アダムスミスの言うところの「神の見えざる手」が存在してうまいことまとめてくれる。そんな根拠のない楽観論が戦後ずっとあったのではないかと思う。じゃなきゃ、ラブアンドピースで世界が一つになるなんて甘い発想はすまい。

それは、国防に関しては国連や在日米軍が何とかしてくれるという甘い幻想であるし、経済であれば資本主義や市場が機能して最適な状態に導いてくれるという誤解、そして、今回のようなことに関してはFUKUSHIMA50など自分たちがコントロールできない絶対的な存在が何とかしてくれるという甘い見通しだ。結局戦後左翼は、市民主義と民主主義を混ぜ合わせた得体の知れないものをつくり上げ、菅氏というのはその申し子のようなものなかも知れない。しかし、だからといって、保守派が良いのかというと、意外と単純な市場原理主義者だったりする。これらの本質は、左右問わずどちらも同じなのではないかと最近思う。

では、自分は?といわれると「リアリスト」と答えることになるのだろう。

当然、市場も尊重するし、民主主義も尊重する。しかし、気をつけて扱わないと非常に間違った判断をその市場や市民の声とやらはしてしまう可能性もあるということを理解して生きていく必要がある。

それは、自分が経営者であり企業の唯一のオーナーという立場であることとも関係しているのかもしれない。

会社の経営者でかつオーナーという立場で事業をやっていると、リアルに毎月のお金の入りと出をみざるを得ない。

通帳で記帳してお金の出の方が多ければキャッシュフローは赤字だし、それが続き支払いが出来なくなればそのときは会社は倒産する。それだけだ。会計上黒字でもキャッシュフロー上、支払いが出来なければ潰れるし、逆に赤字でもいくらでも資金の工面ができているうちは倒産しない。

大企業であれっば倒産したとしても、債権者も株主も多岐に渡り分散しているし、上場会社になっていれば経営陣に直接の個人保証などが入っているケースも少ない。しかし、未上場企業の経営者は倒産すれば債権者に追われるし自己破産する。カードだってしばらくは作れない。親族知人からは白い目で見られる。

この単純なメカニズムが中小企業オーナーにとっては、当たり前の感覚であるし、経営者の危機感というのは会社の生死と経営者の人生が直結していれば当然ながら非常に大きい。

逆に、ソニーなどの規模の会社になると、子会社も数百社あるし、社長と名のつく人も数百人社内にいる。多くがサラリーマンから上がっているから経営者としての手腕はあったとしても、どこか会社の危機に対しての実感がない、というか、他人事になってくる。だから、今回の個人情報処理問題に対する対応を見ても、出てくる人たちの話し方は他人事だと思う。

結局、愛する家族や郷土を守ること、原発を作りそれを運用すること、そして、企業を経営し社員の雇用を守ることは、全てが当たり前のことなのだ。誰も守ってくれない。守るのは自分だ。

逆にこの危機意識をもたず平和ボケした中で道を選べば、運がよければ死ぬまで嫌な事に直面しないでまっとうできるかもしれない。しかし、いずれ美しい郷土は他国に蹂躙されるかもしれないし、家族だって殺されたり辱めをうけるかもしれない。会社だって倒産し社員を路頭に迷わすかもしれない。何よりも原発だってメルトダウンし国土を汚染する。

ただ単に、そういうことなのだと思う。

今回の原発問題は、当然、CO2削減だったり発電単価が高い安いという議論、そして、危ないからやめろ、という感覚といろいろ論点はあるのだが、一番の問題は原発というのは核であって使い方を誤れば爆発し、放射能を撒き散らす危険なものだというごく当たり前のことを私達が忘れていたのではないのだろうか。

危険なものだがそれをコントロールしてでも、私達の国民国家を運営し、国際競争力を維持するために電力を安定的に供給する手段として原発を持つ、というのは、本来核兵器を国家安全保障上保有する、というのと同じくらいの覚悟が必要だったのだ。これは、民主主義や資本主義は危険さも伴うが現状はこれ以上ベストなものはないから、私達がそのリスクを理解して使いこなさなければいけない、という考え方と本質的には同源だ。

こうした気概がないから、今までクリーンエネルギーと賞賛していたのに、事故が起きればすぐに原発を停止する。これは、かつて太平洋戦争後に「戦争は駄目」、「軍隊は悪」、と360度方針転換してしまった日本人と同じである。しかし、現実の世界では軍隊がなくて国家や地域を守ることは出来ないし、原発がなければ高度経済成長期の電力供給を支えることが出来なかった。

こんなことを書くと、反発がありそうだが、原子力の平和利用という幻想があったから今回の事件が起きたのが問題の本質であり、逆に、日本が核兵器や原子力空母・潜水艦を危険を承知で国防のために保有するまでの覚悟があり、核の危険性を理解したうえで、この原子力の炎との契約を交わしていれば、もっと早いタイミングで対処できただろうし、より、国民も冷静な対応ができたのではないかと思う。それは、誰が見たって軍隊である自衛隊を国軍と呼ばずに憲法第九条を保持している実情。それにも関わらず今回の震災ではこうした、市民運動世代であり軍隊を否定していた彼らが震災復旧のため、自衛隊総数24万人のうち、後方支援を含め18万人というほぼ、かつて動員したこともないほぼ全軍を投入してしまう皮肉。

車を運転すれば事故にあって死ぬかもしれない。
飛行機に乗れば何万分の一の確率で墜落するかもしれない。
夜中にドアを開けたままで寝てれば泥棒が入ってくるかも知れない。

これは、個人であれば誰でも思うだろうし、直感的にリスクとして認識している。

それが、国家レベルのことや経済全般の問題になったとたんに、「見えざる手」に助けてもらえると思って思考停止してしまう。

それはすなわち「国」というものを考えてこなかった私達日本人の戦後のツケであり、菅氏一人の問題というよりは、私達も菅直人という人と大差ないレベルなのだと自覚した上で、国土の再興を考えることこそが今、必要なのでは。

経営者という立場だけで書くと偏るので今回は自分の頭を大学生時代に戻して少々文学青年に戻って書いてみました。

大山俊輔