大山俊輔です。先日、私の弟と食事をしました。
ふたりとも兵庫県の芦屋市で大学生までを過ごし社会人になってからは東京に出てきたクチ。弟が3月から会社の関係で香港にある子会社の社長に就任することが決まりそのお祝いを兼ねて会っていたのですが、会うと、つい生まれ故郷の芦屋市について話が咲きました。
人間は自分のルーツと自身を切り離すことは難しいものです。
ましてや、深い思い出がある街なら尚更のこと。
これだけ東京や海外での生活が長かったにも関わらず、郷土愛が強いのはそれだけ幼少児からの思い出が濃かったことと。いざ、東京という世界でも圧倒的な規模の街で暮らして、客観的に生まれ故郷に帰郷するたびに、この街の可能性を感じるからこそ、いつかは何かしたいと思うのでしょう。
関西圏で見れば人口規模は二府四県(大阪・京都・兵庫・和歌山・奈良・滋賀)で2000万人。経済規模ではカナダとほぼ同じ規模です。
凋落著しいと言われながらもこれだけの人口と経済規模があり、その中でも経済都市としての大阪と神戸という二大都市に挟まれた場所に芦屋市はあります。
人口は9万人ちょっと。
それにも関わらず、街の知名度がここまで高いのは明らかにメディアが「お金持ちの街」と宣伝してきたからでしょう。
それはそれで良しなのですが、私がもっと可能性を感じることは、この素晴らしい住環境です。
駅からバスに乗って北へ20分。奥池と呼ばれる六甲山の麓まで上がってくるとそこは高原地帯。軽井沢とは言わないですが気温も都心より低く冬には少し雪も積もるようなリゾート地があります。
そして、同じくバスにのって南に10分で今度は芦屋浜という海岸線に到達します。海水浴が出来るまでに水質は良くないですがそれでも、私が子供の頃と比べると格段に海水も綺麗になりました。釣りに行けば鯛もつれてしまいます。
そして、その山と海をつなぐのが芦屋川。
上流にはアマゴなどの清流にしか棲まない魚もいれば中流・下流にはウナギや鮎、モツゴといった魚もいる川です。
私が世界で見ていてもここまで環境が揃った街は、自分が旅行をしてきた限りはそれほどありません。都会から至近距離だけど自然も多い。山と海が近接しているのは、カナダのバンクーバーと南アフリカのケープタウンくらいではないでしょうか。
今、東京で事業をする元芦屋市民として日本全体の元気がなくなったことの一旦は、東京の独り勝ちにもあると思います。バブル期まではそれでも、オールドエコノミーの会社で財閥系の会社の多くは関西に本社をおいていたものですが、この20年で大阪・神戸系の大手企業は実質的な本社機能を東京に移してきました。
結局、関西地方は大手企業にとっては消費者向けのサービス拠点と、メーカーは一部工場拠点。そして、競争力が弱体化してしまった中小企業が主たる産業となってしまい、東京と大きく差をつけられてしまうことになりました。
ただ、それでは関西がダメだとはいえないはずです。
最近では橋下知事の活躍で少しずつ、大阪にも変わる気配が出てきました。こうした政治面での動きとは別に、産業としてみれば、地代も安く、それなりに人口もいる関西地区は商圏としてみればベンチャー企業にとっても魅力的なエリアになりうるはずです。
私は、もともと、ベンチャー・キャピタリストとして仕事をしていた時期があるので、芦屋という街を、アメリカの西海岸、特にシリコンバレーのあるマウンテンビューやサンタクララ、サニーベールのように新産業と住環境の両方が揃ったエリアに変身させることが出来ればどれだけ、やりがいがあるだろう。
そんなふうに考えてしまいます。
一昔前は六麓荘のイメージから、ハリウッドと比較されることも多いですがやはり産業構造などの可能性から見ていくと同じカリフォルニアでももう少し北にあるシリコンバレーのほうがイメージとしては近いかなと思うのです。
東京と大阪が元気になれば、結果的に一極集中もなくなります。高度経済成長期、東京でオリンピックがあれば大阪では万博がありました。東西共に役回りを持って経済を発展させてきたのです。
それが、バブル以降おかしくなってしまった。
かつて、政治の中心としての江戸と、天下の台所だった大坂が牽引して江戸時代の日本の経済は発展しました。その中から堂島の世界初の先物取引のようなクリエイティブなスキームも誕生したのです。それはあたかも、アメリカが常に東海岸と西海岸が競い合い、その結果として周辺地域の経済も発展したのと似ているのではないでしょうか。
今は、まだまだ自分自身の事業を発展させるために東京で頑張っていくしかありませんが、いつか、芦屋市の西海岸化計画をやってみたい。
今、東京でビジネスをやっていて感じるのは、日本でビジネスをする外資系企業や知的業務に関わる在住外国人の多くが東京で仕事をしていると思います。明治から昭和にかけて、神戸には多くの商館がありました。ロシア革命や世界史の大きな出来事があったとき、難民が訪れるのも関西が多かったのです。当時の難民の多くは、ロシア革命や、ドイツでの不遇で亡命してきたユダヤ人が多かったですが、明治のお雇い外国人と同じで、平日は仕事をしながらも、週末には少し足を延ばすだけで高原地帯で自分の故郷を思わせる環境が手に入る阪神間は魅力的だったのかもしれません。
貴志康一の師たるミハイル・ヴェクスラーはロシア革命で亡命してきたリトアニア人でした。また、洋菓子のゴンチャロフの創業者のマカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人の亡命者でした。
かつての阪神間モダニズムの時期は明治の軽工業から第一次世界大戦を経て重化学工業化が進んだ時期です。今の視点で見ればこうした産業はオールドエコノミーですが、当時の視点では最先端のニューエコノミーです。こうした新産業が発展したときに関西も発展しました。
その中で芦屋には大阪や神戸で事業を成長した今でいうベンチャー起業家が多く居を構えました。
時代は代わり、現在、また第二のベンチャー企業の興隆による芦屋市の発展の可能性があるのでは。その為には、今の芦屋市民も私のような元芦屋市民(私は華僑にちなんで、芦僑と呼びたいと思っています)も頑張りたい。
そんな風に思っています。
大山俊輔