大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

自由(責任)と放縦(無責任)

自由と放縱

大山俊輔です。新年1回目のエントリは、今までと少し違う観点から自由(責任)と放縦(無責任)というテーマ。

私たちの仕事はお客様にまず私たちの商品を試してもらうことからはじまる。
いわゆる体験レッスンというやつです。

最近、気になるのは当日すっぽかし(所謂No Show)や当日のキャンセル。
私たちのようなマンツーマンのサービスだと、1件の体験レッスンの対応に必ず1人の講師と1人のカウンセラー、計2名が対応する。

ということで、もし1回の体験レッスンが何らかの事情でなくなると、ご入会されるかどうかは別としてもそこだけでも数千円のダメージ。

多くの方はそれでも、恐縮されて再度設定したりということになるが、中には結構悪びれもなく何度と行うケースもある。
多分、そこに関係しているスタッフの時間などに対する想像がないのだと思うけど、やっぱり、すみませんの一言くらいは欲しいよなと思ったりするこのごろです。

もちろん予約するも自由、その予約をキャンセルするも自由。

そんなことを考えていたら、「自由」という言葉が気になって調べてみるうちに、意外と奥が深くて今回はこの「自由」についてふと思ったことをまとめてみた。

調べてみたところ、もともと、自由という言葉は明治時代に福沢諭吉が作った造語だそうだ。

折しも、明治維新の後、まずは西欧列強の植民地にならぬために、そして、その後は遮二無二に追いつけ追い越せで西欧化が進んだ日本ではきっと、多くの近代的概念が入ってきたのだろう。その一つがフランス革命に発した自由・平等・博愛の精神。

確かに、自由も平等も博愛も大事な概念だが言葉のまま実践すると先ほどのような単なるわがままや我欲、若しくは偽善に堕しかねない。
そもそも、そのフランス革命の本家本元のフランスでは、ナポレオン失脚後、こうした概念に対して何度と反動があり、丁度、明治時代のフランスはまさにナポレオン3世による第二帝政の時代だ。

きっと、福沢諭吉はこの「自由」という概念の中に本来内包されるべき「責任」を感じで表現するために「自:みずからの」+「由:理由・ことわり」という文字を当てたのだろう。実際、彼は、「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使って、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を明治の時代に既に鳴らしていた。

こんなことは、当時のヨーロッパでも日本でもみんな分かってたことだろう。
ところが、気づけばこうした言葉が額面で解釈されて自由は責任を伴わない放縦と同義語になり、平等は気づけば偽善となり、そして、博愛はお花畑と同義語になったのではないだろうか。

もし、何でも自由な競争が正しいとすると今強い奴が必ず勝つ社会になってしまう。
逆に、これからスタートする人間や会社が大手に食い込む余地を創るために時には独占禁止法のような規制が必要だったりするわけだ。

ところが、不思議と自由という言葉を聞くとあたかも世の中には人の活動を阻害する規制や障害が沢山あってそれを全てなくすことがいい、というような単純な話が多い。だからTPPも自由貿易だからいい、といった、表面的な言葉でイメージが形成されるが、実は、その自由が突き詰められると一番強い奴の(この場合はアメリカだろう)ルールメーキングになってしまう。

もし、自由=放縦とすることを良しとするなら道路も信号もないほうがいい、警察もいらない、法律もいらない、ということになってしまう。
ところが、放縦を放置すると一番わがままな奴、力の強い奴に有利な社会システムが形成されて皮肉なことに、最も、自由や平等といった本来の精神から遠いところにいってしまうわけだ。

先ほどの福沢諭吉の言葉にすべての答えがあるような気がする。

私なりに解釈すると、「理」をもった人間の集団が多数派である社会であれば、規制や障害は
人間の願望がgreed(欲望)に変貌した時のブレーキ役として必要最低限で済むのだろう。ところが、自由を主張する人にその理がなければ
単なる放縦放埒、所謂、laissez-faire(レッセフェール:自由放任)になってしまい、こうした欲望を制限することが出来なくなってしまう。

それを国家レベルでいうとかつては国民=公民という言葉があった。
会社でも、愛社精神とかモーレツ社員みたいなもの。

本来、自分の存在には責任がともなっているのであり、その中で社会や組織の活力を維持するために
必要最低限のルールが必要だったが逆に必要最低限でよかったし、比較的日本ではそれが残っていた。

ただ、最近だと国民=市民で住民ぐらいの概念しかないから国民としての責任(義務)というのは納税くらいになってしまった。
会社だって、本当は中長期に渡って社員と会社がコミットしあえる関係だからこそ、その中ではあまり細かい契約関係は存在せず、心配せずに前に進むことが出来る。

さっきの話に戻ると、

もちろん予約するも自由(だけれども、その行為には責任を伴う)、その予約をキャンセルするも自由(同じく責任を伴う)

ということなのでしょうかね。

自分だって問題だらけの存在だけれども、今の日本に一番欠けているのは「自分の行為に対する責任意識」なんじゃないかなと思う。
是非、学校の先生や親御さんには子供に自由の大事さを沢山教えて欲しい。

でも、それ以上にその自由の裏返しである責任の大事さを教えて欲しい。

そう思った今日この頃。