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イッソスの戦いとは?歴史的背景、場所、戦闘の流れまで徹底解説!

イッソスの戦いとは?歴史的背景、場所、戦闘の流れまで徹底解説

紀元前333年、 アレクサンダー大王率いるマケドニアの東方遠征軍が、小アジアの東部に進み、ダレイオス3世の率いるペルシア帝国軍とイッソスで激突します。アレクサンダー大王とダレイオス3世が初めて直接対決したこの戦いで、結果は一体どうなったのでしょうか。

フリスクン

 小学生から日本の歴史が大好き。中学、高校では、日本史につまずいている友人に教えると、分かりやすいと友人間で評判に。実はこう見えて現在、大学生。大学では、歴史に基づいたビジネスを考えています。

この記事では、古代地中海・オリエント世界の転換点となったイッソスの戦いについて、背景から主要人物、さらには戦い後のアレクサンダー大王の動きまで、徹底解説していきます。

イッソスの戦いについて徹底解説!

イッソスの戦いの絵画
イッソスの戦いの絵画

イッソスの戦いが行われた場所は?

イッソスの戦いが行われた場所は、もちろんイッソスです。

現在のトルコのイスケンデルンという町の近くに位置しています。近くにピナルス川という小さな川が流れています。そこで、イッソスの戦いが繰り広げられました。

イッソスの戦いの主要人物

アレクサンダー大王

アレクサンダー大王

ギリシアの北方、マケドニア王国に偉大であり、才能に溢れ、多くの人をひれ伏させた大王が生まれます。それが、アレクサンダー大王です。ギリシアから、インドまで大きく征服したことで有名な大王です。桁外れの実績を持つアレクサンダー大王は、このイッソスの戦いでも大きな活躍を見せます。

ダレイオス3世

ダレイオス3世

アケメネス朝ペルシア帝国最後の王です。このイッソスの戦いにて、アレクサンダー大王と対峙することになります。ペルシアでの内紛により、王になったダレイオス3世。長年ペルシアはギリシアと対立していました。このイッソスの戦いによって、彼はどうなるのでしょうか。

イッソスの戦いの背景

アレクサンダー大王の遠征路
アレクサンダー大王の遠征路

紀元前334年、ギリシア内を統一したアレクサンダー大王は、東方世界と西方世界を統一するべく、東方遠征を開始します。

敵は、大国、アケメネス朝ペルシア。

ペルシアに侵入したアレクサンダー大王は、まずグラニコス川の戦いにて、ペルシア軍を撃破します。そこから、小アジアの都市を次々と攻略していきます。ついに、小アジアの交通要衝、コルディオンまで到達することになります。このゴルディオンというのは、マケドニア軍の集合場所で、アレクサンダー大王はそこで軍を増強します。

ゴルディアス(ゴルディオン)の結び目 – “Gordian Knot”の語源

ゴルディアス(ゴルディオン)の結び目ゴルディアス(ゴルディオン)の結び目

しかし、このゴルディオンには、ある伝説がありました。

ゴルディオンの神殿には、1輌の戦車、チャリオットが置いてあり、この戦車は、頸木と革紐で繋がれていました。この繋がれた皮紐の固い結び目を解いたものは、全アジアの王になるという予言があったのです。アレクサンダー大王は、その予言に挑みます。アレクサンダー大王は、その戦車の前に行くと剣を取り出し、ズバッとその皮紐を切ります。アレクサンダー大王は、「運命とは、試されるものではなく、切り開いていくものだ!」とここで宣言します。

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この故事から、手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決してしまうことのメタファーとして、ゴルディオンの結び目という言葉が使われるようになりました。英語では、「難題を一刀両断に解くが如く」”to cut the Gordian Knot”として使われます。

そこで、予言をも味方につけたアレクサンダー大王。そこから軍を南下させます。

そこで、イッソス近郊に進軍することになります。しかし、ここである情報が耳に入ります。イッソスの東側には、アマノス山脈という山脈が走っていました。その山脈の東側で、ダレイオス三世が大軍を集結させているという連絡が入ります。アレクサンダー大王としては、またとない機会。

しかし、ダレイオス3世の軍は、2倍、3倍以上いるかも知れない大軍でした。そんな敵軍と平原で戦うのは流石に不利だと考えたアレクサンダー大王。しかも、ダレイオス3世が大軍を率いているのは、ソコイと呼ばれる、平原が広がっており、大軍を展開するのは非常に有利な場所でした。そこでアレクサンダー大王は、アマノス山脈の西側に敵軍を誘い出すことにします。

山脈の西側は、海と山地に挟まれており、狭い空間が広がっています。大軍を率いているダレイオス3世としては、包囲できない地形ですので、戦いにくいのです。しかし、ダレイオス3世ものこのことそんな地にやってくるはずがありません。そこでアレクサンダー大王は、ある作戦に出ます。アレクサンダー大王は、山脈の西側に軍の前進を止め、軍の閲兵式や、競技大会を開いて時間を浪費したのです。こんなことを何故したのか?ペルシア軍はもちろん大軍です。しかし、大軍は戦うときには有利ですが、もちろんデメリットもあります。それが物資の補給です。当然人がいればいるほど、食料がかかります。ペルシア軍のソコイという場所は、海からも遠く、主要河川からも遠いため、輸送に水運を利用することができませんでした。効率が悪く、更に山脈もある、陸上輸送に頼るしかありませんでした。そういう意味で、長く大軍を維持することができない場所だったのです。ダレイオス3世としては、アレクサンダー大王を個々で撃滅したかったのですが、この状況。だったら、この大軍を率いている間に、決着をつけようと動くのです。ということで、アマノス山脈の西側に進軍することになります。

思惑にハマったと思ったアレクサンダー大王。

しかし、ここで誤算が生じます。この時、アレクサンダー大王は、ダレイオス3世の軍は南から進軍し、西側に来ると思っていました。ですから、軍を南下させ、決戦に備えていました。しかし、この予想に反してペルシア軍は、北側を大きく周り、アマノス山脈の西側に進出します。そして、ピナルス川に軍を展開します。北側のルートを知らなかったアレクサンダー大王。さらにはダレイオス3世の軍の偵察部隊はとても優れており、アレクサンダー大王率いるマケドニア軍の動向をより正確に知っていたと言われています。はめようと思っていたどころか、ダレイオス3世にはめられてしまったアレクサンダー大王。マケドニア軍は、山脈と海に挟まれた西側に閉じ込められ、退路を断たれます。しかしアレクサンダー大王は、動じませんでした。果敢にも背後にいる敵を撃破することを決心します。ここから、イッソスの戦いが始まるのです。

イッソスの戦いの流れ

戦力は、ダレイオス3世率いるペルシア軍がおよそ10万。そのうち騎兵は2万いたと言われています。アレクサンダー大王率いるマケドニア軍はおよそ4万1000。そのうち5500は騎兵です。明らかにアレクサンダー大王が劣勢の状態。しかし、全てが不利というわけではありませんでした。

このイッソスは、アマノス山脈の西側に位置します。つまり、狭い空間で大軍の展開が不利な地域でした。それでも、相手は大軍ですから、打ち破るのはとても困難です。この時、両軍の作戦はなんと同じでした。戦力を右翼に集中させ、敵の左翼を突破するという作戦です。

この時、ペルシア軍は、右翼に騎兵戦力のほぼ全てを集中させていました。

一方でマケドニア軍は中央に重装歩兵を配置し、両翼に騎兵を配置する形を取ります。アレクサンダー大王本人は、右翼で世界最強のヘタイロイ騎兵を率いています。どちらかといえば、右翼の戦力が偏っているという状況です。しかし、ペルシア軍はなぜここまで右翼に騎兵戦力を集中しているのでしょうか。

その理由は、先程から出てくるピナルス川にあります。ピナルス川は、山地側に行けば行くほど、堀のようになっており、岩もゴロゴロあるような騎兵が活動するには不利な地形になっていました。もし、そんなところを騎兵で越えようとすれば、敵は少ない戦力で簡単に撃退できてしまうのです。そこでダレイオス3世の左翼には、そんな場所であれば、アレクサンダー大王の騎兵も倒せると踏み、軽装歩兵を配置していました。

しかし、アレクサンダー大王は、ここに勝機を見出します。もし、この困難な地点を騎兵が戦力を保ったまま乗り越えることができれば、世界最強のヘタイロイ部隊が、容易に軍隊を撃破できます。ここで、アレクサンダー大王は、実行しようとします。鍵になるのは、ヘタイロイ騎兵のそばにいる、精強歩兵と、弓矢と投石が専門の軽装歩兵です。いよいよ決戦。

先に動いたのは、アレクサンダー大王率いるマケドニア軍でした。

ラッパの音とともに、前進を開始します。ここでアレクサンダー大王は、全軍に「勇者であれ!」と叫びます。兵士達は大歓声をあげます。アレクサンダー大王は、まず自分が指揮する右翼を突出させます。そして、ピナルス川に飛び込んでいきます。

しかし、ここではヘタイロイ騎兵を先頭にして飛び込んだのではなく、真っ先に飛び込んだのは精強歩兵とそれに続く軽装歩兵でした。この2兵種は、地形対応の効く兵種です。敵からの反撃ももちろんありますが、精強歩兵と軽装歩兵の連携でどうにか対岸に到達。ここに渡ってきた部隊を守り、攻撃の足場とする、橋頭堡(きょうとうほ)を築くことに成功します。

つまり、敵の前に壁を作ることになるのです。ヘタイロイ騎兵に、攻撃が集中されない状態です。このおかげで、アレクサンダー大王率いるヘタイロイ騎兵は、無傷のママピナルス川を越えて対岸で隊列を整えることができました。

そこから、ヘタイロイ騎兵が凄まじい一撃をペルシア軍に与えます。ペルシア軍の左翼は、打つ手がありません。この影響で後退していくことになります。右翼は、アレクサンダー大王の思惑通りに進んでいますが、全体はそこまで戦況が良いとは言えませんでした。右翼に勢いがついてしまったアレクサンダー大王の軍は、それについていこうと、中央の歩兵に乱れが生じます。そこを見逃さなかったペルシア軍は圧迫して押し込んでいきます。中央は劣勢を強いられます。特に戦況が良くなかったのは、マケドニア軍の左翼です。ペルシア軍も騎兵を右翼に集中していたため、押されてしまっていました。しかし、これ以上は食い止めようと、マケドニア軍は必死でこの戦況で留めます。ここまで留まれたのは、戦場の狭さが味方してくれていました。大軍を広く使えないペルシア軍。戦闘力がこれ以上広げられず、限定的になってしまいます。特に、ペルシア軍右翼の騎兵は狭い空間に押し詰められているため、前列の騎兵しか先頭に参加できませんでした。

押される一方のマケドニア軍。しかしここでアレクサンダー大王が、壮絶な戦いぶりを見せることになるのです。ペルシア軍の左翼が手薄であったため、ヘタイロイ騎兵がすぐ撃破をし、旋回をさせ、ペルシア軍の中央戦力を側背から襲いかかります。そこから、傷を負いながらも、前へ前へと進んでいったアレクサンダー大王。愛馬であるブケファロスと駆け続けます。そんな鬼気迫るアレクサンダー大王に、ダレイオス3世は恐れおののき、戦場から逃亡してしまいます。その逃亡がキッカケで、他のペルシア軍も敗走をしていきます。

この壮絶な戦いの末、アレクサンダー大王の勇敢さから、マケドニア軍の勝利で集結します。

イッソスの戦いの後、どうなった?

アレクサンダー大王は?

イッソスの戦いのあと、ペルシア軍の戦利品とともに、ダレイオス3世の妻、母、娘が取り残されていました。

そんな彼女たちのもとに、アレクサンダー大王は親友のヘファイスティオンとともに会いに行きます。この時、ダレイオス3世の母親が、間違ってアレクサンダー大王ではなく、ヘファイスティオンに跪いてしまいます。その場には戦慄の空気が走ります。アレクサンダー大王はそれを咎めることはせず、彼女に「母上」と呼びかけ、こう言います。「お気になさるな。彼もまたアレクサンダーなのだから。」ヘファイスティオンも勇者であるということを、ダレイオス3世の母親に伝えます。

この戦利品を手に入れたアレクサンダー大王は、慢性的な資金不足を解消。戦局をマケドニア軍優勢へと進めていくのです。

ダレイオス3世は?

ダレイオス3世はその後、ガウガメラと呼ばれる、現在のイラク北部に位置する場所で、もう一度アレクサンダー大王と戦うことになります。逃亡したかと思いきや、まだ勝負を仕掛け、最後までペルシアの王として戦いました。

一体、ガウガメラの戦いではどうなっていくのでしょうか?

まとめ

アレクサンダー大王の生涯における3大決戦の一つと言われている、イッソスの戦い。この戦いでは、アレクサンダー大王が自ら勇気を出して敵軍に進軍し、その勇姿に掻き立てられ、マケドニア軍が攻めに攻めた戦いでした。

ダレイオス3世のペルシア軍は、大軍にもかかわらず、地形にやられてしまい、敗戦することになります。まだまだアレクサンダー大王の進軍は続いていくのです。

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